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第IV巻 再生戦線ー言葉なき神
第6話 王都の異変
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ルミナリア王都ルミナスの白い城壁が、朝の陽を受けて淡く輝いていた。
祈りの国の中心にふさわしい澄んだ光――だが、その美しさの奥に、わずかな「揺らぎ」が混ざっていることに、三人はすでに気づいていた。
街道を進む馬車の車輪が、静かな石畳をゆっくり刻む。
神殿区へ向かう道は人通りこそあるが、笑い声はどこか少ない。
人々は顔を上げ、馬車に乗る三つの影を見つけ……そしてすぐに目をそらした。
――祈りの国には珍しい、ざわめきと沈黙の同居。
馬車の奥で、ティナがそっと窓の布をめくった。
金色の光に揺れる髪。胸元で小さく灯る聖火灯が、かすかな残光を漏らす。
「……やっぱり、街の空気が変だよね」
「ああ。風が薄い」
エインが答えた。
声は低いが、外の異変を肌で感じ取っている響きがあった。
シオンも静かに頷く。
「星盤で見た通りですね。祈りの流れが、不自然に途切れています。
光の国で、このような停滞は本来あり得ないのですが……」
「……北の村で視た“光のうねり”と同じ?」
「断定はできません。ただ――関連はあるはずです」
馬車が神殿の階段前で止まると、待っていた聖騎士たちが双剣を掲げた。
彼らの目は、エインに向けられた瞬間だけ――硬い。
「機律帝国の兵器を、再び我が国へ……か。覚悟しておけよ。」
吐き捨てるような声。
だが剣は抜かれない。会議の決議を破るつもりはないのだ。
エインは表情も変えず馬車を降りた。
「脅しは受け止めた。……それで、案内は?」
「……ついて来い」
騎士の一人が不承不承に背を向ける。
ティナは少しむっとしたようにエインの肩を小さく叩いた。
「気にしないでよ。怖がってるだけなんだから」
「怖がられている自覚はある」
「……そういう意味じゃなくて」
ぶっきらぼうな会話に、シオンが小さく笑った。
「お二人とも、ここはルミナリアです。言い合いは小声でお願いします」
三人は神殿の奥――聖女セシリアの居室へと続く白い回廊を進んだ。
その途中。足を踏み入れた瞬間、エインはぴたりと足を止める。
「……冷たい」
「え?」
「祈りの気配が……ここだけ欠けてる」
壁に刻まれた光の紋章が、微かに石粉を落としている。
祈りの国の象徴――“光の理紋”に、あり得ないほどの亀裂。
ティナが震える声で呟いた。
「……なんでこんな……」
答えるように、回廊の奥――
聖女セシリアが、白い外套を揺らして歩み出た。
「――戻ったのですね。エイン、ティナ、シオン」
静かな声。しかし、その光の瞳は疲れと決意で曇っていた。
「セシリア様。報告があります」
シオンが一歩進み出る。だが聖女は手を上げて遮った。
「わかっています。……北で“光が人を倒した”のですね」
ティナが息を飲む。
「どうして……?」
「祈りの揺らぎは、すべて私のもとに届きます。
けれど、いまは……“祈りの形そのもの”が変質しつつある。
私の手では抑えられません」
エインが口を開く。
「原因に心当たりは?」
「――ありません。ただ一つだけ、確信があります」
セシリアの瞳が、エインとティナを順に見た。
「このままでは、祈りは壊れます。世界中で」
その言葉は、誰も続けられないほど重かった。
「……詳しい話を聞かせてください。北で何があったのか――すべて」
聖女セシリアが静かに言った。
「それが、次に世界が動くための第一歩となるはずですから」
聖火神殿の奥。
外光の届かぬ祈祷室は、静謐な空気に満ちていた。
中央には丸い石卓。その周囲に刻まれた光紋は、かつては一面が柔らかく輝いていたという。
だが今は……ところどころ、星の欠片のように薄暗い歪みが走っていた。
シオンが小さく息を整え、懐から星盤を広げる。
青い円盤は薄い光を放ち、ゆっくりと三人の前に浮かんだ。
「では……報告します。
北方街道沿いの小村にて、“祈りの崩れ”と思われる現象を確認しました」
星盤の光が揺れ、干からびた畑と転倒した村人たちの姿が浮かぶ。
セシリアが祈祷杖を握りしめ、低く問う。
「生存者は?」
「命はあります。ただ……祈りが薄い。
光でも、闇でも、炎でも風でもない。“何か”に触れた痕跡だけが残っています」
沈黙が落ちた。
エインは、その静けさの中でゆっくり言葉を探す。
「村の境で……“風じゃない流れ”を感じた。
押し返そうとしても形がなかった。祈りとは違う。“命令”に似ていた」
聖騎士たちがざわり、と動揺する。
「命令……? 帝国の、あの忌まわしい波動のことか」
「違う。同じだが、違う。……もっと、軽い。
触れれば壊れそうなのに、逆らうと噛みついてくる感じだった」
言葉にならない感覚。
エインも、説明しながら自分でうまく掴めていない。
ティナが不安そうに続ける。
「光の壁みたいなのが、村の入口に揺れてたよ。
でも祈りの気配はなかった。……あれ、なんだったんだろう」
セシリアは静かに目を伏せる。
「光は……祈りの最初の形です。
本来は、人の願いが自然へ向かう“道”のはず。
けれど……もしそれが逆流したら?」
星盤の光が一瞬、細かく震えた。
シオンが眉を寄せる。
「祈りが逆流……? 理論上はありえません。
祈りは流れであり、戻る性質を持たない。
もし逆流が起きているなら、それは――」
「“祈りを辿る道”そのものが壊されている、ということです」
セシリアの声は震えていなかった。
だが、確かな恐怖が宿っていた。
「光が祈りを運ぶ道なら……
北に現れた“光の揺れ”は、祈りの道筋の断片かもしれません。
誰かが意図的に壊したのか、自然現象なのか……まだ断定はできません」
祈りの国が弱っている。
それはこの場にいる全員が、口にせずとも理解していた。
エインが低く問う。
「他の国は? 同じ兆候は?」
「……少なくとも、表面には出ていません。
ですが、祈りの揺らぎが続けば……各地で“沈黙”が起こるでしょう」
沈黙――その言葉は重すぎた。
ティナがぎゅっと聖火灯を抱きしめる。
「……じゃあ、わたしたち、また北に行くの?」
「はい」
セシリアははっきりと頷いた。
「あなたたち三人にしか出来ないことです。
祈りにも、技にも、国にも縛られない“旅の者”であるあなたたちだからこそ」
エインは短く息を吐く。
「調査を続ける。村で見たものの正体を突き止めるために」
シオンも星盤を閉じる。
「祈りが逆流するなら、必ず“源”がある。それを探しましょう」
ティナだけが、少し迷っていた。
けれどエインが振り返ると、小さく笑った。
「行くよ。……だって、あの村の人たち、誰も何も言えなかった。
“困ってます”って言えないなら、わたしたちが動くしかないでしょ」
その声に、祈祷室の空気がほんの少し温かくなる。
セシリアが三人の前で目を閉じ、静かに祈りを捧げた。
「――どうか、祈りの道を護る者たちに光あれ」
だがその祈りは、天井の光紋に吸い込まれず、石の床に淡く散った。
祈りの国の光は、確かに弱っていた。
ルミナリアの夜は、穏やかなはずだった。
柔らかな灯火が石畳を照らし、祈りの歌が遠くから微かに聞こえる。
けれどその夜だけは、街の空気にどこか“張りつめた膜”のようなものが漂っていた。
日中の報告を終え、三人は神殿近くの宿舎に部屋を与えられていた。
古い木窓を開けると、夜風がひんやりと頬を撫でる。
エインは腕を組んで外を眺めていた。
ときどき、遠くの塔の光がかすかに揺れる。
風のせいではない。
光そのものが、ほんのわずか上下に呼吸するように明滅していた。
ティナが同じ窓の横に並び、そっと問いかける。
「……ねえ、エイン。やっぱり感じる?」
「ああ。光が……落ち着いてない」
エインの炎核は、祈りの揺らぎに敏感だ。
その胸の奥で、微かなざわつきがずっと残っている。
「北の村で感じたやつと似てる。
形はないけど、どこかで流れが切れかけてる感じがする」
「……怖いね」
ティナは聖火灯を胸元に抱えた。
灯は揺れていない。彼女の祈りが安定している証だ。
けれど、街そのものがかすかに“沈んだ息”をしているようだった。
部屋の扉が控えめに叩かれる。
「失礼します」
シオンが小さく頭を下げ、三人の前に現れた。
星盤はまだ開いていない。それでも、表情はいつもの冷静さを保ちながら、どこか困惑を帯びていた。
「……やはり、お二人とも気づいていましたか」
「気づいてるも何も、街が静かすぎる」
「静か……というより、“音が抜けている”感じじゃない?」
ティナの言葉に、シオンはわずかに目を見開く。
「その表現が正しいかもしれません」
彼は窓辺に歩み、夜空を見上げる。
「この街は祈りが強い。
人々の日々の願いが空へ上っていく“流れ”が、星読士には常に感じられるはずです。
ですが……今夜はその流れが極端に弱い」
エインは眉を寄せた。
「昼間の村と同じ現象か?」
「断定はできません。ただ……同じ“方向”にある気がします。
祈りの流れが細くなると、光の道筋も脆くなる。
今はまだ揺らぎの段階ですが……進めば、街全体が沈黙する可能性がある」
「沈黙……って、全部止まるってこと?」
ティナが小さく息を呑む。
「祈りも、風も、街の声も……全部?」
「最悪の場合は」
その言葉に、部屋の空気がわずかに冷えた。
エインは腕を組み替え、静かに言う。
「じゃあ……急いだほうがいいな。
北の“流れの乱れ”の源を見つけないと、ルミナリアも危ない」
「ええ。ただし――」
シオンは窓を閉め、ふたりの方へ向き直る。
「この街の人々には、まだ“異変”とは伝わっていません。
混乱を避けるために、聖女セシリアが判断したのでしょう」
「……言わないで、守ろうとしてるんだね」
ティナは少しだけ寂しげに呟く。
祈りの国の守り手である彼女が、真実を口にしない理由はひとつだ。
人を不安にさせれば、それ自体が祈りを弱めてしまう――それを知っている。
「エイン、明日の出発は早いよ。
シオンが見つけた“光の乱れ”を追うんでしょ」
「ああ。北――旧帝国方面の街道だ」
エインの声は低いが、揺らいでいなかった。
ティナはそっと灯を掲げ、三人の影を照らす。
「なんだろうね……
怖いけど、行かなきゃいけない気がするよ」
エインはその横顔を一瞬だけ見た。
彼女の灯が揺れずに立ち続けている限り、
自分も止まらない――それだけは確かだった。
「行く。止まりかけてる流れを……つないでくる」
その瞬間、窓の外で風鈴がかすかに鳴った。
誰も触れていないはずの音。
ルミナリアの夜に似つかわしくない、冷たい金属の響き。
三人は同時に気配を感じて顔を上げた。
風のない夜――
なのに、どこか遠くで光が一度だけ、ひゅ、と細く消えた。
それは“始まりの予兆”だった。
夜が、わずかに白む。
まだ朝とは呼べない時刻。
街を包む静けさの中、ルミナリアの塔々だけが青白い光を帯び始めていた。
エインは宿舎の中庭でひとり、動かない空を見上げていた。
胸の奥、炎核がときおり“かすかに逆流するような”ざらつきを見せる。
北の村で感じたものと似ている。
だが、もっと淡い。
遠くで揺らいでいるだけの、弱い“気配”――のはずだった。
そのとき。
空気がひゅ、と細く切れた。
耳ではなく、肌で感じる“欠ける音”。
エインは迷わず構える。
「……今の、聞こえたよね」
背後からティナの声がした。
すでに起きていたらしい。手に灯を持ち、眠気のない眼差しで中庭へ入ってくる。
「風じゃない。灯が、一瞬だけふるえた」
「街の光もだ。塔の先が一瞬……消えかけた」
ティナは眉を寄せ、中庭に佇む石像を見つめる。
聖女の祈りを象った像。いつもは淡い光を宿しているが、今は光が薄い。
そこへ、走る足音。
「……二人とも、ここに」
シオンが駆け込んできた。いつも冷静な彼にしては珍しく、肩で息をしている。
「星読院の観測が反応しました。
“光の裂け目”が十数秒だけ――街の北部で」
「裂け目?」
「祈りの流れがふっと抜け落ちた、と言うべきでしょうか。
気象でも魔術でも説明できない。……昨日の村と、同じ種類です」
ティナは灯を握り直す。
「でも、誰も倒れてないんだよね?」
「はい。規模はごく小さい。
ただ、“現象そのものが動いている”可能性があります」
動いている――
その言葉は、宿舎の静けさより冷たく響いた。
エインは短く問う。
「……俺たちを追ってきてるってことか?」
「断定はしません。ただ、向かっている方向は北西。
昨日の村から延びる街道の線上です」
追跡ではなく、単純に“流れ”が伸びているだけかもしれない。
だがどちらにせよ、放置できるものではない。
ティナが言う。
「だったら、急がないと。
ここに広がったら、ルミナリアの人たち、また――」
「そうだな」
エインは立ち上がり、中庭を見渡した。
誰も倒れていない。
祈りはまだある。光も完全には消えていない。
だが、その境界線がすぐそばまで迫っている――それを感じる。
シオンは深呼吸し、声を整えた。
「朝の祈りの前に、聖女セシリアに状況を伝えます。
出発の許可はすぐに下りるでしょう。……いや、むしろ急かされるかもしれません」
「わかった。俺たちは支度を済ませる」
シオンが頷き、再び塔の方へ走り去る。
残された中庭で、ティナはふと空を見上げた。
「……ねえ、エイン。
あの揺れ、なんでこんなに“明るい”んだろ。
怖いけど……光って、どこかあたたかい感じがする」
エインは答えなかった。
村で感じたものと、今の揺れは確かに違う。
昨日の村は“吸われるような空白”だったが、
今の揺れは“光が勝手に歩いているような”感覚を残していた。
光は祈りの道。
本来は人の願いを運ぶもの。
もしそれが勝手に動きはじめたなら――
それはもう、祈りではない。
「……行こう。追うしかない」
「うん」
ティナの灯が、小さく明るくなる。
朝日が昇りかけた空に、わずかな欠け目が残っていた。
光がほんの一瞬だけ、細く千切れた跡。
誰も気づかないほど小さな“傷”だったが――
三人には、それが旅の始まりを告げる合図だとわかっていた。
祈りの国の中心にふさわしい澄んだ光――だが、その美しさの奥に、わずかな「揺らぎ」が混ざっていることに、三人はすでに気づいていた。
街道を進む馬車の車輪が、静かな石畳をゆっくり刻む。
神殿区へ向かう道は人通りこそあるが、笑い声はどこか少ない。
人々は顔を上げ、馬車に乗る三つの影を見つけ……そしてすぐに目をそらした。
――祈りの国には珍しい、ざわめきと沈黙の同居。
馬車の奥で、ティナがそっと窓の布をめくった。
金色の光に揺れる髪。胸元で小さく灯る聖火灯が、かすかな残光を漏らす。
「……やっぱり、街の空気が変だよね」
「ああ。風が薄い」
エインが答えた。
声は低いが、外の異変を肌で感じ取っている響きがあった。
シオンも静かに頷く。
「星盤で見た通りですね。祈りの流れが、不自然に途切れています。
光の国で、このような停滞は本来あり得ないのですが……」
「……北の村で視た“光のうねり”と同じ?」
「断定はできません。ただ――関連はあるはずです」
馬車が神殿の階段前で止まると、待っていた聖騎士たちが双剣を掲げた。
彼らの目は、エインに向けられた瞬間だけ――硬い。
「機律帝国の兵器を、再び我が国へ……か。覚悟しておけよ。」
吐き捨てるような声。
だが剣は抜かれない。会議の決議を破るつもりはないのだ。
エインは表情も変えず馬車を降りた。
「脅しは受け止めた。……それで、案内は?」
「……ついて来い」
騎士の一人が不承不承に背を向ける。
ティナは少しむっとしたようにエインの肩を小さく叩いた。
「気にしないでよ。怖がってるだけなんだから」
「怖がられている自覚はある」
「……そういう意味じゃなくて」
ぶっきらぼうな会話に、シオンが小さく笑った。
「お二人とも、ここはルミナリアです。言い合いは小声でお願いします」
三人は神殿の奥――聖女セシリアの居室へと続く白い回廊を進んだ。
その途中。足を踏み入れた瞬間、エインはぴたりと足を止める。
「……冷たい」
「え?」
「祈りの気配が……ここだけ欠けてる」
壁に刻まれた光の紋章が、微かに石粉を落としている。
祈りの国の象徴――“光の理紋”に、あり得ないほどの亀裂。
ティナが震える声で呟いた。
「……なんでこんな……」
答えるように、回廊の奥――
聖女セシリアが、白い外套を揺らして歩み出た。
「――戻ったのですね。エイン、ティナ、シオン」
静かな声。しかし、その光の瞳は疲れと決意で曇っていた。
「セシリア様。報告があります」
シオンが一歩進み出る。だが聖女は手を上げて遮った。
「わかっています。……北で“光が人を倒した”のですね」
ティナが息を飲む。
「どうして……?」
「祈りの揺らぎは、すべて私のもとに届きます。
けれど、いまは……“祈りの形そのもの”が変質しつつある。
私の手では抑えられません」
エインが口を開く。
「原因に心当たりは?」
「――ありません。ただ一つだけ、確信があります」
セシリアの瞳が、エインとティナを順に見た。
「このままでは、祈りは壊れます。世界中で」
その言葉は、誰も続けられないほど重かった。
「……詳しい話を聞かせてください。北で何があったのか――すべて」
聖女セシリアが静かに言った。
「それが、次に世界が動くための第一歩となるはずですから」
聖火神殿の奥。
外光の届かぬ祈祷室は、静謐な空気に満ちていた。
中央には丸い石卓。その周囲に刻まれた光紋は、かつては一面が柔らかく輝いていたという。
だが今は……ところどころ、星の欠片のように薄暗い歪みが走っていた。
シオンが小さく息を整え、懐から星盤を広げる。
青い円盤は薄い光を放ち、ゆっくりと三人の前に浮かんだ。
「では……報告します。
北方街道沿いの小村にて、“祈りの崩れ”と思われる現象を確認しました」
星盤の光が揺れ、干からびた畑と転倒した村人たちの姿が浮かぶ。
セシリアが祈祷杖を握りしめ、低く問う。
「生存者は?」
「命はあります。ただ……祈りが薄い。
光でも、闇でも、炎でも風でもない。“何か”に触れた痕跡だけが残っています」
沈黙が落ちた。
エインは、その静けさの中でゆっくり言葉を探す。
「村の境で……“風じゃない流れ”を感じた。
押し返そうとしても形がなかった。祈りとは違う。“命令”に似ていた」
聖騎士たちがざわり、と動揺する。
「命令……? 帝国の、あの忌まわしい波動のことか」
「違う。同じだが、違う。……もっと、軽い。
触れれば壊れそうなのに、逆らうと噛みついてくる感じだった」
言葉にならない感覚。
エインも、説明しながら自分でうまく掴めていない。
ティナが不安そうに続ける。
「光の壁みたいなのが、村の入口に揺れてたよ。
でも祈りの気配はなかった。……あれ、なんだったんだろう」
セシリアは静かに目を伏せる。
「光は……祈りの最初の形です。
本来は、人の願いが自然へ向かう“道”のはず。
けれど……もしそれが逆流したら?」
星盤の光が一瞬、細かく震えた。
シオンが眉を寄せる。
「祈りが逆流……? 理論上はありえません。
祈りは流れであり、戻る性質を持たない。
もし逆流が起きているなら、それは――」
「“祈りを辿る道”そのものが壊されている、ということです」
セシリアの声は震えていなかった。
だが、確かな恐怖が宿っていた。
「光が祈りを運ぶ道なら……
北に現れた“光の揺れ”は、祈りの道筋の断片かもしれません。
誰かが意図的に壊したのか、自然現象なのか……まだ断定はできません」
祈りの国が弱っている。
それはこの場にいる全員が、口にせずとも理解していた。
エインが低く問う。
「他の国は? 同じ兆候は?」
「……少なくとも、表面には出ていません。
ですが、祈りの揺らぎが続けば……各地で“沈黙”が起こるでしょう」
沈黙――その言葉は重すぎた。
ティナがぎゅっと聖火灯を抱きしめる。
「……じゃあ、わたしたち、また北に行くの?」
「はい」
セシリアははっきりと頷いた。
「あなたたち三人にしか出来ないことです。
祈りにも、技にも、国にも縛られない“旅の者”であるあなたたちだからこそ」
エインは短く息を吐く。
「調査を続ける。村で見たものの正体を突き止めるために」
シオンも星盤を閉じる。
「祈りが逆流するなら、必ず“源”がある。それを探しましょう」
ティナだけが、少し迷っていた。
けれどエインが振り返ると、小さく笑った。
「行くよ。……だって、あの村の人たち、誰も何も言えなかった。
“困ってます”って言えないなら、わたしたちが動くしかないでしょ」
その声に、祈祷室の空気がほんの少し温かくなる。
セシリアが三人の前で目を閉じ、静かに祈りを捧げた。
「――どうか、祈りの道を護る者たちに光あれ」
だがその祈りは、天井の光紋に吸い込まれず、石の床に淡く散った。
祈りの国の光は、確かに弱っていた。
ルミナリアの夜は、穏やかなはずだった。
柔らかな灯火が石畳を照らし、祈りの歌が遠くから微かに聞こえる。
けれどその夜だけは、街の空気にどこか“張りつめた膜”のようなものが漂っていた。
日中の報告を終え、三人は神殿近くの宿舎に部屋を与えられていた。
古い木窓を開けると、夜風がひんやりと頬を撫でる。
エインは腕を組んで外を眺めていた。
ときどき、遠くの塔の光がかすかに揺れる。
風のせいではない。
光そのものが、ほんのわずか上下に呼吸するように明滅していた。
ティナが同じ窓の横に並び、そっと問いかける。
「……ねえ、エイン。やっぱり感じる?」
「ああ。光が……落ち着いてない」
エインの炎核は、祈りの揺らぎに敏感だ。
その胸の奥で、微かなざわつきがずっと残っている。
「北の村で感じたやつと似てる。
形はないけど、どこかで流れが切れかけてる感じがする」
「……怖いね」
ティナは聖火灯を胸元に抱えた。
灯は揺れていない。彼女の祈りが安定している証だ。
けれど、街そのものがかすかに“沈んだ息”をしているようだった。
部屋の扉が控えめに叩かれる。
「失礼します」
シオンが小さく頭を下げ、三人の前に現れた。
星盤はまだ開いていない。それでも、表情はいつもの冷静さを保ちながら、どこか困惑を帯びていた。
「……やはり、お二人とも気づいていましたか」
「気づいてるも何も、街が静かすぎる」
「静か……というより、“音が抜けている”感じじゃない?」
ティナの言葉に、シオンはわずかに目を見開く。
「その表現が正しいかもしれません」
彼は窓辺に歩み、夜空を見上げる。
「この街は祈りが強い。
人々の日々の願いが空へ上っていく“流れ”が、星読士には常に感じられるはずです。
ですが……今夜はその流れが極端に弱い」
エインは眉を寄せた。
「昼間の村と同じ現象か?」
「断定はできません。ただ……同じ“方向”にある気がします。
祈りの流れが細くなると、光の道筋も脆くなる。
今はまだ揺らぎの段階ですが……進めば、街全体が沈黙する可能性がある」
「沈黙……って、全部止まるってこと?」
ティナが小さく息を呑む。
「祈りも、風も、街の声も……全部?」
「最悪の場合は」
その言葉に、部屋の空気がわずかに冷えた。
エインは腕を組み替え、静かに言う。
「じゃあ……急いだほうがいいな。
北の“流れの乱れ”の源を見つけないと、ルミナリアも危ない」
「ええ。ただし――」
シオンは窓を閉め、ふたりの方へ向き直る。
「この街の人々には、まだ“異変”とは伝わっていません。
混乱を避けるために、聖女セシリアが判断したのでしょう」
「……言わないで、守ろうとしてるんだね」
ティナは少しだけ寂しげに呟く。
祈りの国の守り手である彼女が、真実を口にしない理由はひとつだ。
人を不安にさせれば、それ自体が祈りを弱めてしまう――それを知っている。
「エイン、明日の出発は早いよ。
シオンが見つけた“光の乱れ”を追うんでしょ」
「ああ。北――旧帝国方面の街道だ」
エインの声は低いが、揺らいでいなかった。
ティナはそっと灯を掲げ、三人の影を照らす。
「なんだろうね……
怖いけど、行かなきゃいけない気がするよ」
エインはその横顔を一瞬だけ見た。
彼女の灯が揺れずに立ち続けている限り、
自分も止まらない――それだけは確かだった。
「行く。止まりかけてる流れを……つないでくる」
その瞬間、窓の外で風鈴がかすかに鳴った。
誰も触れていないはずの音。
ルミナリアの夜に似つかわしくない、冷たい金属の響き。
三人は同時に気配を感じて顔を上げた。
風のない夜――
なのに、どこか遠くで光が一度だけ、ひゅ、と細く消えた。
それは“始まりの予兆”だった。
夜が、わずかに白む。
まだ朝とは呼べない時刻。
街を包む静けさの中、ルミナリアの塔々だけが青白い光を帯び始めていた。
エインは宿舎の中庭でひとり、動かない空を見上げていた。
胸の奥、炎核がときおり“かすかに逆流するような”ざらつきを見せる。
北の村で感じたものと似ている。
だが、もっと淡い。
遠くで揺らいでいるだけの、弱い“気配”――のはずだった。
そのとき。
空気がひゅ、と細く切れた。
耳ではなく、肌で感じる“欠ける音”。
エインは迷わず構える。
「……今の、聞こえたよね」
背後からティナの声がした。
すでに起きていたらしい。手に灯を持ち、眠気のない眼差しで中庭へ入ってくる。
「風じゃない。灯が、一瞬だけふるえた」
「街の光もだ。塔の先が一瞬……消えかけた」
ティナは眉を寄せ、中庭に佇む石像を見つめる。
聖女の祈りを象った像。いつもは淡い光を宿しているが、今は光が薄い。
そこへ、走る足音。
「……二人とも、ここに」
シオンが駆け込んできた。いつも冷静な彼にしては珍しく、肩で息をしている。
「星読院の観測が反応しました。
“光の裂け目”が十数秒だけ――街の北部で」
「裂け目?」
「祈りの流れがふっと抜け落ちた、と言うべきでしょうか。
気象でも魔術でも説明できない。……昨日の村と、同じ種類です」
ティナは灯を握り直す。
「でも、誰も倒れてないんだよね?」
「はい。規模はごく小さい。
ただ、“現象そのものが動いている”可能性があります」
動いている――
その言葉は、宿舎の静けさより冷たく響いた。
エインは短く問う。
「……俺たちを追ってきてるってことか?」
「断定はしません。ただ、向かっている方向は北西。
昨日の村から延びる街道の線上です」
追跡ではなく、単純に“流れ”が伸びているだけかもしれない。
だがどちらにせよ、放置できるものではない。
ティナが言う。
「だったら、急がないと。
ここに広がったら、ルミナリアの人たち、また――」
「そうだな」
エインは立ち上がり、中庭を見渡した。
誰も倒れていない。
祈りはまだある。光も完全には消えていない。
だが、その境界線がすぐそばまで迫っている――それを感じる。
シオンは深呼吸し、声を整えた。
「朝の祈りの前に、聖女セシリアに状況を伝えます。
出発の許可はすぐに下りるでしょう。……いや、むしろ急かされるかもしれません」
「わかった。俺たちは支度を済ませる」
シオンが頷き、再び塔の方へ走り去る。
残された中庭で、ティナはふと空を見上げた。
「……ねえ、エイン。
あの揺れ、なんでこんなに“明るい”んだろ。
怖いけど……光って、どこかあたたかい感じがする」
エインは答えなかった。
村で感じたものと、今の揺れは確かに違う。
昨日の村は“吸われるような空白”だったが、
今の揺れは“光が勝手に歩いているような”感覚を残していた。
光は祈りの道。
本来は人の願いを運ぶもの。
もしそれが勝手に動きはじめたなら――
それはもう、祈りではない。
「……行こう。追うしかない」
「うん」
ティナの灯が、小さく明るくなる。
朝日が昇りかけた空に、わずかな欠け目が残っていた。
光がほんの一瞬だけ、細く千切れた跡。
誰も気づかないほど小さな“傷”だったが――
三人には、それが旅の始まりを告げる合図だとわかっていた。
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