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第Ⅶ巻 沈風戦線 ― 声喰いの嵐(ボイス・イーター)
第3話 風を奪う侵蝕
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風が、戻らなかった。
ネイラの影が消えた街路に立ち尽くしながら、エインは耳を澄ませた。
だが、どれだけ風が草を揺らしても――音だけが、無い。
風そのものが“この世界から隔てられている”ような、不自然な静けさ。
沈黙が地図のように広がっていく。
さっきまでただの“境界”だった沈黙が、今や大地へ染み込み、周囲を飲み込んでいた。
(ネイラの影律……いや、違う。範囲が広い。)
これは個人の能力ではない。
風層そのものの“書き換え”だ。
立ち込める砂埃が、奇妙に浮いた軌道を描いた。
風が“押し返されて”いる。
草原の上で風向きが乱雑に跳ね返る現象は、ノマ=ルグにおいて本来あり得ない。
――世界が、風を失っていく。
エインは歩き出した。
沈黙の奥へ。ネイラの影が溶けた方角へ。
足元の感触が変わった。
砂の粒がざらりとした抵抗を見せ、まるで命令波の静電気が大地に貼りつくような、重たい空気がまとわりつく。
そのとき、視界の端に白い灯が揺れた。
「エイン!」
ティナだった。
遠くから走ってくるその姿に、エインの眉がわずかに寄る。
(ここまで来たのか……危険だ。)
だが、ティナが灯を掲げると、奇妙な現象が起きた。
沈黙の風が、灯の周囲だけ“揺らいだ”のだ。
風が戻ったわけではない。
ただ、命令の圧力が押し返されるように、範囲が歪む。
ティナは息を弾ませながら言った。
「……ネイラが……いえ、“何か”が……風を飲み込んでいます。
カレナたちの歌が……届かなくなって……!」
エインは頷き、ティナの肩越しに遠方を見た。
地平線が、黒い靄で染まっている。
しかも、靄は風とは無関係に“侵食するように”地形をなぞる。
命令化領域。
ネイラが言っていた“試験の先”が、これだ。
沈黙の奥で微かに響く音があった。
かすれた囁きが、風の代わりに世界を走る。
――オマエハ ミエル
――カエサレル カゼ
命令の声だ。
ティナが灯を抱きしめるように握り、震える息を整えた。
「エイン……あの声、ネイラじゃありません。もっと……冷たい……。」
エインはゆっくりと拳を握る。
腕の装甲が橙に脈動し、沈黙の空気を押し退けた。
「ネイラは影にすぎない。“本体”はまだ来ていない。」
沈黙が波のように揺れ、足元に黒い影の筋が走る。
――風が奪われている。
ノマ=ルグそのものが、“新しい律”に塗り替えられつつある。
エインは前へ踏み出した。
「ティナ、下がれ。この先は命令の淵だ。」
ティナは小さく頷き、灯を胸に当てる。
その灯はか細く震えながらも、沈黙に完全には飲まれなかった。
風祈核の代わりに、灯だけが揺れている。
その瞬間、地平線の黒が一気に盛り上がった。
命令領域の“波”だ。
音もなく、ただ沈黙だけを押し付けながら迫ってくる。
まるで世界そのものが裏返るような気配。
ティナが思わず叫ぶ。
「エイン、来ます!」
エインは構えた。
沈黙の波が地表を走り――
侵蝕が始まった。
黒い“波”が草原を押し流した。
砂も草も風も、すべてが無音の影に沈み込む。
まるで世界の表皮だけを剥ぎ取っていくような侵蝕だった。
エインは一歩踏み込み、沈黙の奔流へ拳を叩きつけた。
ドッ――!
衝撃が草原を抉り、黒い波が一瞬だけめくれ上がる。
だが、波は砕けず、裂けた部分がぬるりと再生し、ふたたび迫ってきた。
ティナが灯を掲げる。
橙の光が半径数メートルだけ沈黙を薄める。
しかしその灯ですら、波が触れた瞬間に“かき消されそうな揺らぎ”を見せた。
「……強い……! 灯が……押し負ける……!」
「下がれ、ティナ!」
エインは片腕を前に突き出し、
橙の光脈が腕部装甲を走った瞬間――
**炎撃衝(バースト)**が解き放たれた。
爆ぜる炎が棘のように走り、黒い波に突き刺さる。
沈黙の膜が焦げ、空気にひび割れのような筋が走った。
しかし、波は速度を落とさない。
むしろ炎を“学習した”かのように、次の瞬間には炎を避ける軌道でうねり始める。
(避けた……? 命令の反応速度じゃない。これは――)
命令化領域そのものが“見ている”。
沈黙の波が地面を這い、エインの足元へ回り込むように迫る。
エインは跳躍し、空中で身体をひねりながら連撃を叩き込む。
**斧打(くさび)**のような降下打撃。
**膝衝(ニー・クラッシュ)**の衝撃が影を砕く。
砕けた部分から風が戻る――しかし、すぐに黒が覆い尽くす。
「……消しても、すぐ再生する……!」
ティナが息を呑む。
エインは一度着地し、息を整えずに前へ出る。
腕の光脈が脈動し、橙の残火が漏れ出す。
沈黙の波が急速に密度を増す。
重く、分厚い気配。
その中心部──
闇の裂け目のような場所から、低い“囁き”が響いた。
――ミツケタ……エイン……
その声に、ティナの肩が震えた。
ネイラではない。
もっと深く、もっと冷たく、もっと“命令そのものに近い声”。
エインの目が細くなる。
「あれが……命令領域の本体か。」
黒い波が一斉に形を変えた。
渦を巻き、竜巻のように立ち上がり、中心に“影の顔”を形作る。
顔は実在しない。
ただ、命令波が“エインを見よう”として絵を描いただけの形。
「……気色悪い真似だ。」
エインが身構えた瞬間、
影の渦が“咢を開くように”割れ、
沈黙そのものを吸い込む“真空の風”が走った。
ティナが吹き飛ばされる寸前、エインが腕を伸ばし引き寄せた。
「しっかり掴まれ!」
「う、うん……!」
沈黙の竜巻がエインを呑み込まんと迫る。
ティナの灯が必死に橙色の防壁を張り、
エインの炎核がそれをさらに押し返す。
風は奪われ、音は消え、世界が沈みはじめる。
――ノマ=ルグが、書き換えられていく。
エインは拳を握り直した。
「……なら、壊すしかないだろ。」
沈黙の渦へ、再び踏み込む。
沈黙の渦が、獣のようにエインへ噛みついてきた。
風が奪われているのに、渦は風の形をしている。
それが余計に不気味だった。
形だけ真似て、中身はただの“命令の口”だ。
エインは地を蹴り、真っ向から殴りつけた。
ガンッ!
拳が沈黙の壁を叩き割り、
黒い渦が左右へ裂け散る。
エインが踏み込んだ瞬間、影の鱗のようなものが舞い、
割れた壁の奥から、別の影の腕が伸びる。
掴むように迫る黒影。
エインは腕をひねり、その腕を掴み返すと――
引きずり出した。
バッ、と黒い影が砂の上へ投げられる。
形は人のようで人ではない。
輪郭が揺れ、顔も脚も曖昧で、ただ“エインを模した何か”だ。
「……俺の真似か。」
エインの声に反応し、影が同じ姿勢を取り、
同じ構えで拳を握る。
ティナが小さく息を呑む。
「エイン……命令が、あなたの動きを模写してます……!」
影の“エインもどき”が、音もなく疾走した。
本物と同じ速度で踏み込み、
本物と同じ軌道で拳を放つ。
ミシッ——!
振るわれた影の拳が、空気さえ揺らせず、ただ重さだけを持って迫る。
エインは腕を交差して受け止めた。
衝撃は重い。
火花は散らないが、地面に亀裂が走る。
「影が俺の“力”まで真似してるのか。」
(……いや、違う。)
本物の“重さ”じゃない。
ただ、命令領域が“必要な重さ”を貼りつけているだけだ。
エインは片腕を外し、正面から蹴り込む。
ドゴッ!
影の胸から背中へ、黒い霧が吹き飛び、
“エインもどき”が数メートル転がった。
しかし痛みがないのか、影はすぐに起き上がる。
動きは崩れていない。
まるで機械の連続動作。
エインは踏み込み、影の懐へ滑り込む。
影も同じ動作をする。
拳と拳が、鏡合わせにぶつかり合った。
ドッ! ドッ! ドッ!
三連打。
拳がぶつかるたびに影が“剥がれ”、黒い粒子が飛び散る。
エインの攻撃に応じて影が自動補正されるたび、
命令のノイズがヒュウと空気を震わせた。
ティナが灯を抱えて叫ぶ。
「エイン! 後ろにも……!」
エインが影を弾き飛ばした瞬間、
沈黙の地面から、もう一体の影が這い出してきた。
さっきと同じ“エインの型”。
しかし腕の長さが微妙に違う。
命令が“修正”を始めている。
(数で模写してくる気か。)
なら——速さで割り切る。
エインは足元の地を抉るように踏み込み、
炎核が脈動して身体能力が跳ね上がる。
瞬動。
一歩で影の背後へ回り込む。
影が追従しようとするが、補正のための“間”が生じる。
エインは肘を叩き込んだ。
バキィッ!
影が背ごと砕け、砂塵のように散る。
命令領域が再形成しようと揺らめくが、
もう一発、踏み込みながら拳を叩き込んで“核”を粉砕した。
影は形を維持できず、崩れ落ちて消える。
ティナが小さく息を吐く。
「エイン……強い……!」
エインは答えず、視線を沈黙の奥へ向けた。
影はまだ二体、三体と地面から立ち上がってくる。
だが――
その奥。
沈黙の渦の中心で、“別の影”がゆっくり形を作り始めていた。
輪郭が細く、しなやかで、
どこか人間の女性を思わせる(だが違う)。
輪郭の外側で、風の断片が悲鳴のように散っている。
ティナが灯を握りしめる。
「エイン……あれ……あれは……!」
エインは拳を下ろし、わずかに息を吐いた。
「ようやく“本体の気配”が見えてきた。」
沈黙の影が形づくったのは——
ネイラを模した“影の雛形”。
“声を奪う者”が、風の座を奪うべく、
ゆっくりと“具現の身体”を生み出していく。
侵蝕は、もう止まらない段階へ入っていた。
影が“形”になろうとしていた。
黒い粒子が、人の輪郭を組み立てるように集まり、
細い脚、白い喉元、風のように流れる髪の影――
ネイラの“模造”がゆっくりと立ち上がる。
だが、まだ顔だけが空白だ。
影はそこで迷っているようだった。
何を模すのか。
どんな声を装うのか。
その答えを、命令領域が測りかねている。
(……本体じゃない。
だが、“呼ばれている”……。)
エインは拳をゆっくり握り直した。
腕の装甲の光が沈黙を押し返すように脈動する。
その背後で、ティナの灯がかすかに揺れた。
沈黙の風に触れた瞬間、
灯が“風祈核の代わりに震えた”のがわかった。
「……エイン……風が……苦しんでいる……」
ティナの声は震えていたが、目は逃げていなかった。
エインは振り返らず答える。
「わかってる。
だからここを越えさせない。」
影のネイラが首をかしげた。
顔のない顔が、こちらを向く。
そして、
空白の口元から声が漏れた。
――アタラシイ カゼヲ
ウミカエ……エイン
その声は、ネイラのものではない。
ヴァロスのでも、命令炉の残響でもない。
“命律そのものの声”。
ティナが思わず灯を抱え込む。
光が影に呑まれそうになり、
ティナ自身の輪郭が沈黙の揺らぎに飲まれかける。
エインは後ろ手でティナを引き寄せ、
影の侵蝕線から守るように前へ出た。
「……これ以上踏み込ませない。」
影のネイラが、一歩こちらへ歩いた。
足音はない。
風の気配もない。
その一歩で、草原が半径十メートル沈黙に染まる。
世界が“風の死”に書き換えられていく。
影の手が、エインへ向かって伸び――
ぱちん、と指が鳴ったような音がした。
沈黙の波が一瞬止まる。
影の動きが固まる。
次の瞬間、
黒い影の身体が“何かに呼び戻されるように”崩れた。
砂のように落ち、
残ったのは細い風の軌跡だけ。
ティナが震えた声で言う。
「……いまの……呼ばれた……?」
エインは目を細めた。
「いや。“呼び戻された”ほうだ。」
影が消えた草原の奥で、
沈黙の雲が大きく脈打った。
まるで海底から巨獣が浮上するような、
重く、緩慢で、それでいて抗えない気配。
まだ姿は見えない。
声もない。
だが、わかる。
――本体が動き出した。
エインはゆっくり背後のティナへ言った。
「ティナ。戻れ。
次は……“本物”が来る。」
ティナは悔しそうに唇をかむが、それでも灯を抱いた。
「……わたし……風を守りたい……
でも……足を引っぱる……」
「違う。灯がなきゃ俺も沈む。」
ティナは小さく息を呑んだ。
灯の橙が、弱々しくも確かに揺れる。
だからこそエインは前へ出る。
沈黙の大地が震えた。
遠くから、風の断末魔のような悲鳴が響く。
そして――
黒い霧の中心で、
“人の形”がゆっくりと立ち上がり始めた。
細い腕。
白い指。
背に風のような黒い影の布。
口元は穏やかに笑い、
その声は――
“本物のネイラ”に、あまりにも近かった。
侵蝕は完了しつつある。
ネイラの影が消えた街路に立ち尽くしながら、エインは耳を澄ませた。
だが、どれだけ風が草を揺らしても――音だけが、無い。
風そのものが“この世界から隔てられている”ような、不自然な静けさ。
沈黙が地図のように広がっていく。
さっきまでただの“境界”だった沈黙が、今や大地へ染み込み、周囲を飲み込んでいた。
(ネイラの影律……いや、違う。範囲が広い。)
これは個人の能力ではない。
風層そのものの“書き換え”だ。
立ち込める砂埃が、奇妙に浮いた軌道を描いた。
風が“押し返されて”いる。
草原の上で風向きが乱雑に跳ね返る現象は、ノマ=ルグにおいて本来あり得ない。
――世界が、風を失っていく。
エインは歩き出した。
沈黙の奥へ。ネイラの影が溶けた方角へ。
足元の感触が変わった。
砂の粒がざらりとした抵抗を見せ、まるで命令波の静電気が大地に貼りつくような、重たい空気がまとわりつく。
そのとき、視界の端に白い灯が揺れた。
「エイン!」
ティナだった。
遠くから走ってくるその姿に、エインの眉がわずかに寄る。
(ここまで来たのか……危険だ。)
だが、ティナが灯を掲げると、奇妙な現象が起きた。
沈黙の風が、灯の周囲だけ“揺らいだ”のだ。
風が戻ったわけではない。
ただ、命令の圧力が押し返されるように、範囲が歪む。
ティナは息を弾ませながら言った。
「……ネイラが……いえ、“何か”が……風を飲み込んでいます。
カレナたちの歌が……届かなくなって……!」
エインは頷き、ティナの肩越しに遠方を見た。
地平線が、黒い靄で染まっている。
しかも、靄は風とは無関係に“侵食するように”地形をなぞる。
命令化領域。
ネイラが言っていた“試験の先”が、これだ。
沈黙の奥で微かに響く音があった。
かすれた囁きが、風の代わりに世界を走る。
――オマエハ ミエル
――カエサレル カゼ
命令の声だ。
ティナが灯を抱きしめるように握り、震える息を整えた。
「エイン……あの声、ネイラじゃありません。もっと……冷たい……。」
エインはゆっくりと拳を握る。
腕の装甲が橙に脈動し、沈黙の空気を押し退けた。
「ネイラは影にすぎない。“本体”はまだ来ていない。」
沈黙が波のように揺れ、足元に黒い影の筋が走る。
――風が奪われている。
ノマ=ルグそのものが、“新しい律”に塗り替えられつつある。
エインは前へ踏み出した。
「ティナ、下がれ。この先は命令の淵だ。」
ティナは小さく頷き、灯を胸に当てる。
その灯はか細く震えながらも、沈黙に完全には飲まれなかった。
風祈核の代わりに、灯だけが揺れている。
その瞬間、地平線の黒が一気に盛り上がった。
命令領域の“波”だ。
音もなく、ただ沈黙だけを押し付けながら迫ってくる。
まるで世界そのものが裏返るような気配。
ティナが思わず叫ぶ。
「エイン、来ます!」
エインは構えた。
沈黙の波が地表を走り――
侵蝕が始まった。
黒い“波”が草原を押し流した。
砂も草も風も、すべてが無音の影に沈み込む。
まるで世界の表皮だけを剥ぎ取っていくような侵蝕だった。
エインは一歩踏み込み、沈黙の奔流へ拳を叩きつけた。
ドッ――!
衝撃が草原を抉り、黒い波が一瞬だけめくれ上がる。
だが、波は砕けず、裂けた部分がぬるりと再生し、ふたたび迫ってきた。
ティナが灯を掲げる。
橙の光が半径数メートルだけ沈黙を薄める。
しかしその灯ですら、波が触れた瞬間に“かき消されそうな揺らぎ”を見せた。
「……強い……! 灯が……押し負ける……!」
「下がれ、ティナ!」
エインは片腕を前に突き出し、
橙の光脈が腕部装甲を走った瞬間――
**炎撃衝(バースト)**が解き放たれた。
爆ぜる炎が棘のように走り、黒い波に突き刺さる。
沈黙の膜が焦げ、空気にひび割れのような筋が走った。
しかし、波は速度を落とさない。
むしろ炎を“学習した”かのように、次の瞬間には炎を避ける軌道でうねり始める。
(避けた……? 命令の反応速度じゃない。これは――)
命令化領域そのものが“見ている”。
沈黙の波が地面を這い、エインの足元へ回り込むように迫る。
エインは跳躍し、空中で身体をひねりながら連撃を叩き込む。
**斧打(くさび)**のような降下打撃。
**膝衝(ニー・クラッシュ)**の衝撃が影を砕く。
砕けた部分から風が戻る――しかし、すぐに黒が覆い尽くす。
「……消しても、すぐ再生する……!」
ティナが息を呑む。
エインは一度着地し、息を整えずに前へ出る。
腕の光脈が脈動し、橙の残火が漏れ出す。
沈黙の波が急速に密度を増す。
重く、分厚い気配。
その中心部──
闇の裂け目のような場所から、低い“囁き”が響いた。
――ミツケタ……エイン……
その声に、ティナの肩が震えた。
ネイラではない。
もっと深く、もっと冷たく、もっと“命令そのものに近い声”。
エインの目が細くなる。
「あれが……命令領域の本体か。」
黒い波が一斉に形を変えた。
渦を巻き、竜巻のように立ち上がり、中心に“影の顔”を形作る。
顔は実在しない。
ただ、命令波が“エインを見よう”として絵を描いただけの形。
「……気色悪い真似だ。」
エインが身構えた瞬間、
影の渦が“咢を開くように”割れ、
沈黙そのものを吸い込む“真空の風”が走った。
ティナが吹き飛ばされる寸前、エインが腕を伸ばし引き寄せた。
「しっかり掴まれ!」
「う、うん……!」
沈黙の竜巻がエインを呑み込まんと迫る。
ティナの灯が必死に橙色の防壁を張り、
エインの炎核がそれをさらに押し返す。
風は奪われ、音は消え、世界が沈みはじめる。
――ノマ=ルグが、書き換えられていく。
エインは拳を握り直した。
「……なら、壊すしかないだろ。」
沈黙の渦へ、再び踏み込む。
沈黙の渦が、獣のようにエインへ噛みついてきた。
風が奪われているのに、渦は風の形をしている。
それが余計に不気味だった。
形だけ真似て、中身はただの“命令の口”だ。
エインは地を蹴り、真っ向から殴りつけた。
ガンッ!
拳が沈黙の壁を叩き割り、
黒い渦が左右へ裂け散る。
エインが踏み込んだ瞬間、影の鱗のようなものが舞い、
割れた壁の奥から、別の影の腕が伸びる。
掴むように迫る黒影。
エインは腕をひねり、その腕を掴み返すと――
引きずり出した。
バッ、と黒い影が砂の上へ投げられる。
形は人のようで人ではない。
輪郭が揺れ、顔も脚も曖昧で、ただ“エインを模した何か”だ。
「……俺の真似か。」
エインの声に反応し、影が同じ姿勢を取り、
同じ構えで拳を握る。
ティナが小さく息を呑む。
「エイン……命令が、あなたの動きを模写してます……!」
影の“エインもどき”が、音もなく疾走した。
本物と同じ速度で踏み込み、
本物と同じ軌道で拳を放つ。
ミシッ——!
振るわれた影の拳が、空気さえ揺らせず、ただ重さだけを持って迫る。
エインは腕を交差して受け止めた。
衝撃は重い。
火花は散らないが、地面に亀裂が走る。
「影が俺の“力”まで真似してるのか。」
(……いや、違う。)
本物の“重さ”じゃない。
ただ、命令領域が“必要な重さ”を貼りつけているだけだ。
エインは片腕を外し、正面から蹴り込む。
ドゴッ!
影の胸から背中へ、黒い霧が吹き飛び、
“エインもどき”が数メートル転がった。
しかし痛みがないのか、影はすぐに起き上がる。
動きは崩れていない。
まるで機械の連続動作。
エインは踏み込み、影の懐へ滑り込む。
影も同じ動作をする。
拳と拳が、鏡合わせにぶつかり合った。
ドッ! ドッ! ドッ!
三連打。
拳がぶつかるたびに影が“剥がれ”、黒い粒子が飛び散る。
エインの攻撃に応じて影が自動補正されるたび、
命令のノイズがヒュウと空気を震わせた。
ティナが灯を抱えて叫ぶ。
「エイン! 後ろにも……!」
エインが影を弾き飛ばした瞬間、
沈黙の地面から、もう一体の影が這い出してきた。
さっきと同じ“エインの型”。
しかし腕の長さが微妙に違う。
命令が“修正”を始めている。
(数で模写してくる気か。)
なら——速さで割り切る。
エインは足元の地を抉るように踏み込み、
炎核が脈動して身体能力が跳ね上がる。
瞬動。
一歩で影の背後へ回り込む。
影が追従しようとするが、補正のための“間”が生じる。
エインは肘を叩き込んだ。
バキィッ!
影が背ごと砕け、砂塵のように散る。
命令領域が再形成しようと揺らめくが、
もう一発、踏み込みながら拳を叩き込んで“核”を粉砕した。
影は形を維持できず、崩れ落ちて消える。
ティナが小さく息を吐く。
「エイン……強い……!」
エインは答えず、視線を沈黙の奥へ向けた。
影はまだ二体、三体と地面から立ち上がってくる。
だが――
その奥。
沈黙の渦の中心で、“別の影”がゆっくり形を作り始めていた。
輪郭が細く、しなやかで、
どこか人間の女性を思わせる(だが違う)。
輪郭の外側で、風の断片が悲鳴のように散っている。
ティナが灯を握りしめる。
「エイン……あれ……あれは……!」
エインは拳を下ろし、わずかに息を吐いた。
「ようやく“本体の気配”が見えてきた。」
沈黙の影が形づくったのは——
ネイラを模した“影の雛形”。
“声を奪う者”が、風の座を奪うべく、
ゆっくりと“具現の身体”を生み出していく。
侵蝕は、もう止まらない段階へ入っていた。
影が“形”になろうとしていた。
黒い粒子が、人の輪郭を組み立てるように集まり、
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ネイラの“模造”がゆっくりと立ち上がる。
だが、まだ顔だけが空白だ。
影はそこで迷っているようだった。
何を模すのか。
どんな声を装うのか。
その答えを、命令領域が測りかねている。
(……本体じゃない。
だが、“呼ばれている”……。)
エインは拳をゆっくり握り直した。
腕の装甲の光が沈黙を押し返すように脈動する。
その背後で、ティナの灯がかすかに揺れた。
沈黙の風に触れた瞬間、
灯が“風祈核の代わりに震えた”のがわかった。
「……エイン……風が……苦しんでいる……」
ティナの声は震えていたが、目は逃げていなかった。
エインは振り返らず答える。
「わかってる。
だからここを越えさせない。」
影のネイラが首をかしげた。
顔のない顔が、こちらを向く。
そして、
空白の口元から声が漏れた。
――アタラシイ カゼヲ
ウミカエ……エイン
その声は、ネイラのものではない。
ヴァロスのでも、命令炉の残響でもない。
“命律そのものの声”。
ティナが思わず灯を抱え込む。
光が影に呑まれそうになり、
ティナ自身の輪郭が沈黙の揺らぎに飲まれかける。
エインは後ろ手でティナを引き寄せ、
影の侵蝕線から守るように前へ出た。
「……これ以上踏み込ませない。」
影のネイラが、一歩こちらへ歩いた。
足音はない。
風の気配もない。
その一歩で、草原が半径十メートル沈黙に染まる。
世界が“風の死”に書き換えられていく。
影の手が、エインへ向かって伸び――
ぱちん、と指が鳴ったような音がした。
沈黙の波が一瞬止まる。
影の動きが固まる。
次の瞬間、
黒い影の身体が“何かに呼び戻されるように”崩れた。
砂のように落ち、
残ったのは細い風の軌跡だけ。
ティナが震えた声で言う。
「……いまの……呼ばれた……?」
エインは目を細めた。
「いや。“呼び戻された”ほうだ。」
影が消えた草原の奥で、
沈黙の雲が大きく脈打った。
まるで海底から巨獣が浮上するような、
重く、緩慢で、それでいて抗えない気配。
まだ姿は見えない。
声もない。
だが、わかる。
――本体が動き出した。
エインはゆっくり背後のティナへ言った。
「ティナ。戻れ。
次は……“本物”が来る。」
ティナは悔しそうに唇をかむが、それでも灯を抱いた。
「……わたし……風を守りたい……
でも……足を引っぱる……」
「違う。灯がなきゃ俺も沈む。」
ティナは小さく息を呑んだ。
灯の橙が、弱々しくも確かに揺れる。
だからこそエインは前へ出る。
沈黙の大地が震えた。
遠くから、風の断末魔のような悲鳴が響く。
そして――
黒い霧の中心で、
“人の形”がゆっくりと立ち上がり始めた。
細い腕。
白い指。
背に風のような黒い影の布。
口元は穏やかに笑い、
その声は――
“本物のネイラ”に、あまりにも近かった。
侵蝕は完了しつつある。
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補助魔法を使われて強化されているのにもかかわらず、無詠唱で発動されている為に…
怪我が少ないのも自分達が強いからと勘違いをしていた。
そしてそんな自信過剰な勇者達は、テクトを役立たずと言って追い出すのだが…
テクトは他のパーティーでも、同じ様に追い出された経験があるので…
追放に対しては食い下がる様な真似はしなかった。
そしてテクトが抜けた勇者パーティーは、敗走を余儀無くされて落ち目を見る事になるのだが…
果たして、勇者パーティーはテクトが大きな存在だったという事に気付くのはいつなのだろうか?
9月21日 HOTランキング2位になりました。
皆様、応援有り難う御座います!
同日、夜21時49分…
HOTランキングで1位になりました!
感無量です、皆様有り難う御座います♪
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