婚約者を想うのをやめました

かぐや

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1巻

1-2

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   ◆ ◆ ◆


 まさか、ここで殿下に会うとは思っていなかったので私は驚きを隠せない。
 私たちはミランダ様の「早退して、町娘の恰好で街をぶらぶら歩きませんか?」という魅力的かつ背徳感ある誘惑に負け、先程までお菓子を食べたり、雑貨を見たりと、ぶらりままに歩いていた。
 穏やかで優しいこの時間はとても楽しく、永遠に続けばいいのに、と思っていた矢先の出来事だったので、目の前の状況を上手く脳内で処理できない。
 どうして、このような場所に殿下がいらっしゃるのだろうか。
 素朴な疑問を抱くが、すぐに彼の手に一輪の花が咲いていることに気づく。

(デージーの花……?)

 鮮血が無造作に塗られたようなデージーの色は、殿下の瞳の色とそっくりだ。

(女性に差し上げるための花を選んでいたのね)

 と、納得してしまった。

「でん……旦那様、ごきげんよう。珍しいですね、旦那様自らお花を購入なさるなんて」

 私もミランダ様と同じように殿下が皇太子であることを伏せて、話しかけた。護衛の騎士が側にいるといえど、ここは皇宮や学園ではなく町である。用心するに越したことはないだろう。
 殿下は私の顔を見てわずかにたじろいだように瞳を揺らすが、それがなにを意味するのか分かる前に、彼は優しい皇子様の仮面をつけてしまった。

「ごきげんよう、ジョージアナ。も本当に奇遇だね」

 聡い殿下は私たちの意図に気づき、話を絶妙に合わせてくれる。
 ここでお互いの身分を明かすのは得策ではないが、実に変な構図が仕上がったものだ。

「それにしてもおかしなことがあるものだ、僕は君たちは体調がよろしくない、と聞いていたのだが」
「それはもう治りましたので。早退ついでに、とここに参ったのです」
「そうなんだ、それは良かったよ」

 しれっと笑顔で嘘をつく強かなミランダ様と、彼女の嘘を嘘と見抜いていらっしゃるだろうに微笑みながらも付き合う殿下。
 私とクレア様はそんなお二人を黙って見つめた。

「だけど外で遊ぶのは感心しないな。ミランダの体が丈夫でも、ジョージアナもそうとは限らないだろう?」
「確かに配慮に欠けておりましたが、ジョージアナさ……ジョージアナは旦那様が思うほど弱くありませんことよ?」
「万が一ということもある」
(なんてこと……)


 お互い、口角は上がっているのに目が笑っていない。
 それがなんとも言い難い禍々まがまがしい雰囲気をかもし出しており、私はどうしたら良いか考えあぐねた。女性の店員もデージーの花束を持ったまま成り行きをじっと見守っている。その目が輝いているように見えるのは、私の気のせいだろうか。
 クレア様に至っては完全に別世界へと意識が行っており、関わりたくないという気持ちが良く伝わってきた。
 そんな時に沈黙を貫いていた殿下の側近、エドワード様がやんわりと間に入ってくれた。

「旦那様、ご本人がいらしているのですから、ご本人が所望されるお花をお買い求めになられては如何でしょうか」

 という、思ってもみない言葉だった。

「……本人?」

 げんな顔で問うと、殿下が少しばかり恥ずかしそうに教えてくださった。

「君が体調が悪いと早退したから心配で。お見舞いに行こうと思ったんだよ。そのために花を贈ろうと思って、花屋に立ち寄ったんだ」
「まあ、そうでしたの。それは、お手をわずらわせてしまい申し訳ございませんでした」
「いや、深刻な病ではなさそうで良かったよ」
「……お気遣いに感謝いたします」

 私は軽く頭を下げたあと、淑女の笑みを貼り付け「しかし」と言葉を続けた。

「今後一切このようなことは不要です」
「……え」

 なにを言われているのか本当に分からない、とばかりに困惑した面持ちで私を食い入るように見つめる殿下。優しい皇太子の仮面も、節操のない殿方の仮面もがれ落ちており、殿下本人の素の心情を如実に表していた。

(まさか、断られるはずがないと思っていたのかしら)

 断らずにいられたら、どれだけ良かったか。
 私が殿下の厚意に素直に「嬉しい、素敵な花ですね」と申し上げることができていたら。そして、微笑む殿下に抱き着き、感謝の意を表せたら……
 殿下の瞳の色を移したようなデージーを手に、彼の腕の中で微笑むことができたら。
 どれだけ幸せなことか。
 だが、さいは投げられた。
 その事実を無視することはできないのである。

「……もしかして、デージーがいやだった? それなら別の花……ペチュニアとかどうだい? 綺麗なジョージアナにはぴったりだよ」

 私は美辞びじれいを微笑で躱した。

「私よりも、旦那様のお気に入りの女性たちに差し上げたら如何です? きっと喜びますわ」
「……なに言って……」

 呆ける殿下に、私は様々な感情をぐっと堪えて呟く。

「私はもう、いただきませんから」
「……え」
「それでは、旦那様。私たちは用事があります故、屋敷に戻らせていただきますね。お先に失礼いたします」

 私はそう言ってお辞儀をすると、ミランダ様とクレア様と一緒に大通りまで歩いた。
 沈黙を貫きながら歩くこと数分、やっと殿下の姿が見えなくなったあたりでまともな呼吸をすることができた。

「思わぬ遭遇でしたね……」

 ミランダ様が木製の椅子に座りながら疲労を滲ませつつ言う。それに私とクレア様も倣いながら、同意した。

「本当に。神は悪戯好きだから」
「でも、ジョージアナ様とてもかっこよかったですわ。惚れてしまいそうでした」
「あら、嬉しいことを。クレア様が私のところにお嫁に来てくれたら一生可愛がるわ」

 可愛らしく顔を赤らめているクレア様の頭をよしよしとすると、彼女は嬉しそうに「ジョージアナ様に撫でられている!」と呟いていた。愛らしいことである。

「それにしても、ジョージアナ様よくずばっと言えましたね。デージーの花、本当は欲しかったのでは?」

 ミランダ様の鋭い言葉に、私はクレア様のふわふわの頭を撫でながら苦笑をもらす。
 欲しかった。その花を貰う権利があるならば。それは言をたない素直な気持ちだが、その一方で欲しくはない、と思う自分も確かにいた。

(不思議ね)

 恋は不思議である。終着点なんてないように見える感情だが、ある諦観に迷い込んでしまえばあっと言う間にそこまで辿り着けてしまう。

「殿下とはきっと素敵な夫婦になれるって思っていたわ」
「ジョージアナ様……」
「でも、夫婦って色々な形があると思わなくて? なにも夫婦の間にあるのは恋愛感情だけではないわ。それに、私が過干渉をやめたことで殿下もきっと安堵なさっているでしょう」
「それはどうでしょう……」

 ぽつりと、何事かを呟いたクレア様。
 私はよく聞こえなかったので聞き返したが、彼女は柔らかく微笑むと「いいえ、なんでもありませんわ!」と言ってはぐらかすのだった。


   ◆ ◆ ◆


 デージーの香が充満する執務室は心地よく、どこか切ない。

(買うつもりなんてなかったんだけどな)

 気が付いた時には、店にある全てのデージーを買い占めていた。女店員の輝く目と溌剌はつらつとした声、そして側近エドワードの「こいつ本気か」という視線を思い出し、はあっとため息をもらした。
 陶器の花瓶にデージーを活けながら、ジョージアナならどのようにこの花を可愛がったのだろうかと、どうしようもないことを考えた。
 エドワードも、ある程度の事情を知る学友たちも、触らぬ神に祟りなしとばかりになにも言ってこないが、ジョージアナは明らかに僕との関係を断とうとしている。
 いつもなら、帰宅する時も。昼休みも。休日も。
「一緒にお茶をしましょう」「お時間があれば、一緒に勉強しませんか?」と声をかけてくる。
 だが最近はそういった類の誘いは一切なく、それどころかジョージアナが他の令息と親しくしているところを目撃する、ということもあった。
 側近がすぐさま「あの令息は伯爵令嬢ミランダの婚約者です。ちなみに、伯爵令嬢もジョージアナ公女のお隣にいらっしゃいます」と誤解を解いてくれたが、胸が押しつぶされそうな痛みは消えてくれなかった。

(僕にこんな苦痛を味わう義務なんてないだろう)

 そう思うが、僕には最近見せてくれないあの優美な笑顔をどこぞの令息には見せているのか、と考えるだけで、吐き気を催す痛みが心臓を駆け巡りとても仕事が手につかない日もあった。

(そういえば)

 僕は一度だって、私的な場で他の男と二人きりで話しているジョージアナを見たことがないと、ふと思い出す。

「ジョージアナの配慮優しさだったのかな」

 誰もいない部屋で小さくそう呟きながら、メイドが淹れてくれた紅茶を口に含んだ。ジョージアナが美味しいからと言って僕にくれた茶葉を使ったと聞いたのだが、冷えているせいか、もらった当初は甘くて美味だと思った紅茶が、今はとても苦く渋みのある紅茶に思えた。


   ◇ ◇ ◇


「殿下! こちらにいらしたのですね、ああ、会いたくてたまりませんでしたわ!」

 友達と仲良く話しながら食堂に向かっていくジョージアナを、教室の窓からぼんやり眺めていると、とある令嬢が僕の机の前にある椅子に堂々と座った。
 いつもならば無邪気だな、元気だな、と思うその行動。
 だが、僕はその令嬢のことを「はしたない」と思った。そして、そんな感想を抱いた自分に驚きを隠せなかった。

(今、誰と比べて……)

 愕然がくぜんとして片手で口を覆っていると、その令嬢は不貞腐れたように唇を尖らせて僕をなじる。

「んもう殿下ー。最近、全然相手をしてくださらないですね。私、寂しいですわ」
「色々忙しくてね」
「公女様のことでしょう? 喧嘩なさったってもっぱらの噂ですよう」
「喧嘩か」

 僕は頭の後ろをかきながら、それならどれほど良かっただろう、と思った。
 喧嘩なら、謝れば済む話だ。喧嘩なら、喧嘩なら……

(でも、そうじゃない)

 僕は再び窓からジョージアナの姿を見る。先程よりも遠くなったその姿は他の生徒たちがいるのにもかかわらず、一瞬で見つけることができた。

「宣言、いつ終わるのだろう」

 最初はその宣言を聞いた時、正直有り難いと思った。
 ジョージアナの愛情は深く温かい。まるで真綿で包み込まれるような安心感もあり、心地が良いのは確かである。だが、女性といるところを見つけると怒ってくる。婚約者なのだから当然と言われたらそれまでだが、あくまで僕たちは国にとって都合の良い駒でしかない。なのに、何故それほど苦しそうな表情で僕を怒るのかが分からなかった。
 したがって、それがなくなるのは嬉しかった。解放されたとさえ思った。

(でも)

 何故だろうか。今は呆れたように僕をとがめるジョージアナが、とてつもなく恋しく感じられた。


   ◆ ◆ ◆


いいのですか? 一か月近く、殿下の宮へと行っておりませんが」

 侍女の質問に私は頷いた。

「ええ、今日も家でゆっくりするわ」

 私は酸味と苦味があるもん茶を飲みながら、今頃殿下は女性遊びでもなさっているのか、それとも公務に精を出しているのか、どちらなのだろうかと思いを馳せる。
 いつもならば、皇宮で行われる妃教育の際には必ず殿下が住まう宮へと足を運んでいた。妃教育がなくても、ご多忙を極めていらっしゃる殿下に気に入った茶葉とお菓子を持って会いに行く日も少なくはなかった。畢竟ひっきょうするに、殿下に会えればそれだけで満足だったのである。
 しかし、私は宣言以降殿下に自ら会いに行くことは一切やめた。
 妃教育も修了したので、宮中に用もない。
 お母様はこのことについて嘆いておられたが、別に妃にならないと申し上げたわけでもないので放っておいてほしいものである。苦痛にもだえるのも、屈辱的な思いを味わうのも、お母様ではなく私なのだ。
 婚約者に尽くすか尽くさないか、その決定権ぐらい当事者である私にあっていいだろう。

「お母様のお気持ちも分かるけれど」

 ――私だって、愛されたいの。
 そんなことを考えながら長椅子に座り本を読んでいると、私の侍女たちが慌ただしく部屋に入ってきた。
 普段は冷静沈着としており、並大抵のことでは感情を露わにしない子たちなのだが、珍しいこともあるものである。
 そう思ったのも束の間、侍女の言葉に私は驚愕きょうがくした。

「で、殿下が! 皇太子殿下がいらっしゃいました! お嬢様にお会いしたいと!」


   ◇ ◇ ◇


「……お待たせいたしました、殿下」

 侍女総勢五人がかりで準備してもらったからか、それほど時間はかからなかった。とはいえ、客人は婚約者である皇太子殿下である。そんなお方を長くお待たせしてしまった、という罪悪感が私の脳内を支配していた。
 そんな私の気持ちを悟ってか、殿下は苦笑を浮かべた。

「いや、なんの予告もなく来たのは僕の落ち度だから。すまない。それよりも、急ごしらえだったのにその衣装とても似合っているね」
「お褒めに与り光栄です」

 私が着ている衣装は自分で選んで購入したもので、己の瞳の色と同じ薄緑色を基調とした衣装である。だから似合っているように見えるのだろう。
 殿下は熱いなにかを瞳の中に棲まわせながら、やや掠れた色気ある甘い声で囁くように言う。

「今度は、僕が贈った衣装を着てほしいな」
「遠慮いたしますわ。他の令嬢と被ってしまったら恥ずかしいですもの」

 考える時間も作らずきっぱり断ると、彼の美麗なご尊顔そんがんから血の気が引いていく。

「そんなこと有り得ない」
「あら、そうでしたか」

 今となってはもはやどうでもいいことである。殿下が他の令嬢に花を渡そうが、綺麗な衣装を渡そうが、私はただの婚約者に過ぎないのだから。

(それに)

 私は殿下からの贈りものをもう受け取らないと決めた。受け取ったら、再び筆舌ひつぜつに尽くし難い苦痛を味わうのは目に見えている。貰えば、素直に喜びきっと期待してしまう。
 灼熱しゃくねつの炎で心臓をあぶられるような、辛酸しんさんを舐める日々などもう送りたくはない――
 私は拳をぐっと握って、打ちひしがれたような表情をする殿下を見ながらおもむろに問うた。

「なんの予告もなく屋敷を訪れることが無作法であるとご存知でしょう。ご来訪の理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」


   ◆ ◆ ◆


 久しぶりに見たジョージアナの綺羅きらを飾った姿は、得も言われぬ程美しく犯し難い威厳をかもし出していた。
 特に、彼女の瞳の色に合わせて作られたようなすい色の衣装は似合っている。瞳と同じ色であることがより一層神秘さを深めているように感じるのは気のせいだろうか。
 だからこそ衣装を贈ろうと言った時に、にべもなく断られて絶望した。

(本当だよ、ジョージアナ)

 僕は一度だって、ジョージアナ以外の女性に贈りものをしたことがない。

「なんの予告もなく屋敷を訪れることが無作法であるとご存知でしょう。ご来訪の理由をお伺いしてもよろしいでしょうか」

 ぐっと奥歯を噛みしめていると、冷然とした態度でジョージアナが聞いてくる。そこにあからさまな非難や怒りの色はないものの、どこかとがめるような口調ではあった。

(前までだったらきっと、苦笑いしながらも許してくれていただろうな)

 そんなことを思いながら、重い口を開いた。

「……公爵に聞いた。今年の夏は公爵領で過ごすと。今まで一緒に離宮で過ごしていたじゃないか。どうしてか、わけを聞いてもいいかい?」

 学園には約二か月ほどの夏休みがある。その期間、毎年のように僕とジョージアナは皇族が管理する離宮で過ごしていたのだが、今年は彼女は公爵家が管理する別邸で過ごすと言う。

(もう、僕と過ごすのがいやになったの)

 そんなことを考えていると、彼女はゆっくり顔をあげて僕を見て微笑んだ。
 少し切なそうな艶やかな微笑であった。


   ◇ ◇ ◇


 ――遡ること数日前。
 僕はいつものように、平静を装って仕事に没頭していた。
 最近、ジョージアナがそっけない。宣言通りとはいえど、いくらなんでもそっけなさすぎる。
 そのせいで仕事が手につかず今は、父親である陛下に「皇太子であるという自覚を持て」とたしなめられたことで、無理やりジョージアナを脳内から追い出し、公務を行っている状態なのだ。

(ジョージアナ……)

 彼女のことを考えながら廊下を歩いていると、偶然クロローム公爵ジョージアナの父に呼び止められた。
 こんな時に呼び止められるなんて……と、戦々恐々としていたらやはり、案の定悪い知らせだった。

「殿下。今年の夏、娘は我が領地の別邸で過ごすようです。おそれ多くも娘が毎夏離宮に殿下の同伴者として伺っていたので、お伝えに参りました」
「……」

 なんとなく、分かっていた。
 皇族や貴族は蒸し暑い夏を快適に過ごすため、領地に別邸を置いて夏はそこで過ごす。勿論、公爵領にも立派な別邸があるが、ジョージアナは毎年僕と離宮で夏を過ごしていた。
 他ならぬ彼女が毎年希望していたのである。

(でも……)

 今年は誘いがなかった。
 待った。いつものように待っていた。待って待って待って……
 それでも、来なかった。
 その上で公爵のこの言葉。

(それが意味するものって……)

 ぞっとするなにかが背筋を駆け巡り、まるで首に短剣を突きつけられているような錯覚に陥った。足元がぐらぐら揺れ、視界が歪み、呼吸が上手くできない。
 ――「殿下のことを愛していました。けれどそれをやめます」
 ふと、あの時のジョージアナの覚悟や決意が込められた言葉が、脳内に嘲笑うように響き、僕は絶望の底に落ちたような心地がした。

「私は」

 絶望を味わいながら茫然自失していると、公爵がさいし難い男を見る目で僕を見ながら言った。

「立場上、娘の願いばかりを聞くわけには参りません。帝国の今後を思うなら、親のひい目を差し引いても、娘ほど皇后に相応しい人はいないでしょう。ですから、娘は殿下と結婚させます。このことに変わりはありません」

 しかし、と続ける。

「娘が嫁ぐのは国であって、殿下ご自身ではありません。意味はお分かりでしょう」
「……!」

 それは即ち、僕の地位と結婚させるのであって僕自身と結婚させるわけではない、ということである。

(僕が皇太子という身分でなければ)

 ジョージアナは僕の妻にはならない、ということと同義であった。

(ジョージアナが、僕とは違う男と……?)

 想像しただけで心臓を無遠慮に握られたような痛みが走り、視界が暗転しそうだ。
 そんなみっともない僕を公爵はなんの感慨かんがいもこもらない目で一瞥いちべつすると、一礼して去っていった。
 ……その日の夜、僕は子どもの頃の夢を見た。
 無邪気で幼いジョージアナと、同じく幼い自分。登場人物はこの二人だけで、果てしない草原を二人でひたすら走り回る、という特に意味のない夢だった。
 だが朝になって起きてみると、自分の頬には涙が流れていて、その涙に一驚いっきょうきっした。
 そして、あの夢がなにを表していたのかに気づき、口から乾いた笑い声が勝手にもれた。

「最悪だ……」

 あの夢は、僕とジョージアナの平穏な日々を、目覚めた時の涙はそれが永遠に失われたことを示していたのだ。

「失ってから気づくなんて」

 ジョージアナの笑顔、関心、静寂せいじゃくを漂わせる森のようなあいに満ちた瞳。それと他ならぬ、ジョージアナの美しく高潔な心そのもの。
 それと引き換えに得たものは、虚しさと終わりの見えない暗闇のような後悔のみ。
 天使を見失い、神の手で奈落の底に落とされた気分だった。

(愚かなことだ)

 ジョージアナが僕を見放す、なんて考えたことがなかった。彼女の愛情はどう見ても薄っぺらいものではなかったからだ。
 その傲慢ごうまんさが緩く、だが確かに己の首を絞めていたのである。


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