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 俺が目を覚ましたのは、同日の深夜だった。布団を撥ね除けながら起きると、ソファの空きスペースに座ったまま眠りこけている家主がいた。

 翌日になったら出て行こうと思っていたのだが、礼もせずに出て行くのか、と家事を任されることになった。食事をする度にそう言われ、恩返しの為にせいいっぱい家事をした。

 そうやっていると、数日が経ってしまった。

 流石にもう出て行くべきだろう、と思いはじめた一週間後。

 リビングで海外古典の名著を借り読書していると、晴雨は住所を書き付けた紙を手渡してくる。そして、すとん、と隣に腰を下ろした。

「お金がなくなった理由、ギャンブルだったよね。ここの医者、知り合いだから、いちど診察を受けてみない?」

「え?」

「精神だけじゃなくて、身体的な事が起因していることもあるから。できたら一度、調べてみてほしくて」

 診察、とは考えたこともなかった。俺は呆然と住所の書かれた紙を受け取る。

 それと、と彼は俺の所持品のリュックを指差す。

「携帯電話がないと不便だから、それも。チャージ式で契約し直そうか」

「あの。なんで……」

「一週間、一緒に暮らして確信したんだけど。和泉さん、『狐』だよね?」

 びく、と指先が跳ねた。指の間から、住所の書かれた紙が落ちる。

 俺の反応を見て、彼の予想は確信に変わったらしい。

 落ちた紙を拾い上げて机に載せ、唇を戦慄かせている俺を平然と見る。薄い色の瞳は、全く揺れてはいなかった。

「僕、収集品が多いって言ったでしょう。その中に、人に化ける狐の事が載った古書があってね。本当に詳しく書かれていたんだ。狐の魂を持つ人の話」

「……なん、で。それが俺だって」

「僕、眼がいいって話もしたよね。人じゃないものが視えるんだ。出会ったときから和泉さんの後ろに狐がちらちらしてたんだけど、一緒に暮らしていたらはっきり視えるようになった。狐の魂を持ち、人と狐の姿を持つ一族────だよね?」

 にっこり、と念押しされてしまえば、がくりと肩を落とすしかない。

 きらりと光る瞳は、一つの事柄を要求していた。こくん、と唾を飲む。

 しゅる、と輪郭を解き、魂へと転じて身体を作り直す。ぱさり、ぱさり、と服の落ちた下、晴雨の視線の先には一匹の狐が座っている筈だ。

 黒色の混じった耳と脚。黄色の毛、と、白の毛、は上下に分かたれている。狐、と言われれば真っ先に思い浮かべるであろう典型の、俺の狐としての姿だ。

 そろり、と腕が伸びてくる。指が鼻先に寄せられた。すん、と匂いを確認すると、頭へと掌が伸ばされた。ゆったりと撫でられる。

「想像していたよりずっと、かわいこちゃんだ」

『うるさいんだよ』

 頭から背、そして胸元の毛を撫でようとする手を大人しく受け入れた。

 動物に化けている間は狐としての感覚に切り替わる。だから恥ずかしさは薄いのだが、狐としてじっくりと撫でられるのは、子どものころ以来のことだ。

 懐かしい感覚に、目を閉じてソファに転がる。首筋から大きな掌が腹に下り、わしわしと撫でた。気持ちがいい。

『あんたは、動物の魂がある奴が分かるのか?』

「視える時だけはね。……それで、僕。昔から君たちみたいな存在の生態に興味があったんだ」

『はぁ……』

「特に、化ける仕組みとか、身体の構造とかね。だから、こういうのはどうかな? 君が家に滞在して僕に調べられてくれるなら、その間、生活費はこちらで持つよ」

 こくん、と今度は狐の構造の喉が鳴った。

 用意して貰ったふかふかの布団、着心地のいい服、美味しい食事に広い風呂。それに加えて、ギャンブルへの度の過ぎた好奇心を治すことにも協力してくれると言う。

 こんなに美味い話があっていいのか。そう自問して、この家の豊かさを思い浮かべる。服に美術品、本に食器。どれを取っても、収入に余裕が無ければ持てない品々ばかりだった。

 狐の魂を持つ一族を調べるためだけに生活費を負担する、その酔狂を実行できるほど、この男は金を持っているように見える。

『……本当に、いいのか』

「まあ、一週間暮らしてみたけど。君、家を失ったことで痛い目を見た所為か、今のところ、しっかり倹約をする意識があるじゃない? お使いを頼んでも、しっかり一番安い品を買ってくるし」

 一番安いみりんを買ってきたつもりが、みりん風調味料だった事を指摘されたのは記憶に新しい。それでも、晴雨は怒らずに金額を比べた事を褒めてくれた。

『でも、またギャンブルをするかもしれない』

「うん。君はそれを治さなきゃ、また路頭に迷うことになるよ。だから僕がしばらく金銭は管理する。住むところまで無くしたの、トラウマだったんでしょう? お金を使う事を怖がってるもんね」

『………………』

 言われた通り、おつかいに行くにしても、決まった金銭だけを手渡される方が気が楽だった。

 生活費について気にすることなく暮らせて、時おり彼の調査とやらに付き合いつつ浪費癖を治す。完全に治らなくてもいいのだ。彼が飽きるまで、衣食住が保証されるだけでも有り難い。

『その、調査、っていうのは……何を……?』

「普通に僕と暮らして、たまに質問に答えたり触らせてくれればいいよ」

 日々の生活に、負担になるような内容でもなかった。

 家事をして暮らす生活は、今までよりも心がなだらかだ。新しい家事を覚え、この家で暮らしやすくするために働く。晴雨は怒らずに会話をしてくれる。褒めてもくれる。

 だから、ひどく。彼の提案が魅力的に映ってしまった。

『しばらく……、世話になってもいいか……?』

 彼は俺を抱き上げると、膝の上に乗せた。前脚の裏をまじまじと見つめる。俺の視線に気付くと、ふわりと笑った。

「よかった。和泉さんが家事を手伝ってくれるの、助かるなって思ってたんだ」

 きっと一人で何でもこなしてきた癖に、そうやって優しい言葉を吐く。言葉の余韻を味わっていると、顔を両側からもみくちゃにされた。

 やめろ、と前脚で指を剥がす。

 晴雨はつまらなさそうに手を離すと、思い出したように指を伸ばす。太い指先が、尻尾に絡み付いた。

『な、ッ────!』

 ぞわぞわとした感覚が背筋を走る。ぴょんと跳び上がり、服を部屋の外へと咥えて走り去る。部屋の外で人に変化し、手早く服を纏った。

 どかどかと音を立てながらリビングへ戻る。

「尻尾は触るな……!」

「そうなんだ? ごめんね」

 悪気なさそうに謝られてしまえば、怒気も萎れるというものだ。

「分かったならいい……」

「じゃあ、もう一回あの姿で触らせてくれる?」

「尻尾は駄目だからな」

 貸し与えられているトレーナーを脱ぎ、また狐へと転じる。服を咥えて一カ所に寄せると、そのままソファへ飛び乗った。

 ぽんぽんと太腿の上を叩いて招かれ、指示されるがままによじ登る。

「座って」

 言われるがまま、腰を下ろした。

「すごいなぁ。狐になっても知能は人くらいあるんだ」

『言われてみれば、……そうだな』

 狐の姿が持っているのは狐の頭に納まる量の脳であるはずで、人としての大きな脳をフルで使ったような会話ができているのは、言われてみれば不思議だ。

 うーん、と首を傾げると、喉の下をこしょこしょとやられた。やめろ、と前脚ではたき落とす。

「声? も変な感じなんだよね。耳を塞いでみるから喋ってみて」

 目の前で、晴雨が両耳を塞いだ。

『あかさたな』

「はまやらわ。やっぱり、はっきりと聞こえる。これ、空気を震わせる音じゃないんだな……」

 感動したように俺の両側を挟み、またもや、もみくちゃにする。彼が全力で撫でる度に、毛皮がぼさぼさになる。

 舌で舐めて整えていると、晴雨は俺の姿をまじまじと見つめた。

「その、さ。人として舌に毛が触れるのって、あんまり好ましくないと感じると思うんだけど、和泉さんはそうでもない?」

『そうでもある。けど、毛がぼさぼさのままでいる気持ち悪さが勝ってる』

 言い捨てて、またぺろぺろと毛を舐めて整えた。

 毛が乱れたら、こうやって直す、という意識の方が先に来るのだ。人としての意識が舌に毛が付くことを嫌がっても、狐としての反射に近い行動が先行する。

 ふぅん、と晴雨はつぶやき、俺の毛並みが整うまで待った。

「本体が魂で形作られているのかもね」

『…………?』

 ころり、と横になると、また骨張った指先が伸びてきた。前脚を捉え、裏へと触れる。指の先端で軽く押され、脚で押し返した。

 晴雨が掌を広げてこちらに向ける。ぱし、と前脚ではたいた。

「かわいいなあ……。和泉さん、何か食べたいものある?」

『油揚げと鶏肉』

「それは、和泉さんが好きなもの? 狐が好きなもの?」

『動物としての狐が好きかは知らない。けど、俺達の魂は神様から分け与えられたものだから、人は、狐が仕える神様に油揚げを供えるだろ? そっちに引っ張られる。鶏肉は狐由来かな』

「神話や言い伝え、伝承に好みが引き摺られる部分があるってこと?」

『たぶん、そう』

 へえ、と言いつつ、口端を指でむにむにとやられる。牙を観察され、仕方なく口をかぱりと開けた。

 牙の形状と位置を確認した晴雨は、小さな牙を指先で撫でる。

「やっぱり、魂が本体、ってことかな?」

『牙に触るな。噛むぞ』

「噛まれたら病気になったりする?」

『ならない』

 じゃあ、と掌を差し出してくる男を呆れた目で見つめ、噛み応えのある掌を甘噛みする。病気にならない、と俺は知ってはいるが、そう簡単に信じるべきではないはずだ。

 彼にとって痛くない程度に噛んで牙の痒みを取り、しがみついていた腕から離れた。

「何だろう……。調査対象の筈なのに、ずっと遊んでいたくなるな」

『真面目に調べろ』

 前脚ではたく度、彼は相好を崩す。この姿は、彼にとって庇護欲をかき立てるものであるらしい。

 狐の姿だと要求が通りやすいことに気付いた俺は、叶えて欲しい望みが出来る度に狐に転じるようになった。






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