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黒夜叉動く
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「月見酒といこうか」
どかっと腰を下ろすと、男は、既に大徳利が二、三転がっているのはお構いなしに、近くにいる男達へ酒を要求する。
「日暮れにはまだ早いですぜ」
「なあに、構うもんか。俺は風流人なんだ、日の入りを眺めながらしんみり飲むのさ」
たしなめる舎弟達を遮り、およそ一升ほどの酒を、あろうことか大徳利ごとぐいっとあおる。
「旨い!三夏村の米から作った酒だ。初物だぞ」
「その初物の大事な戦利品を一人でしこたま飲んでるんだから、全くたちが悪い」
「ありゃ、絶対俺たちに寄越す気ないな」
舎弟達が小さく漏らした文句に、耳聡く反応する。
「おいおいおい、このシン太様がそんなみみっちい男だとでも言うのか」
「とんでもねえ!有難くご相伴にあずかりたいもんで」
「おう、飲め飲め」
集落から離れた山の奥、自然とできたのかはたまた誰かが作ったのか、一つの洞窟がある。入り口は男二人が並んで入れるほどだが、先へ進むと十人以上寝転がっても余裕のある空間が広がっている。その一番奥は、天井となる岩肌にいくつか亀裂が入っており、そこから光が差し込むことで明かりの役割を果たしている。入り口は茂みに隠れて見つけづらく、中の音は外へ漏れにくい。それをいいことに、男たちは格好の宴会場として昼夜酒を飲み交わしている。
一番大きな裂け目の真下に鎮座するのは、先ほど大徳利をあおっていた男だ。筋骨隆々で強者の風格を漂わせているが、嬉々として酒を飲む表情には二十歳そこらの若者らしい面影が残っている。胡坐をかいて尊大にふるまっているが、襤褸のような煤けた青色の衣服を着ている。しかしその上から上等な毛皮を羽織っているのだから、なんともちぐはぐな格好だ。山で鍛えたであろう太く逞しい脚を襤褸布からのぞかせた男は、天窓代わりの亀裂を見上げ、悦に浸っている。
「お頭、伝書が届きましたぜ」
舎弟の一人が駆け込んできた。飛燕雀と呼ばれる、伝書を運ぶ小柄な鳥を両手で抱えていた。
「珍しいな」
シン太は、飛燕雀ごと受け取るとその足に結ばれた文を開く。なんだなんだと集まってきた舎弟達は、さっきまでの騒ぎはどこへやら、お頭が文を読む姿をじっと見守る。
文に目を落とすことしばし、やがて顔をあげて男はにやっと笑みを漏らす。
「野郎ども、<御勤め>の時だ」
鍛錬場に、男たちの割れ鐘をつくような声が響く。大きな輪になって押し合いへし合い騒ぎ立てている男たち、その中心には竹刀を持った男が二人向かい合っている。今日は半月に一度の御前試合。日ごろの鍛錬の成果を確かめるため、己の力量を誇示するため、何より出世の機会を掴むため、誰もが気合を入れて臨んでいる。
ユキもご多分に漏れず、気合十分だ。誰よりも修練を積んでいるという自負を抱き、手まめだらけの掌を見つめながら、静かな闘気を秘めて出番を待っている。
掟は単純明快、郷守も刀守も入り乱れての勝ち抜き戦だ。緒戦は郷守同士・刀守同士でぶつかるが、勝ち上がっていくにつれて混合されていく。当然ながら階級上位の刀守の方が腕が立つ。徐々に郷守は淘汰されていくのだが、数少ない郷守がその厚い壁を突破していく様が見どころの一つでもある。
ユキが最初に戦ったのは弥助だった。
「……久しぶりだな、ユキ」
「おう、久しぶり」
お互い少し気まずそうに、剣を構える。審判役の上役は双方の構えを認めると、掛け声と共に右手を大きく振り下ろす。
「それでは始め!」
合図と同時に踏み出すユキ。以前は、ユキの倍はあろうかという弥助の巨躯に圧倒されていたものだが、今のユキには隙だらけにしか見えなかった。小回りの利く特性を活かし、持ち前の素早さと修行で磨いた剣技によって圧勝だった。弥助は自分の身に何が起こったのかわからない風で地面に腰をつき、いつの間にか小さな相手に倒されていたことに驚いていた。次戦は、あまり会話をしたことのない郷守だった。三戦目も同じく郷守。日ごろ剣役の仁親に修行をつけてもらっているユキにとって、もはや郷守の中に敵はいなかった。四戦目にしてようやく刀守とぶつかったが、大した手ごたえなく勝利した。
郷守が、それも年端のいかぬ少年が刀守を上回った。試合を取り囲んでいた男たちが低く大きく唸り、それはやがて喝采となった。
「おい、あいつは何者だ!」
「まだ子供じゃないか」
「どこかで見覚えがあるぞ……そうだ、郷巡りの時にいた奴だ!」
「確かあいつ、裏切り者の平七とつるんでいたユキじゃないか」
「そんなことはどうだっていい!刀守を打ち負かしたんだ、たいした気概の持ち主だ」
会場はますます熱気を帯びる。思わぬ番狂わせに沸き立つ外野をよそに、ユキは自分でも意外なほど落ち着いていた。勿論、勝ち上がった嬉しさはある。刀守を破った時は確かに興奮した。しかし心のどこかで、この程度は当たり前だ、勝って当然なんだと、冷静に考えてもいた。
ユキは順調に勝ち上がり、次が最終試合。今まさに繰り広げられている試合の勝者が、ユキの対戦相手となる。群れる男たちの向こう、竹刀を打ち合う二人の姿がちらちらと見える。流石ここまで勝ち抜いただけあって、両者とも相当な手練れのようだ。
「――そこまで!」
決着がついたようで、わあっと男たちが歓声を上げる。両者一礼の後、敗者が場を後にする。入れ替わるようにユキが戦いの場へ足を踏み込む。目の前に立つ剣豪は、以前剣の指導をしてくれたあの男だ。
「お前と剣を交えるのは久方ぶりだな」
「由さん!」
強くなったなと、優しい笑みで声をかける由ノ進。その言葉が、何よりも嬉しかった。
「始め!」
合図を皮切りに竹刀を振り上げる。
――久しぶりに顔を見られて嬉しい。話し相手がいなくて寂しかった。話したいことがたくさんある。昔と違って言えないこともたくさんあるけれど――。それらの思いを全て太刀に込める。それに応えるように、由ノ進も打ち込んでくる。言葉は交わさなくとも、お互いの考えがわかるようだった。竹刀を打ち合うことが、二人の会話になった。
いつか由ノ進が教えてくれたように、間合いを一気に詰めて相手の懐に飛び込むユキ。その動き読んでいたのか、すかさず薙ぎ払うような攻撃に転じる由ノ進。ユキはすんでのところで攻撃をかわすと、地を這うように再び相手に迫る。斜に構えた由ノ進が袈裟掛けで斬り込み、二人の獲物がぶつかる。つかのま睨みあった後、ぐっと押し合い一旦間合いを離れる。
やはり強い。手ごたえのある勝負に、そして双刀と名声高い由ノ進と対等に渡り合っているこの現実に、ユキは興奮を隠しきれないでいた。額から流れる汗が首筋をつたい、地面に落ちる。周りは静かだった。二人を取り囲む観客も、息をのんで勝負の行く末を見守っていた。
勝負は一瞬だった。正眼に構えた状態から両者同時に踏み出し攻撃を仕掛ける。
僅かの差だった。ユキの速さが効いた。
胴を打たれた由ノ進が膝をつくと、審判役が止めの合図を出した。
夕暮れ時、奥屋敷の庭先では、今日もユキと仁親の打ち合いが繰り広げられている。その傍らでは花里姫がにこにこしながら二人を見守っている。
必死の形相で打ちかかるユキに対し、相変わらず涼しい顔でユキの刀を受ける仁親。あの打ちのめされた夜からユキは何倍も努力しているが、未だに一本も取れずにいる。とはいえ毎日稽古をしていれば進歩はするもので、仁親の獲物は竹刀から木刀に変わっていた。木刀同士がぶつかる重み、その力強さを両の手で感じながら、ユキは何度も立ち向かっていた。
「もう一本、お願いします」
言いつけを守り、転がされても倒されても刀を離さず立ち上がる。何度目かの転倒の後、不意に横から花里姫が口をはさむ。
「毎日頑張っているわね、ユキ」
右耳に届いた可憐な声に、顔が赤くなるユキ。その隙を見逃さず、仁親が脇腹に一撃を入れる。
「……集中しろ」
はい、と情けなく返事をするユキを見て、花里姫がけらけらと笑う。御前試合で優勝したとはいえ、仁親にはまだ勝てそうにない。膝立ちで歯を食いしばり、意気込んで構える。
「次こそは、一本取ってみせます!」
「次とはいつかしら……」
はっとして姫君の方を振りむく。誰に言うともなくぽつりと呟いた言葉のようだったが、口元に笑みを浮かべながらも、その蒼い瞳には底の見えない感情があるように思えた。見てはいけないものを見てしまったと思った。常に命を脅かされている恐怖、周りに信用できる人間が少ない不安、何もできず奥屋敷で過ごすだけの焦燥。いつまでも頼りにならないままでいる、子供剣士への呆れもあるのかもしれない。郷の象徴として大切にされる一方で、何をしたわけでもなく命を狙われる宿命。この世に生まれ落ちた時から“郷の花”という役目を背負わされた人間の悲しみを垣間見たような気がして、ユキは絶句してしまった。
「これはこれは姫様、面白いものを見てらっしゃいますな」
沈んだ空気を一瞬で吹き飛ばす快活な声が、渡殿から聞こえてきた。声の主はユキもよく知るあの男だ。
「お久しゅうございます。花里姫様におかれましては、お会いする度、益々美しくなられますな」
「あら東吾、珍しいわね」
東吾の軽口に、慣れている様子で姫が応える。殿の傍に仕えるはずの風読みが何故わざわざ奥屋敷まで訪ねてきたのかと、姫君が朗らかに問いかける。
「明日、風森村へ参ります。数日間“風見ノ塔”に籠るので、その前にご挨拶をと思いまして」
「そう。大変だろうけれど、精一杯務めて父上を助けて頂戴ね」
「もったいなき御言葉、有難く」
両の袖を胸の前で合わせ一礼し、そっとユキに目配せする。その意図を図りかねていると、今度は仁親に向かってにやりと笑う。
「随分と熱心な指導のようだな」
「ああ。ちょうど夕餉の頃合いだ、お前も下がってよいぞ」
にべもなく答える仁親に促され、ユキは東吾と一緒に奥屋敷を後にする。普段は生垣沿いに歩くところを、こちらの方が近道だからという東吾の案で、こっそり庭園を横切るように進んでいく。なあに、風読みを咎める奴なんておらんだろう、とお気楽な調子で言うものだから、そういうものかと黙ってついていく。手入れの行き届いた芝に伸びる二人分の影。ユキは、悪戯な笑みを浮かべる東吾の隣で歩きながら、この男が来る直前の花里姫の表情が頭から離れないでいた。
「くじけるなよ」
ハッとして顔をあげると、東吾は目を細めてこちらを見下ろしていた。ユキの不安を見透かすように言葉を続ける。
「姫様の眼に臆していたようだったが」
さすが風読み、あの一瞬の空気から何かを悟っていたようだ。可憐な姫君の、見惚れるほどに美しい蒼い瞳を、何故か恐ろしく感じてしまったこと。姫君にも仁親にも、そろそろ見限られるかもしれないと、正直に不安を口にする。
「先日の御前試合を見ていたぞ。随分強くなったじゃあないか。そりゃあ剣役には到底及ばないだろうが、卑下することでもない。あいつが見込んだんだ、お前も強くなるさ」
「見込まれて……なのかはわかりません。たまたま味方にできる人間がおいらだった。それが弱いから仕方なく稽古をつけてくれているのかも……」
「何を言う!間違いなく味方であることが重要なのだ」
自信なさげに言うユキに、思わず声を荒げる東吾。存外大きな声を出してしまったことに気が付くと、そっと声をひそめて話を続ける。
「お前は覚えていないかもしれないが、水車の刑の最中にあいつが駆け込んできて言ったのだ。『その少年は咎人に非ず、守人である』と」
仁親が当時の状況を詳しく説明したことで、ユキの疑いは晴れた。残念ながら仁親の声はユキの記憶になかったが、その後自分を担いでくれた、肩の温かさはしっかりと覚えている。
「お前は黒夜叉集団に襲われた村の生き残りだそうだな。さすれば同じ痛みを背負い、同じ者を仇としている。そして郷巡りでのお前の動き、姫御輿に襲い掛かる平七に身体を張って対抗したと聞いた。強い弱いは別として、仁親はお前のことを“姫様を守る同志”だと思っているぞ」
東吾の強い言に、ユキは不安な気持ちが和らいでいくのを感じていた。
「あれは一見してわかりづらいが、優しい男だ。優しすぎるほどに。為ろうと思えば何にでも為れたものを。……それこそ風読みになる道だってあったというに。それを、わざわざ一番険しい道を選んだのだ」
「風読みに?」
意外な話に思わず足を止めるユキ。構わず歩いていく東吾の背中を慌てて追う。
「あいつなら為れる。あいつは否定するが、素質は俺以上だと思っている。父親譲りの、風読みの才があるからな」
いわゆる天賦の才というやつだ、と自嘲気味に話を続ける。
「あいつの父親は風読みだった。そして俺の師匠でもある」
「父親が、風読み……?」
「そうだ。あいつが風使いと呼ばれるのも然もありなん、風を読んで立ち回っているのだ。常人にはできない動きだ」
ふと郷巡りの時の情景が呼び起こされた。確かに、姫神輿から飛び出した仁親が放ったのは、風を味方につけたかの如き剣技だった。無論、吹きすさぶ風の中、一瞬の出来事で碌に見えてはいなかったが。
「今の俺の地位は間違いなく俺自身の力によるものだ、とも言い切れんのだ。俺は幸運だった。何しろ、あいつが身を引いたから風読みになれたようなものだ。全く、あいつには敵わんよ」
片手で後頭部をかく東吾の声は笑っていたが、その表情は影になってよく見えない。まもなく日没という時間帯、カァと鳴く鳥たちが連なって山の方へ飛んでいく。歩いてきた方向を振り返るも、奥屋敷の姿はもう闇に溶け込んで見えない。
いつかの夕闇の中、馬上で交わした会話がよみがえる。
――おいらなんて、雪の日に生まれたからユキって名付けられたんです。こんなに温かな郷なのに、雪が降ったなんて信じられないですよね
――そうだな
あの時、仁親はどんな顔をしていただろうか。自分の父親が死んだ日に生まれたユキのことを、笑いながらその日の話をするユキを、なんと思っただろうか。
「……俺は武術のほうはからきしだ。師匠に見出されていなかったら、風森村から一歩も出ることなく生きていただろうな」
ふっと笑う東吾の声に、ユキは我に返る。いつのまにか庭園の端まで到達していた。近くの小径に入り、やがて分かれ道にぶつかる。
「あいつは姫様ひとすじだ。だから風読みでなく、姫様の為だけに生きる剣となる道を選んだ。そのお陰で俺は風読みになれたんだ、己の才の足りない分は努力しないとな」
以前、仁親が東吾のことを“万物に通じる男”と、由ノ進も“医術に秀でた博識な男”と評していた。時に殿の意向に口出しできるという風読み。運だけではない、その地位まで上り詰めた裏には計り知れない努力があるのだろう。
共に歩くのはここまで、これからユキは郷守長屋へ、東吾は本殿へ向かう。
「まだ、お前に足りないものを見つけられていないのだろう」
小さくうなずくユキに、東吾はしょうがないと助言を一つくれてやることにした。くれぐれも、俺からの入れ知恵だと悟られるなよ、と言い添えて。
風森村の北の果て。小高い丘の上に、二つの墓標。ここに眠るは、かつて夕月郷を支えた二人だ。郷を愛し、郷のために生き、その果てに命を落とした若い命。その墓前で初老の男が手を合わせている。
「ここは変わらないな」
「……シン太か」
背後から声を掛けられた男は、前を向いたまま答える。大徳利を抱えた男は、初老の男の隣に並んで手を合わせる。そして懐から小ぶりな酒器を2つ取り出すと、大徳利から酒を注いで墓前に供える。
「先日、初物の酒が手に入ったんでね」
「お二人とも、酒は嗜まなったはずだが」
にかっと歯を出して笑うシン太に、初老の男はあきれ顔で指摘する。
「ほんじゃ、俺たちで飲みましょうや」
さあさあ献杯、と杯の一つを差し出す。男二人はいける口のようで、ぐびぐびっと杯を空にしてはお互いの酒器に注ぎ、飲んでは注ぎ、を繰り返す。
「相変わらず飲んだくれてるのか」
「ここんところはそうでもねえです。先達て三夏村でひでえ水害が起きて、その始末で忙しくしてたんで。堤防を立て直したり、駄目になった田畑の代わりに新しく開墾したりと色々手伝ってやったのさ。この酒はその時の礼で貰ったもんです。久方ぶりに良い酒が入ったんで、昨夜は大宴会と洒落込んでみたというわけで」
「見た目は破落戸のくせして、立派に普請屋をやってるんだな」
初老の男が褒めると、シン太は照れくさそうにはにかんだ。
「師範のお陰で丈夫に育ったんだ。それに、郷の役に立つことをしてねえと、いつかあいつに合わせる顔がなくなっちまう」
そう言って笑う顔は、数十人の舎弟を抱えているとは思えない程穏やかだ。血気盛んな男たちを統べる頭領も、師範と仰ぐ男の前では違う一面を見せる。その弟子の表情の中に、男は何か言いたげな様子を見て取った。
「何かあるのか」
「あるかもしれねえって話で」
よくぞ聞いてくれましたとばかり、懐から折りたたまれた一通の手紙を取り出す。
「あいつが飛燕雀を寄越してきました」
「文にはなんと」
シン太は手紙を丁寧に開くと、初老の男にそっと差し出した。差し出された方は、何度も読み返されたとわかるほどに皺が濃くはっきりと浮かび上がっているそれを、大事そうに一文字一文字指でなぞる。その様子を横目でちらりと見てから、シン太は話を続ける。
「姫君の守りに力を貸せと。婚礼が近づいてきて、流石のあいつも焦っているんでしょう。……未だに奴らを捕らえられていないから」
「あの忌々しい集団か。今の風読みは何をしとるんだ、情けない。奴らをのさばらせおって」
初老の男は、手紙から顔をあげて憎らしそうに言い放つ。
「はは、厳しいな師範は」
小さな岩が二つだけ並んでいるばかりの墓を見つめて、シン太がぽつりと呟く。
「ここに来たら、このお二方が助けてくれるような気がして」
「そうか」
海から吹く柔らかな風が、二人の男を記憶の旅路へ連れていく。目の前の小さな墓、そこに眠る二人が生きていた頃。男たちは、仲睦まじく寄り添う一組の若い夫婦に思いを馳せていた。十数年の時を経て、シン太には淡い記憶として残っている。初老の男にとっては、癒えない傷を抱えて生きてきた年月だ。やがて風がやむと、二人の男に幻を見せていた風の魔力も消えた。
「そろそろ行きやす。黒夜叉集団に襲われた村々に向かわせた仲間が、戻ってきてると思うんで。何か掴んでいるといいんですが」
シン太はそう言いながら空の酒器を懐にしまうと、よっと手をついて立ち上がる。その顔は既に、強気な若頭の顔に戻っていた。
「急いては見えるものも見えなくなる、慎重にな」
弟子に忠告しながら、手紙を丁寧にたたみ直して返す。
シン太を見送ると、初老の男は再び墓標に向き合う。
(あなたがたの息子は、立派に務めを果たしているようですぞ)
記憶の中でいつまでも幼いままの姿を思い浮かべ、そういえばもうすぐ二十歳だったと気が付き、一人で笑う。先ほど会った若者と同じ年頃なのだから、もう自分が知っている頃の子供ではないのだとわかっていても、どうにもしっくりこない。最後に見た仁親は数えで九歳だから、声変わりもしていなかった。
ひとしきり余韻に浸った後、「また来ます」と言い残して初老の男も立ち去って行った。
――夜の仁親を見てみるがよい。
山中の走り込みを終え、いつもなら郷守長屋へまっすぐ寝に帰るところ。有難い風読みからの助言を決行せんと、今宵のユキは奥屋敷の庭に向かって歩いていた。
東吾の言っていた通り、花里姫が毎夜祈りをささげる月見台の前に剣役は立っていた。姫君はとうに眠りについている刻限、誰もいない月見台に光が淡く差し込んでいる。
ユキは気配を消してそっと近づき、木の陰に身を潜めた。やがて仁親は、腰に差した剣をするりと抜くと、静かに飛び上がった。着地と同時に軸足で回転し、両手で剣をさっと突き出す。月明かりに青白く映える着衣、月光を反射して閃く刀身。仁親の周りで遊んでいるように、風に乗って木の葉が翻る。それはユキの知っている型稽古ではなかった。まるで舞のように華麗で、それでいて力強い身のこなしだった。
向き合う相手のいない鍛錬のはずだが、目の前に敵がいるかの如き動き。近づこうものなら殺されかねない、そういう恐怖があった。射るように鋭い蒼い瞳の、その殺気を湛えた眼光が、離れた場所にいる自分を刺し貫いてしまいそうで気圧された。その美しさと恐ろしさに囚われたかように、ユキは夢中で見入っていた。
夜も更けた頃。見えない相手との死闘を終え、こちらに背を向けたまま仁親が口を開いた。
「何をしている」
(やはり、気づかれていた……!)
急に声を掛けられて焦ったユキは、木陰から身を出して頭を下げる。
「申し訳ございません!盗み見るような真似をしてしまって」
ましてや仁親相手に二度目の覗きだ。ここは下手に言い訳をしない方が良いと判断し、ユキは文字通り平身低頭して許しを請う。しばらくそのままでいたが相手が何も発声しないので、上目遣いで伺い見ながらそろそろと頭をあげる。闇の中にいる仁親の表情がよく見えず、怒っているのか不安になってきた頃、仁親がようやく口を開いた。
「東吾の入れ知恵だろう」
ぎくりと身を震わせる。流石剣役、何でもお見通しのようだ。東吾との約束がある手前、ユキは肯定も否定もできずに狼狽えているばかり。
「……少し離れようか」
それだけ言うと、仁親は先ほどまでユキがさんざん駆け回った裏山に向かって足を進めだした。ユキは慌ててその後ろを追う。
「これからお前を襲う」
「へっ!?」
山麓に着くやいなや、物騒なことを言い出す仁親。勿論修行だとわかっているが、今までの打ち込み稽古では自分が向かっていく一方で、仁親の側から仕掛けてくることがなかったため、ユキは面食らってしまった。
「俺から逃げ切って山を下りるか、俺に一撃入れるかするまで追い続ける。俺は木刀を取りに戻り、小半刻後に山に入る。行け」
相変わらずのぶっきらぼうなものの言い様で、ユキに有無を言わせず山へ向かわせる。
自然というのは不思議な力を持っていて、夜と昼では見せる顔が違う。ユキは、死にそうな思いで森を駆けた二年前の恐怖の一夜を久しぶりに思い出して、身体が震えた。
(大丈夫、大丈夫。落ち着くんだ)
腰に下げた木刀の感触を確かめ、深く息を吸って吐く。早まった鼓動が少し収まると、ユキは山中へ向かって一目散に駆け出した。
風の音が耳元を掠める。木々の間をくぐるように、行く手に伸びる枝々を避けながら山道を進むユキ。どんなに慣れ親しんだ山でも、夜になるとまるで違う生き物が棲む世界へと変わってしまう。毎晩走り回っているからといって心安くはならない。雨上がりの地面、風の中の木立、人の気配を察知した生き物たち。
斜面を駆け続ける。走りながら考えを巡らせる。脚には自信があるので、このまま逃げ切る方が一撃入れるより確率は高い。しかし相手は剣役。そう簡単に切り抜けられるはずはないとユキもわかっていた。
後ろから迫る気配は感じられない。しばらくそのまま山を駆け上る。すると突然、郷巡りで平七の隣にいた時よりも強烈な、痺れるような寒気が全身を襲った。
(――横か!)
肌が、神経が、細胞が反応した。まさに間一髪、ユキは身を屈めて前転するように衝撃をかわした。視界の端から突然現れた仁親が飛び掛かってきたのだ。冷汗が額を流れる。
振り返り、脇に差した木刀を構える。小半刻の枷があっても追いつかれたのだ。自慢の駿足をもってしても、このまま走って逃げおおせる可能性は低い。それなら、なんとか一太刀でも浴びせる方に賭けるしかない。
妖しい青光を放つ仁親の双眸が闇に浮かぶ。ユキの構えを認めるや、再び音もなく迫ってくる。
まるで複数人を同時に相手しているように、右から左から、あらゆる方向から、縦横無尽の斬撃が繰り出される。木刀から伝わる重くて鈍い衝撃を、何度も跳ね返す。時折受け止めそこなっては肩や腹を打たれ、その度に体力が削がれていく。それでもユキは倒れない。
己の息遣いと、時折踏みしめた枝の音が木霊する。ユキは頭の中で戦況を組み立てる。防戦一方、突破口はないか。次はどこからくるのか。次の攻撃はどう捌くか。次は受けきれるだろうか。次に倒れたら起き上がれるだろうか。次はどうすれば。次は、次は、次は……。
――次とはいつかしら……
夕暮れ時からずっと心にのしかかっていた言葉が、姫君の悲壮を含んだ声で再生された。その時、ユキは天啓にうたれたかの如く悟ったのだ。自分に足りないものの正体を。
(次など無いんだ……!)
両足から砂煙が立ち昇る。仁親の攻撃を払いのけ、なんとか踏みとどまる。そして自ら仕掛けんと、木刀を強く握り直し、相打ち覚悟でありったけの思いと力を込めて一撃を放つ。
二つの影が交わる。夜風に乗った雲から、ちらりと月が顔を出す。きらきらと零れる淡い月光が、両者に柔らかく降りそそぐ。
「確かに、一撃は一撃だ」
仁親の脇腹あたり、うっすらとだが衣に擦れた跡がついている。ユキの方はというと、しっかりと肩に打撃を喰らって膝をついている。とはいえ、微かだろうが何だろうが、一撃入れるという条件は達成したのだ。俄かに信じられない様子で呆然とするユキに、仁親が問う。
「……わかったのか」
こくりと頷くと、ユキは立ち上がり、今しがた掴んだ真理を口にする。
「鍛錬では、倒されても『次こそは一本取る』という気持ちでやっていました。でも、そうじゃない。実戦では次なんて無い。殺すか、殺されるかだから」
まっすぐに仁親の目を見て話すユキ。自分に足りないもの、それは守人としての確固たる気概だ。
仁親の蒼い瞳が力強く見つめ返す。
「“守る”とは、他者の命を背負うことだ。自分が倒れたらそれまで。故に次など無い」
それは、守られる側にとっても同じこと。守る者の覚悟と、守られる者の覚悟。剣役の覚悟と、郷の花の覚悟。
達観の境地に至ったユキの様子を見てとるや、仁親は衣服に着いた土埃を払いながら下山を促す。二人並んで歩く山道は、ユキの目には駆け上ってきた時よりも穏やかな世界に映った。
「お前はまだまだ強くなれる。守るべきを忘れるな」
東の空、地平線付近が朱に染まり、雲間から薄明かりが覗く。なぜだろう、ユキは生まれたての赤子のように泣きわめきたくなった。
風森村にて。山の奥深く、男たちの秘密基地ではシン太が気難しい顔で文書を検めていた。頭領として男たちを束ねるシン太は、黒夜叉集団と思しき賊に襲われた村々に舎弟達を派遣し、当時の状況を調査させていた。今手にしている文書はそれらの報告が記されている。賊が押し入った刻限、賊の人数、姿形。村人についても詳らかに調べられており、怪我をした者はどこを怪我したか、死亡した者は誰でどこに埋葬されたか、そして行方が分からない者の名前と人相書きが束となっている。どこで手に入れたのか、当時駆けつけた郷守の名簿まで集められていた。
「……妙だな」
眉間に皺を寄せ、うーんと唸る。やがて筆を執ると、何やら急いで文をしたため始めた。
朝焼けの刻、仁親は微かな風の音で目を覚ました。風を切って近づく何かの気配を察して蔀を開くと一羽の飛燕雀が飛び込んできた。慣れた手つきで足に結ばれた文をほどき、明かりを灯すことなく読み進める。
《お前から文を寄越すなんて初めてじゃあないか。もう何年も顔を合わせてないが、“風仁”の噂は何度も耳にしている。お前のことだから、姫君第一主義で達者にやっているんだろうな……(中略)……どうも黒夜叉集団は、目の届きにくい辺境の村ばかりを襲っていたようだ。調べを進めていくうちに、死体の数が合わないことに気づいた。いくつかの村で行方不明者が出ていて、その中に平七という名の男もいた。本物の平七は病気がちでろくに外出もできず、ずっと臥せっていたそうだ。家族はおらず一人住まい、てっきり賊にやられ、誰かが無縁塚にでも埋葬したと思われていたらしいが、誰もそんなことはしていないと言う。生き残った村人は自分の家族やこれからの生活で手一杯なんだ。そりゃあ、他人のことまで気が回らんだろうな。村の再建については心配無用、俺の仲間が手を貸している。あいつら村の郷守たちとすっかり意気投合したらしい、それで詳しい話を聞くことができたってわけだ。おっと、話を戻そう。黒夜叉集団の目的は活動源となる物資の略奪の他、騒ぎに乗じて身寄りのない者をこっそり始末し、その戸籍を手に入れることだったようだ。亡骸はどこかに打ち捨てられただろうが、もし発見できたら丁重に弔ってやるつもりだ。今回の調査で不明が発覚した者の名を書いておく。これらに成りすましている者がいれば、内通者に違いない。
××村 ×××
××村 ×××
××村 ×××
……(中略)……
少しはお前の力になれたか?引き続き調べを進める故、これからはこまめに文を出すぞ。お前から返事がなくてもだ。》
眼前で喋っているかのような文章に、書き手の顔が浮かぶ。懐かしさにこみあげるものを振り払い、仁親は抽斗から書簡箋を取り出すと、さらさらと返事を書き始めた。
早速、郷守と刀守たちの身元の照合が開始された。仁親は姫君のそばを離れるわけにいかず、東吾は風森村にいるため、高虎とユキが調べを行う。二人は郷守屋敷の本殿近く、書庫のある一角にいた。村の男たちは郷守として出仕する際、まず登録簿に記帳される。屋敷内に四百人ほど、外にはおよそ二千人いるとされる男たちを一人ずつ調べるには数日を要し、高虎はともかく、ユキは書庫番の男たちの訝しげな視線を浴びながら通いつめることになった。そして膨大な身元情報を洗った結果、今回シン太が知らせてきた行方不明者と同じ戸籍を持つ男が一人いた。
「……蛇川村の多喜治だな」
高虎の指揮の下、尋問が行われる。なんと男は刀守だった。ユキが郷守になって間もない頃に刀守に昇進したため直接の面識はなかったが、何度かその姿を目にしたことはあった。水車に括りつけられた多喜治は、何を問い詰めても知らぬ存ぜぬを繰り返す。殺さない程度に手加減しているが、相当苦しい刑罰であることは経験したユキにはわかる。わかるからこそ、責め苦に耐えるこの男の強靭な精神力に畏怖の念を抱かずにはいられなかった。水車が回り水中から顔を出した多喜治は、高虎の横に立つユキの怖気に似た感情に気づいたのか、浅い呼吸の狭間で口元をにやりと歪めた。ユキは見てはいけないようなものを見た気がして、思わず目を逸らしてしまった。
平七の時と同様、連日の水責めをものともしない多喜治の尋問には手を焼いた。ある日の朝、刀守がいつものように牢に向かうと、見張り役たちが血しぶきをあげて牢の前に倒れていた。慌てて牢の中を見るともぬけの殻、男は逃げた後だった。
その夜、郷屋敷に火が放たれた。
どかっと腰を下ろすと、男は、既に大徳利が二、三転がっているのはお構いなしに、近くにいる男達へ酒を要求する。
「日暮れにはまだ早いですぜ」
「なあに、構うもんか。俺は風流人なんだ、日の入りを眺めながらしんみり飲むのさ」
たしなめる舎弟達を遮り、およそ一升ほどの酒を、あろうことか大徳利ごとぐいっとあおる。
「旨い!三夏村の米から作った酒だ。初物だぞ」
「その初物の大事な戦利品を一人でしこたま飲んでるんだから、全くたちが悪い」
「ありゃ、絶対俺たちに寄越す気ないな」
舎弟達が小さく漏らした文句に、耳聡く反応する。
「おいおいおい、このシン太様がそんなみみっちい男だとでも言うのか」
「とんでもねえ!有難くご相伴にあずかりたいもんで」
「おう、飲め飲め」
集落から離れた山の奥、自然とできたのかはたまた誰かが作ったのか、一つの洞窟がある。入り口は男二人が並んで入れるほどだが、先へ進むと十人以上寝転がっても余裕のある空間が広がっている。その一番奥は、天井となる岩肌にいくつか亀裂が入っており、そこから光が差し込むことで明かりの役割を果たしている。入り口は茂みに隠れて見つけづらく、中の音は外へ漏れにくい。それをいいことに、男たちは格好の宴会場として昼夜酒を飲み交わしている。
一番大きな裂け目の真下に鎮座するのは、先ほど大徳利をあおっていた男だ。筋骨隆々で強者の風格を漂わせているが、嬉々として酒を飲む表情には二十歳そこらの若者らしい面影が残っている。胡坐をかいて尊大にふるまっているが、襤褸のような煤けた青色の衣服を着ている。しかしその上から上等な毛皮を羽織っているのだから、なんともちぐはぐな格好だ。山で鍛えたであろう太く逞しい脚を襤褸布からのぞかせた男は、天窓代わりの亀裂を見上げ、悦に浸っている。
「お頭、伝書が届きましたぜ」
舎弟の一人が駆け込んできた。飛燕雀と呼ばれる、伝書を運ぶ小柄な鳥を両手で抱えていた。
「珍しいな」
シン太は、飛燕雀ごと受け取るとその足に結ばれた文を開く。なんだなんだと集まってきた舎弟達は、さっきまでの騒ぎはどこへやら、お頭が文を読む姿をじっと見守る。
文に目を落とすことしばし、やがて顔をあげて男はにやっと笑みを漏らす。
「野郎ども、<御勤め>の時だ」
鍛錬場に、男たちの割れ鐘をつくような声が響く。大きな輪になって押し合いへし合い騒ぎ立てている男たち、その中心には竹刀を持った男が二人向かい合っている。今日は半月に一度の御前試合。日ごろの鍛錬の成果を確かめるため、己の力量を誇示するため、何より出世の機会を掴むため、誰もが気合を入れて臨んでいる。
ユキもご多分に漏れず、気合十分だ。誰よりも修練を積んでいるという自負を抱き、手まめだらけの掌を見つめながら、静かな闘気を秘めて出番を待っている。
掟は単純明快、郷守も刀守も入り乱れての勝ち抜き戦だ。緒戦は郷守同士・刀守同士でぶつかるが、勝ち上がっていくにつれて混合されていく。当然ながら階級上位の刀守の方が腕が立つ。徐々に郷守は淘汰されていくのだが、数少ない郷守がその厚い壁を突破していく様が見どころの一つでもある。
ユキが最初に戦ったのは弥助だった。
「……久しぶりだな、ユキ」
「おう、久しぶり」
お互い少し気まずそうに、剣を構える。審判役の上役は双方の構えを認めると、掛け声と共に右手を大きく振り下ろす。
「それでは始め!」
合図と同時に踏み出すユキ。以前は、ユキの倍はあろうかという弥助の巨躯に圧倒されていたものだが、今のユキには隙だらけにしか見えなかった。小回りの利く特性を活かし、持ち前の素早さと修行で磨いた剣技によって圧勝だった。弥助は自分の身に何が起こったのかわからない風で地面に腰をつき、いつの間にか小さな相手に倒されていたことに驚いていた。次戦は、あまり会話をしたことのない郷守だった。三戦目も同じく郷守。日ごろ剣役の仁親に修行をつけてもらっているユキにとって、もはや郷守の中に敵はいなかった。四戦目にしてようやく刀守とぶつかったが、大した手ごたえなく勝利した。
郷守が、それも年端のいかぬ少年が刀守を上回った。試合を取り囲んでいた男たちが低く大きく唸り、それはやがて喝采となった。
「おい、あいつは何者だ!」
「まだ子供じゃないか」
「どこかで見覚えがあるぞ……そうだ、郷巡りの時にいた奴だ!」
「確かあいつ、裏切り者の平七とつるんでいたユキじゃないか」
「そんなことはどうだっていい!刀守を打ち負かしたんだ、たいした気概の持ち主だ」
会場はますます熱気を帯びる。思わぬ番狂わせに沸き立つ外野をよそに、ユキは自分でも意外なほど落ち着いていた。勿論、勝ち上がった嬉しさはある。刀守を破った時は確かに興奮した。しかし心のどこかで、この程度は当たり前だ、勝って当然なんだと、冷静に考えてもいた。
ユキは順調に勝ち上がり、次が最終試合。今まさに繰り広げられている試合の勝者が、ユキの対戦相手となる。群れる男たちの向こう、竹刀を打ち合う二人の姿がちらちらと見える。流石ここまで勝ち抜いただけあって、両者とも相当な手練れのようだ。
「――そこまで!」
決着がついたようで、わあっと男たちが歓声を上げる。両者一礼の後、敗者が場を後にする。入れ替わるようにユキが戦いの場へ足を踏み込む。目の前に立つ剣豪は、以前剣の指導をしてくれたあの男だ。
「お前と剣を交えるのは久方ぶりだな」
「由さん!」
強くなったなと、優しい笑みで声をかける由ノ進。その言葉が、何よりも嬉しかった。
「始め!」
合図を皮切りに竹刀を振り上げる。
――久しぶりに顔を見られて嬉しい。話し相手がいなくて寂しかった。話したいことがたくさんある。昔と違って言えないこともたくさんあるけれど――。それらの思いを全て太刀に込める。それに応えるように、由ノ進も打ち込んでくる。言葉は交わさなくとも、お互いの考えがわかるようだった。竹刀を打ち合うことが、二人の会話になった。
いつか由ノ進が教えてくれたように、間合いを一気に詰めて相手の懐に飛び込むユキ。その動き読んでいたのか、すかさず薙ぎ払うような攻撃に転じる由ノ進。ユキはすんでのところで攻撃をかわすと、地を這うように再び相手に迫る。斜に構えた由ノ進が袈裟掛けで斬り込み、二人の獲物がぶつかる。つかのま睨みあった後、ぐっと押し合い一旦間合いを離れる。
やはり強い。手ごたえのある勝負に、そして双刀と名声高い由ノ進と対等に渡り合っているこの現実に、ユキは興奮を隠しきれないでいた。額から流れる汗が首筋をつたい、地面に落ちる。周りは静かだった。二人を取り囲む観客も、息をのんで勝負の行く末を見守っていた。
勝負は一瞬だった。正眼に構えた状態から両者同時に踏み出し攻撃を仕掛ける。
僅かの差だった。ユキの速さが効いた。
胴を打たれた由ノ進が膝をつくと、審判役が止めの合図を出した。
夕暮れ時、奥屋敷の庭先では、今日もユキと仁親の打ち合いが繰り広げられている。その傍らでは花里姫がにこにこしながら二人を見守っている。
必死の形相で打ちかかるユキに対し、相変わらず涼しい顔でユキの刀を受ける仁親。あの打ちのめされた夜からユキは何倍も努力しているが、未だに一本も取れずにいる。とはいえ毎日稽古をしていれば進歩はするもので、仁親の獲物は竹刀から木刀に変わっていた。木刀同士がぶつかる重み、その力強さを両の手で感じながら、ユキは何度も立ち向かっていた。
「もう一本、お願いします」
言いつけを守り、転がされても倒されても刀を離さず立ち上がる。何度目かの転倒の後、不意に横から花里姫が口をはさむ。
「毎日頑張っているわね、ユキ」
右耳に届いた可憐な声に、顔が赤くなるユキ。その隙を見逃さず、仁親が脇腹に一撃を入れる。
「……集中しろ」
はい、と情けなく返事をするユキを見て、花里姫がけらけらと笑う。御前試合で優勝したとはいえ、仁親にはまだ勝てそうにない。膝立ちで歯を食いしばり、意気込んで構える。
「次こそは、一本取ってみせます!」
「次とはいつかしら……」
はっとして姫君の方を振りむく。誰に言うともなくぽつりと呟いた言葉のようだったが、口元に笑みを浮かべながらも、その蒼い瞳には底の見えない感情があるように思えた。見てはいけないものを見てしまったと思った。常に命を脅かされている恐怖、周りに信用できる人間が少ない不安、何もできず奥屋敷で過ごすだけの焦燥。いつまでも頼りにならないままでいる、子供剣士への呆れもあるのかもしれない。郷の象徴として大切にされる一方で、何をしたわけでもなく命を狙われる宿命。この世に生まれ落ちた時から“郷の花”という役目を背負わされた人間の悲しみを垣間見たような気がして、ユキは絶句してしまった。
「これはこれは姫様、面白いものを見てらっしゃいますな」
沈んだ空気を一瞬で吹き飛ばす快活な声が、渡殿から聞こえてきた。声の主はユキもよく知るあの男だ。
「お久しゅうございます。花里姫様におかれましては、お会いする度、益々美しくなられますな」
「あら東吾、珍しいわね」
東吾の軽口に、慣れている様子で姫が応える。殿の傍に仕えるはずの風読みが何故わざわざ奥屋敷まで訪ねてきたのかと、姫君が朗らかに問いかける。
「明日、風森村へ参ります。数日間“風見ノ塔”に籠るので、その前にご挨拶をと思いまして」
「そう。大変だろうけれど、精一杯務めて父上を助けて頂戴ね」
「もったいなき御言葉、有難く」
両の袖を胸の前で合わせ一礼し、そっとユキに目配せする。その意図を図りかねていると、今度は仁親に向かってにやりと笑う。
「随分と熱心な指導のようだな」
「ああ。ちょうど夕餉の頃合いだ、お前も下がってよいぞ」
にべもなく答える仁親に促され、ユキは東吾と一緒に奥屋敷を後にする。普段は生垣沿いに歩くところを、こちらの方が近道だからという東吾の案で、こっそり庭園を横切るように進んでいく。なあに、風読みを咎める奴なんておらんだろう、とお気楽な調子で言うものだから、そういうものかと黙ってついていく。手入れの行き届いた芝に伸びる二人分の影。ユキは、悪戯な笑みを浮かべる東吾の隣で歩きながら、この男が来る直前の花里姫の表情が頭から離れないでいた。
「くじけるなよ」
ハッとして顔をあげると、東吾は目を細めてこちらを見下ろしていた。ユキの不安を見透かすように言葉を続ける。
「姫様の眼に臆していたようだったが」
さすが風読み、あの一瞬の空気から何かを悟っていたようだ。可憐な姫君の、見惚れるほどに美しい蒼い瞳を、何故か恐ろしく感じてしまったこと。姫君にも仁親にも、そろそろ見限られるかもしれないと、正直に不安を口にする。
「先日の御前試合を見ていたぞ。随分強くなったじゃあないか。そりゃあ剣役には到底及ばないだろうが、卑下することでもない。あいつが見込んだんだ、お前も強くなるさ」
「見込まれて……なのかはわかりません。たまたま味方にできる人間がおいらだった。それが弱いから仕方なく稽古をつけてくれているのかも……」
「何を言う!間違いなく味方であることが重要なのだ」
自信なさげに言うユキに、思わず声を荒げる東吾。存外大きな声を出してしまったことに気が付くと、そっと声をひそめて話を続ける。
「お前は覚えていないかもしれないが、水車の刑の最中にあいつが駆け込んできて言ったのだ。『その少年は咎人に非ず、守人である』と」
仁親が当時の状況を詳しく説明したことで、ユキの疑いは晴れた。残念ながら仁親の声はユキの記憶になかったが、その後自分を担いでくれた、肩の温かさはしっかりと覚えている。
「お前は黒夜叉集団に襲われた村の生き残りだそうだな。さすれば同じ痛みを背負い、同じ者を仇としている。そして郷巡りでのお前の動き、姫御輿に襲い掛かる平七に身体を張って対抗したと聞いた。強い弱いは別として、仁親はお前のことを“姫様を守る同志”だと思っているぞ」
東吾の強い言に、ユキは不安な気持ちが和らいでいくのを感じていた。
「あれは一見してわかりづらいが、優しい男だ。優しすぎるほどに。為ろうと思えば何にでも為れたものを。……それこそ風読みになる道だってあったというに。それを、わざわざ一番険しい道を選んだのだ」
「風読みに?」
意外な話に思わず足を止めるユキ。構わず歩いていく東吾の背中を慌てて追う。
「あいつなら為れる。あいつは否定するが、素質は俺以上だと思っている。父親譲りの、風読みの才があるからな」
いわゆる天賦の才というやつだ、と自嘲気味に話を続ける。
「あいつの父親は風読みだった。そして俺の師匠でもある」
「父親が、風読み……?」
「そうだ。あいつが風使いと呼ばれるのも然もありなん、風を読んで立ち回っているのだ。常人にはできない動きだ」
ふと郷巡りの時の情景が呼び起こされた。確かに、姫神輿から飛び出した仁親が放ったのは、風を味方につけたかの如き剣技だった。無論、吹きすさぶ風の中、一瞬の出来事で碌に見えてはいなかったが。
「今の俺の地位は間違いなく俺自身の力によるものだ、とも言い切れんのだ。俺は幸運だった。何しろ、あいつが身を引いたから風読みになれたようなものだ。全く、あいつには敵わんよ」
片手で後頭部をかく東吾の声は笑っていたが、その表情は影になってよく見えない。まもなく日没という時間帯、カァと鳴く鳥たちが連なって山の方へ飛んでいく。歩いてきた方向を振り返るも、奥屋敷の姿はもう闇に溶け込んで見えない。
いつかの夕闇の中、馬上で交わした会話がよみがえる。
――おいらなんて、雪の日に生まれたからユキって名付けられたんです。こんなに温かな郷なのに、雪が降ったなんて信じられないですよね
――そうだな
あの時、仁親はどんな顔をしていただろうか。自分の父親が死んだ日に生まれたユキのことを、笑いながらその日の話をするユキを、なんと思っただろうか。
「……俺は武術のほうはからきしだ。師匠に見出されていなかったら、風森村から一歩も出ることなく生きていただろうな」
ふっと笑う東吾の声に、ユキは我に返る。いつのまにか庭園の端まで到達していた。近くの小径に入り、やがて分かれ道にぶつかる。
「あいつは姫様ひとすじだ。だから風読みでなく、姫様の為だけに生きる剣となる道を選んだ。そのお陰で俺は風読みになれたんだ、己の才の足りない分は努力しないとな」
以前、仁親が東吾のことを“万物に通じる男”と、由ノ進も“医術に秀でた博識な男”と評していた。時に殿の意向に口出しできるという風読み。運だけではない、その地位まで上り詰めた裏には計り知れない努力があるのだろう。
共に歩くのはここまで、これからユキは郷守長屋へ、東吾は本殿へ向かう。
「まだ、お前に足りないものを見つけられていないのだろう」
小さくうなずくユキに、東吾はしょうがないと助言を一つくれてやることにした。くれぐれも、俺からの入れ知恵だと悟られるなよ、と言い添えて。
風森村の北の果て。小高い丘の上に、二つの墓標。ここに眠るは、かつて夕月郷を支えた二人だ。郷を愛し、郷のために生き、その果てに命を落とした若い命。その墓前で初老の男が手を合わせている。
「ここは変わらないな」
「……シン太か」
背後から声を掛けられた男は、前を向いたまま答える。大徳利を抱えた男は、初老の男の隣に並んで手を合わせる。そして懐から小ぶりな酒器を2つ取り出すと、大徳利から酒を注いで墓前に供える。
「先日、初物の酒が手に入ったんでね」
「お二人とも、酒は嗜まなったはずだが」
にかっと歯を出して笑うシン太に、初老の男はあきれ顔で指摘する。
「ほんじゃ、俺たちで飲みましょうや」
さあさあ献杯、と杯の一つを差し出す。男二人はいける口のようで、ぐびぐびっと杯を空にしてはお互いの酒器に注ぎ、飲んでは注ぎ、を繰り返す。
「相変わらず飲んだくれてるのか」
「ここんところはそうでもねえです。先達て三夏村でひでえ水害が起きて、その始末で忙しくしてたんで。堤防を立て直したり、駄目になった田畑の代わりに新しく開墾したりと色々手伝ってやったのさ。この酒はその時の礼で貰ったもんです。久方ぶりに良い酒が入ったんで、昨夜は大宴会と洒落込んでみたというわけで」
「見た目は破落戸のくせして、立派に普請屋をやってるんだな」
初老の男が褒めると、シン太は照れくさそうにはにかんだ。
「師範のお陰で丈夫に育ったんだ。それに、郷の役に立つことをしてねえと、いつかあいつに合わせる顔がなくなっちまう」
そう言って笑う顔は、数十人の舎弟を抱えているとは思えない程穏やかだ。血気盛んな男たちを統べる頭領も、師範と仰ぐ男の前では違う一面を見せる。その弟子の表情の中に、男は何か言いたげな様子を見て取った。
「何かあるのか」
「あるかもしれねえって話で」
よくぞ聞いてくれましたとばかり、懐から折りたたまれた一通の手紙を取り出す。
「あいつが飛燕雀を寄越してきました」
「文にはなんと」
シン太は手紙を丁寧に開くと、初老の男にそっと差し出した。差し出された方は、何度も読み返されたとわかるほどに皺が濃くはっきりと浮かび上がっているそれを、大事そうに一文字一文字指でなぞる。その様子を横目でちらりと見てから、シン太は話を続ける。
「姫君の守りに力を貸せと。婚礼が近づいてきて、流石のあいつも焦っているんでしょう。……未だに奴らを捕らえられていないから」
「あの忌々しい集団か。今の風読みは何をしとるんだ、情けない。奴らをのさばらせおって」
初老の男は、手紙から顔をあげて憎らしそうに言い放つ。
「はは、厳しいな師範は」
小さな岩が二つだけ並んでいるばかりの墓を見つめて、シン太がぽつりと呟く。
「ここに来たら、このお二方が助けてくれるような気がして」
「そうか」
海から吹く柔らかな風が、二人の男を記憶の旅路へ連れていく。目の前の小さな墓、そこに眠る二人が生きていた頃。男たちは、仲睦まじく寄り添う一組の若い夫婦に思いを馳せていた。十数年の時を経て、シン太には淡い記憶として残っている。初老の男にとっては、癒えない傷を抱えて生きてきた年月だ。やがて風がやむと、二人の男に幻を見せていた風の魔力も消えた。
「そろそろ行きやす。黒夜叉集団に襲われた村々に向かわせた仲間が、戻ってきてると思うんで。何か掴んでいるといいんですが」
シン太はそう言いながら空の酒器を懐にしまうと、よっと手をついて立ち上がる。その顔は既に、強気な若頭の顔に戻っていた。
「急いては見えるものも見えなくなる、慎重にな」
弟子に忠告しながら、手紙を丁寧にたたみ直して返す。
シン太を見送ると、初老の男は再び墓標に向き合う。
(あなたがたの息子は、立派に務めを果たしているようですぞ)
記憶の中でいつまでも幼いままの姿を思い浮かべ、そういえばもうすぐ二十歳だったと気が付き、一人で笑う。先ほど会った若者と同じ年頃なのだから、もう自分が知っている頃の子供ではないのだとわかっていても、どうにもしっくりこない。最後に見た仁親は数えで九歳だから、声変わりもしていなかった。
ひとしきり余韻に浸った後、「また来ます」と言い残して初老の男も立ち去って行った。
――夜の仁親を見てみるがよい。
山中の走り込みを終え、いつもなら郷守長屋へまっすぐ寝に帰るところ。有難い風読みからの助言を決行せんと、今宵のユキは奥屋敷の庭に向かって歩いていた。
東吾の言っていた通り、花里姫が毎夜祈りをささげる月見台の前に剣役は立っていた。姫君はとうに眠りについている刻限、誰もいない月見台に光が淡く差し込んでいる。
ユキは気配を消してそっと近づき、木の陰に身を潜めた。やがて仁親は、腰に差した剣をするりと抜くと、静かに飛び上がった。着地と同時に軸足で回転し、両手で剣をさっと突き出す。月明かりに青白く映える着衣、月光を反射して閃く刀身。仁親の周りで遊んでいるように、風に乗って木の葉が翻る。それはユキの知っている型稽古ではなかった。まるで舞のように華麗で、それでいて力強い身のこなしだった。
向き合う相手のいない鍛錬のはずだが、目の前に敵がいるかの如き動き。近づこうものなら殺されかねない、そういう恐怖があった。射るように鋭い蒼い瞳の、その殺気を湛えた眼光が、離れた場所にいる自分を刺し貫いてしまいそうで気圧された。その美しさと恐ろしさに囚われたかように、ユキは夢中で見入っていた。
夜も更けた頃。見えない相手との死闘を終え、こちらに背を向けたまま仁親が口を開いた。
「何をしている」
(やはり、気づかれていた……!)
急に声を掛けられて焦ったユキは、木陰から身を出して頭を下げる。
「申し訳ございません!盗み見るような真似をしてしまって」
ましてや仁親相手に二度目の覗きだ。ここは下手に言い訳をしない方が良いと判断し、ユキは文字通り平身低頭して許しを請う。しばらくそのままでいたが相手が何も発声しないので、上目遣いで伺い見ながらそろそろと頭をあげる。闇の中にいる仁親の表情がよく見えず、怒っているのか不安になってきた頃、仁親がようやく口を開いた。
「東吾の入れ知恵だろう」
ぎくりと身を震わせる。流石剣役、何でもお見通しのようだ。東吾との約束がある手前、ユキは肯定も否定もできずに狼狽えているばかり。
「……少し離れようか」
それだけ言うと、仁親は先ほどまでユキがさんざん駆け回った裏山に向かって足を進めだした。ユキは慌ててその後ろを追う。
「これからお前を襲う」
「へっ!?」
山麓に着くやいなや、物騒なことを言い出す仁親。勿論修行だとわかっているが、今までの打ち込み稽古では自分が向かっていく一方で、仁親の側から仕掛けてくることがなかったため、ユキは面食らってしまった。
「俺から逃げ切って山を下りるか、俺に一撃入れるかするまで追い続ける。俺は木刀を取りに戻り、小半刻後に山に入る。行け」
相変わらずのぶっきらぼうなものの言い様で、ユキに有無を言わせず山へ向かわせる。
自然というのは不思議な力を持っていて、夜と昼では見せる顔が違う。ユキは、死にそうな思いで森を駆けた二年前の恐怖の一夜を久しぶりに思い出して、身体が震えた。
(大丈夫、大丈夫。落ち着くんだ)
腰に下げた木刀の感触を確かめ、深く息を吸って吐く。早まった鼓動が少し収まると、ユキは山中へ向かって一目散に駆け出した。
風の音が耳元を掠める。木々の間をくぐるように、行く手に伸びる枝々を避けながら山道を進むユキ。どんなに慣れ親しんだ山でも、夜になるとまるで違う生き物が棲む世界へと変わってしまう。毎晩走り回っているからといって心安くはならない。雨上がりの地面、風の中の木立、人の気配を察知した生き物たち。
斜面を駆け続ける。走りながら考えを巡らせる。脚には自信があるので、このまま逃げ切る方が一撃入れるより確率は高い。しかし相手は剣役。そう簡単に切り抜けられるはずはないとユキもわかっていた。
後ろから迫る気配は感じられない。しばらくそのまま山を駆け上る。すると突然、郷巡りで平七の隣にいた時よりも強烈な、痺れるような寒気が全身を襲った。
(――横か!)
肌が、神経が、細胞が反応した。まさに間一髪、ユキは身を屈めて前転するように衝撃をかわした。視界の端から突然現れた仁親が飛び掛かってきたのだ。冷汗が額を流れる。
振り返り、脇に差した木刀を構える。小半刻の枷があっても追いつかれたのだ。自慢の駿足をもってしても、このまま走って逃げおおせる可能性は低い。それなら、なんとか一太刀でも浴びせる方に賭けるしかない。
妖しい青光を放つ仁親の双眸が闇に浮かぶ。ユキの構えを認めるや、再び音もなく迫ってくる。
まるで複数人を同時に相手しているように、右から左から、あらゆる方向から、縦横無尽の斬撃が繰り出される。木刀から伝わる重くて鈍い衝撃を、何度も跳ね返す。時折受け止めそこなっては肩や腹を打たれ、その度に体力が削がれていく。それでもユキは倒れない。
己の息遣いと、時折踏みしめた枝の音が木霊する。ユキは頭の中で戦況を組み立てる。防戦一方、突破口はないか。次はどこからくるのか。次の攻撃はどう捌くか。次は受けきれるだろうか。次に倒れたら起き上がれるだろうか。次はどうすれば。次は、次は、次は……。
――次とはいつかしら……
夕暮れ時からずっと心にのしかかっていた言葉が、姫君の悲壮を含んだ声で再生された。その時、ユキは天啓にうたれたかの如く悟ったのだ。自分に足りないものの正体を。
(次など無いんだ……!)
両足から砂煙が立ち昇る。仁親の攻撃を払いのけ、なんとか踏みとどまる。そして自ら仕掛けんと、木刀を強く握り直し、相打ち覚悟でありったけの思いと力を込めて一撃を放つ。
二つの影が交わる。夜風に乗った雲から、ちらりと月が顔を出す。きらきらと零れる淡い月光が、両者に柔らかく降りそそぐ。
「確かに、一撃は一撃だ」
仁親の脇腹あたり、うっすらとだが衣に擦れた跡がついている。ユキの方はというと、しっかりと肩に打撃を喰らって膝をついている。とはいえ、微かだろうが何だろうが、一撃入れるという条件は達成したのだ。俄かに信じられない様子で呆然とするユキに、仁親が問う。
「……わかったのか」
こくりと頷くと、ユキは立ち上がり、今しがた掴んだ真理を口にする。
「鍛錬では、倒されても『次こそは一本取る』という気持ちでやっていました。でも、そうじゃない。実戦では次なんて無い。殺すか、殺されるかだから」
まっすぐに仁親の目を見て話すユキ。自分に足りないもの、それは守人としての確固たる気概だ。
仁親の蒼い瞳が力強く見つめ返す。
「“守る”とは、他者の命を背負うことだ。自分が倒れたらそれまで。故に次など無い」
それは、守られる側にとっても同じこと。守る者の覚悟と、守られる者の覚悟。剣役の覚悟と、郷の花の覚悟。
達観の境地に至ったユキの様子を見てとるや、仁親は衣服に着いた土埃を払いながら下山を促す。二人並んで歩く山道は、ユキの目には駆け上ってきた時よりも穏やかな世界に映った。
「お前はまだまだ強くなれる。守るべきを忘れるな」
東の空、地平線付近が朱に染まり、雲間から薄明かりが覗く。なぜだろう、ユキは生まれたての赤子のように泣きわめきたくなった。
風森村にて。山の奥深く、男たちの秘密基地ではシン太が気難しい顔で文書を検めていた。頭領として男たちを束ねるシン太は、黒夜叉集団と思しき賊に襲われた村々に舎弟達を派遣し、当時の状況を調査させていた。今手にしている文書はそれらの報告が記されている。賊が押し入った刻限、賊の人数、姿形。村人についても詳らかに調べられており、怪我をした者はどこを怪我したか、死亡した者は誰でどこに埋葬されたか、そして行方が分からない者の名前と人相書きが束となっている。どこで手に入れたのか、当時駆けつけた郷守の名簿まで集められていた。
「……妙だな」
眉間に皺を寄せ、うーんと唸る。やがて筆を執ると、何やら急いで文をしたため始めた。
朝焼けの刻、仁親は微かな風の音で目を覚ました。風を切って近づく何かの気配を察して蔀を開くと一羽の飛燕雀が飛び込んできた。慣れた手つきで足に結ばれた文をほどき、明かりを灯すことなく読み進める。
《お前から文を寄越すなんて初めてじゃあないか。もう何年も顔を合わせてないが、“風仁”の噂は何度も耳にしている。お前のことだから、姫君第一主義で達者にやっているんだろうな……(中略)……どうも黒夜叉集団は、目の届きにくい辺境の村ばかりを襲っていたようだ。調べを進めていくうちに、死体の数が合わないことに気づいた。いくつかの村で行方不明者が出ていて、その中に平七という名の男もいた。本物の平七は病気がちでろくに外出もできず、ずっと臥せっていたそうだ。家族はおらず一人住まい、てっきり賊にやられ、誰かが無縁塚にでも埋葬したと思われていたらしいが、誰もそんなことはしていないと言う。生き残った村人は自分の家族やこれからの生活で手一杯なんだ。そりゃあ、他人のことまで気が回らんだろうな。村の再建については心配無用、俺の仲間が手を貸している。あいつら村の郷守たちとすっかり意気投合したらしい、それで詳しい話を聞くことができたってわけだ。おっと、話を戻そう。黒夜叉集団の目的は活動源となる物資の略奪の他、騒ぎに乗じて身寄りのない者をこっそり始末し、その戸籍を手に入れることだったようだ。亡骸はどこかに打ち捨てられただろうが、もし発見できたら丁重に弔ってやるつもりだ。今回の調査で不明が発覚した者の名を書いておく。これらに成りすましている者がいれば、内通者に違いない。
××村 ×××
××村 ×××
××村 ×××
……(中略)……
少しはお前の力になれたか?引き続き調べを進める故、これからはこまめに文を出すぞ。お前から返事がなくてもだ。》
眼前で喋っているかのような文章に、書き手の顔が浮かぶ。懐かしさにこみあげるものを振り払い、仁親は抽斗から書簡箋を取り出すと、さらさらと返事を書き始めた。
早速、郷守と刀守たちの身元の照合が開始された。仁親は姫君のそばを離れるわけにいかず、東吾は風森村にいるため、高虎とユキが調べを行う。二人は郷守屋敷の本殿近く、書庫のある一角にいた。村の男たちは郷守として出仕する際、まず登録簿に記帳される。屋敷内に四百人ほど、外にはおよそ二千人いるとされる男たちを一人ずつ調べるには数日を要し、高虎はともかく、ユキは書庫番の男たちの訝しげな視線を浴びながら通いつめることになった。そして膨大な身元情報を洗った結果、今回シン太が知らせてきた行方不明者と同じ戸籍を持つ男が一人いた。
「……蛇川村の多喜治だな」
高虎の指揮の下、尋問が行われる。なんと男は刀守だった。ユキが郷守になって間もない頃に刀守に昇進したため直接の面識はなかったが、何度かその姿を目にしたことはあった。水車に括りつけられた多喜治は、何を問い詰めても知らぬ存ぜぬを繰り返す。殺さない程度に手加減しているが、相当苦しい刑罰であることは経験したユキにはわかる。わかるからこそ、責め苦に耐えるこの男の強靭な精神力に畏怖の念を抱かずにはいられなかった。水車が回り水中から顔を出した多喜治は、高虎の横に立つユキの怖気に似た感情に気づいたのか、浅い呼吸の狭間で口元をにやりと歪めた。ユキは見てはいけないようなものを見た気がして、思わず目を逸らしてしまった。
平七の時と同様、連日の水責めをものともしない多喜治の尋問には手を焼いた。ある日の朝、刀守がいつものように牢に向かうと、見張り役たちが血しぶきをあげて牢の前に倒れていた。慌てて牢の中を見るともぬけの殻、男は逃げた後だった。
その夜、郷屋敷に火が放たれた。
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