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三 黒塗りの車
しおりを挟む窓から差し込む朝陽で目を覚ました。頭が酷く痛む。朝の七時。仕事までまだ時間はあるが、頭痛が酷くて眠れない。
横で毛布にくるまって茂樹が寝ている。ふたりでどうやって帰ってきたのか覚えていない。
「おい、茂樹」
布団から出て手で身体を揺すると、茂樹が呻き声をあげて目を開けた。
「何だよ、まだ七時じゃねえか」薄く開いた眼で腕時計を確認すると、不機嫌そうな声をあげた。
「お前、車は?」
「将毅の店に置いてきたはずだが、覚えてねえ」そう言って頭から毛布をかぶると、恭介に背中を向けた。
恭介は立ち上がるとバスルームで熱いシャワーを浴びた。ペットボトルのミネラルウォーターを飲んで、部屋に戻ってタバコを一本喫うと、幾分かましになった。
「仕事にいってくる」
「十時からじゃねえのか?」
「眠れねえんだよ。暇だからスキューバーの準備をしてくる。それに、昨日の片づけもしなくちゃ、早紀子に睨まれちまう。お前は帰りたきゃ、勝手に帰れ」
「鍵は?」
「別に盗られるものもねえから、ドアは開けっぱなしでいい」
ジーンズとポロシャツを着て、茂樹を残して部屋を出た。階段を降りると、前の空き地に黒い高級車が駐車してあった。茂樹の車だ。茂樹は覚えていないと言ったが、どうやらショップからここまで車で帰ってきたらしい。すぐ近くとはいえ、よく無事に到着できたものだ。
いい車に乗っている。茂樹は詳しく話そうとしなかったが、向こうではかなり羽振りがいいのだろう。
外はいい天気だった。風もない。絶好のダイビング日和だ。
恭介のアパートから歩いて十分のところに将毅のペンションがある。ペンションを回りこんでショップの方に回る。瑛太の軽トラックがなくなっている。
ショップのドアには鍵がかかっていた。ガラス戸から中を覗く。灯りは消えているが、すでに綺麗に片付けられている。将毅と瑛太がふたりで片付けたとは思えない。早紀子の不機嫌そうな顔が頭に浮かんで、憂鬱になった。
ペンションに戻って玄関を上がり、キッチンに顔を出すと、早紀子が客に出す朝食を用意しているところだった。
早紀子は町から一時間ほど離れたところにある、地元で唯一の短大を今年卒業したばかりだ。学校の成績はよかったらしいが、親が手放したがらず、自宅のペンションの手伝いをさせている。
キッチンに戻ってきた早紀子の母親と目が合った。
「おはようございます」
「おはよう。恭介くん、早いわね」
早紀子の母親に挨拶をすると、背中を向けていた早紀子が振り向いた。
「ずいぶん早いのね。出発は十時でしょ?」
「店を片付けようと思ってね」
「もう、私が片付けました」そういって、ぷいっとそっぽを向く。
「瑛太は?」
「もう帰ったわ。仕事だって。翌日早くから仕事なのに、よくあれだけ飲めるわね」
「まあ、昨夜は特別だったからな。吐いてなかったか?」
「お店の中で吐いたりしたら、使用禁止にするからね」
「へいへい」
「恭介くん、朝ごはん、食べた?」
「今朝は食欲がない」
「また? 朝はちゃんと食べないと駄目だって言ってるでしょ」
思わず苦笑いしてしまう。まるで母親のようだ。
「昨夜飲み過ぎたからだよ」
「あとでおにぎり持っていってあげるから、倉庫で待ってて」
母親と二人で女性客四人分の食事をラックに乗せると、押しながらキッチンを出た。キッチンを出て右に曲がるとダイニングがある。テーブルが七つとカウンターテーブルも備えた、三十人は使用できるこのペンション自慢のダイニングだ。夜はバーとしても使っていて、夏の間は毎晩宿泊客で賑わうが、肌寒くなり始めるこの時期は客も少なく、客からの要望があった時だけ酒を出す。
ペンションを出てショップの裏に回って、倉庫のシャッターをあげた。空のタンクがずらっと並んでいる。今日の客は八人。午前が四人で、午後からが四人。午前の女性客には、海の中で写真を撮ってやることになっていた。午後からは馴染みの家族連れが二組入っていた。親同士がダイビング仲間で、毎年このペンションに泊まりに来る。親同士が潜っている間、子供の相手をするのは早紀子の仕事だ。彼らが海で獲ったサザエや伊勢海老を無料で夕食に振舞っているが、これについては早紀子も黙認している。
機材の予約表をチェックする。午前の女性客のボートダイビングにそろえるのは、ボンベ八本とウエイトを四セット。他の機材は自前で揃えているようだった。午後の分はボンベ八本だけだった。
ドレーンバルブを閉じ、コンセントを入れて、オイルフリーのコンプレッサーを作動させる。コンプレッサーの内圧が二五〇気圧になるまでしばらく動かした後、ボンベの口金に接続し、コンプレッサーのバルブを開ける。エアーがコンプレッサー内部からボンベに流れ、ゲージの圧力がさがっていく。圧が下がるとコンプレッサーが再び唸りをあげて空気を圧縮していく。圧力計が再び二五〇気圧になると、コンプレッサーとボンベのバルブを両方閉じて口金を外し、新しいタンクに取り換える。
三十分ほどでタンク二〇本を充てんし終わった。コンセントを抜きドレーンバルブを開くと、水が勢いよく噴き出してきた。コンプレッサーの中で空気が圧縮されるとき、空気中の水蒸気が凝集して水になるのだ。
特にすることもなくなったので倉庫の掃除をしていると、早紀子が盆を持ってやってきた。
「はい」
皿の上に、握り飯が四つと卵焼きと唐揚が載っている。
「朝からそんなに食えないよ」
「食べられるだけ食べて」
仕方なく、握り飯を手に取る。
「今日、海は静かそうね。空も綺麗に晴れているし」
「まあな」
せっかく海に来ても、天候が悪かったり晴れていても波が高かったりすれば、海に潜ることができない。せっかくの休日に遠くからやってきた客たちが落胆する姿を見るのが、この仕事をしていていちばん辛く感じるときだ。
握り飯を頬張りながら、水筒の茶を飲んだ。うまい握り飯だった。早紀子はとにかく料理がうまい。短大でも専攻は家政科だった。
「みんな、地元に残れてよかったね」
早紀子が、空き地で戯れている鳥を見ながらいった。若者の多くが地元の学校を卒業すると都会へと出て行く。この地で職を得るのはわずかだ。
「そうでもないさ。城野茂樹って知ってるだろ?」
「お兄ちゃんの同級生の、怖そうな人でしょ?」
「昨夜、お前が奥に引っ込んでから店にやってきて、一緒に飲んだんだ。あいつは東京で働いている。いい車に乗っていたよ」
「恭介くんは、都会での生活を羨ましいと思わないの?」
早紀子が視線を床に向けている。どこか聞きにくそうな様子だった。
「俺が東京に行きたがっているように見えていたのか?」
「そういうわけじゃないけど、地元に残る理由もないんでしょ? お母さんも故郷に戻ったんだし」
恭介の父親が病死してから、母親が甲府に戻ると言い出した。故郷でひとりで暮らしている祖母の身体の具合が悪いので、一緒に暮らさなくてはならなくなったのだ。地元に残ることを選んだ恭介を残し、家を売って母親は山梨に帰っていった。
「ここを離れる気なんてないよ。今の生活が気に入っているんだ。俺はお前ら家族に一生こき使われる運命なんだ、きっと」
「なんか、嫌味な言い方」
いつもの拗ねたような表情。しかし、どこか安堵の匂いを漂わせている。
「社長はどこに行ったんだ?」
「まだ部屋で寝てるわよ」
「次期じゃなくって、現社長だよ」
「協会の寄り合い。なんか、緊急事態だって」
「こんなに朝早くにか? 何かあったのか?」
「さあ……。まだ帰ってきていないから、聞いてないわ」
結局、握り飯を二つと卵焼きをひとかけら胃袋に押し込んだ。床を掃除するとやることがなくなったので、倉庫の床にシートを敷いてひと眠りすることにした。外から吹きこんでくる風が心地よかった。
身体を揺らされて目を覚ました。
「仕事だぞ」
将毅が笑っている。
「今日一日、二日酔いだな」
「俺だってそうだよ」息をついて上半身を起こす。自分の息が酒臭いのがよくわかる。
「もうだいぶ覚めただろ。熟睡していたぞ」
壁に掛けられた時計を見る。午前九時。この倉庫で一時間ほど眠ったようだ。
「茂樹は?」
「俺の部屋でまだ寝ているだろうな」
「お前、部屋に鍵かけていないだろ。気をつけろよ。女の窃盗犯が街に紛れ込んでいるらしいからな」
「盗られるもんなんて何もないさ。その女ってのは、性悪なのか?」
「らしいな。親父が朝から観光協会に呼び出されたんだ。宿泊客に気を付けてくれって。二十代半ばの女らしい。大方、観光客の財布でも狙ってるんだろ。見つけたら協会に連絡しろってさ」
「警察にじゃなくか?」
「女に警察でまずいこと喋られると、困るんだよ。あの署長の耳に入れば面倒なことになる。温泉街を少し気合い入れて探れば、他所もんに知られたくないことがぼろぼろ出てくるからな」
売春婦の置屋に賭場。どこの温泉街にもある。今までは警察も大目に見てくれていたが、新しく赴任してきた署長が思いのほか堅物で、これまでも些細なことで温泉街に警察車両が殺到したことが何度もあった。
「おはようございます」
若い女がふたり、倉庫を覗いてきた。ペンションの宿泊客だ。
「朝食はどうでしたか?」将毅が愛想のいい笑顔で女に話しかけた。
「すごく美味しかったですよ」
「それはよかった。ボートは予定通り十時に出ますから、あと十五分ほどで準備を終えてください。あとのお二人にも言っておいてください」
彼がガイドの南雲です。そういって、将毅が恭介を紹介した。
「よろしく」恭介が頭を下げると、女たちがよろしくと頭を下げた。
「今日は海も穏やかで晴天なので、沖の方は水も透き通っていると思いますよ」
女たちが手を叩いて喜んでいる。
十五分前に集合だと言っておいたが、四人がそろったのは十時を少し過ぎてからだった。これだから女のダイバーは、などといっていれば商売にならない。それに、今日は他に客もいない。誰にも迷惑はかからないのだ。
機材のチェックをしてワゴン車に積み込むと、カラフルなウエットスーツを着た女性たちをワゴン車に乗せ、恭介が運転席に座った。将毅は出発の準備をするために、先にボートハーバーで待機している。二ダイブ用のボンベ十本は先に将毅がボートに運んでいるはずだ。最近は女だけのグループでダイビングをする客も多い。ボンベを運ばされるのには慣れている。
「あの岩の周囲を潜るから」
沖にある烏帽子岩と呼ばれる岩を、運転席から指差した。
ボートハーバーにつくと、将毅と二人で五人分の機材をボートに運び込んだ。彼女たちも持参したギアを持ってボートに乗り込んだ。
ボートが白波を蹴って青い海面を走っていく。烏帽子岩のすぐそばで将毅がボートを停めた。海面に垂直に切り立った岩壁は、外洋側では五十メートル下の海底まで一気に落ち込んでいる。ダイナミックな景観だが、潮の流れも緩やかなため、初級者でも気楽に潜ることができるスポットだった。外洋側で海底まで潜ると窒素酔いする恐れがあるので、水深十メートルあたりで岩の周りを一周するのだが、初心者だけでなく上級者でも十分楽しめる。
この岩の少し沖に出ると、水深が一気に百メートルまで落ち込む。潮の流れも速くなり、外洋性のサメもうろついているのだ。
恭介が先に海に入り、待機する。続いて彼女たちが次々に海に飛び込んでくる。バックローリングも様になっている。彼女たちのエントリーの仕方で、ボートダイビングの経験もそこそこ積んでいるのだとわかる。
スタビライザーをブローして、五人で脚からゆっくりと潜っていく。内湾側の水深は浅い。水深十メートルの海底まで潜ると、ボタンを操作してボンベからスタビライザーに空気を送ったり抜いたりして浮力を調節する。浮力調節がうまく出来ない客の傍に寄って調整してやる。客たちが全員中性浮力を得たのを確認し、時計回りに岩の周りをまわり始めた。海面に上がる気泡を見ながら、将毅がボートでゆっくりついてくる。
岩壁に沿って、魚の群れが泳いでいる。正面から泳いでくる大群が五人を飲みこんでいく。餌袋を開けた途端、魚たちが寄ってくる。魚に囲まれ、客たちが興奮しているのがわかる。
エサをやり終えて、さらに岸壁沿いに外洋に向かって進んでいく。餌を捕るために、烏帽子岩に近寄ってくる外洋性の魚も多い。去年の夏はバショウカジキが泳いでいるのを見かけた。もう少し沖にいくと流れの早い上級者コースがあり、この時期シュモクザメの群れを見ることができる。
外洋側に出る。五十メートルまで落ち込んでいる場所で、岩壁が青く深い海底まで伸びている。海底が見えないので、まるで空を飛んでいるような気分になる。
カツオの群がすぐ目の前を横切る。浅瀬では散りじりになっていた四人の客たちが、ひと塊になって岸壁に沿って移動していく。一メートルを超える大型のヒラマサが、深い海を背景に泳いでいる。すぐ下の岸壁の窪みには、巨大なアオブダイが悠然と泳いでいる。ダイバー仲間から、烏帽子岩の主だと呼ばれている魚だ。いつもは好奇心旺盛なイルカが寄ってくるのだが、残念ながら姿が見当たらない。
彼女たちの前に回りこんで、ハウジングに収めたデジタルカメラのレンズを向ける。ファインダーの中で、彼女たちがVサインを送ってくる。水中カメラで写真を撮ってやるのも、サービスだ。岸壁から三十メートル離れた場所に、将毅の操縦するボートが浮かんでいる。
外洋側から内湾側に回りこんでいくと、うっすらと海底が見えてきた。完全に一周した時、客たちのボンベの残量がちょうど三十気圧にまで減っていた。
ボートに上がると、女たちが感動したと騒いでいる。大したことではないと思っていたが、それでも客に素直に喜ばれると嬉しいものだ。
二本目は外洋側から海に入り、水深二〇メートル辺りを泳いだ。待ちに待ったイルカの群れが現れると、客たちが興奮しているのが手に取るように分かった。イルカたちと戯れる彼女たちをカメラに収めていく。
ダイビングを終えハーバーに戻ると、早紀子が手伝いに来ていた。ボートを岸に付けて板を渡すと、恭介が先に降り、客たちの手を取ってボートから降ろした。四人ともウエットスーツを脱ぎ、水着姿になっていた。
「ありがとう」
ボートから降りた赤いビキニ姿の女が、にっこり微笑む。恭介の目の前で豊かな胸が揺れ、思わず頬を弛める。将毅が客たちのギアとウエットスーツを入れた籠をボートから降ろした。
「ねえねえ、南雲さん」
女たちが写真を一緒に撮ろうと寄ってきた。彼女たちが恭介を囲み、将毅がシャッターを押す。季節外れのビキニ姿に、思わず目を奪われる。早紀子が空の手押し車を押しながら近づいてきた。恭介が客の女たちとなれなれしくしているのを見て、機嫌を悪くしている。
「目がいやらしかった」
恭介と目を合わそうともせずぼそっと言うと、早紀子は機材の入った籠を手押し車に乗せ、車に戻っていった。
「目がいやらしかったぞ」
将毅が笑いながら空ボンベを渡していく。恭介がそれを受け取り、地面に並べていく。
籠をおろした早紀子が手押し車を押して戻ってきた。
「あいつらより、お前のほうが綺麗だよ」
恭介がそういっても、早紀子は「お客さんをあいつら呼ばわりしちゃ駄目よ」と、相変わらず愛想が悪い。
ワゴン車でマリンハウスに戻ると、美優の四駆が停まっていた。店から美優が出てきた。
「あいつは?」
「まだハーバーにいるよ」
客たちが自分の機材を洗っている間、恭介はボンベを車から降ろし、倉庫の前に並べてホースで水をかけた。
ハーバーで後片付けを終えた将毅と早紀子が歩いて戻ってきた。早紀子を見つけた美優が寄っていって、兄貴には目もくれず彼女に抱きついた。何かと仲がいいふたり。小姑問題はこの二人には関係ない。
客たちがシャワーを浴びようと、バスルームの前に並んで笑い声をあげている。
「なんか、いかにも都会のOLさんて感じね」
彼女たちの後ろ姿を見ていた美優が、肉付きのいい尻を見てにやけていた恭介の腿を蹴りあげた。
「早紀子ちゃんに睨まれるわよ。二十歳過ぎの女の子は、男のそういう部分はまだあまり理解できないんだから」
「お前もそれほど変わらん歳だろ。男のことは将毅からじっくり教わったのかい?」
そういうと咄嗟に横に跳んで、なおも蹴ろうとする美優の脚をよけた。
駐車場に車が一台入ってきた。黒塗りの高級車。しかし、茂樹のじゃない。男たちが次々に降りてきた。全部で三人。ひと目でその筋のものだとわかる風貌をしている。
男たちが店に入ってきた。不気味な男たちを見て、早紀子が怯える眼を向けた。
「この女を知らないか?」
大柄の男が恭介の前に写真を差し出した。若い女の写真だった。早紀子に似ている。
「さあな。この辺りじゃ見かけない女だな」
「おい、あの女だ」
別の男が叫んだ。残り二人が早紀子を見た。
「彼女は違う」そう言いかけたが、その前に男たちが店の隅にいた早紀子を囲んだ。
「何ですか?」
美優が前に立って男たちを睨みつけた。早紀子が美優の背中に身を隠している。恭介が駆け寄って、美優と男たちとの間に入った。
「どけよ」
「この子は別人だよ」
店の外から四人の女性客が恐る恐るこちらを覗いている。
「どうした?」
庭の樹の枝を払っていた将毅が、店内に戻ってきた。手に鎌を持っている。
「こんな子供じゃない」
男たちが、人違いだと気づいた。
「その女を見かけたらここに連絡をくれないか」
さっきの男が名刺を差し出した。明和興業と書いてある。派手なエンブレムが印刷された名刺だった。
「早紀子ちゃん、大丈夫?」
男たちが出ていってから、美優が早紀子の肩を抱いた。弱々しく頷いた早紀子の唇が真っ青になっている。
「なんだ、あいつらは」
将毅が恭介の手にあった名刺をとりあげた。
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