マリンブルー リベンジ

アーケロン

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四 訳ありの女

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 夜の八時。
 街はもう眠りについている。民家の窓から洩れる明かり以外、人工の光はない。車のヘッドライトを消せば、辺りは漆黒の闇に包まれる。都会から来た客には街灯ひとつない通りに驚く者も多いが、夜になると人通りの消えるこの辺りに街灯をつけるのは、税金の無駄遣いに等しい。
 防犯のため夜出歩かないのが、この界隈の常識だ。この時間に外にいるのは、真っ当じゃない人間だけだ。
 俺たちのことだな。
 恭介はボートの上から海に向かってタバコの吸殻を投げ入れた。波は穏やかだったが、潮風が日に日に冷たくなってきている。
 生簀の中を覗きこむ男の真剣な横顔が、ライトに照らし出されている。白髪交じりの短髪。五十代後半の、背は低いががっしりした男だった。密漁の品を扱うのだから堅気の卸業者ではないはずだ。
 男は手網で生簀から揚げた伊勢海老を品定めして、次々に水槽に放り込み、ノートに買い取り希望価格をメモしている。その横で将毅も同じように手帳に何かをメモしている。男に買い叩かれないように、水槽に放り込んだ海老に傷がないか確認しているのだろう。
 三十分ほどで男の作業が終わった。結局、生簀にあったエビをすべて買い取りたいといってきた。
 男が何か言う前に、将毅がノートを見ながら「五十万だ」と言った。このような闇取引では、先制攻撃が有効だ。
「五十万? 高いよ」
 男が咎めるように言う。もちろん張ったりだ。この町に住んでいれば、エビの卸値の相場くらいわかる。五十万じゃお買得のはずだ。
「相場より安いはずなんだがな」
 将毅も引かない。男は少しでも安く買い叩こうと食らいついてくる。こちらが強気に出れば向こうが折れることはわかっていたが、高額の取引に応じてくれる数少ない卸業者だ。この先長く付き合っていくべき相手に、そう強腰に出るわけにもいかない。
 男があと五万引いてくれと、なおも食らいついてくる。
「こっちは五十万欲しいんだ。アワビを十個付けるので、もう一万プラス。それでそうだ?」
 将毅の提案に男もようやく頷いた。一万円追加でアワビ十個懐に入るのなら、全体で、三万近い値引きをしてもらったことになる。
 将毅に金を渡すと、男は愛想のいい笑顔を浮かべてトラックに乗り込んだ。
「食えないオヤジだな」
 恭介が地面に唾を吐いた。どうもああいう人種は好きになれない。「都会じゃ、三倍の値はつくだろうに、せこく値切りやがる」
「強欲でないとやっていけない世界なんだよ。業界じゃ、あのオヤジもきっとやり手なんだろう」
 トラックが魚港から去ってから、見張りについていた瑛太が走って戻ってきた。闇夜での高額裏取引だ。場合によっては武器を持った連中に襲撃されることも考えられるので、常に見張りを置いている。不審者を発見した瑛太から電話連絡を受けると、恭介がすぐにボートのエンジンを始動し、括りつけたロープで生簀を引いて沖に逃げることになっている。
「どうだった?」
 瑛太が声を弾ませて訊いてきた。
「五一万。将毅が三で割れるようにした」
 恭介の言葉に将毅が笑っている。
「五一万? なんだよぉ、それ」
 瑛太が不満そうに口を尖らせた。
「もう少し高く買ってくれると思ってたんだがな」瑛太が嘆きながら生簀を覗き込んだ。中にはアワビが十個ほど残っているだけだった。
「お前もあまり欲を出すな。一人十七万。悪くないじゃないか」
 将毅が瑛太の肩を叩いた。
 その場で金を山分けし、三人はボートに乗った。生簀を引いて沖に出て、対岸の所定の位置に戻すと、ボートハーバーに戻った。
「取引成立の祝いだ」といって、持ち込んでいたクーラーを開けた。缶ビールだけじゃなく、ウイスキーにワインのボトルも入っている。早紀子に見つかれば大目玉だ。
 真っ先に缶ビールに手を伸ばした瑛太がプルトップを引いた。炭酸の吹き出る心地よい音とともに、ビールが甲板にこぼれる。それぞれが手に持ったビールの缶を合わせて喉に流し込んだ。
「給料の二か月分稼いだな」
 恭介が喉を通る心地よい炭酸の刺激に目を細めた。
「なんだよ、お前の月給、そんなに少ないのか?」
「この時期だけだ。労働時間が短いからな。夏にはがっぽり稼いでもらっている」
 将毅が銜えたタバコに火をつけた。
「夏にはどれだけもらっていたんだ?」
「さあな」
「今の四倍は渡していた」と将毅が笑う。
「ほんとかよ」
「黙ってろよ。瑛太にたかられるだろ」
「じゃあ、今度おごれ」
「馬鹿言え。これから春先まではもっと下がるんだよ。手取りが五万円になるんだぜ」
「うわあ、ひでえ」
「しょうがねえだろ。仕事もねえのに金はやれねえよ。うちの店も余裕はないんだ」将毅が空に向かって煙を吐き出す。
「どうやって生活するんだ? この町に他に仕事なんかないだろ。恭介が貯金なんてしているとも思えんし」
「こいつは貯め込んでるよ。車を買うからな」
「でかいのをな」恭介が一缶目を喉に流し込んだ。
「でも、五万じゃ、貯金を食いつぶしちまうだろ」
「出稼ぎにでもいくさ。冬は波が高くて海に潜れなくなる日も多くなるからな」
「早紀子ちゃんが寂しがるぞ」
 瑛太が意味ありげに笑っている。
「出稼ぎ先で女を抱いたらクビだ」と将毅。
「無茶言うな。俺は宦官じゃないんだ」
「宦官か。そりゃ、いいや」瑛太が夜空に向かって大笑いする。この男はビールのロング缶一本でご機嫌なる。
 それからしばらく、車とバイクの話で盛り上がった。
「今年こそ、車を買ってやる」
 恭介がウイスキーのボトルキャップを開けて、瓶口から直接喉に流し込んだ。喉を焼くような強烈な刺激に身震いする。
「どんなのが望みなんだよ」
 瑛太の舌が回っていない。
「中古車でもいい。排気量のでかい奴だ。エンジン音が腹に響く、トルクの太い、それでいてパワーのある車だ。そのための費用稼ぎに、今年の冬は本当に出稼ぎにいくかもしれないな」
「よし、じゃあ、休みの日には俺が会いに行ってやる」
「恭介が女を連れ込んでいないか、チェックするためだろ」
 やめてくれ。恭介の苦言に、二人が笑った。
「そういや、今朝、ヤクザ風の男が店に来たんだ」
「ヤクザ風? 茂樹か?」瑛太の言葉に、恭介と将毅がまた笑った。
「女を捜していた。結構いい女だったぜ」
 恭介がそういうと、将毅が頷いた。
「連中が捜していたのは、多分娼婦だろう。温泉街の置屋から逃げ出したのさ」
 将毅の言う通りかもしれない。温泉街には借金のかたに連れてこられ、売春を強要されている女が多いと聞く。女も温泉街にとっては大切な収入源だ。
 夏は家族連れとカップルと若者の海水浴客でごった返すが、その時期を過ぎると客足はがくっと落ち込む。夏以降の売りは温泉と鍋、そして、温泉街に出稼ぎに来る女たちだ。最近は都会からも若い女たちが出稼ぎに来る。都会は景気が悪いらしい。
 年配客が増える秋から冬には、どこの旅館でも女を呼べる。地場産業の無いこの町では、釣り客と温泉客の落とす金だけが町の収入源となる。連休前はそこそこ賑わうが、それ以外は客もまばらだ。
 温泉街から少し離れている将毅のペンションにも、シーズオフには釣り客が来る。十月が終わるまではスキューバーダイビングを楽しむ客も当てにできるが、それ以降は波が荒くなるので、海に潜るのは密漁者だけだ。
「岬の裏の岸壁に海老がいそうな岩礁がある。この前客を連れて潜ったとき、岩の割れ目に群れていた」
 恭介が将毅にウイスキーのボトルを渡しながら言った。
「岬の裏の岸壁って、昔、三人で伊勢海老を釣りにいったところか?」
 瑛太は伊勢海老釣りが得意だった。磯ゴカイを針につけ、テトラポットの間を探っていくと、針糸に絡まった伊勢海老を釣りあげることができる。海にいる伊勢海老はすべて漁師のものだ。もちろん、伊勢海老釣りも禁止されている。近くの漁師に見つかって何度も追いかけられた。
「あの場所は漁師も寄り付かない」
「だが。外海に近いな、この時期、夜近付くのは危ないだろう」
「じゃあ、仕事を早めに切りあげて、夕方捕りに行くか。生簀も空になったことだし」
 突然、デッキのハッチが開いて、女が船倉から出てきた。潮風の中でふわりと長い髪が踊る。肩の線の細い上品そうな後姿に、三人の顔から血の気が引いた。
「早紀子!」
 将毅の声が裏返った。今の話を聞かれたのか。
 しかし、振り返った女は早紀子ではなかった。ずっと大人の、見知らぬ女だった。
 ヤクザ風の男たちが探している女だ、と恭介は気づいた。早紀子に良く似ている。ヤクザたちが間違うのも無理はない。一瞬にせよ、兄の将毅ですら見間違えて顔色を変えたくらいだ。早紀子をそのまま大人っぽくしたような女だった。
「ごめんなさい、勝手に船の中に入ってしまって」
 女は甲板に尻をつき、目を伏せて吐息をついた。肩が大きく上下している。
「あんた、追われているのか?」
 女が黙って頷いた。恭介が傍に寄って女の顔を覗き込んだ。明らかに消耗しきっている。顔が真っ青だ。ボートに揺らされて酔ったのかもしれない。
 閉じていた目を開いて、女が顔を上げた。いい女だ。
「捕まりかけたんですけど、なんとか逃げだしてここに忍び込んで隠れていたんです」
「温泉街から逃げてきたのか?」
 女がかぶりを振った。
「あんた、どうして追われているんだ?」
 将毅が女の傍に屈んだ。瑛太が後ろから覗き込んでいる。
「今朝、ヤクザ風の男たちが俺の店にやってきた。あんたの写真を持ってな。どうして追われているんだ?」
 女がまた俯いた。将毅が追われている訳を訊いても、口を開こうとしない。
「警察に保護を願い出たらどうだ? 連絡してやろうか」
「それはその……。警察には連絡しないでください」
 そういって俯いたまま、理由を一切話そうとしない。
 訳あり女か。
「まあ、言いたくないなら何も聞かないさ」そういって将毅が女の肩を軽く叩く。
「すみません」
「で、ここから逃げ出したいのかい?」
「いえ……。実は、ある人の家を訪ねようとこの町にやってきたんです。でも、場所がわからなくて。町をうろついているとき、あの男たちに見つかってしまって、このボートに逃げ込んだんです」
「ある人って、誰だい? 狭い町だ。地元の人間なら俺たちも知っているかもしれない」
「藤澤祥子さんという女性の家を探しているんです」
 女の言葉に声を上げそうになった。将毅も瑛太もお互いの顔を見て驚いている。三人の様子を見て、女が表情を変えた。
「彼女のことをご存知なんですか?」
「親友の姉貴で、町を出て行ったきり行方不明なんだ」
 恭介の言葉に女が口を手で覆った。
「どうして、藤澤祥子さんを探しているんだ?」
「祥子さんとは東京で知り合ったんです。彼女が突然部屋からいなくなって、東京で心当たりのあるところを探したんですけど、見つからなくって。故郷は下津だと言っていたので、ここまで探しにきたんです」
「祥子さんなら、もう何年も家に帰っていないはずだが」
「でも、もしかしたら、弟さんが何か知っているんじゃないかと思ってここまできたんです。ご友人なら連絡を取ってもらえますか?」
「申し訳ないが、弟の和弥は二か月前に事故で死んだんだ」
 将毅の言葉に、女が言葉を失った。ずいぶんな驚きようだった。
「知らなかったのかい?」
「ええ」
「祥子さんがいなくなったのはいつなんだ?」
「一月前……」
「ということは、和弥の姉ちゃんも弟が死んだことはまだ知らないだろうな」
 瑛太が寂しそうに呟いた。
「祥子さんとはどういう知り合いなんだい?」
「同じ店で働いていたんです。お店で一番仲が良かったのが彼女で……」
 和弥の姉が東京で働く場所といえば、業種も限られてくる。女は伏せていた顔を上げた。
「弟さんはどのような事故にあったんですか?」
「酒飲んでスピード出しすぎて、ガードレールに激突したんだ」
「お酒を?」女が訝しげな顔をした。その表情が気になった。
「和弥が事故で死んだと聞いて、何か気になることでもあるのかい?」
 女が下を向く。よく視線を逸らす女だ。
「気になるとか、そんなんじゃなくて……」
「あんた、もしかして、和弥は事故で死んだんじゃないって思ったんじゃないのか?」
 女がはっと顔を上げた。将毅も瑛太も不意を突かれたような表情を恭介に向けた。
「実は、和弥が殺されたと思い込んで、あいつの恋人が調べまわっているんだ」
「殺された……」
 女が息を飲んだ。
「あんた、今、そう感じたんじゃないのか? 和弥は殺されたんだと」
 将毅も瑛太も黙ってふたりの会話を聞いていた。
「わかりません、私には……」
「そうか……」
 これまでの経験で、女の勘というものも馬鹿にはできないと思っていた。何かを期待してしまったが、どうやら気のせいだったようだ。
 友人の弟の死を悼んで、女が三人の目の前で下を向いて肩を震わせている。藤澤祥子とはかなり仲が良かったのだろう。
「私、祥子さんの生まれ育った家をどうしても見たいんです」
「祥子さんの家は今、空き屋だ。両親も、もういない」
「わかっています。でも、どうしても一目見ておきたいんです。祥子さんがどんな生活をしていたのか知りたいんです。祥子さんが育った部屋をどうしても一目みたい……」
 三人は顔を見合わせた。
「家には入れるのか?」
 将毅が瑛太を見た。瑛太の実家は和弥の家のすぐ近所だ。
「鍵は自治会長が持っていると思うよ。和弥が死んでからは家の中もそのままのはずだ」
「わかった。今夜は遅い。明日、案内してやるよ」
 将毅の言葉に、女が顔を綻ばせ、頭を下げた。
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