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六 闇夜の墓地で
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暇な午後だった。
客もいないので、仕事もない。早紀子は客室の清掃をしている。真希も彼女を手伝っていた。彼女の両親は昼過ぎからどこかに外出している。暇な時間ができれば、子供に留守を任せて夫婦で出かけることが多い。
ひたすら夜を待つ。将毅と恭介はマリンハウスの掃除をして時間を潰すことにした。しかし、さほど広い店でもないので、ふたりでゆっくり掃除をしてもすぐに終わってしまった。恭介はダイビング機材を置いてある倉庫で備品の整理をしたが、二時間もすればすっかりやることがなくなってしまった。
午後四時を過ぎた頃、連中の黒の高級車が店の前で停まったが、車内からこちらの様子を窺っただけで走り去っていった。連中の行動も雑になってきている。真希はもう町の外に逃げてしまったと、思っているのかもしれない。
太陽が水平線にかかった頃、倉庫に真希がやってきた。
「何をしていたんだ? まさか、ずっと掃除をしていたわけじゃないんだろ?」
「早紀子ちゃんとお話をしていたの。彼女、とてもいい子ね。一緒に話をしていると、すごく安らげるの」
「そうかい?」
危ない男たちに追われているのに、真希が穏やかな笑顔を向けている。一度へそを曲げると手に負えなくなるが、真希の言うとおり、早紀子には他人をふわりと包み込み、安心感を与えてリラックスさせる優しい雰囲気を持っている。案外、彼女の隠れた才能なのかもしれない。
「実はお願いがあるんですけど」
恭介の傍に寄ってきた真希の顔から、先ほどの微笑みは消えていた。何か真剣な相談事でもあるようだ。
「それは、厄介なことなのか?」
「多分……」
「いいよ、言ってみろ。いまさらあんたが何言ったって驚きはしないよ」
「ごめんなさい」
細い首を倒して頭を垂れる彼女の姿がどこか痛々しかった。
「気にすんな。で、何だい?」
「祥子さんの御両親や弟さんのお墓参りをしたいの」
「墓参りって、何を暢気なことを言ってるんだ」
「無理を言ってるのはわかっています。今、自分がどんな状況に置かれているかも。でも、このまま祥子さんの故郷から逃げ出したくないの」
「そんなこといっても、連中に捕まれば酷い目に合わされるんだろ?」
真希は俯いて黙ってしまった。
祥子の消息を尋ねようと彼女の弟に会いに来たが、既に死んでいた。そう知らされたときの真希のショックは、恭介が想像している以上に大きかったはずだ。せめて、墓前で手を合わせることくらいはしたい。彼女がそう思う気持ちはよく理解できる。
藤澤家の墓のある大蓮寺は、ペンションの裏を回りこんで細い林道を登った先にある。連中が見張っている温泉街は通らないし、町の外に出る道路でもない。連中が見張っていることはないだろう。
「わかった。いちおう将毅に相談してみるが、問題ないだろう」
女の顔がぱっと明るくなった。
「それに早紀子にも相談しないとな。勝手に連れて行くと怒られそうだ」
「本当に彼女のことが大切なのね」
「俺たちの様子を見ていると、普通なら苦手かって聞いてきそうなものなんだが」
「うまくいえないけど、あなたが彼女のことを大切に思っているのは良くわかるわ」
「あいつが小学生の頃から面倒を見てきたからな。それに、親友の妹だ」
「それだけ?」
真希の穏やかな視線に、何故か胸の奥がざわついた。
「それだけさ」
陽が沈むと、ペンションの周囲はあっという間に闇に包まれた。点在する民家から漏れてくる明かりが、闇の中で星のように光っている。
外の様子を見に行っていた将毅が戻ってきた。
「誰もいないな」
「このペンションを怪しんでいると思っていたんだが、気のせいだったか」
恭介が耳をそばだてて、周囲の気配を窺う。木々がざわめく音しか聞こえてこない。風がだいぶ強くなってきている。
「町全体を見張るには人数が少なすぎる。連中だって本気で見つけられるとは思っていないさ。それに、この天候だ」
「どうかな。手柄をたてれば組の中で出世できるかもしれない。簡単には諦めないだろう」
部屋の奥から戻ってきた早紀子が、「はい」といって恭介に懐中電灯を手渡した。
「すみません、こんなときにわがまま言って」
トイレから戻ってきた真希が、三人の前で頭を下げた。
「別にたいしたことじゃない。大蓮寺はすぐそこだ。行って戻ってくるくらいすぐだよ」
「お夕飯作って待ってるね」
早紀子の声がどこか沈んでいた。大蓮寺から戻ってくれば、真希を町の外に連れだすことになっている。真希と別れるのが寂しいのだろう。
車で小田原辺りまで行けば、そこから新幹線で好きなところに逃げられる。真希にどこに行く気なのか聞いたが、まだ考えていないといっていた。連中に追われて逃げているので、東京には戻れないだろう。逃げ込む先が今の時点で決まっていないはずはない。どこに逃げるか、恭介や将毅や、早紀子にまで秘密にしておきたいのだろう。
たしかに謎の多い女だ。だが、今夜でこの女との関係も終わる。これ以上詮索する意味など、どこにも無いのだ。
「じゃあ、行くか」
「悪いが、俺は一緒に行けない。波がかなり高くなってきているので、今夜中にボートを岸に揚げなくっちゃならないんだ。まだ桟橋に括り付けたままだからな」
「戻ってきたら手伝うよ」
「瑛太が来てくれることになっている。戻ったら、先に飯食って待っていてくれ」
運転席に乗り込んでエンジンをかける。真希が助手席に身体を滑り込ませてドアを閉めた。ヘッドライトを点灯させ、駐車場から道に出る。
途中、一台の車とすれ違っただけで、周囲に人影は無かった。目立たないように民家の間を貫く細い道を抜け、林道に入った。林道はくねりながら山頂の寺まで続いている。
「暗い道ね。真っ暗」
「何も明かりが無いからな。それに、日が暮れて寺に行くものもいない。地元でもいわくつきの場所だから」
「いわくつきって?」
「出るって噂だ」
真希が身体を強張らせた。
「その手の話を信じるほうなのかい?」
「占いは信じるほうなの」
真希が急にそわそわし始めた。オカルトじみた話は苦手のようだ。
「和弥の骨は再婚した母親と同じ墓に納められているんだが、墓の場所ははっきりとは覚えていないんだ。ダチたちと一度拝みに行っただけだから」
「私も一緒に探します」
「俺の親父も埋まっている。墓参りなんて数えるくらいしかしたことがないので、ちょうど良かったよ」
「お母さんは?」
「ばあちゃんの具合が悪いので故郷に戻った。母親はこの町を嫌っていたんだ。温泉街で働いていたが、嫌なことでもあったんだろう。町を出て行くときに戻ってくる気はないといったので、俺だけがここに残った」
「仲のいいお友達がいっぱいいるから?」
「母親にとっては他所の土地だが、俺にとっては生まれ故郷だからな」
十分ほどで寺の駐車場に到着した。車を降りて、墓地に向かって歩き出した頃、暗闇の中で車のエンジン音が響いた。
目の前で強烈なライトが輝く。
つけられていた。ヘッドライトを消して尾行されたので、気付かなかった。そんなことに慣れた連中だ。
身構えたとき、車から三人の男が降りてきた。
「な、俺の言ったとおりだったろ。怪しい車だと思ったんだ」
誰かが得意げに言った。聞き覚えのある声。真希のことを探していた男たちだ。
さっきすれ違った車だったのか。
真希が腕にしがみついてきた。
「あいつか? 違うんじゃねえのか?」
「いや、あの女で間違いない」
三人の男が近寄ってきた。ヘッドライトが逆光なので、表情がわからない。顔の見えない相手というのは、余計に不気味に見える。
恭介がポケットからスマートフォンを取り出した。同時にふたりが恭介に突進してきた。体当たりされ、真希の悲鳴とともにふたりとも地面に倒された。スマートフォンを弾き飛ばされ、ヘッドライトの明かりの外の闇に転がっていく。液晶画面がしばらく光っていたが、やがて画面の明かりが消えた。
素早く立ち上がる。位置が入れ替わった。男たちの顔がライトに照らされている。やはり、見覚えのある顔だった。
「大丈夫か?」
倒れている真希に声をかけた。
「俺のスマホを探して、将毅に連絡してくれ。八代将毅の番号を呼び出せ」そういって、スマートフォンが消えた闇を指差した。
さっきのふたりがまた突進して来た。正面から掴みかかってくる男が髪を掴む。
頭突き。読んでいた。腕を突き上げて、飛び込んでこようとしている相手の顎を捕らえた。顎があがったところを、踏み込んで鳩尾に右膝を叩き込んだ。まともに入った。男が喉の奥から下品な呻き声を上げ、仰向けに倒れた。
もう一人が後ろから腰に掴みかかってきた。顔から地面に倒れこんだ。鳩尾に膝を叩き込まれた男が立ち上がり、上から押さえ込もうとしている。身体のでかい男だ。アスファルトに叩きつけられた顔面が熱い。
頭に血が昇るのがわかる。男がうつぶせに倒れた恭介の背中に乗り、髪をつかんで恭介の顔を地面に叩きつけようとした。両腕を地面に立て、上体を支え踏ん張る。
このやろう。頭に血が昇っていく。満身の力をこめて上体を起こしていく。腕を立て、膝を立てて、ゆっくり立ち上がっていく。
「こいつ、すげえ馬鹿力だ」
背中に乗っている男が、恭介の髪を引っ張りながら叫んだ。大きなお世話だ。お前に馬鹿呼ばわりされる覚えはねえよ。
背中に乗っている男を振り落とす。もうひとりの男が正面に立っていた。顔面を立て続けに殴られ、口の中に錆の味が広がる。振り落とした男が後ろから掴みかかってくる。男の太い腕が恭介の腰に巻きつき、腰の前でがっちり掌を組んでいる。その男の指の一本を自分の指で引っ掛けて起こして掴むと、思い切り逆に反らせた。
骨の折れる感触とともに、男が悲鳴をあげて恭介の腰を離した。恭介が正面に立つ男に突進していく。後ろに下がろうとする男の左腕を掴んで引き寄せ、脚を払って倒す。倒れた男を脚蹴りにする。恭介の靴先が男の腹や背中に食い込み、そのたびに男が情けない悲鳴をあげた。
真希の悲鳴が闇の中に響いた。振り返ると、ひとり車の傍で黙って見ていた男が、真希の髪を掴んで引きずりまわしている。
「おとなしくしろよ。この女をぼこぼこにするぞ」
地面に倒れていた男が立ち上がって背中を蹴った。そのまま地面に倒れる。指を折られた男の靴が目の前に見えている。
咄嗟に身体を丸める。ふたりの男の靴先が、身体中に叩き込まれる。全身を貫く激痛に、呼吸もできない。
「手を焼かせやがって」
「こいつ、指を折りやがった」
恭介の背中をひと蹴りして、男が吐き捨てるようにいった。真希が泣き叫んでいる。
「それだけ痛みつけりゃ、気が済んだだろ」
真希の髪をつかんで引きずり回していた男の声だった。
倒れた状態で両手両足を少し動かす。少し動かしただけで激痛が走ったが、折れている様子はない。うまく呼吸ができない。空気を飲み込むようにしながら、少しずつ肺に送り込んでいく。胸に痛みが走る。肋骨が折れているのか。
「俺たちを恨むのは筋違いなんだぜ」
恭介がうっすらと瞼を開ける。男のひとりが顔を覗き込んでいた。
「この女は俺たちの借金を踏み倒そうとしやがったんだ。俺たちは借りた金を返してもらおうとしているだけなんだよ。悪いのは女のほうなんだ」
しゃがんでいた男が立ち上がった。
海老のように丸まった状態から、身体をゆっくりと仰向けにする。胸に激痛が走る。やはり肋骨が折れているようだ。しかし、動けないわけじゃない。
真希の悲鳴が闇の中に響く。殴られたようだ。
タイヤが地面を踏む微かな振動が後頭部から伝わってきた。しばらくして、真っ暗な駐車場に新たな光が飛び込んできた。
仲間が来たのか。恭介が首をあげた。
車が停まってドアが開く音がする。首を傾けると、車からひとりの男が降りてくるのが目に入った。
「誰だ!」
誰かが叫んだ。ということは、こいつらの仲間ではないのか。車から降りた男がゆっくりと近づいてくる。
様子がおかしい。恭介は激痛に歯を食いしばって上体を起こした。
「その女をこっちにもらおう」
低くうなるようなかすれ声だった。三人の男たちが一瞬言葉を失った後、失笑を漏らした。
「なんだよ、お前。この女の知り合いか?」
真希を引きずったまま、三人で男に近寄っていく。
「ふざけるんじゃない。借金を返せないなら、この女にはうちの店で働いてもらわにゃならんのだよ。それともあんたがこの女の借金を払ってくれるのか。その気がないなら、さっさと帰りやがれ」
暗闇の中で男の腕が動いた。爆音があたりに響き、真希が悲鳴を上げてしゃがみこんだ。しばらくして銃声だと気づいた。
三人の男たちが地面に倒れている。身動きひとつしない。あっという間の出来事だった。
撃ち殺したのだ。
いったい、何なんだ。何が何だかさっぱりわからない。
いい腕をしている。殺し屋かも知れない。男から目が離せない。冷たい汗が背中を流れた。背中だけじゃない。全身が汗まみれになっている。
たかが女一人取り戻すのに、ここまでやるのか。
この女は何者なのだ。
「サエコ、こっちにこい」
喉が潰れたような男の声に真希が顔を上げた。サエコ。それがこの女の本当の名前なのだろう。
「車に乗れ。お前もだ」男が恭介に銃口を向けた。
「こいつらにしこたま蹴られて、身体じゅう痛くて動かせない。骨も折れているかもしれない」
「じゃあ、ここで死ぬかい?」
舌打ちして腰を上げた。激痛に呻き声を上げる。
「ポケットの中のものを出せ」男の指示通り、ポケットの中のものを地面に投げた。キーケース。男がそれを拾い上げた。
「何の鍵だ」男が大きな鍵を宙で揺らす。
「ボートだ」
「お前、ボートなんか持ってるのか」
「ダチのだよ」
「よし、早く車に乗れ。お前が運転するんだ」
「運転なんて無理だ」
「無理でもやるんだよ。ここで殺されてえのか」
銃を突き付けてくる。激痛で身体が動かない。隙を突いて逃げ出すのは無理そうだ。男の顔を見た。パンチパーマで左頬に大きな傷跡がある。
「お前の車に乗るんだ」
「あんたの車は置いていくのかい?」
「てめえが心配することじゃねえ。早く車に乗れ」
ここで車を乗り換えるつもりか。
恭介は素直に車の運転席に座った。男は真希に銃を突き付けて後部座席に押し込むと、その横に乗り込んだ。
「ボートを停めている港にいくんだ」
恭介は黙って車のエンジンをかけて、ハンドルを握った。地面に転がっていた三つの死体が、ヘッドライトに照らされた。
真希の身柄を押さえたと、男が誰かに電話で報告している。三人殺っちまった。奴らの仲間だ。サエコを連れてボートで岬を回り込む。そう言って、電話を切った。
「岬を回り込むのは危険だ。台風がすぐそこまで来ている。波も高い。岬の外は外洋だ。ボートを出すなんて自殺しに行くようなもんだ」
「うるせえな」男が後頭部に銃口をつきつけた。「自殺じゃなきゃ、ここで殺されるかだ。好きなほうを選べ」
「わかったよ」
このままでは殺されると直感した。痛みはさっきより少しましになったようだ。外は暗い。隙を見て逃げ出せば、一人では逃げられないこともない。しかし、真希は無理だろう。
ハーバーに向かう小道に入る。停泊しているボートが見える。将毅はまだボートを岸に揚げていなかった。
「どれだ?」
「一番手前のボートだよ」
「よし、すぐ傍につけろ」
桟橋の傍に車を停めると、男が真希の腕をつかんで後部座席から引きずり出した。男の左手に小指がなかった。
「お前も降りろ」男が窓の外から銃を突き付けてくる。いつ撃ち殺されてもおかしくない状況だ。
桟橋の上を渡り始めた時だった。
「恭介」
後ろから声をかけられ、振り向いた。瑛太が、小走りで駆け寄ってくる。
「お前、そこで何やってんだ?」
「逃げろ、瑛太!」
耳がつんざくような銃声とともに、瑛太の身体が傾いた。腹を押さえ二歩三歩とよろけると、岸壁からそのまま海面に落下した。
「この野郎!」
「奴が不運だったんだよ」
銃を突きつけながら、面倒そうに苦笑いしている。怒りが爆発しそうだが、この状況ではどうしようもない。男が真希をボートに乗せて、自分も飛び乗った。
「お前も乗れ、操縦するんだ」男の手にはボートのキーが握られていた。
身体がふわっと浮いた。そして強い衝撃。ボートの腹が激しく海面を叩いた。
真希がボートの外に身を乗り出して、また吐いた。彼女はもう何度も吐いている。胃液すら残っていないはずなのに、嘔吐に苦しんでいる。男のほうは船酔いしている様子もなく、鋭い目をこちらに向けたまま銃を突き付けている。
「こんな波の高い海をボートで走るのは無理だ」
「無理でもこのまま走るんだよ」
何とかしなくては。このまま突き進んでも、恭介を待っている運命は海に突き落とされるか撃ち殺されるかだ。どちらもぞっとしない。
「波が高すぎて操縦できない。前に進めないし、このままでは転覆してしまう」
「うるせえな。お前をぶっ殺して俺が操縦してもいいんだぜ」
「船の操縦に慣れているものじゃないと無理だ」
「だろ? だったら黙って船を動かせ」
右手に岬を見ながら、波に舳先を立てるように慎重に進んでいく。岬に近寄れば波の高さはましになるが、岬の近くには岩礁が多い。こんな海に放り出されたら一巻の終わりだ。
船体は枯葉のように、うねる波間を漂っている。真希がまた吐いた。後ろにいる彼女の顔は見えないが、顔には血の気はないだろう。
目の前に波が押し寄せてきた。でかい。舳先を立てて波に突き進む。船が大きく傾き、波を越えた。波先で船体が浮き、急に沈んだ。
男が恭介の座っている座席のヘッドレストを掴んだ。身体が浮いてバランスを崩したのだ。大波の谷間に下り切ったところで、恭介は思い切り舵を右に切った。遠心力でボートが横に大きく傾く。
真希の悲鳴の後、男の悲鳴が聞こえてきた。
視界の隅に、まるでスローモーションのように海に落ちていく男の姿を捉えた。手に持っている銃もはっきりと見えた。
「大丈夫か!」
恭介が大声で叫んだ。波から目を離せないので、後ろを見ることができない。
「大丈夫です」ようやく聞き取れるくらいのか弱い声で、真希が応えた。海に落ちた男の姿は、すでに波間に消えていた。
波が高くなってきた。このままでは転覆してしまう。このまま進むべきか港に戻るべきか。距離的には同じくらいだが、撃たれた瑛太のことを思い出した。
「港に戻るぞ!」
恭介は慎重に舵を切った。
岸壁に、こちらを見ている将毅の姿が確認できた。足元に誰かが座っている。その場で叫び出したくなった。減速しなくてはならない位置にいたが、うっかりアクセルを開けてボートの速度をあげそうになった。
「瑛太!」
ボートから叫んだ。瑛太が生きていた。将毅が桟橋に飛び乗り、ボートにロープを投げ込んだ。恭介は投げ込まれたロープでボートを係留することも忘れ、ボートから飛び出していた。
「この野郎!」
瑛太を抱きしめた。涙が出てきた。彼の身体はまだ湿っていた。夜風に吹かれ、湿った服が冷え切っている。
「お前に泣かれたって嬉しかねえよ」
瑛太が笑いながら、抱きしめた手で恭介の背中を叩いた。
「どうして助かったんだよ!」
腹に被弾したのをたしかに見た。
「これだよ」そういって、濡れた雑誌を恭介に突き出した。全部で三冊ある。
「こいつを腹に隠していたんだ。アングラの無修正版だよ。ネットの時代でもエロ本は貴重だからな。人よりスケベだったおかげで、ひとつしかない命を失わずに済んだ」
「今度貸してくれ」
「もう、駄目だな」
瑛太が水を含みきって皺だらけになった雑誌を広げた。
将毅がボートから真希を連れてきた。酷い船酔いで彼女の脚がかなりふらついている。
「どうしてあんな狙われ方をする?」
恭介が問い詰めても、真希は何も答えようとしない。
「奴はあんたのことをサエコって呼んでいたよな。あんたの本当の名前なのかい? 上河真希ってのは、偽名なんだろ?」
真希は俯いたまま、口を開こうとしない。
「大蓮寺の駐車場で三人殺された」
「殺された?」将毅が鸚鵡返しに聞き返した。
「銃で撃ち殺されたんだ。死体はまだ残っている。朝になれば大騒ぎになるだろう」
恭介は足を踏み出して真希の前に立った。真希が黙って俯いたまま、身を竦めた。
「三人も死んだんだ。警察に事実を話したほうがいい」
真希が顔を上げて目を見開いた。
「警察は絶対に駄目……。お願いです……」
「だが、黙っているわけにはいかない」
「お願いです……」
俯いたまま、真希が涙を零した。
客もいないので、仕事もない。早紀子は客室の清掃をしている。真希も彼女を手伝っていた。彼女の両親は昼過ぎからどこかに外出している。暇な時間ができれば、子供に留守を任せて夫婦で出かけることが多い。
ひたすら夜を待つ。将毅と恭介はマリンハウスの掃除をして時間を潰すことにした。しかし、さほど広い店でもないので、ふたりでゆっくり掃除をしてもすぐに終わってしまった。恭介はダイビング機材を置いてある倉庫で備品の整理をしたが、二時間もすればすっかりやることがなくなってしまった。
午後四時を過ぎた頃、連中の黒の高級車が店の前で停まったが、車内からこちらの様子を窺っただけで走り去っていった。連中の行動も雑になってきている。真希はもう町の外に逃げてしまったと、思っているのかもしれない。
太陽が水平線にかかった頃、倉庫に真希がやってきた。
「何をしていたんだ? まさか、ずっと掃除をしていたわけじゃないんだろ?」
「早紀子ちゃんとお話をしていたの。彼女、とてもいい子ね。一緒に話をしていると、すごく安らげるの」
「そうかい?」
危ない男たちに追われているのに、真希が穏やかな笑顔を向けている。一度へそを曲げると手に負えなくなるが、真希の言うとおり、早紀子には他人をふわりと包み込み、安心感を与えてリラックスさせる優しい雰囲気を持っている。案外、彼女の隠れた才能なのかもしれない。
「実はお願いがあるんですけど」
恭介の傍に寄ってきた真希の顔から、先ほどの微笑みは消えていた。何か真剣な相談事でもあるようだ。
「それは、厄介なことなのか?」
「多分……」
「いいよ、言ってみろ。いまさらあんたが何言ったって驚きはしないよ」
「ごめんなさい」
細い首を倒して頭を垂れる彼女の姿がどこか痛々しかった。
「気にすんな。で、何だい?」
「祥子さんの御両親や弟さんのお墓参りをしたいの」
「墓参りって、何を暢気なことを言ってるんだ」
「無理を言ってるのはわかっています。今、自分がどんな状況に置かれているかも。でも、このまま祥子さんの故郷から逃げ出したくないの」
「そんなこといっても、連中に捕まれば酷い目に合わされるんだろ?」
真希は俯いて黙ってしまった。
祥子の消息を尋ねようと彼女の弟に会いに来たが、既に死んでいた。そう知らされたときの真希のショックは、恭介が想像している以上に大きかったはずだ。せめて、墓前で手を合わせることくらいはしたい。彼女がそう思う気持ちはよく理解できる。
藤澤家の墓のある大蓮寺は、ペンションの裏を回りこんで細い林道を登った先にある。連中が見張っている温泉街は通らないし、町の外に出る道路でもない。連中が見張っていることはないだろう。
「わかった。いちおう将毅に相談してみるが、問題ないだろう」
女の顔がぱっと明るくなった。
「それに早紀子にも相談しないとな。勝手に連れて行くと怒られそうだ」
「本当に彼女のことが大切なのね」
「俺たちの様子を見ていると、普通なら苦手かって聞いてきそうなものなんだが」
「うまくいえないけど、あなたが彼女のことを大切に思っているのは良くわかるわ」
「あいつが小学生の頃から面倒を見てきたからな。それに、親友の妹だ」
「それだけ?」
真希の穏やかな視線に、何故か胸の奥がざわついた。
「それだけさ」
陽が沈むと、ペンションの周囲はあっという間に闇に包まれた。点在する民家から漏れてくる明かりが、闇の中で星のように光っている。
外の様子を見に行っていた将毅が戻ってきた。
「誰もいないな」
「このペンションを怪しんでいると思っていたんだが、気のせいだったか」
恭介が耳をそばだてて、周囲の気配を窺う。木々がざわめく音しか聞こえてこない。風がだいぶ強くなってきている。
「町全体を見張るには人数が少なすぎる。連中だって本気で見つけられるとは思っていないさ。それに、この天候だ」
「どうかな。手柄をたてれば組の中で出世できるかもしれない。簡単には諦めないだろう」
部屋の奥から戻ってきた早紀子が、「はい」といって恭介に懐中電灯を手渡した。
「すみません、こんなときにわがまま言って」
トイレから戻ってきた真希が、三人の前で頭を下げた。
「別にたいしたことじゃない。大蓮寺はすぐそこだ。行って戻ってくるくらいすぐだよ」
「お夕飯作って待ってるね」
早紀子の声がどこか沈んでいた。大蓮寺から戻ってくれば、真希を町の外に連れだすことになっている。真希と別れるのが寂しいのだろう。
車で小田原辺りまで行けば、そこから新幹線で好きなところに逃げられる。真希にどこに行く気なのか聞いたが、まだ考えていないといっていた。連中に追われて逃げているので、東京には戻れないだろう。逃げ込む先が今の時点で決まっていないはずはない。どこに逃げるか、恭介や将毅や、早紀子にまで秘密にしておきたいのだろう。
たしかに謎の多い女だ。だが、今夜でこの女との関係も終わる。これ以上詮索する意味など、どこにも無いのだ。
「じゃあ、行くか」
「悪いが、俺は一緒に行けない。波がかなり高くなってきているので、今夜中にボートを岸に揚げなくっちゃならないんだ。まだ桟橋に括り付けたままだからな」
「戻ってきたら手伝うよ」
「瑛太が来てくれることになっている。戻ったら、先に飯食って待っていてくれ」
運転席に乗り込んでエンジンをかける。真希が助手席に身体を滑り込ませてドアを閉めた。ヘッドライトを点灯させ、駐車場から道に出る。
途中、一台の車とすれ違っただけで、周囲に人影は無かった。目立たないように民家の間を貫く細い道を抜け、林道に入った。林道はくねりながら山頂の寺まで続いている。
「暗い道ね。真っ暗」
「何も明かりが無いからな。それに、日が暮れて寺に行くものもいない。地元でもいわくつきの場所だから」
「いわくつきって?」
「出るって噂だ」
真希が身体を強張らせた。
「その手の話を信じるほうなのかい?」
「占いは信じるほうなの」
真希が急にそわそわし始めた。オカルトじみた話は苦手のようだ。
「和弥の骨は再婚した母親と同じ墓に納められているんだが、墓の場所ははっきりとは覚えていないんだ。ダチたちと一度拝みに行っただけだから」
「私も一緒に探します」
「俺の親父も埋まっている。墓参りなんて数えるくらいしかしたことがないので、ちょうど良かったよ」
「お母さんは?」
「ばあちゃんの具合が悪いので故郷に戻った。母親はこの町を嫌っていたんだ。温泉街で働いていたが、嫌なことでもあったんだろう。町を出て行くときに戻ってくる気はないといったので、俺だけがここに残った」
「仲のいいお友達がいっぱいいるから?」
「母親にとっては他所の土地だが、俺にとっては生まれ故郷だからな」
十分ほどで寺の駐車場に到着した。車を降りて、墓地に向かって歩き出した頃、暗闇の中で車のエンジン音が響いた。
目の前で強烈なライトが輝く。
つけられていた。ヘッドライトを消して尾行されたので、気付かなかった。そんなことに慣れた連中だ。
身構えたとき、車から三人の男が降りてきた。
「な、俺の言ったとおりだったろ。怪しい車だと思ったんだ」
誰かが得意げに言った。聞き覚えのある声。真希のことを探していた男たちだ。
さっきすれ違った車だったのか。
真希が腕にしがみついてきた。
「あいつか? 違うんじゃねえのか?」
「いや、あの女で間違いない」
三人の男が近寄ってきた。ヘッドライトが逆光なので、表情がわからない。顔の見えない相手というのは、余計に不気味に見える。
恭介がポケットからスマートフォンを取り出した。同時にふたりが恭介に突進してきた。体当たりされ、真希の悲鳴とともにふたりとも地面に倒された。スマートフォンを弾き飛ばされ、ヘッドライトの明かりの外の闇に転がっていく。液晶画面がしばらく光っていたが、やがて画面の明かりが消えた。
素早く立ち上がる。位置が入れ替わった。男たちの顔がライトに照らされている。やはり、見覚えのある顔だった。
「大丈夫か?」
倒れている真希に声をかけた。
「俺のスマホを探して、将毅に連絡してくれ。八代将毅の番号を呼び出せ」そういって、スマートフォンが消えた闇を指差した。
さっきのふたりがまた突進して来た。正面から掴みかかってくる男が髪を掴む。
頭突き。読んでいた。腕を突き上げて、飛び込んでこようとしている相手の顎を捕らえた。顎があがったところを、踏み込んで鳩尾に右膝を叩き込んだ。まともに入った。男が喉の奥から下品な呻き声を上げ、仰向けに倒れた。
もう一人が後ろから腰に掴みかかってきた。顔から地面に倒れこんだ。鳩尾に膝を叩き込まれた男が立ち上がり、上から押さえ込もうとしている。身体のでかい男だ。アスファルトに叩きつけられた顔面が熱い。
頭に血が昇るのがわかる。男がうつぶせに倒れた恭介の背中に乗り、髪をつかんで恭介の顔を地面に叩きつけようとした。両腕を地面に立て、上体を支え踏ん張る。
このやろう。頭に血が昇っていく。満身の力をこめて上体を起こしていく。腕を立て、膝を立てて、ゆっくり立ち上がっていく。
「こいつ、すげえ馬鹿力だ」
背中に乗っている男が、恭介の髪を引っ張りながら叫んだ。大きなお世話だ。お前に馬鹿呼ばわりされる覚えはねえよ。
背中に乗っている男を振り落とす。もうひとりの男が正面に立っていた。顔面を立て続けに殴られ、口の中に錆の味が広がる。振り落とした男が後ろから掴みかかってくる。男の太い腕が恭介の腰に巻きつき、腰の前でがっちり掌を組んでいる。その男の指の一本を自分の指で引っ掛けて起こして掴むと、思い切り逆に反らせた。
骨の折れる感触とともに、男が悲鳴をあげて恭介の腰を離した。恭介が正面に立つ男に突進していく。後ろに下がろうとする男の左腕を掴んで引き寄せ、脚を払って倒す。倒れた男を脚蹴りにする。恭介の靴先が男の腹や背中に食い込み、そのたびに男が情けない悲鳴をあげた。
真希の悲鳴が闇の中に響いた。振り返ると、ひとり車の傍で黙って見ていた男が、真希の髪を掴んで引きずりまわしている。
「おとなしくしろよ。この女をぼこぼこにするぞ」
地面に倒れていた男が立ち上がって背中を蹴った。そのまま地面に倒れる。指を折られた男の靴が目の前に見えている。
咄嗟に身体を丸める。ふたりの男の靴先が、身体中に叩き込まれる。全身を貫く激痛に、呼吸もできない。
「手を焼かせやがって」
「こいつ、指を折りやがった」
恭介の背中をひと蹴りして、男が吐き捨てるようにいった。真希が泣き叫んでいる。
「それだけ痛みつけりゃ、気が済んだだろ」
真希の髪をつかんで引きずり回していた男の声だった。
倒れた状態で両手両足を少し動かす。少し動かしただけで激痛が走ったが、折れている様子はない。うまく呼吸ができない。空気を飲み込むようにしながら、少しずつ肺に送り込んでいく。胸に痛みが走る。肋骨が折れているのか。
「俺たちを恨むのは筋違いなんだぜ」
恭介がうっすらと瞼を開ける。男のひとりが顔を覗き込んでいた。
「この女は俺たちの借金を踏み倒そうとしやがったんだ。俺たちは借りた金を返してもらおうとしているだけなんだよ。悪いのは女のほうなんだ」
しゃがんでいた男が立ち上がった。
海老のように丸まった状態から、身体をゆっくりと仰向けにする。胸に激痛が走る。やはり肋骨が折れているようだ。しかし、動けないわけじゃない。
真希の悲鳴が闇の中に響く。殴られたようだ。
タイヤが地面を踏む微かな振動が後頭部から伝わってきた。しばらくして、真っ暗な駐車場に新たな光が飛び込んできた。
仲間が来たのか。恭介が首をあげた。
車が停まってドアが開く音がする。首を傾けると、車からひとりの男が降りてくるのが目に入った。
「誰だ!」
誰かが叫んだ。ということは、こいつらの仲間ではないのか。車から降りた男がゆっくりと近づいてくる。
様子がおかしい。恭介は激痛に歯を食いしばって上体を起こした。
「その女をこっちにもらおう」
低くうなるようなかすれ声だった。三人の男たちが一瞬言葉を失った後、失笑を漏らした。
「なんだよ、お前。この女の知り合いか?」
真希を引きずったまま、三人で男に近寄っていく。
「ふざけるんじゃない。借金を返せないなら、この女にはうちの店で働いてもらわにゃならんのだよ。それともあんたがこの女の借金を払ってくれるのか。その気がないなら、さっさと帰りやがれ」
暗闇の中で男の腕が動いた。爆音があたりに響き、真希が悲鳴を上げてしゃがみこんだ。しばらくして銃声だと気づいた。
三人の男たちが地面に倒れている。身動きひとつしない。あっという間の出来事だった。
撃ち殺したのだ。
いったい、何なんだ。何が何だかさっぱりわからない。
いい腕をしている。殺し屋かも知れない。男から目が離せない。冷たい汗が背中を流れた。背中だけじゃない。全身が汗まみれになっている。
たかが女一人取り戻すのに、ここまでやるのか。
この女は何者なのだ。
「サエコ、こっちにこい」
喉が潰れたような男の声に真希が顔を上げた。サエコ。それがこの女の本当の名前なのだろう。
「車に乗れ。お前もだ」男が恭介に銃口を向けた。
「こいつらにしこたま蹴られて、身体じゅう痛くて動かせない。骨も折れているかもしれない」
「じゃあ、ここで死ぬかい?」
舌打ちして腰を上げた。激痛に呻き声を上げる。
「ポケットの中のものを出せ」男の指示通り、ポケットの中のものを地面に投げた。キーケース。男がそれを拾い上げた。
「何の鍵だ」男が大きな鍵を宙で揺らす。
「ボートだ」
「お前、ボートなんか持ってるのか」
「ダチのだよ」
「よし、早く車に乗れ。お前が運転するんだ」
「運転なんて無理だ」
「無理でもやるんだよ。ここで殺されてえのか」
銃を突き付けてくる。激痛で身体が動かない。隙を突いて逃げ出すのは無理そうだ。男の顔を見た。パンチパーマで左頬に大きな傷跡がある。
「お前の車に乗るんだ」
「あんたの車は置いていくのかい?」
「てめえが心配することじゃねえ。早く車に乗れ」
ここで車を乗り換えるつもりか。
恭介は素直に車の運転席に座った。男は真希に銃を突き付けて後部座席に押し込むと、その横に乗り込んだ。
「ボートを停めている港にいくんだ」
恭介は黙って車のエンジンをかけて、ハンドルを握った。地面に転がっていた三つの死体が、ヘッドライトに照らされた。
真希の身柄を押さえたと、男が誰かに電話で報告している。三人殺っちまった。奴らの仲間だ。サエコを連れてボートで岬を回り込む。そう言って、電話を切った。
「岬を回り込むのは危険だ。台風がすぐそこまで来ている。波も高い。岬の外は外洋だ。ボートを出すなんて自殺しに行くようなもんだ」
「うるせえな」男が後頭部に銃口をつきつけた。「自殺じゃなきゃ、ここで殺されるかだ。好きなほうを選べ」
「わかったよ」
このままでは殺されると直感した。痛みはさっきより少しましになったようだ。外は暗い。隙を見て逃げ出せば、一人では逃げられないこともない。しかし、真希は無理だろう。
ハーバーに向かう小道に入る。停泊しているボートが見える。将毅はまだボートを岸に揚げていなかった。
「どれだ?」
「一番手前のボートだよ」
「よし、すぐ傍につけろ」
桟橋の傍に車を停めると、男が真希の腕をつかんで後部座席から引きずり出した。男の左手に小指がなかった。
「お前も降りろ」男が窓の外から銃を突き付けてくる。いつ撃ち殺されてもおかしくない状況だ。
桟橋の上を渡り始めた時だった。
「恭介」
後ろから声をかけられ、振り向いた。瑛太が、小走りで駆け寄ってくる。
「お前、そこで何やってんだ?」
「逃げろ、瑛太!」
耳がつんざくような銃声とともに、瑛太の身体が傾いた。腹を押さえ二歩三歩とよろけると、岸壁からそのまま海面に落下した。
「この野郎!」
「奴が不運だったんだよ」
銃を突きつけながら、面倒そうに苦笑いしている。怒りが爆発しそうだが、この状況ではどうしようもない。男が真希をボートに乗せて、自分も飛び乗った。
「お前も乗れ、操縦するんだ」男の手にはボートのキーが握られていた。
身体がふわっと浮いた。そして強い衝撃。ボートの腹が激しく海面を叩いた。
真希がボートの外に身を乗り出して、また吐いた。彼女はもう何度も吐いている。胃液すら残っていないはずなのに、嘔吐に苦しんでいる。男のほうは船酔いしている様子もなく、鋭い目をこちらに向けたまま銃を突き付けている。
「こんな波の高い海をボートで走るのは無理だ」
「無理でもこのまま走るんだよ」
何とかしなくては。このまま突き進んでも、恭介を待っている運命は海に突き落とされるか撃ち殺されるかだ。どちらもぞっとしない。
「波が高すぎて操縦できない。前に進めないし、このままでは転覆してしまう」
「うるせえな。お前をぶっ殺して俺が操縦してもいいんだぜ」
「船の操縦に慣れているものじゃないと無理だ」
「だろ? だったら黙って船を動かせ」
右手に岬を見ながら、波に舳先を立てるように慎重に進んでいく。岬に近寄れば波の高さはましになるが、岬の近くには岩礁が多い。こんな海に放り出されたら一巻の終わりだ。
船体は枯葉のように、うねる波間を漂っている。真希がまた吐いた。後ろにいる彼女の顔は見えないが、顔には血の気はないだろう。
目の前に波が押し寄せてきた。でかい。舳先を立てて波に突き進む。船が大きく傾き、波を越えた。波先で船体が浮き、急に沈んだ。
男が恭介の座っている座席のヘッドレストを掴んだ。身体が浮いてバランスを崩したのだ。大波の谷間に下り切ったところで、恭介は思い切り舵を右に切った。遠心力でボートが横に大きく傾く。
真希の悲鳴の後、男の悲鳴が聞こえてきた。
視界の隅に、まるでスローモーションのように海に落ちていく男の姿を捉えた。手に持っている銃もはっきりと見えた。
「大丈夫か!」
恭介が大声で叫んだ。波から目を離せないので、後ろを見ることができない。
「大丈夫です」ようやく聞き取れるくらいのか弱い声で、真希が応えた。海に落ちた男の姿は、すでに波間に消えていた。
波が高くなってきた。このままでは転覆してしまう。このまま進むべきか港に戻るべきか。距離的には同じくらいだが、撃たれた瑛太のことを思い出した。
「港に戻るぞ!」
恭介は慎重に舵を切った。
岸壁に、こちらを見ている将毅の姿が確認できた。足元に誰かが座っている。その場で叫び出したくなった。減速しなくてはならない位置にいたが、うっかりアクセルを開けてボートの速度をあげそうになった。
「瑛太!」
ボートから叫んだ。瑛太が生きていた。将毅が桟橋に飛び乗り、ボートにロープを投げ込んだ。恭介は投げ込まれたロープでボートを係留することも忘れ、ボートから飛び出していた。
「この野郎!」
瑛太を抱きしめた。涙が出てきた。彼の身体はまだ湿っていた。夜風に吹かれ、湿った服が冷え切っている。
「お前に泣かれたって嬉しかねえよ」
瑛太が笑いながら、抱きしめた手で恭介の背中を叩いた。
「どうして助かったんだよ!」
腹に被弾したのをたしかに見た。
「これだよ」そういって、濡れた雑誌を恭介に突き出した。全部で三冊ある。
「こいつを腹に隠していたんだ。アングラの無修正版だよ。ネットの時代でもエロ本は貴重だからな。人よりスケベだったおかげで、ひとつしかない命を失わずに済んだ」
「今度貸してくれ」
「もう、駄目だな」
瑛太が水を含みきって皺だらけになった雑誌を広げた。
将毅がボートから真希を連れてきた。酷い船酔いで彼女の脚がかなりふらついている。
「どうしてあんな狙われ方をする?」
恭介が問い詰めても、真希は何も答えようとしない。
「奴はあんたのことをサエコって呼んでいたよな。あんたの本当の名前なのかい? 上河真希ってのは、偽名なんだろ?」
真希は俯いたまま、口を開こうとしない。
「大蓮寺の駐車場で三人殺された」
「殺された?」将毅が鸚鵡返しに聞き返した。
「銃で撃ち殺されたんだ。死体はまだ残っている。朝になれば大騒ぎになるだろう」
恭介は足を踏み出して真希の前に立った。真希が黙って俯いたまま、身を竦めた。
「三人も死んだんだ。警察に事実を話したほうがいい」
真希が顔を上げて目を見開いた。
「警察は絶対に駄目……。お願いです……」
「だが、黙っているわけにはいかない」
「お願いです……」
俯いたまま、真希が涙を零した。
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