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仮面卿外伝【第二章 太陽が沈んだその後に】
第十話 ひるがえる獅子の旗
何と、朝日に照らし出された街道を進むのは、ヴィスタニア帝国の旗を掲げた馬車だったのだ。風にひるがえるのは赤地に獅子の紋章である。
代表者を乗せているであろう馬車の後ろからは、武装した騎馬兵がずらりと続いている。国交問題になる一歩手前、ぎりぎりの軍を動員したのだと分かる。皇帝のブリュンヒルデを連れ帰ろうという意図がはっきりと見て取れた。彼女を返さないのなら、開戦も辞さないという意思表示だろう。
この時の気持ちをなんと言えばいいのだろう。悲しみと悔しさが混在し、オーギュストはぐっと拳を握りしめた。
もう一日早ければ……
そうだ、たった一日、たった一日だ! 何故守れなかった!
涙が溢れそうになるも、全力でローザを守れと自分を叱咤する。最後に残った光だ。急ぎ森の丸太小屋に戻ったオーギュストは、ドアが半開きになっていることに気が付き、はっとなった。
まさか……
オーギュストは急ぎドアを開け、目にした光景に言葉を失った。
「おかえりー」
何とあの魔女がいて、ローザを抱き上げているではないか。オーギュストから血の気が引いた。ブリュンヒルデを失い、ローザまで失ったらどうなるかわからない。
アンバーもまた顔面蒼白だ。ダニーとフルールもいる。何があったのか、想像に難くない。魔女に押し入られたのだ。
「で、殿下、申し訳ありません。ノックをする音で、殿下かと思って開けたら、こ、この女で……」
アンバーが震える声でそう告げる。
「どうしてここが分かった?」
オーギュストが問う。
後はつけられていない。完全にまいたはずだ。
ケイトリンがにたぁと笑う。
「分かるよぉ。そこの女も同じ事聞いたけどさ、この子、あたいの血を飲んでるもん。あたいの血を飲んだ人間はね、あたいと引き合うんだ。どこにいても居場所が分かる」
そう答え、オーギュストに歩み寄る。
「ね、オーギュ。あたいの機嫌は取った方がいいよ? だって、あたいの血を飲めば、みーんなオーギュの敵に回るんだからさ、大っ嫌いなオーギュの子供の世話なんかするわけがない。むしろ殺そうとするんじゃないかなぁ? オーギュにだって、ほら、この子の世話は無理でしょう?」
ケイトリンがオーギュストにローザを渡せば、火が付いたように泣き出した。どうしようもない。
「殿下、こっちへ」
見るに見かねたアンバーが飛んできてくれた。泣き叫ぶローザを受け取ってあやすアンバーを、ケイトリンが面白そうに眺める。
「んふっ、今親切ぶってるその女だってさ、あたいの血を飲めばオーギュの敵に回るよ? ううん、この女だけじゃない、そっちの女も、街中の人間がオーギュの敵に回る。ね? そんな状態で、この赤ん坊、いつまで生きていられるかなぁ? オーギュがいっくら強くってもさ、街中の人間が敵になったらどう? 守り切れる? 絶対、死ぬよね?」
きゃははと耳障りな甲高い声を上げておかしそうに笑う。ケイトリンに抱きつかれて、オーギュストはぞわりと鳥肌が立った。ケイトリンが甘えるように顔を寄せる。
「オーギュ、キスして?」
こ、の……
握り込んだオーギュストの拳が震える。湧き上がる殺意を抑えるので必死だった。
締め殺してやりたい……。ブリュンヒルデが味わった苦しみを何倍にもして返せればどんなにか……。だが、殴ったところで一向に応えないと知っている。
どうすればいい? どうすればこの女を殺せる?
――秘薬が作られた目的は、愛を得ることにある……
ふっとオーギュストの脳裏に聖王リンドルンの言葉が蘇る。
――もし汝が、愛と言う名の牢獄から抜け出したいとそう願うなら、愛を模倣せよ。魔女の力を得た者に偽りの愛を信じさせよ。さすれば秘薬の力は反転し、毒の血が薬となる。不死性は取り払われ、秘薬で得た力は失われるであろう……
たとえ偽りでも、それを本物の愛だと信じさせれば、秘薬で得た力は失われる……望み通り魔女となった女を殺せる……ローザを取り戻せる?
ケイトリンが顔を寄せ、オーギュストにキスを迫れば、フルールが声を荒げた。
「ちょっと、あんた! 何様? 彼は王族よ? 王太子だったの! 不敬にも程が……」
「あー、煩いなぁ」
ケイトリンが振り向き、憤るフルールを睨み付けた。フルールはびくりと体を震わせる。嫌な予感を覚えたのだ。そして、そういった予感は大抵当たる。
「ひひ……もしかしてあんたさ、オーギュに気がある?」
押し黙ったフルールに、ケイトリンがにじり寄った。
「あんた、邪魔。オーギュに色目を使う女はね、みーんな殺してやるの」
襲いかかろうと動いたケイトリンの首に、背後からナイフを突き立てたのはオーギュストだった。冷淡な眼差しが酷く恐ろしい。まるで死神のよう。
「ひっ!」
ケイトリンの首から真っ赤な血が噴き出し、フルールが悲鳴を上げるも、当のケイトリンはまったく動じることなく、にたぁと笑う。ぐるんと振り返り、オーギュストを見上げた。
「うふっ、オーギュ、駄目だってばぁ。不死身だって言ってるじゃん? まだ分かんないの?」
「……そう、見ての通り不死身の化け物だ。何もするな」
そのオーギュストの言葉が、フルールに向けられたものだと理解した時には、オーギュストがケイトリンの唇を奪っていた。
そう、彼女の望み通りに……
意外すぎる光景に誰もが唖然となる。熱烈なラブシーンだ。アンバーやダニーはもとより、つい今し方、恐ろしさに身を縮めていたフルールでさえ、ぽかんと見入ってしまった。
オーギュストの緑の瞳に宿るのは決意である。爛々と輝くそれは、断固たる意志の力を秘めて美しい。
そうだ、叶えてやるとも。見ているがいい。殺意を押し隠し、お前が望む男を演じてみせる……ローザを取り戻すその時までは……
「すごい……素敵……」
ほうっとため息をつき、ぼんやりとケイトリンが言う。
「アンバー?」
オーギュストの呼びかけで、アンバーがはっと我に返った。
「ローザの様子は?」
「え? あ……だ、大丈夫です、泣き止みました」
確かに泣き止んでいる。アンバーがよしよしとあやしてやれば、ローザがようやくきゃっきゃと笑った。ケイトリンが上機嫌で、オーギュストの腕にするりと自分の腕を絡める。
「一緒に寝よう、オーギュ。あたい、疲れちゃった。オーギュの寝室はどこ?」
ケイトリンの厚かましい要求に、フルールは憤るも何も言えない。先程目にした光景が忘れられないからだ。不死身の化け物……夢じゃない。先程吹き出した血の跡が、床にべっとりと残っている。本当に化け物だった。
隣の小屋に移動する二人の背を見送り、フルールがぽつりと言う。
「何なの、あれ……」
「ヴィスタニア兵が連れてきたのよ」
アンバーの呟きにフルールはびくりとなる。
「ヴィスタニア兵が?」
「そう、そしてあの女はブリュンヒルデ様を殺したの」
フルールはひゅっと喉を詰まらせる。
「え? 何で? ヴィスタニア兵はブリュンヒルデ様を連れ戻しに来ただけでしょう?」
フルールの疑問にアンバーが首を横に振る。
「いいえ、オーギュスト殿下を殺そうとなさったわ。ハインリヒ陛下の頼みで動いたのかしら? だからってあんまりよ。ヴィスタニア兵が連れてきたあの女のせいで、ブリュンヒルデ様は命を落とされて、オーギュスト殿下はあんな風に身動きがとれなくなってる」
「そんな……」
フルールは愕然とした。
そんなつもりじゃなかった。ただ、彼女が自分の国へ帰ればいいって、そう思っただけで……。そうよ、ブリュンヒルデ様の居場所を密告したけれど、殺そうなんてそんな大それた事を考えたわけじゃない。一人で国へ帰って欲しかっただけ……
心の中でフルールは、必死に言い訳をする。
だって、だって平民になって暮らすなんて、皇女様にできっこないじゃない。この先、殿下のお荷物になるだけだって、そう思ったから……違うわ、わたしの、わたしのせいじゃない。
カタカタとフルールの体が震える。違う違うと何度も打ち消すけれど、どうしても指先の震えが収まってはくれない。
「ヴィスタニアの兵なのに……なんてことを……訳が分からないわ」
アンバーの眼から涙がぽろぽろと零れた。
「あの女はオーギュスト殿下に執着しているみたい。薄気味が悪いけれどどうしようもないわ。不死身なんですもの」
それはこの先の暗い未来を暗示する言葉だった。
◇◇◇
「何だね、この子らは……随分と怠け者になったもんだ」
程なくして起きだしてきたリズが、中々起きようとしないダニーとフルールの姿にあきれ顔だ。といっても、二人はつい先程眠ったばかりなので無理もないのだろうが……
アンバーはというと、彼女は一睡もしていない。いろんな事がありすぎた。居間にある長椅子の上で膝を丸めているアンバーに、リズはちらりと目を向け、ため息をつく。
「一体どうしたんだ? まるで死人みたいな顔しているよ。殿下はどうなさった?」
「……となりの小屋にいます」
アンバーがもそもそとそう答える。
「ふうん? で、何があったのか聞かせてもらえるのか?」
「ブリュンヒルデ様が亡くなりました」
その返答に、リズが息をのんだ。
「亡くなったって……産褥か?」
「いえ、その、殺されたんです。それで……」
アンバーは口ごもる。
ブリュンヒルデ様を殺した不死の魔女に、オーギュスト殿下が付き纏われていて、ローザ様の命が危ない……こんな話を信じてもらえるのだろうか?
アンバーがどう説明しようか悩んでいると、ローザが泣き出した。
「よしよし、ローザ様、どうなさいました? ああ、もしかして、お腹がすいたんですか?」
アンバーがミルクを確認すると、残りあと僅かである。それに気が付いたリズが言う。
「ああ、乳が足りないのかい? だったら、今、山羊の乳を搾ってきてやるよ」
「あ、ありがとうございます!」
アンバーは素直にリズの親切に甘えることにする。リズの乳搾りに付き合い、新鮮なミルクをローザに与えれば、んくんくとむさぼるように飲んだ。やはりお腹がすいていたらしい。
リズがため息交じりに言う。
「ブリュンヒルデ様が亡くなったんじゃ……オーギュスト殿下は、しばらくそっとしておいた方がいいかね?」
「そうしていただけるとありがたいです」
アンバーが頷いた。でないと、あの化け物女に何をされるかわからない。
その後、畑仕事に出かけたリズを見送ったアンバーは、長椅子の上でうつらうつら船をこぐ。流石に疲れ切っていた。一晩中気を張っていたも同然である。
殿下は、大丈夫、かしら……
そんな事を考えつつ、どれくらい寝入っていたのか、ある時、激しく泣くローザの声でアンバーははっと目を覚ます。
いけない……寝てしまったんだわ……
ローザに乳を与えようとして、はたと気が付く。テーブルの上に追加のミルクが置いてあるのだ。
おしめ用の布までたくさん……リズさんかしら?
彼女が来た事にまったく気が付かなかった。本当に熟睡していたようである。ローザへ与えるようにと書かれたテーブルの上のメモ書きを見て、アンバーは気が付いた。
リズさんは字が書けないはず……ということは、これ、殿下? いつの間に……
つい、彼の姿を探すように周囲を見回してしまうが、やはり誰もいない。陶器製の哺乳瓶に乳を入れ、ローザに飲ませれば、ようやく泣き止んでくれた。
トントンとローザの背を叩いてゲップをさせ、眠るようにゆらゆらとあやしていると、アンバーの耳に物を激しく打ち付けるような音が届いた。
ドンッドンッという微かな音は、どうやら森の奥から聞こえてくるようだ。アンバーはそうっと小屋から顔を出す。気になって仕方がない。
眠っているローザを抱えたまま、アンバーが森の奥へと入っていけば、オーギュストが大木に拳を打ち付けていた。彼の姿を目にしたアンバーは、ほっと胸をなで下ろす。
よかった、ご無事だったのね……
代表者を乗せているであろう馬車の後ろからは、武装した騎馬兵がずらりと続いている。国交問題になる一歩手前、ぎりぎりの軍を動員したのだと分かる。皇帝のブリュンヒルデを連れ帰ろうという意図がはっきりと見て取れた。彼女を返さないのなら、開戦も辞さないという意思表示だろう。
この時の気持ちをなんと言えばいいのだろう。悲しみと悔しさが混在し、オーギュストはぐっと拳を握りしめた。
もう一日早ければ……
そうだ、たった一日、たった一日だ! 何故守れなかった!
涙が溢れそうになるも、全力でローザを守れと自分を叱咤する。最後に残った光だ。急ぎ森の丸太小屋に戻ったオーギュストは、ドアが半開きになっていることに気が付き、はっとなった。
まさか……
オーギュストは急ぎドアを開け、目にした光景に言葉を失った。
「おかえりー」
何とあの魔女がいて、ローザを抱き上げているではないか。オーギュストから血の気が引いた。ブリュンヒルデを失い、ローザまで失ったらどうなるかわからない。
アンバーもまた顔面蒼白だ。ダニーとフルールもいる。何があったのか、想像に難くない。魔女に押し入られたのだ。
「で、殿下、申し訳ありません。ノックをする音で、殿下かと思って開けたら、こ、この女で……」
アンバーが震える声でそう告げる。
「どうしてここが分かった?」
オーギュストが問う。
後はつけられていない。完全にまいたはずだ。
ケイトリンがにたぁと笑う。
「分かるよぉ。そこの女も同じ事聞いたけどさ、この子、あたいの血を飲んでるもん。あたいの血を飲んだ人間はね、あたいと引き合うんだ。どこにいても居場所が分かる」
そう答え、オーギュストに歩み寄る。
「ね、オーギュ。あたいの機嫌は取った方がいいよ? だって、あたいの血を飲めば、みーんなオーギュの敵に回るんだからさ、大っ嫌いなオーギュの子供の世話なんかするわけがない。むしろ殺そうとするんじゃないかなぁ? オーギュにだって、ほら、この子の世話は無理でしょう?」
ケイトリンがオーギュストにローザを渡せば、火が付いたように泣き出した。どうしようもない。
「殿下、こっちへ」
見るに見かねたアンバーが飛んできてくれた。泣き叫ぶローザを受け取ってあやすアンバーを、ケイトリンが面白そうに眺める。
「んふっ、今親切ぶってるその女だってさ、あたいの血を飲めばオーギュの敵に回るよ? ううん、この女だけじゃない、そっちの女も、街中の人間がオーギュの敵に回る。ね? そんな状態で、この赤ん坊、いつまで生きていられるかなぁ? オーギュがいっくら強くってもさ、街中の人間が敵になったらどう? 守り切れる? 絶対、死ぬよね?」
きゃははと耳障りな甲高い声を上げておかしそうに笑う。ケイトリンに抱きつかれて、オーギュストはぞわりと鳥肌が立った。ケイトリンが甘えるように顔を寄せる。
「オーギュ、キスして?」
こ、の……
握り込んだオーギュストの拳が震える。湧き上がる殺意を抑えるので必死だった。
締め殺してやりたい……。ブリュンヒルデが味わった苦しみを何倍にもして返せればどんなにか……。だが、殴ったところで一向に応えないと知っている。
どうすればいい? どうすればこの女を殺せる?
――秘薬が作られた目的は、愛を得ることにある……
ふっとオーギュストの脳裏に聖王リンドルンの言葉が蘇る。
――もし汝が、愛と言う名の牢獄から抜け出したいとそう願うなら、愛を模倣せよ。魔女の力を得た者に偽りの愛を信じさせよ。さすれば秘薬の力は反転し、毒の血が薬となる。不死性は取り払われ、秘薬で得た力は失われるであろう……
たとえ偽りでも、それを本物の愛だと信じさせれば、秘薬で得た力は失われる……望み通り魔女となった女を殺せる……ローザを取り戻せる?
ケイトリンが顔を寄せ、オーギュストにキスを迫れば、フルールが声を荒げた。
「ちょっと、あんた! 何様? 彼は王族よ? 王太子だったの! 不敬にも程が……」
「あー、煩いなぁ」
ケイトリンが振り向き、憤るフルールを睨み付けた。フルールはびくりと体を震わせる。嫌な予感を覚えたのだ。そして、そういった予感は大抵当たる。
「ひひ……もしかしてあんたさ、オーギュに気がある?」
押し黙ったフルールに、ケイトリンがにじり寄った。
「あんた、邪魔。オーギュに色目を使う女はね、みーんな殺してやるの」
襲いかかろうと動いたケイトリンの首に、背後からナイフを突き立てたのはオーギュストだった。冷淡な眼差しが酷く恐ろしい。まるで死神のよう。
「ひっ!」
ケイトリンの首から真っ赤な血が噴き出し、フルールが悲鳴を上げるも、当のケイトリンはまったく動じることなく、にたぁと笑う。ぐるんと振り返り、オーギュストを見上げた。
「うふっ、オーギュ、駄目だってばぁ。不死身だって言ってるじゃん? まだ分かんないの?」
「……そう、見ての通り不死身の化け物だ。何もするな」
そのオーギュストの言葉が、フルールに向けられたものだと理解した時には、オーギュストがケイトリンの唇を奪っていた。
そう、彼女の望み通りに……
意外すぎる光景に誰もが唖然となる。熱烈なラブシーンだ。アンバーやダニーはもとより、つい今し方、恐ろしさに身を縮めていたフルールでさえ、ぽかんと見入ってしまった。
オーギュストの緑の瞳に宿るのは決意である。爛々と輝くそれは、断固たる意志の力を秘めて美しい。
そうだ、叶えてやるとも。見ているがいい。殺意を押し隠し、お前が望む男を演じてみせる……ローザを取り戻すその時までは……
「すごい……素敵……」
ほうっとため息をつき、ぼんやりとケイトリンが言う。
「アンバー?」
オーギュストの呼びかけで、アンバーがはっと我に返った。
「ローザの様子は?」
「え? あ……だ、大丈夫です、泣き止みました」
確かに泣き止んでいる。アンバーがよしよしとあやしてやれば、ローザがようやくきゃっきゃと笑った。ケイトリンが上機嫌で、オーギュストの腕にするりと自分の腕を絡める。
「一緒に寝よう、オーギュ。あたい、疲れちゃった。オーギュの寝室はどこ?」
ケイトリンの厚かましい要求に、フルールは憤るも何も言えない。先程目にした光景が忘れられないからだ。不死身の化け物……夢じゃない。先程吹き出した血の跡が、床にべっとりと残っている。本当に化け物だった。
隣の小屋に移動する二人の背を見送り、フルールがぽつりと言う。
「何なの、あれ……」
「ヴィスタニア兵が連れてきたのよ」
アンバーの呟きにフルールはびくりとなる。
「ヴィスタニア兵が?」
「そう、そしてあの女はブリュンヒルデ様を殺したの」
フルールはひゅっと喉を詰まらせる。
「え? 何で? ヴィスタニア兵はブリュンヒルデ様を連れ戻しに来ただけでしょう?」
フルールの疑問にアンバーが首を横に振る。
「いいえ、オーギュスト殿下を殺そうとなさったわ。ハインリヒ陛下の頼みで動いたのかしら? だからってあんまりよ。ヴィスタニア兵が連れてきたあの女のせいで、ブリュンヒルデ様は命を落とされて、オーギュスト殿下はあんな風に身動きがとれなくなってる」
「そんな……」
フルールは愕然とした。
そんなつもりじゃなかった。ただ、彼女が自分の国へ帰ればいいって、そう思っただけで……。そうよ、ブリュンヒルデ様の居場所を密告したけれど、殺そうなんてそんな大それた事を考えたわけじゃない。一人で国へ帰って欲しかっただけ……
心の中でフルールは、必死に言い訳をする。
だって、だって平民になって暮らすなんて、皇女様にできっこないじゃない。この先、殿下のお荷物になるだけだって、そう思ったから……違うわ、わたしの、わたしのせいじゃない。
カタカタとフルールの体が震える。違う違うと何度も打ち消すけれど、どうしても指先の震えが収まってはくれない。
「ヴィスタニアの兵なのに……なんてことを……訳が分からないわ」
アンバーの眼から涙がぽろぽろと零れた。
「あの女はオーギュスト殿下に執着しているみたい。薄気味が悪いけれどどうしようもないわ。不死身なんですもの」
それはこの先の暗い未来を暗示する言葉だった。
◇◇◇
「何だね、この子らは……随分と怠け者になったもんだ」
程なくして起きだしてきたリズが、中々起きようとしないダニーとフルールの姿にあきれ顔だ。といっても、二人はつい先程眠ったばかりなので無理もないのだろうが……
アンバーはというと、彼女は一睡もしていない。いろんな事がありすぎた。居間にある長椅子の上で膝を丸めているアンバーに、リズはちらりと目を向け、ため息をつく。
「一体どうしたんだ? まるで死人みたいな顔しているよ。殿下はどうなさった?」
「……となりの小屋にいます」
アンバーがもそもそとそう答える。
「ふうん? で、何があったのか聞かせてもらえるのか?」
「ブリュンヒルデ様が亡くなりました」
その返答に、リズが息をのんだ。
「亡くなったって……産褥か?」
「いえ、その、殺されたんです。それで……」
アンバーは口ごもる。
ブリュンヒルデ様を殺した不死の魔女に、オーギュスト殿下が付き纏われていて、ローザ様の命が危ない……こんな話を信じてもらえるのだろうか?
アンバーがどう説明しようか悩んでいると、ローザが泣き出した。
「よしよし、ローザ様、どうなさいました? ああ、もしかして、お腹がすいたんですか?」
アンバーがミルクを確認すると、残りあと僅かである。それに気が付いたリズが言う。
「ああ、乳が足りないのかい? だったら、今、山羊の乳を搾ってきてやるよ」
「あ、ありがとうございます!」
アンバーは素直にリズの親切に甘えることにする。リズの乳搾りに付き合い、新鮮なミルクをローザに与えれば、んくんくとむさぼるように飲んだ。やはりお腹がすいていたらしい。
リズがため息交じりに言う。
「ブリュンヒルデ様が亡くなったんじゃ……オーギュスト殿下は、しばらくそっとしておいた方がいいかね?」
「そうしていただけるとありがたいです」
アンバーが頷いた。でないと、あの化け物女に何をされるかわからない。
その後、畑仕事に出かけたリズを見送ったアンバーは、長椅子の上でうつらうつら船をこぐ。流石に疲れ切っていた。一晩中気を張っていたも同然である。
殿下は、大丈夫、かしら……
そんな事を考えつつ、どれくらい寝入っていたのか、ある時、激しく泣くローザの声でアンバーははっと目を覚ます。
いけない……寝てしまったんだわ……
ローザに乳を与えようとして、はたと気が付く。テーブルの上に追加のミルクが置いてあるのだ。
おしめ用の布までたくさん……リズさんかしら?
彼女が来た事にまったく気が付かなかった。本当に熟睡していたようである。ローザへ与えるようにと書かれたテーブルの上のメモ書きを見て、アンバーは気が付いた。
リズさんは字が書けないはず……ということは、これ、殿下? いつの間に……
つい、彼の姿を探すように周囲を見回してしまうが、やはり誰もいない。陶器製の哺乳瓶に乳を入れ、ローザに飲ませれば、ようやく泣き止んでくれた。
トントンとローザの背を叩いてゲップをさせ、眠るようにゆらゆらとあやしていると、アンバーの耳に物を激しく打ち付けるような音が届いた。
ドンッドンッという微かな音は、どうやら森の奥から聞こえてくるようだ。アンバーはそうっと小屋から顔を出す。気になって仕方がない。
眠っているローザを抱えたまま、アンバーが森の奥へと入っていけば、オーギュストが大木に拳を打ち付けていた。彼の姿を目にしたアンバーは、ほっと胸をなで下ろす。
よかった、ご無事だったのね……
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