夏服と雨と君の席

神楽耶 夏輝

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幼馴染

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 凛と空気を研ぎ澄ます消毒液の匂い。心電計の優しい音。和やかに談笑する声。窓を叩く雨。いつになくひんやりとしびれをもたらす左手の指先。
 自由をうばわれたかのように強張る体。
 いつもとは違う感覚を味わいながら、ゆらは、ゆっくりと目を開けた。
 真っ白い天井に、一瞬、別世界に来たかのような錯覚を覚える。
 腕に繋がれた管は、ポールに下げられた透明の袋に繋がっていて、ぽたりぽたりとゆっくり雫を落としていた。

「目が覚めたわね。よかったわ」
 聞きなれた母の優しい声に、ゆらはようやく自分の置かれている状況を把握した。

「病院? どうして?」
 今朝、登校中の通学路で、シンジの自転車が目の前で止まった。シンジは怖い顔で何かを言いたげにゆらを睨んでいた。
 それが、ゆらの最後の記憶だった。

「あら、覚えてない? 今朝、学校に行く途中で事故に遭ったのよ」
 ちょうど視界に入り込んだ壁掛け時計は短針が4を指している。
 朝から今まで眠り続けていたのだろうか。

「脳震盪を起こしてね。しばらく安静のために入院して検査するわ。右腕を骨折しててね。手術するほどではなかったんだけど、しばらく不自由するわね」

「そう」
「後でお医者さまが説明してくださるわ」

 ふと体に視線を移すと、制服からピンクの薄いガウンのようなパジャマに着替えさせられている。
 右腕は、副え木で直角に固定されていて、自由に動かせない。

「意識が戻ったら、一通り検査をして、何も異常がなければ数日から一週間ぐらいで退院できるそうよ。学校には連絡してあるから、安心してゆっくり休みましょう」

「うん」

 母はこういう時、いつも慌てない。冷静にやらなければならない事を淡々と熟すタイプだ。
 一方父ときたら、大げさに騒ぎ立てて取り乱す。それをなだめるのが母の役割である。

 昨日、シンジは頻りに学校に来るなと言っていた。
 そんな学校に、ゆらはひと時もいたくなかった。
 一刻も早く踵を返して帰りたい。シンジの顔を見るのが辛かった。
 それでも、帰れないでいたのは、父のそんな性質に由来する。

 小学校の教頭をしている父は、学校に行きたくないなどという娘を許すはずがなく、一体なにがあった? どうして行きたくないのだ? と執拗に問いただし、学校にクレームを入れてくるに違いなかった。
 幼い頃から、全く変わらない過干渉な父に、ゆらはシンジの事を打ち明けるわけにはいかないのだ。

「ちょっと、入院に必要な物を揃えてくるわ。ついでに看護師さんにも意識が戻った事を伝えておくわね。無理しないようにゆっくり休んでるのよ」

 母はそう言い残して、病室を出て行った。
 病室はどうやら個室のようだ。
 まるで簡素なホテルの一室のように、ソファとテーブル、トイレにシャワー室まで備わっている。
 恐らく、父がそうしなさいと言ったのだろう。いつも父はゆらに必要以上のものを与えようとする。

 窓から見える景色は相変わらず農灰色で、厚い雲が空を覆っていた。

 体の自由を奪われて、やる事と言えば自由に動く脳内で思考を巡らせる事である。
 急に人が変わったように牙を剥いたシンジの事を、考えてしまうのは必然。
 なぜ? どうして?
 そんな疑問を押しのけて、鮮明に浮かび上がるのは優しくて、強くて、甘いシンジの姿だった。

 あれは、中学1年の夏。
 学校中の女子から熱い視線を送られていたシンジが、やたらゆらに構う事で、ゆらは仲間から浮いた存在になっていた。
 放課後の校庭は、サッカー部の練習場になっていて、シンジは華麗なプレイを大勢のギャラリーに魅せている。
 黄色い声が飛び交い、サッカー部のマネージャーを志願する女子が相次ぐ。
 ゆらは、校庭の隅っこで、花壇の縁石に腰かけて一人そんな光景に胸をときかめかせていた。
 試合形式での練習での事。激しく接触して、ピッチで倒れ込んでいる男子がいる。
 それが、シンジだったのだけど、辛そうに自力で起き上がり、足をひきずりながらフィールドを離れた。
 蠢くギャラリー。「大丈夫?」と声をかけながら、数人の女の子に囲まれたシンジは、彼女たちに手のひらを見せながら集団から離れていく。
 心配そうに振舞いながらも、チャンスを物にできなかった女子たちの視線は曇っていた。
 シンジが、足をひきずりながらまっすぐやって来たのは、ゆらの前だった。
「え? なに?」
 戸惑うゆらにシンジは、派手に擦りむいて血を流しているスネを見せて、こう言った。
「怪我しちゃった。手当、よろしく」
 マネージャーでもないゆらに、そんな資格があるだろうか。
 おろおろと、辺りを見回すと、冷たく痛い視線が集まっている。
 カっと熱くなる頬。
 頭の中は真っ白だが、わずかに頬が緩んでしまうくらいには気持ちがよかった。
 なんやかんやと理由を付けて、ゆらから離れて行った友達は、今どんな気持ちだろうか。
 そんな意地悪な気持ちは隠して、立ち上がり「こっちに来て」とシンジに告げた。
 手を貸しながら、足洗い場のほうに行き、傷口を洗いハンカチで拭うと、大きめの絆創膏を差し出した女子生徒が目の前にいた。
 同じ学年で同じクラスの水戸千秋だ。
 千秋はシンジの足元に屈んで、絆創膏の外装を剥がした。
「ありがとう」そう言ったかと思うと、シンジはそれをさっと取り上げ、ゆらに差し出した。
「貼って」
 その時の、千秋の泣き出しそうな顔は、今でも鮮明に脳内に焼き付いている。

 トントンと扉のノック音で、現実に引き戻された。
 顔だけをそちらに向けると、ゆっくりと扉が開き、制服を着た男子生徒の姿が視界に入り込んだ。
「蓮斗」
 蓮斗は、少し気まずそうに浅く会釈すると、部屋に入って来た。
 珍しそうに部屋中を見回しながら「無事でよかった。大変だったな」
 そう言って、ノートを差し出した。
「字汚いけど、今日の授業のノート」
「あ、ありがとう。2週間後には期末あるから、助かる」
 ぎこちなくうなづきながら、先ほどまで母が座っていた丸椅子に腰かけた。
「もしかしたら、意識が戻ってないかもしれないと思って、もし眠ってたら、おばさんに渡そうと思ってたんだけど、起きててよかった」

「ありがとう。1時間ぐらい前に目がさめた。学校は、どう? なんていうか、その……」
 クラスメイトに興味はないが、シンジの様子が知りたかった。ゆらが学校に来なかった事を、シンジはどう思っているのだろうかと。

「あー、特に報告するような事はないけど……」
 蓮斗は目を泳がせながら言いよどむ。

「何? どうしたの?」

「あいつ、シンジ。今朝、千秋と一緒に学校来たよ。帰りも一緒に帰るんだって、千秋がはしゃいでた」
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