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届かなかった手紙
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キシキシ、ぱきん、と硬いものがぶつかり、壊れる音がする。
薄氷を踏み抜くような、ガラスが砕け散るような。
「ここは…」
小さな海岸だった。
夜明け前の光に、空がほんのりピンクに染まっている。
波打ち際に目を落とすと、何かがたくさん打ち寄せられている。流氷だろうか。海に向かって足を踏み出すと、足元でもカシャン、と音がした。足の裏でぱきぱきと崩れる音。
見ると、透明で薄く、四角いなにかが砕け散っていた。
その脆さはどこか理科の実験で見たカバーガラスのようだ。
でもガラスのような鋭利さはなく、砂糖菓子のように足元でぽろぽろと崩れていく。
無数に落ちている紙のような薄さの、たくさんの透明なガラス。
ひとつ拾ってみると、本当に紙の代わりなのか何か文字が書いてあるのが見える。異国の文字だ。
別の一つはもっと小さい。
手のひらサイズでワープロの文字や記号に似たものが並んでいる。
「手紙かしら?」
「届かなかった手紙が流れ着くんだそうですよ」
驚いて振り向くと、逆光の中に誰かが立っているのが見えた。
手のひらからガラスの手紙がすべり落ち、地面につくとシャリン、と音を立てて飛び散った。
鋭利なかけらの代わりに光を散らして消えていく。
声の主は男性のようだ。年齢はよくわからない。
「何かお探しですか」
「いえ、べつに…」
そもそもなぜ自分がここにいるのかよくわからなかった。
海岸に目を戻すと、ちらほらと波打ち際を歩く人の姿が見える。ガラスでできた"手紙"を探しているのだろうか、皆海に目を落としているようだ。
「でもそうね、届かなかった手紙を知っているわ」
過去に思いを馳せて、ふと呟く。
「…わたしはしんでしまったのかしら」
「どうして?」
問われて苦い笑いが浮かぶ。
「とても悪いことをしたの」
「ここには良いも悪いもありませんよ」
と穏やかに彼は言った。
「届かなかったことが、その後に必ずしも良い結果をもたらすとは限らないでしょう?人生は長いのですから。…結果は誰にもわかりません」
「そうね……ただ、悪いことはするものじゃないわね。ずっと苦しいもの」
たまたま目にした同僚宛ての手紙。日々交わされるたわいもないやり取り。
ちょとした嫉妬心から隠してしまったことがある。
一度抜けたからと言って、どうという変化もないはずだった。
だが、しばらくして手紙の主と同僚は疎遠になったと聞いた。
あの時、あの手紙が届いていたら…そんなことをずっと考えていた。だからこんな場所に迷い込んだのだろうか。
「探そうかな」
あの手紙は、いつの間にか失くしてしまっていた。
ここに流れ着いているのかもしれない。
広い海岸に落ちたガラスの手紙を一枚一枚覗き込む。
「割れてしまったものはどうなるのかしら」
「誰の記憶にも残っていないものは脆くなって消えていくそうです」
男性も何かを探しながらついてきた。なぜここに詳しいのだろうか。
「誰に聞いたの?」
「先にたどり着いた他の方から」
「ふうん…」
手紙は様々な形をしていた。
色とりどりの用紙にインクのにじむもの、タイプライター、ワープロ、ボールペンや筆ペン、。
小さな絵がたくさん混じったものやキャラクターがセリフをしゃべっているもの。
「この小さな絵は何かしら」
「絵文字ですね」
「ワープロの文字って今こんなにカラフルなの?」
「携帯電話の文字ですよ」
「電話で文字…?」
彼は説明に困った顔をした。日本語を話しているが、違う国の人なのだろうか。
「…あ、あった!」
広い海岸を埋め尽くすたくさんのガラスの手紙の中で、小さな紙片がなぜか目を引いた。
折り畳まれた、学生がやり取りするような本当に小さなもの。
まだガラスになりきっていないその手紙は、軽い音を立てながらも壊れることなく開くことができた。
「…待ち合わせの連絡だったのね」
少し離れた町の駅と、時刻が書かれている。
「ごめんなさい…」
思わず握りしめた手紙が、手の中で震えた。
その振動は大きくなり、やがて手に収まらなくなった。
手紙は白い鳥に変わっていた。
驚いていると、彼が手元をのぞき込んで言う。
「元の場所に帰りたがってる」
「手紙が?」
「みんな本当は帰りたいんですよ。そのために書かれたのですから」
「でも帰るって言っても…どこに…」
考えている間に、手元の鳥は羽を震わせた。
もう飛び立とうとしている。
「あっ、待って!!」
羽ばたいた鳥に、手を伸ばす。
その瞬間、ものすごい力で引っ張られた。
足が浮き、海岸がみるみる眼下に離れていく。
見上げる男性が、手を振ったのが見えた。
「行っちゃったな…」
あの手紙とともに、帰っていったのだろうか。
彼女を見かけたのはずいぶんと久しぶりだった。
彼は懐から自分の手紙を取り出す。
ケータイもスマホもない時代の、いつもの時間にいつもの場所で見かける彼女。
何度も渡そうと思って、勇気が出なかった手紙。
ずっとあとのことだけれど、若くして亡くなったと聞いた。
あれからいろいろなことがあって、結局ひとりでずっと生きてきたけれど。
「……僕も、届けに行こうか」
手の中で、手紙が熱を持ち始めた。
「…あ、意識飛んでた……」
目が覚めると自分のデスクだった。
積まれた書類の間に鎮座するワープロ、右隣の先輩のデスクには大量のたばこの吸い殻が詰まった灰皿。見慣れた景色だ。
「うわ、やっちゃった…」
書きかけの書類の上に、赤ペンのミミズがのたくっていた。
「修正液、修正液……ちょっと借りるね」
左隣の同僚の引き出しを開ける。
すると、手前に折りたたまれた手紙が入っているのが見えた。
いつも立ち話をしに訪れる営業部の男性が、同僚の不在時に置いていくものだ。
(大事なものなんだろうな)
手紙には触れずに、引き出しの奥から文房具を収めたトレーを引き出す。
その瞬間、奥の部長のデスクで電話が鳴った。
「はい、通信事業部……ああ、なんだ」
声のトーンから余所行きの雰囲気がすぐに消える。
「そうか、直帰していいぞ。おつかれさん」
しばらく話したあと、部長が電話を切った。
ホワイトボードに掲出してある社員の予定表の「外出中」のマグネットが外される。
直帰になったのは、左隣の同僚だ。つまり、ここには戻らない。
思わず引き出しを見下ろした。
「…これ、大事な連絡なんじゃ?」
外出先の同僚に連絡を取る手段はない。
(ごめんね)
心の中で謝罪し、手紙を開く。
そこには思った通り、待ち合わせの時間と場所が記されていた。
時間だけということは今日の約束なのだろう。
手紙の主は、直帰した同僚に気づかず、待ちぼうけをするのだ。
「部長!」
残業を切り上げるべく、上司のデスクに交渉に向かった。
「はあー、怒られなくてよかったあ」
営業部の社員が電車に乗り込むのを見送って、ベンチに座り込む。
勝手に手紙を見たことは咎められなかった。
「助かったよ。それにしてもよくわかったな?」と言われてあいまいに笑うしかなかった。
勘としか言いようがない。
脱力していると、階段からどっと人が流れ込んでくる。
のりつぎのバスか電車が到着したのだろう。
何とはなしに眺めていると、そのうちの一人がベンチに近づいてきた。
私服の若い男性だ。大学生くらいだろうか。
知り合いではないが、時々通勤の時間帯に見かける顔だ。
彼はつかつかと歩いてくると、自分の前で立ち止まった。
「…あの!」
緊張した面持ちで声をかけられて、びっくりする。
「これ、読んでもらえませんか!」
差し出されたのは、手紙だった。
いつ書いたものなのか、ずっと持ち歩いていたようでくしゃくしゃになっている。
見知らぬ男性からの申し出に、警戒するが、ふとその声に聞き覚えがある気がして首をかしげる。見かけたことがあるだけで、話すのは初めてなはずなのに。
「……あなた、どこかで会ったことある?」
「えっ!?話すのは初めてですが、いつも見かけてて……あ、あやしいものじゃないんですけど!」
慌てて手をパタパタと振る仕草はちょっと幼くて可愛らしい。警戒心が緩んでいく。彼は首をかしげた。
「あれ?でもそうですね、どこかでお会いした気がしますね……なんでだろう?」
記憶をたどるが、二人ともこれという心当たりがない。
「不思議ですねえ」
「うーん……まあいいか。じゃあ、気のせい同士の知り合いのよしみで、お手紙は読ませてもらおうかな」
そう言って笑うと、彼はぱっと顔を輝かせる。
「ありがとうございますっ!」
手渡された手紙は、受け取った手の中でほんのり熱を持っているようだった。
薄氷を踏み抜くような、ガラスが砕け散るような。
「ここは…」
小さな海岸だった。
夜明け前の光に、空がほんのりピンクに染まっている。
波打ち際に目を落とすと、何かがたくさん打ち寄せられている。流氷だろうか。海に向かって足を踏み出すと、足元でもカシャン、と音がした。足の裏でぱきぱきと崩れる音。
見ると、透明で薄く、四角いなにかが砕け散っていた。
その脆さはどこか理科の実験で見たカバーガラスのようだ。
でもガラスのような鋭利さはなく、砂糖菓子のように足元でぽろぽろと崩れていく。
無数に落ちている紙のような薄さの、たくさんの透明なガラス。
ひとつ拾ってみると、本当に紙の代わりなのか何か文字が書いてあるのが見える。異国の文字だ。
別の一つはもっと小さい。
手のひらサイズでワープロの文字や記号に似たものが並んでいる。
「手紙かしら?」
「届かなかった手紙が流れ着くんだそうですよ」
驚いて振り向くと、逆光の中に誰かが立っているのが見えた。
手のひらからガラスの手紙がすべり落ち、地面につくとシャリン、と音を立てて飛び散った。
鋭利なかけらの代わりに光を散らして消えていく。
声の主は男性のようだ。年齢はよくわからない。
「何かお探しですか」
「いえ、べつに…」
そもそもなぜ自分がここにいるのかよくわからなかった。
海岸に目を戻すと、ちらほらと波打ち際を歩く人の姿が見える。ガラスでできた"手紙"を探しているのだろうか、皆海に目を落としているようだ。
「でもそうね、届かなかった手紙を知っているわ」
過去に思いを馳せて、ふと呟く。
「…わたしはしんでしまったのかしら」
「どうして?」
問われて苦い笑いが浮かぶ。
「とても悪いことをしたの」
「ここには良いも悪いもありませんよ」
と穏やかに彼は言った。
「届かなかったことが、その後に必ずしも良い結果をもたらすとは限らないでしょう?人生は長いのですから。…結果は誰にもわかりません」
「そうね……ただ、悪いことはするものじゃないわね。ずっと苦しいもの」
たまたま目にした同僚宛ての手紙。日々交わされるたわいもないやり取り。
ちょとした嫉妬心から隠してしまったことがある。
一度抜けたからと言って、どうという変化もないはずだった。
だが、しばらくして手紙の主と同僚は疎遠になったと聞いた。
あの時、あの手紙が届いていたら…そんなことをずっと考えていた。だからこんな場所に迷い込んだのだろうか。
「探そうかな」
あの手紙は、いつの間にか失くしてしまっていた。
ここに流れ着いているのかもしれない。
広い海岸に落ちたガラスの手紙を一枚一枚覗き込む。
「割れてしまったものはどうなるのかしら」
「誰の記憶にも残っていないものは脆くなって消えていくそうです」
男性も何かを探しながらついてきた。なぜここに詳しいのだろうか。
「誰に聞いたの?」
「先にたどり着いた他の方から」
「ふうん…」
手紙は様々な形をしていた。
色とりどりの用紙にインクのにじむもの、タイプライター、ワープロ、ボールペンや筆ペン、。
小さな絵がたくさん混じったものやキャラクターがセリフをしゃべっているもの。
「この小さな絵は何かしら」
「絵文字ですね」
「ワープロの文字って今こんなにカラフルなの?」
「携帯電話の文字ですよ」
「電話で文字…?」
彼は説明に困った顔をした。日本語を話しているが、違う国の人なのだろうか。
「…あ、あった!」
広い海岸を埋め尽くすたくさんのガラスの手紙の中で、小さな紙片がなぜか目を引いた。
折り畳まれた、学生がやり取りするような本当に小さなもの。
まだガラスになりきっていないその手紙は、軽い音を立てながらも壊れることなく開くことができた。
「…待ち合わせの連絡だったのね」
少し離れた町の駅と、時刻が書かれている。
「ごめんなさい…」
思わず握りしめた手紙が、手の中で震えた。
その振動は大きくなり、やがて手に収まらなくなった。
手紙は白い鳥に変わっていた。
驚いていると、彼が手元をのぞき込んで言う。
「元の場所に帰りたがってる」
「手紙が?」
「みんな本当は帰りたいんですよ。そのために書かれたのですから」
「でも帰るって言っても…どこに…」
考えている間に、手元の鳥は羽を震わせた。
もう飛び立とうとしている。
「あっ、待って!!」
羽ばたいた鳥に、手を伸ばす。
その瞬間、ものすごい力で引っ張られた。
足が浮き、海岸がみるみる眼下に離れていく。
見上げる男性が、手を振ったのが見えた。
「行っちゃったな…」
あの手紙とともに、帰っていったのだろうか。
彼女を見かけたのはずいぶんと久しぶりだった。
彼は懐から自分の手紙を取り出す。
ケータイもスマホもない時代の、いつもの時間にいつもの場所で見かける彼女。
何度も渡そうと思って、勇気が出なかった手紙。
ずっとあとのことだけれど、若くして亡くなったと聞いた。
あれからいろいろなことがあって、結局ひとりでずっと生きてきたけれど。
「……僕も、届けに行こうか」
手の中で、手紙が熱を持ち始めた。
「…あ、意識飛んでた……」
目が覚めると自分のデスクだった。
積まれた書類の間に鎮座するワープロ、右隣の先輩のデスクには大量のたばこの吸い殻が詰まった灰皿。見慣れた景色だ。
「うわ、やっちゃった…」
書きかけの書類の上に、赤ペンのミミズがのたくっていた。
「修正液、修正液……ちょっと借りるね」
左隣の同僚の引き出しを開ける。
すると、手前に折りたたまれた手紙が入っているのが見えた。
いつも立ち話をしに訪れる営業部の男性が、同僚の不在時に置いていくものだ。
(大事なものなんだろうな)
手紙には触れずに、引き出しの奥から文房具を収めたトレーを引き出す。
その瞬間、奥の部長のデスクで電話が鳴った。
「はい、通信事業部……ああ、なんだ」
声のトーンから余所行きの雰囲気がすぐに消える。
「そうか、直帰していいぞ。おつかれさん」
しばらく話したあと、部長が電話を切った。
ホワイトボードに掲出してある社員の予定表の「外出中」のマグネットが外される。
直帰になったのは、左隣の同僚だ。つまり、ここには戻らない。
思わず引き出しを見下ろした。
「…これ、大事な連絡なんじゃ?」
外出先の同僚に連絡を取る手段はない。
(ごめんね)
心の中で謝罪し、手紙を開く。
そこには思った通り、待ち合わせの時間と場所が記されていた。
時間だけということは今日の約束なのだろう。
手紙の主は、直帰した同僚に気づかず、待ちぼうけをするのだ。
「部長!」
残業を切り上げるべく、上司のデスクに交渉に向かった。
「はあー、怒られなくてよかったあ」
営業部の社員が電車に乗り込むのを見送って、ベンチに座り込む。
勝手に手紙を見たことは咎められなかった。
「助かったよ。それにしてもよくわかったな?」と言われてあいまいに笑うしかなかった。
勘としか言いようがない。
脱力していると、階段からどっと人が流れ込んでくる。
のりつぎのバスか電車が到着したのだろう。
何とはなしに眺めていると、そのうちの一人がベンチに近づいてきた。
私服の若い男性だ。大学生くらいだろうか。
知り合いではないが、時々通勤の時間帯に見かける顔だ。
彼はつかつかと歩いてくると、自分の前で立ち止まった。
「…あの!」
緊張した面持ちで声をかけられて、びっくりする。
「これ、読んでもらえませんか!」
差し出されたのは、手紙だった。
いつ書いたものなのか、ずっと持ち歩いていたようでくしゃくしゃになっている。
見知らぬ男性からの申し出に、警戒するが、ふとその声に聞き覚えがある気がして首をかしげる。見かけたことがあるだけで、話すのは初めてなはずなのに。
「……あなた、どこかで会ったことある?」
「えっ!?話すのは初めてですが、いつも見かけてて……あ、あやしいものじゃないんですけど!」
慌てて手をパタパタと振る仕草はちょっと幼くて可愛らしい。警戒心が緩んでいく。彼は首をかしげた。
「あれ?でもそうですね、どこかでお会いした気がしますね……なんでだろう?」
記憶をたどるが、二人ともこれという心当たりがない。
「不思議ですねえ」
「うーん……まあいいか。じゃあ、気のせい同士の知り合いのよしみで、お手紙は読ませてもらおうかな」
そう言って笑うと、彼はぱっと顔を輝かせる。
「ありがとうございますっ!」
手渡された手紙は、受け取った手の中でほんのり熱を持っているようだった。
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