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第一章
第九話
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***
なぜ人は、困難な道を選んでしまうのだろうか。
何かの本に書かれていた一節を、何度も何度も記憶の中から探そうとしている。
浰青さんの本でも、市井で人気だった本でもない。
大して興味も持てなかった装丁の本。
何か重要な意味を教えてくれそうな気がしてならない。
「困難な道に、踏み出したせい?」
いやいや、言うほど困難ではないしなぁ…。
あ、でも今まで通りでいられないなら困難だよなぁ。
色んな人の嫌なところを見るかもしれないわけだし、侍女の誰かが傷付くかもしれないし。
「…非常に不味いのでは…?」
「何がです?」
「私の人生が、狂い始めているのでは?と思って」
「大丈夫です。正しい軌道に乗ってるので」
「…味方がいないよぉ…」
「娘娘が後宮に入ってきた時点で、運命は決まってました。逃げようと思えば逃げられた運命を手繰り寄せたのは、他でもない娘娘ですよ」
「……逃げられた、って無理でしょう!」
「いえ、可能でした。無礼を働くことにはなりますが、例えば栞を返しに行ったあの日羲和さんに無理矢理でも突き返しておくとか、訪いに応じないとか。他にもやりようはありましたよ」
「だって…そんなことしたら…陛下が傷付くし、好意でやってくれているのに断るなんて出来ないわよ」
凌梁は、ふっと口元を綻ばせた。
傷付くから、なんて理由で。あまりにも優しすぎる。
それはここで大きな痛手になるかもしれない。
後宮とはそういう悪意で満ちている。傷付けて散らせた者勝ちなのだ。
気が臥せるように、後宮を降りるように仕向ける妃は何人もいた。
「ほら、娘娘が選んで行動した結果じゃないですか。いいですか?ここでは優しさを狐媚と捉えて、眉を顰めるような場所です。娘娘のように真っすぐで、真っ当な人間ばかりではないのです」
「……だからなのね、あの人は真っすぐだから悪意に中てられちゃった。そんな時に、奇怪な私が来たと…」
「大家は壊れてしまいそうなくらい気を病んでおられました。だからこそ、娘娘には大家から逃げて欲しくないのです」
「大丈夫よ、逃げないって約束をしたもの」
「けど、それで娘娘ばかりが悪意を受けるのは違いますよ。私も、いえ私たちも一緒ですからね」
「嫌がらせって、具体的にどんなのがあるの?泥を投げつけられたりするの?それとも死骸を送られる?」
「……なんか、娘娘なら平気そうな気がしてきました…流石にそこまでやる人はいないでしょう…すぐに足が付いてしまいます。バレて破滅するだけですよ」
凌梁がしらーとした目で見てくる。
なんだ、なんかおかしいこと言ったかな。
悪質で、心に痛手を食らうならばこれくらいはしてくるのかなと思ったんだけど。
「言葉くらいじゃ傷付かないわ。紙魚姫って呼ばれてるらしいけど、一個訂正したい!私は紙を食べたりしないわ!本の虫なだけよ!」
「……ふふ、ええ。安心いたしました」
室から軽やかな笑い声が聞こえてきたことに、ほっと胸を撫で下ろしたのは宦官と侍女だった。
優しい主人のことだから、きっと傷付きやすいだろうと思っていた。
だが彼女はずっと逞しく、ずっと真っすぐな心を持っていた。
それにひどく安心したのだ。
***
文徳楼では林玄と嵐雲 詩涵の父が書物を読みながら詩涵の話をしていた。
ぱら、ぱらと紙をめくる音が鳴って、話し声が聞こえてくる。
「詩涵様が海沄様と褥を共にしたそうですね」
「…そうらしいねぇ」
間延びした声を持つ彼こそが、詩涵の父嵐雲である。
名前に似合わず、凪のように穏やかな性格で、書物大好きな正真正銘の本の虫。
「らしいねぇ、って…」
「林玄は心配をし過ぎだよ。詩涵が一番、好かれてしまうのも自然の摂理さ」
「…何に安心を置かれているのか分かりませんが、詩涵様は大事な――」
「あの子に、僕の跡を追わせる気はないし、するつもりもないから後宮にいれたんだ」
「嵐雲様…しかし」
「少し乱暴だったけど、女官にさせなくてよかったよ。とんでもない妃に仕えることになったら、あの子は壊れてしまうからね」
「…誰にでも好かれてしまう詩涵様なら、やっていけたんじゃないですか?ほら、現に海沄様に懐かれていますし」
書物から目を離した、嵐雲の眼差しは少し鋭い。
「あんなに愛らしい子を現に目にかけているということは、女官になっていてもそうなっていた。つまり対等な立場にいない以上、どんな悪行をされるか…!林玄は分かっていない!妃は侍女に容赦がない。そして女官になった詩涵は、妃には逆らわない。そうなれば抵抗もせず甚振られるだけ!!想像もしたくないよ!馬鹿!」
「……毎度、その想像力の高さには感服しますよ。それに馬鹿って…アンタ子どもですか…」
「海沄にはとっくに言ってあるよ。詩涵を選ぶつもりなら、邪魔な芽は摘み取れるようにしておけって!どうやら、詩涵も海沄の妃になるつもりらしいしさ!」
「…なんで怒ってるんですか、妃にするつもりがあるから後宮に入れたんでしょう」
「あの子がわざわざ海沄に会いに行くとは思えなかったし、ずっと文徳楼に通ってくれるなら書物と詩涵の両方を楽しむつもりだったよ!どっかの誰かが、海沄に会わせるからさぁ!」
「…ていうか海沄さまに『雪尽』をおすすめしてたのって、アンタですよね。浰青っていう著者をさりげなく進めてたのもアンタですよね。なんなら、栞挟んでおきなよ、誰も借りないからとか言ったのもアンタですよね」
「詩涵はもう読んだと思ってたんだよ!貸し借りの記録付けてんの林玄なんだから、言ってよね!まだ詩涵借りてないよって!」
「横暴で支離滅裂な紛うことなき暴論ですね!海沄様を認めたくせに、今更ウジウジしないでください!」
文徳楼から二人が言い争うような声が聞こえていたが、いつものことだと気に留める人はいなかった。
林玄と嵐雲はたまにどちらが年上なのか分からなくなるほど言い争い、それでも上下関係を維持しているのだから不思議なものだと、よく官吏たちに噂されている。
なぜ人は、困難な道を選んでしまうのだろうか。
何かの本に書かれていた一節を、何度も何度も記憶の中から探そうとしている。
浰青さんの本でも、市井で人気だった本でもない。
大して興味も持てなかった装丁の本。
何か重要な意味を教えてくれそうな気がしてならない。
「困難な道に、踏み出したせい?」
いやいや、言うほど困難ではないしなぁ…。
あ、でも今まで通りでいられないなら困難だよなぁ。
色んな人の嫌なところを見るかもしれないわけだし、侍女の誰かが傷付くかもしれないし。
「…非常に不味いのでは…?」
「何がです?」
「私の人生が、狂い始めているのでは?と思って」
「大丈夫です。正しい軌道に乗ってるので」
「…味方がいないよぉ…」
「娘娘が後宮に入ってきた時点で、運命は決まってました。逃げようと思えば逃げられた運命を手繰り寄せたのは、他でもない娘娘ですよ」
「……逃げられた、って無理でしょう!」
「いえ、可能でした。無礼を働くことにはなりますが、例えば栞を返しに行ったあの日羲和さんに無理矢理でも突き返しておくとか、訪いに応じないとか。他にもやりようはありましたよ」
「だって…そんなことしたら…陛下が傷付くし、好意でやってくれているのに断るなんて出来ないわよ」
凌梁は、ふっと口元を綻ばせた。
傷付くから、なんて理由で。あまりにも優しすぎる。
それはここで大きな痛手になるかもしれない。
後宮とはそういう悪意で満ちている。傷付けて散らせた者勝ちなのだ。
気が臥せるように、後宮を降りるように仕向ける妃は何人もいた。
「ほら、娘娘が選んで行動した結果じゃないですか。いいですか?ここでは優しさを狐媚と捉えて、眉を顰めるような場所です。娘娘のように真っすぐで、真っ当な人間ばかりではないのです」
「……だからなのね、あの人は真っすぐだから悪意に中てられちゃった。そんな時に、奇怪な私が来たと…」
「大家は壊れてしまいそうなくらい気を病んでおられました。だからこそ、娘娘には大家から逃げて欲しくないのです」
「大丈夫よ、逃げないって約束をしたもの」
「けど、それで娘娘ばかりが悪意を受けるのは違いますよ。私も、いえ私たちも一緒ですからね」
「嫌がらせって、具体的にどんなのがあるの?泥を投げつけられたりするの?それとも死骸を送られる?」
「……なんか、娘娘なら平気そうな気がしてきました…流石にそこまでやる人はいないでしょう…すぐに足が付いてしまいます。バレて破滅するだけですよ」
凌梁がしらーとした目で見てくる。
なんだ、なんかおかしいこと言ったかな。
悪質で、心に痛手を食らうならばこれくらいはしてくるのかなと思ったんだけど。
「言葉くらいじゃ傷付かないわ。紙魚姫って呼ばれてるらしいけど、一個訂正したい!私は紙を食べたりしないわ!本の虫なだけよ!」
「……ふふ、ええ。安心いたしました」
室から軽やかな笑い声が聞こえてきたことに、ほっと胸を撫で下ろしたのは宦官と侍女だった。
優しい主人のことだから、きっと傷付きやすいだろうと思っていた。
だが彼女はずっと逞しく、ずっと真っすぐな心を持っていた。
それにひどく安心したのだ。
***
文徳楼では林玄と嵐雲 詩涵の父が書物を読みながら詩涵の話をしていた。
ぱら、ぱらと紙をめくる音が鳴って、話し声が聞こえてくる。
「詩涵様が海沄様と褥を共にしたそうですね」
「…そうらしいねぇ」
間延びした声を持つ彼こそが、詩涵の父嵐雲である。
名前に似合わず、凪のように穏やかな性格で、書物大好きな正真正銘の本の虫。
「らしいねぇ、って…」
「林玄は心配をし過ぎだよ。詩涵が一番、好かれてしまうのも自然の摂理さ」
「…何に安心を置かれているのか分かりませんが、詩涵様は大事な――」
「あの子に、僕の跡を追わせる気はないし、するつもりもないから後宮にいれたんだ」
「嵐雲様…しかし」
「少し乱暴だったけど、女官にさせなくてよかったよ。とんでもない妃に仕えることになったら、あの子は壊れてしまうからね」
「…誰にでも好かれてしまう詩涵様なら、やっていけたんじゃないですか?ほら、現に海沄様に懐かれていますし」
書物から目を離した、嵐雲の眼差しは少し鋭い。
「あんなに愛らしい子を現に目にかけているということは、女官になっていてもそうなっていた。つまり対等な立場にいない以上、どんな悪行をされるか…!林玄は分かっていない!妃は侍女に容赦がない。そして女官になった詩涵は、妃には逆らわない。そうなれば抵抗もせず甚振られるだけ!!想像もしたくないよ!馬鹿!」
「……毎度、その想像力の高さには感服しますよ。それに馬鹿って…アンタ子どもですか…」
「海沄にはとっくに言ってあるよ。詩涵を選ぶつもりなら、邪魔な芽は摘み取れるようにしておけって!どうやら、詩涵も海沄の妃になるつもりらしいしさ!」
「…なんで怒ってるんですか、妃にするつもりがあるから後宮に入れたんでしょう」
「あの子がわざわざ海沄に会いに行くとは思えなかったし、ずっと文徳楼に通ってくれるなら書物と詩涵の両方を楽しむつもりだったよ!どっかの誰かが、海沄に会わせるからさぁ!」
「…ていうか海沄さまに『雪尽』をおすすめしてたのって、アンタですよね。浰青っていう著者をさりげなく進めてたのもアンタですよね。なんなら、栞挟んでおきなよ、誰も借りないからとか言ったのもアンタですよね」
「詩涵はもう読んだと思ってたんだよ!貸し借りの記録付けてんの林玄なんだから、言ってよね!まだ詩涵借りてないよって!」
「横暴で支離滅裂な紛うことなき暴論ですね!海沄様を認めたくせに、今更ウジウジしないでください!」
文徳楼から二人が言い争うような声が聞こえていたが、いつものことだと気に留める人はいなかった。
林玄と嵐雲はたまにどちらが年上なのか分からなくなるほど言い争い、それでも上下関係を維持しているのだから不思議なものだと、よく官吏たちに噂されている。
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