女官になるはずだった妃

夜空 筒

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第一章

第十話

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◇◇◇





莉淙宮に、海沄はいゆんが足を運んだ。
彪霞ひゅうかは愛らしく笑って礼を取る。
いつものように、彼の左腕に触れようとした時だった


「…触れるなら、反対側にしてくれ」


と彼らしくないことを言われ、彪霞は固まった。
すす、と左腕に寄るように近付くと、微かに爽やかな香の匂いがした。
海沄のものとは違う、嫌に心を逆撫でするほど爽やかな匂い。


「…どうした、彪霞。顔色が悪いようだが」
「……いえ、何でもありません。さ、中にお入りになって」


彼には触れずに、笑顔を貼り付けて先導する。
後ろにいる彼には見えていないだろう顔は、忌々しげに歪められていた。

そして、彼の顔には飄々とした色の中に何か企むようなものが浮かんでいる。


彪霞は、ぱあっと表情を変えて室に入る。
彼を椅子に座らせて、几を囲み侍女にお茶を入れさせる。


「そういえば、陛下。彼女と褥を共になさったそうで」


探るように、しかし全く気にしていない様に。


「あぁ。それがどうかしたか?」
「いえいえ、どうかしたわけではなくて…その、それで――」
「私とは寝て頂けるのかしら、って?」


平生とは違う、底冷えするような声。

確かに私は今、そう言おうとした。
だってあの女と眠れたのなら、この時間に訪う私と眠るってことじゃないの?
藍洙よりも先に、そういうことでしょう?


「馬鹿を言うな。決められた予定に従って訪れたまでのこと、彪霞とは寝ない」


茶の入った杯を呷り、怒ったように音をたてて置いた。
はぁ…と心底軽蔑するように見つめられて、何も言えない。

なんで、なんで、どうしてよ。
どうして、仕事と私への訪問を一緒にするの!!


「有り得ないわ!陛下は、そうやって意地悪を言っているだけだもの!」


必死に笑顔を繕うけれど、どうやっても嫉みに溢れて歪んでいく。



それはやがて、憎悪にまみれた笑い声に変わっていった。


「…あはは、あはははは!そんなことを言ったって、お茶を呷った陛下は!私と眠ることになるわ!」
「なにを、言っている」


すうと目が細められて、唇がゆっくりと弧を描いた。


「まさか、私があなたに薬を盛らないとお思いで?他の妃に先を行かれた私の気持ちを無下にした陛下が悪いのですよ。いつだって用意は周到に、使えるものは何だって使う。あなただってそうやって皇帝に上り詰めたでしょう?」


甲高い笑い声がひどい頭痛を呼び起こす。
思い出したくもない記憶が、何度も苛まれた呪詛のような言葉が、再び全身を駆ける。


「仙詩涵に陛下は、もったいのうございますわ」


クソ女、と口から出そうになったところでふつり、と糸が切れた人形のように倒れる。
侍女が引き攣るような悲鳴を上げて、その身体を揺する。


「触るな!!この方はわたくしの夫!その下賤な手で触れていい方では無い!」


侍女の頬を張り倒し、倒れた彼の体に寄り添う。
あまりに異様で、不気味な空間。

彪霞は宦官を呼びつけ、彼を閨に運ばせた。




帳の中に、彼がいる。


「あぁ…美しい人…」


寝台に腰掛けて、目を閉じている彼の頬を撫でる。
顔を寄せては、唇を落とす。
紅がついているのを、満足げに眺めてその隣に入り込む。

今頃、あの女狐も―――。


そう彼女は嗤い、彼の隣で目を瞑った。






***






梓涼宮には羲和ぎおが来ていた。
その傍らには、父嵐雲らんうんの姿もあった。


「え、っと…お父様?」
「ん?なんだい?」
「なんで、ここにいるの?」
「いやぁ、ちょっと贈り物があってさ」
「え、なになに!本?本でしょう?」


一瞬で訝しんでいた表情を変える我が子に、苦笑をこぼす。


「残念だけど、本じゃないんだ…ごめんねぇ。これは秋己しゅきからだから」
「え!お母様から!何かしら…裁縫道具?」


はい、と木箱を手渡される。


「…銀茶器じゃない!!え!?こんな高そうなもの!?お母様が!?」
「うん。秋己から」
「え、なに…まさか、毒を飲まされるかもしれないってこと?」
「…その想像力は、誰に似たんだろうなぁ」
「いや間違いなく嵐雲様でしょう」


羲和の突っ込みを無視して、わーきゃー言ってる娘に声をかける。


「詩涵。銀茶器=毒を飲まされるってわけじゃないからね?本の読みすぎだよ?」
「…まさかってことがあるじゃない!浰青さんの本で読んだもの!」


目をキラキラと輝かせて、木箱を胸に抱く。
その姿だけを見れば、ただの女の子だ。


「毒殺なんて、浪漫よ!どんな毒かしら!」


言っていることを除けば。


「そうですね。宮城の取り締まりを強化してからは、毒なんてすっかり伝説の品みたいなもんですしね」
「あら、そうでもないですよ。咲いている花の根や葉にだって毒はありますから!」
「嬉しそうに嫌なこと仰らないでください!」
「大丈夫ですよ、解毒できるものも大分揃っているのですから」
「まあ、秋己は薬師だからねぇ…詩涵も簡単な薬なら作れるし。下手すれば、宮廷薬師なんてことになるかもねえ」
「そんな仕事がおありなのですか!羲和様!」
「…いやないですないです」


すっと目を逸らして、首を振る。
彼女に変なことを教えたら大家に怒られるのは自分だからである。


「まぁ、あってもやらないですけど。お仕事大変で読書できなくなってしまいますし」
「宮廷薬師は、凄腕ばかりを集めたので優秀なんですよ。最近では隣国や他国にも評判がよくて――」
「あるんじゃないですか。そんなに警戒しなくても、あの人から逃げたりしませんよ!」


あはは、と乾いた笑い声で誤魔化す。


「あ、そういえば。詩涵様のところに大家がいらっしゃるのはいつ頃か聞いてらっしゃいますか?」
「いいえ、知りませんよ?彪霞さまの後に来るとしか聞いていません」
「蘇家の娘ねぇ…良い噂は聞かないから、気を付けて。詩涵は傾城けいせいなんだから!」
「うるさいですお父様。蘇家といえば、あれですね。当主様は吏部侍郎でしたよね」
「あぁ、そうだよ。ほんとに侍郎に収まってよかったよ。あれが尚書になったら国が終わるさ」
「…否めませんね」
「え、否んでくださいよ。怖いんですけど」
「吏部は宮廷内の人事を司るからね。あれがやりそうなことは、目に浮かぶさ」


ふむ。
話から見えてくるのは相当強欲で、矜持の高い人。
それで優しくなくて、手段を選ばない人。


「つまり、宮廷内を蘇家に都合いい人間だけに固めて、皇后は彪霞さまになると。そういうことですか」
「うちの子は何て賢いんだろう…!誰に似たのかな!」
「想像力の豊かさ故の賜物ですね。想像力だけは嵐雲様で、怜悧なところは秋己様でしょうね」
「吏部尚書は欧家の当主様ですよね。その方は…よくお父様に喧嘩を売りに来られる人じゃありませんでした?」
「ねー本当に有り得ないよね…いくら秋己の従弟とはいえさぁ…」
「「え!?従弟なの?」ですか!?」


珍しく羲和様が驚いている。しかも言葉が被ったし。
仲良しかな。


「そんなに驚くかなぁ…詩涵に会いたいのか、文徳楼に押しかけてきてさ…しまいには僕が隠したとか言って喧嘩売ってくるんだから」
「吏部、尚書なんですよね…忙しいんじゃ…」
「バカみたいに忙しいよ。只でさえ蘇家の人間がその座を狙ってるのに、ちょっと時間が出来たらだもの」
「大家に進言しなくては…詩涵様の後ろ盾が…」
「いや、羲和様?」


ぶつぶつと何かつぶやいて、その世界に閉じこもりはじめた。




突如、遠くの宮から静寂を切り裂くような悲鳴が聞こえた。


「な、なに!?」
「あぁ。莉淙宮からだね…何かな。面倒ごとだったら、容赦しないんだけど」
「今の時間は、陛下がいらっしゃっているのでは?」
「あぁ…じゃあ、大丈夫だね」


嵐雲は安心したように笑って、また話始めようとする。


「え、お父様。陛下になにかあったんじゃないんですか?」
「いやいや、大丈夫。羲和を連れて行ってないんだから、なんか企んでるんでしょ?」
「…まぁ、こんなことは何度かありましたし…あの方が身を挺して直接対決みたいなことは…」
「直接対決!?なにを馬鹿なことしてるんですか!?」
「し、詩涵…落ち着いて」
「落ち着いていられますか!弦沙!行くわよ!」


彼女の顔に浮かんでいるのは、心配だけ。

大家がこんなことをするのはもう、一度や二度じゃないのに。
それに慣れてしまったわけではない。
心配ではある。


遠くなる背中を見つめながら、羲和は眩しそうに目を細めた。


「詩涵様は、褪せることを知らない。ずっと…ただ白いままでそこに存在するような方ですね」
「…だから、惹かれるんだろうねぇ」


心配をすればするほど、恐怖が零れる。
だけどそれを乗り越えた時、安心も一入になる。
そのせいか心配は回数を重ねるごとに色褪せていく。

きっとまた、大丈夫。
そう思ってしまった。


大家が確かな存在になっていくたびに、
不安は杞憂と名を変えた。


「俺は…詩涵様を見習わなければなりませんね。あの方は世に何も確かなものがないと知っておられる」


羲和は、手を握りこんで駆けていった。
莉淙宮ではない、衛士がいる門に向かって声を張り上げて。


「大家の御身に危険が!!全衛士は莉淙宮へ向かえ!!」


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