女官になるはずだった妃

夜空 筒

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第二章

第十七話

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◇◇◇




「娘娘、梓涼宮に行ってまいりました」
「…そう。それで?」
「ちょうどよく、蓬の餅を作っていたところでしたので、蜘蛛を混ぜてきました」
「そう。誰にも見られていないでしょうね」
「はい。内膳司の侍女は誰もいませんでしたから」
「よくやってくれたわね。食べなくても気味が悪い悪戯なんて、賢い子ね」
「ありがとうございます」


うっとりと嗤う自分の主人。
綺麗で、穢れた主人。
真っすぐすぎる詩涵しーはんという女には、理解できないだろう。
彼女をここまで崇拝し、愛おしむ理由が。

穢れも知らない女に、皇后は務まらない。
後宮の長に相応しいのは、我が主人のみ。
人を人とも思わないような決断を下せる残忍な皇后は、いつの時代も皇帝を支えるのだから。


きっと、あの餅の異変に気が付き、中身を見て、悲鳴を上げたことだろう。
毒々しいだけの無害な蜘蛛には、娘娘のしもべとなれた幸せを噛み締めて欲しいものだ。





***





梓涼宮に、海沄はいゆんが訪れた。
先触れもなく、突然。
侍女たちはどうにかして待ってもらおうとしたが、海沄は聞かなかった。

彼女の室に押し入るようにして入ると、しくしくと泣く侍女と璉琳。


なんだ、なにがあった。


「どうしたんだ。なんの冗談だ」
「娘娘が…っ毒に…!」


鋭く甲高い音が、耳を劈くような感覚。
手足が冷えていく。


「おい、詩涵はどこだ。どこにいるんだ」
「…今は…閨に…」


聞くや否や、海沄は閨に向かった。
戸を勢いよく開くと、帳が降りている寝台。


「…詩涵、おい」


ゆっくり近づいて、帳に手をかけた。
そっと開くと、


「…なんの冗談だ、詩涵」


ころんと横になった詩涵が本を読んでいた。


「…あ。海沄様、あのですね――」
「なんで毒などと嘘を!」


海沄は安心したのか、声を張って怒鳴った。


「へ?」
「璉琳が泣きながら言っていた。あなたが毒に、と」
「…それ、作戦の練習です」
「は?」
「いやぁ…朝は水をかけられて、次はお菓子に蜘蛛を入れられるなんて。で、仕返しを考えたんです。海沄様にも一役買っていただこうかなと」
「…まて、蜘蛛?なんだそれは」
「はい。あ、見ますか?」


詩涵は寝台から下りて室に行くと、皿にのせたままの蓬餅を閨に持ってきた。


長椅子に腰掛けている彼に皿を見せる。


「これです。ほら、足があるでしょう?」
「うげ…気持ちが悪い…」
「勿体ないことしますよね。市井ではこんなお餅を食べられない人だっているのに…」
「そうじゃないだろう。不気味だろう!命に関わるかもしれないんだぞ!」
「毒蜘蛛とそうじゃない蜘蛛とで、見分けがつきにくい似た種類がいるんです。それがこいつ。毒はありません。璉琳も見間違えましたし。けど、薬にもならないので薬師が使う場合は毒蜘蛛の方の足を使います。」
「不要な豆知識をありがとう。薬を飲むのが恐ろしくなる」
「うちの優秀な璉琳が女を見たんです。厨に入ってきて、これを私のお餅に入れるのを」
「…ふむ。では、作戦とやらを聞こう」
「ええ。海沄様には一芝居打っていただきたいんです。梓涼宮の妃が毒で臥せっていると、後宮中に知らせてください」
「…無害なのに?」
「それが狙いです。無害だと思っていたものが毒蜘蛛だと知れば、慌てるくらいはするでしょう。こちらには女を見た璉琳がいます。毒蜘蛛だったと言えば、もしかしたら口を滑らせるかもしれません。主犯格はきっと彼女を捨てるでしょうが、まぁいいです」


詩涵は、ため息を吐いて海沄の隣に腰掛けた。


「これは仕返しです。相手よりも大きくなったりしてはいけない。同じだけを濃く、返さねば」
「……詩涵の心が手に取るようにわかる。俺もあなたと同じで大きな仕事があるんだ。証拠も集めている最中でな。だから、詩涵が行動に出るのは待ってくれるか?まず、俺が盤面を整えよう」
「…私の仕返しと、海沄様の大きなお仕事は関係あるんですか?」
「大いにな。後宮に知れ渡った後、俺が仕事をする。詩涵はそのあと、存分に仕返しをすればいい」
「…妃を減らすおつもりですか?」
「残忍なだけで、能がない妃はいらない。強かで清廉で、あなたように賢くなくては」
「私は清廉じゃないですけれども、強かでずる賢いとは思いますね」
「あなたは狡くない。薬玉を持たせ、護身用に使わせる。なにが狡い?血も出さない、正当な防衛だ」
「…璉琳が狙われたと聞きました。そいつは護衛宦官にしては足音が重く、破落戸の宦官に近いと」
「なぜ、ここに近付くことが出来たのか。そう、聞きたいのか?」
「いえ、大方妃が雇ったのでしょう。私が璉琳を雇ったように、自分の従者を作るのは今に始まったことではありませんし」
「それを黙認している夫に何か言いたいことはあるか?」


詩涵は、じとっとした目を海沄に向ける。
にこにこと言葉を待つ彼。


「…後宮は蠱毒とは、よく言ったものですね」
「詩涵は時々、遠回しすぎてよく分からないことを言うな」
「嘘つきですね。本当は誰よりも知っているはずです」
「……敵わないな」
「似てるからこそ、海沄様は私にしかないものを知りたがる。だけど知ってしまえばそれまでですから、海沄様は踏み込んでこない」
「あなたは尽きることがない。まるで無尽蔵だ。あなただけにあるものをすべて知るのは何十年先になるだろうか」


詩涵は、不意を突かれたような顔をして彼を見た。


「いや、あなたと俺は変わり続けるだろうから、すべてを知るなんてことは出来なさそうだ」
「…変わることを恐れないのですか」
「恐れていたら、あなたを逃してしまう。どんな些細な変化もきっと愛おしいだろうからな。決して目を離さない」


詩涵は眩しそうに彼を見つめて、口を引き結んだ。


「だけど、今踏み込んだらあなたは逃げる。だからまだ、俺は詩涵を知らなくてもいい」
「…私は、一人が嫌いです」
「知らなくていいと言った傍から、新情報を出すな」
「…蓬餅が好きです」
「おい。止まりなさい」
「……海沄様は本の次にすきです」
「それは知ってる」
「…浰青さんの本の次です」
「おや、それは初耳だな」


海沄の胸元にとすんと、小さな頭がぶつかる。


「一人、出来てよかったですね」
「…いや、――あなただけでいい。胸元に飛び込んでくれるような妃は、一人でいい」


海沄は嬉しそうに笑って、彼女の体を抱き寄せた。
その胸元で泣きそうな顔をして笑う彼女がいた。
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