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4話 侯爵家の沈黙
4話 侯爵家の沈黙
ルヴェリエ侯爵家の屋敷は、いつもより静かだった。
もともと騒がしい家ではない。古くから続く名門侯爵家らしく、使用人たちの足音は軽く、廊下で交わされる言葉も必要最小限だ。けれど今日の静けさは、普段の落ち着きとは違う。誰もが音を立てないようにしているのではなく、何を口にしてよいかわからず、息まで潜めているような静けさだった。
卒業祝賀会の夜に起きた公開婚約破棄は、それほどまでに大きかった。
昨夜の出来事は、もうこの屋敷の外だけの話ではない。王都じゅうに広がり始めた噂は、当然、屋敷の中にも届いている。使用人たちは主人の前で余計なことを言わない。だが、それでも空気というものは隠せない。腫れものに触るような遠慮、言葉の端ににじむ怒り、主人を案じる気配。そうしたものが、見えない霧のように屋敷の中を漂っていた。
オルタンシアは自室の窓辺に立ち、庭を見下ろしていた。
昨夜から今日にかけて、いろいろなことが起こったはずなのに、頭の中は妙に静かだった。泣き崩れたわけでもない。怒鳴り散らしたわけでもない。ただ、何か大きなものが体の内側からごっそり抜け落ち、そのあとに空洞だけが残ったような心地がしている。
窓の外では、庭師がいつも通りの仕事をしていた。季節の花壇を整え、伸びすぎた枝を払っている。その動きを見ていると、世の中は昨夜の一件など関係なく進んでいるのだと思い知らされる。
その時、控えめな足音がして、扉が叩かれた。
「お嬢様、失礼いたします」
オディールだった。
「ええ、入って」
いつも通りきびきびとした動きで入ってきた彼女は、オルタンシアの顔を見るなり小さく眉を寄せた。
「また、じっとしていらしたのですね」
「別に、悪いことではないでしょう」
「悪いことです。ずっと窓の外ばかり見ていれば、ろくでもない考え事しかなさいません」
オルタンシアは少しだけ振り返る。
「ずいぶん決めつけるのね」
「決めつけます。昨夜からのお嬢様を見ていれば、それくらいわかります」
遠慮のない言い方だった。
けれど今のオルタンシアには、その遠慮のなさがありがたかった。皆が気遣う顔をして言葉を濁す中で、オディールだけはいつもと変わらない。変わらないことが、かえって心を落ち着かせる。
「お父様が書斎にいらっしゃいます。家令と執事長もご一緒です」
「……そう」
ついにその時が来たか、とオルタンシアは思う。
昨日の一件は、感情だけで終わる話ではない。侯爵家の名誉、王家との関係、正式な婚約解消の手続き、これからの社交界での立ち位置。整理しなければならないことが多すぎる。
本当なら、今はまだ何も考えたくなかった。
けれど、そんなわがままを許される身でもない。
「行きましょう」
そう口にした声が、思ったよりも落ち着いていて、自分で少し驚いた。
オディールは何も言わず、そっと一礼した。
書斎へ向かう廊下は長い。
普段は何気なく歩いているはずなのに、今日はやけに遠く感じた。途中で出会う使用人たちは、皆いつもより深く頭を下げる。哀れみではない。心配と敬意が入り混じったような礼だった。
それがかえって胸に重い。
自分はもう、ただ傷ついた娘ではいられないのだと感じるからだ。公の場で婚約破棄された侯爵令嬢。しかも“悪女”の汚名まで着せられた女。その扱いは、本人がどう感じるかとは別に、家の問題になる。
書斎の前で一度だけ足が止まった。
オディールが静かに言う。
「お嬢様」
「何かしら」
「嫌なことは、嫌だとおっしゃってくださいませ」
オルタンシアは一瞬だけ目を見張った。
「ええ?」
「これまでのお嬢様は、あまりに何でも飲み込みすぎました。今日は、無理になにかを引き受ける必要はございません」
その言葉に、胸の奥がかすかに揺れた。
昨夜から何度も感じていることだが、周囲は自分が思っていた以上に見ていたのだろう。自分がどれだけ我慢してきたか、どれだけ王家に合わせ続けてきたかを。
「……覚えておくわ」
そう答え、オルタンシアは扉を開けた。
書斎の中には、父であるルヴェリエ侯爵と、家令、それに執事長がいた。
窓際の厚いカーテンは半分だけ開かれ、机の上にはすでにいくつもの書類が並んでいる。その配置だけで、今朝からかなりのやり取りがあったのだとわかった。
侯爵は娘の姿を見ると、すぐに座るよう手で示した。
「来たか」
「お呼びと伺いました」
「ああ。座りなさい」
オルタンシアが席に着くと、ほんの短い沈黙が落ちた。
父はいつも厳格な人だ。家のことになると感情を抑え、まず事実を整えようとする。そんな父が今日は、娘にどう声をかけるべきか少し迷っているように見えた。
先に口を開いたのは家令だった。
「お嬢様。現在の状況について、簡潔にご報告いたします」
事務的な口調だが、それはかえってありがたい。
憐れまれるより、現実を整えて示される方が、オルタンシアにはまだ受け止めやすかった。
「昨夜の婚約破棄は、すでに王都中へ広まりつつあります。とくに問題なのは、殿下が公衆の面前で、お嬢様をシェリル・モルヴァン嬢への加害者であるかのように扱われたことです」
オルタンシアは黙って聞く。
「このまま王家が正式な訂正も謝罪も行わなければ、事実無根の話がそのまま定着する恐れがございます」
執事長が続けた。
「さらに、正式な婚約解消の手続きがまだ済んでおりません。公には切り捨てておきながら、文書上は曖昧なままです。この状態は、侯爵家にとってもお嬢様にとってもよろしくありません」
父が低く言う。
「よろしくないどころではない。王家は、こちらを宙に吊るす気かもしれん」
その声には、抑えた怒りがにじんでいた。
オルタンシアは父の横顔を見る。
昨夜も今日も、父は怒っていた。だがその怒りの向きが少し変わっている気がした。王家への不満だけではない。もっと早く娘を守れなかった自分への怒りも混じっているように見える。
「お前の名誉を傷つけたまま放置はさせん」
侯爵ははっきり言った。
「正式な抗議を入れる。婚約の解消も、曖昧にはさせない」
その言葉は力強かった。
けれどオルタンシアの胸の奥に広がったのは、安堵だけではなかった。
ありがたいと思う一方で、どうしてもっと早くそうしてくれなかったのだろうという思いも、やはりどこかにある。けれどそれを今ぶつける気にはなれない。父もまた、昨夜から必死なのだとわかるからだ。
「ありがとうございます、お父様」
侯爵はすぐには答えなかった。
やがて、少しだけ視線を落として言う。
「礼を言われることではない。本来なら、こうなる前に私が考えるべきだった」
書斎の空気が、ほんの少しだけ変わった。
家令も執事長も、黙っている。
オルタンシアは言葉を探したが、うまく見つからなかった。
許すとか、気にしていないとか、そんな綺麗な言葉は出てこない。実際、気にしていないわけがないのだ。ただ、ここで父を責めることも違う気がした。
しばらくして、父は改めて娘を見た。
「これから先の話だ」
オルタンシアは背筋を伸ばす。
「しばらく王都の社交から離れる、という選択もある」
家令が補足する。
「療養を理由に表舞台から下がれば、無遠慮な視線や噂の中心に立ち続けることは避けられます」
「逆に、すぐに姿を見せれば、弱っていないことを示せる面もございます」
と執事長。
「ただし、その場合は悪意ある接触も増えるでしょう」
どちらにも理がある。
それはわかった。
けれど今のオルタンシアには、どちらを選ぶべきか判断がつかない。
王都に残れば、昨夜のことを知っている顔ばかり見ることになるだろう。どんなに平然としていても、無数の視線に疲弊するのは目に見えている。
かといって、離れることが逃げのように思われるのも面白くない。
自分でもまだ感情の整理がついていないのに、立場の問題だけは待ってくれない。
「……わかりません」
ようやく出た答えは、それだった。
父は眉を動かさない。
「正直でいい」
その一言に、少しだけ肩の力が抜けた。
「これまで、お前は自分の気持ちより“どうあるべきか”を優先しすぎた。今すぐ決めろとは言わん」
オルタンシアはまばたきをする。
父からそんな言葉を聞くとは思わなかった。
“家のために”“将来のために”“王家との関係のために”ではなく、まず自分の気持ちを考えろと言われる日が来るとは。
「ただし、王家からの都合のいい要請には応じる必要はない」
侯爵の声は硬かった。
「お前はもう、あちらに使われる立場ではない」
その言葉は思った以上に強く胸へ響いた。
昨夜、人前で切り捨てられた時よりも、今の方がよほど現実として理解できる。自分はもう、王太子妃候補として王家を支える必要はないのだと。
必要はない。
そのはずなのに、まだどこか落ち着かない。
長年染みついた習慣は、そう簡単には消えないらしい。何か問題が起きれば、まず自分が調整しなければと思ってしまう。王家の体面が崩れれば、無意識にそれを整える方法を考えてしまいそうになる。
そんな自分が、少しおかしく、少し哀しかった。
その時、扉が叩かれた。
執事長が目配せをすると、外に控えていた使用人が入ってくる。
「旦那様」
「何だ」
「アルケディウス公爵家より使者が参っております」
その名に、オルタンシアの指先がわずかに動いた。
ゼノン・アルケディウス。
昨夜、祝賀会の場でただ一人、あの空気を当然のものとして受け流さなかった人。怒鳴りもしなければ、大袈裟に庇いもしなかった。ただ、“祝いの場でやることではない”と静かに言った。その声音が妙にはっきりと耳に残っている。
侯爵が問い返す。
「要件は」
「昨日の件につき、お嬢様のお加減を案じているとのこと。また、王都の喧騒を離れて静養なさる必要があるなら、アルケディウス領で客人としてお迎えしたいと」
客人として。
その言い回しに、オルタンシアは少しだけ目を伏せた。
保護するでも、預かるでもなく、客人。
それはつまり、同情の名目で囲い込むのではなく、一人の意思ある人間として扱うということだ。
「どうする」
侯爵が娘を見る。
「会うか」
「……ええ」
即答に近かった。
自分でも少し意外だったが、迷いはなかった。今は誰とも顔を合わせたくない気持ちもある。けれどゼノンからの使者なら、妙な気遣いや憐れみは向けられない気がした。
使者はまもなく通された。
年若い男だったが、所作がきれいで、言葉にも無駄がない。
「ゼノン・アルケディウス公爵閣下より、ルヴェリエ侯爵家へお見舞いを申し上げます」
その挨拶のあと、使者は簡潔に伝える。
「閣下は、オルタンシア様が王都に留まることで余計な疲弊を重ねられるようでしたら、いつでもお迎えする用意があると仰せです。ただし、ご決断を急がせるつもりはないとも」
急がせるつもりはない。
そこが、いかにもゼノンらしい気がした。
親切を示す時ですら、相手の逃げ場を塞がない。
オルタンシアは自分でも気づかぬうちに、ほんの少し息をついていたらしい。張っていた胸の奥が、かすかにゆるむ。
「閣下のお心遣いに感謝いたします、とお伝えください」
使者は深く一礼した。
「かしこまりました」
彼が退室したあと、書斎にはしばらく沈黙が落ちた。
だがその沈黙は、先ほどまでの重さとは少し違う。行き場のない閉塞ではなく、扉が一つ開いたあとの静けさだった。
侯爵が言う。
「選択肢があるだけでも違うだろう」
オルタンシアは、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
それだけしか言えなかったが、本心だった。
今すぐ行くと決めたわけではない。
王都を離れるべきかも、まだわからない。
けれど、自分で選んでいい道がある。それを差し出されただけで、こんなにも違うのだと思う。
これまでの自分は、決められた道をどれだけ綺麗に歩くかばかり考えてきた。婚約者として、侯爵令嬢として、王太子妃候補として。
だが今は違う。
道が一つではないからこそ、不安もある。
それでも、誰かの都合で一方的に閉じられたわけではない未来が、そこにある。
そのことに、オルタンシアは静かな救いを感じていた。
書斎を出ると、廊下の窓から午後の光が差し込んでいた。
明るいのに、まだ少し冷たい光だ。
オディールがそっと寄り添うように歩きながら言う。
「少しだけ、お顔がやわらぎました」
「そうかしら」
「はい。ほんの少しですけれど」
オルタンシアは窓の外へ目を向けた。
昨日の夜、自分の人生はそこで終わったような気がしていた。
けれど実際には、終わったのは一つの役目だけだったのかもしれない。
その先をどうするかは、まだ何も決まっていない。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど今は、その怖さの中にほんのわずかな余白がある。
それだけで、昨日よりは息がしやすかった。
ルヴェリエ侯爵家の屋敷は、いつもより静かだった。
もともと騒がしい家ではない。古くから続く名門侯爵家らしく、使用人たちの足音は軽く、廊下で交わされる言葉も必要最小限だ。けれど今日の静けさは、普段の落ち着きとは違う。誰もが音を立てないようにしているのではなく、何を口にしてよいかわからず、息まで潜めているような静けさだった。
卒業祝賀会の夜に起きた公開婚約破棄は、それほどまでに大きかった。
昨夜の出来事は、もうこの屋敷の外だけの話ではない。王都じゅうに広がり始めた噂は、当然、屋敷の中にも届いている。使用人たちは主人の前で余計なことを言わない。だが、それでも空気というものは隠せない。腫れものに触るような遠慮、言葉の端ににじむ怒り、主人を案じる気配。そうしたものが、見えない霧のように屋敷の中を漂っていた。
オルタンシアは自室の窓辺に立ち、庭を見下ろしていた。
昨夜から今日にかけて、いろいろなことが起こったはずなのに、頭の中は妙に静かだった。泣き崩れたわけでもない。怒鳴り散らしたわけでもない。ただ、何か大きなものが体の内側からごっそり抜け落ち、そのあとに空洞だけが残ったような心地がしている。
窓の外では、庭師がいつも通りの仕事をしていた。季節の花壇を整え、伸びすぎた枝を払っている。その動きを見ていると、世の中は昨夜の一件など関係なく進んでいるのだと思い知らされる。
その時、控えめな足音がして、扉が叩かれた。
「お嬢様、失礼いたします」
オディールだった。
「ええ、入って」
いつも通りきびきびとした動きで入ってきた彼女は、オルタンシアの顔を見るなり小さく眉を寄せた。
「また、じっとしていらしたのですね」
「別に、悪いことではないでしょう」
「悪いことです。ずっと窓の外ばかり見ていれば、ろくでもない考え事しかなさいません」
オルタンシアは少しだけ振り返る。
「ずいぶん決めつけるのね」
「決めつけます。昨夜からのお嬢様を見ていれば、それくらいわかります」
遠慮のない言い方だった。
けれど今のオルタンシアには、その遠慮のなさがありがたかった。皆が気遣う顔をして言葉を濁す中で、オディールだけはいつもと変わらない。変わらないことが、かえって心を落ち着かせる。
「お父様が書斎にいらっしゃいます。家令と執事長もご一緒です」
「……そう」
ついにその時が来たか、とオルタンシアは思う。
昨日の一件は、感情だけで終わる話ではない。侯爵家の名誉、王家との関係、正式な婚約解消の手続き、これからの社交界での立ち位置。整理しなければならないことが多すぎる。
本当なら、今はまだ何も考えたくなかった。
けれど、そんなわがままを許される身でもない。
「行きましょう」
そう口にした声が、思ったよりも落ち着いていて、自分で少し驚いた。
オディールは何も言わず、そっと一礼した。
書斎へ向かう廊下は長い。
普段は何気なく歩いているはずなのに、今日はやけに遠く感じた。途中で出会う使用人たちは、皆いつもより深く頭を下げる。哀れみではない。心配と敬意が入り混じったような礼だった。
それがかえって胸に重い。
自分はもう、ただ傷ついた娘ではいられないのだと感じるからだ。公の場で婚約破棄された侯爵令嬢。しかも“悪女”の汚名まで着せられた女。その扱いは、本人がどう感じるかとは別に、家の問題になる。
書斎の前で一度だけ足が止まった。
オディールが静かに言う。
「お嬢様」
「何かしら」
「嫌なことは、嫌だとおっしゃってくださいませ」
オルタンシアは一瞬だけ目を見張った。
「ええ?」
「これまでのお嬢様は、あまりに何でも飲み込みすぎました。今日は、無理になにかを引き受ける必要はございません」
その言葉に、胸の奥がかすかに揺れた。
昨夜から何度も感じていることだが、周囲は自分が思っていた以上に見ていたのだろう。自分がどれだけ我慢してきたか、どれだけ王家に合わせ続けてきたかを。
「……覚えておくわ」
そう答え、オルタンシアは扉を開けた。
書斎の中には、父であるルヴェリエ侯爵と、家令、それに執事長がいた。
窓際の厚いカーテンは半分だけ開かれ、机の上にはすでにいくつもの書類が並んでいる。その配置だけで、今朝からかなりのやり取りがあったのだとわかった。
侯爵は娘の姿を見ると、すぐに座るよう手で示した。
「来たか」
「お呼びと伺いました」
「ああ。座りなさい」
オルタンシアが席に着くと、ほんの短い沈黙が落ちた。
父はいつも厳格な人だ。家のことになると感情を抑え、まず事実を整えようとする。そんな父が今日は、娘にどう声をかけるべきか少し迷っているように見えた。
先に口を開いたのは家令だった。
「お嬢様。現在の状況について、簡潔にご報告いたします」
事務的な口調だが、それはかえってありがたい。
憐れまれるより、現実を整えて示される方が、オルタンシアにはまだ受け止めやすかった。
「昨夜の婚約破棄は、すでに王都中へ広まりつつあります。とくに問題なのは、殿下が公衆の面前で、お嬢様をシェリル・モルヴァン嬢への加害者であるかのように扱われたことです」
オルタンシアは黙って聞く。
「このまま王家が正式な訂正も謝罪も行わなければ、事実無根の話がそのまま定着する恐れがございます」
執事長が続けた。
「さらに、正式な婚約解消の手続きがまだ済んでおりません。公には切り捨てておきながら、文書上は曖昧なままです。この状態は、侯爵家にとってもお嬢様にとってもよろしくありません」
父が低く言う。
「よろしくないどころではない。王家は、こちらを宙に吊るす気かもしれん」
その声には、抑えた怒りがにじんでいた。
オルタンシアは父の横顔を見る。
昨夜も今日も、父は怒っていた。だがその怒りの向きが少し変わっている気がした。王家への不満だけではない。もっと早く娘を守れなかった自分への怒りも混じっているように見える。
「お前の名誉を傷つけたまま放置はさせん」
侯爵ははっきり言った。
「正式な抗議を入れる。婚約の解消も、曖昧にはさせない」
その言葉は力強かった。
けれどオルタンシアの胸の奥に広がったのは、安堵だけではなかった。
ありがたいと思う一方で、どうしてもっと早くそうしてくれなかったのだろうという思いも、やはりどこかにある。けれどそれを今ぶつける気にはなれない。父もまた、昨夜から必死なのだとわかるからだ。
「ありがとうございます、お父様」
侯爵はすぐには答えなかった。
やがて、少しだけ視線を落として言う。
「礼を言われることではない。本来なら、こうなる前に私が考えるべきだった」
書斎の空気が、ほんの少しだけ変わった。
家令も執事長も、黙っている。
オルタンシアは言葉を探したが、うまく見つからなかった。
許すとか、気にしていないとか、そんな綺麗な言葉は出てこない。実際、気にしていないわけがないのだ。ただ、ここで父を責めることも違う気がした。
しばらくして、父は改めて娘を見た。
「これから先の話だ」
オルタンシアは背筋を伸ばす。
「しばらく王都の社交から離れる、という選択もある」
家令が補足する。
「療養を理由に表舞台から下がれば、無遠慮な視線や噂の中心に立ち続けることは避けられます」
「逆に、すぐに姿を見せれば、弱っていないことを示せる面もございます」
と執事長。
「ただし、その場合は悪意ある接触も増えるでしょう」
どちらにも理がある。
それはわかった。
けれど今のオルタンシアには、どちらを選ぶべきか判断がつかない。
王都に残れば、昨夜のことを知っている顔ばかり見ることになるだろう。どんなに平然としていても、無数の視線に疲弊するのは目に見えている。
かといって、離れることが逃げのように思われるのも面白くない。
自分でもまだ感情の整理がついていないのに、立場の問題だけは待ってくれない。
「……わかりません」
ようやく出た答えは、それだった。
父は眉を動かさない。
「正直でいい」
その一言に、少しだけ肩の力が抜けた。
「これまで、お前は自分の気持ちより“どうあるべきか”を優先しすぎた。今すぐ決めろとは言わん」
オルタンシアはまばたきをする。
父からそんな言葉を聞くとは思わなかった。
“家のために”“将来のために”“王家との関係のために”ではなく、まず自分の気持ちを考えろと言われる日が来るとは。
「ただし、王家からの都合のいい要請には応じる必要はない」
侯爵の声は硬かった。
「お前はもう、あちらに使われる立場ではない」
その言葉は思った以上に強く胸へ響いた。
昨夜、人前で切り捨てられた時よりも、今の方がよほど現実として理解できる。自分はもう、王太子妃候補として王家を支える必要はないのだと。
必要はない。
そのはずなのに、まだどこか落ち着かない。
長年染みついた習慣は、そう簡単には消えないらしい。何か問題が起きれば、まず自分が調整しなければと思ってしまう。王家の体面が崩れれば、無意識にそれを整える方法を考えてしまいそうになる。
そんな自分が、少しおかしく、少し哀しかった。
その時、扉が叩かれた。
執事長が目配せをすると、外に控えていた使用人が入ってくる。
「旦那様」
「何だ」
「アルケディウス公爵家より使者が参っております」
その名に、オルタンシアの指先がわずかに動いた。
ゼノン・アルケディウス。
昨夜、祝賀会の場でただ一人、あの空気を当然のものとして受け流さなかった人。怒鳴りもしなければ、大袈裟に庇いもしなかった。ただ、“祝いの場でやることではない”と静かに言った。その声音が妙にはっきりと耳に残っている。
侯爵が問い返す。
「要件は」
「昨日の件につき、お嬢様のお加減を案じているとのこと。また、王都の喧騒を離れて静養なさる必要があるなら、アルケディウス領で客人としてお迎えしたいと」
客人として。
その言い回しに、オルタンシアは少しだけ目を伏せた。
保護するでも、預かるでもなく、客人。
それはつまり、同情の名目で囲い込むのではなく、一人の意思ある人間として扱うということだ。
「どうする」
侯爵が娘を見る。
「会うか」
「……ええ」
即答に近かった。
自分でも少し意外だったが、迷いはなかった。今は誰とも顔を合わせたくない気持ちもある。けれどゼノンからの使者なら、妙な気遣いや憐れみは向けられない気がした。
使者はまもなく通された。
年若い男だったが、所作がきれいで、言葉にも無駄がない。
「ゼノン・アルケディウス公爵閣下より、ルヴェリエ侯爵家へお見舞いを申し上げます」
その挨拶のあと、使者は簡潔に伝える。
「閣下は、オルタンシア様が王都に留まることで余計な疲弊を重ねられるようでしたら、いつでもお迎えする用意があると仰せです。ただし、ご決断を急がせるつもりはないとも」
急がせるつもりはない。
そこが、いかにもゼノンらしい気がした。
親切を示す時ですら、相手の逃げ場を塞がない。
オルタンシアは自分でも気づかぬうちに、ほんの少し息をついていたらしい。張っていた胸の奥が、かすかにゆるむ。
「閣下のお心遣いに感謝いたします、とお伝えください」
使者は深く一礼した。
「かしこまりました」
彼が退室したあと、書斎にはしばらく沈黙が落ちた。
だがその沈黙は、先ほどまでの重さとは少し違う。行き場のない閉塞ではなく、扉が一つ開いたあとの静けさだった。
侯爵が言う。
「選択肢があるだけでも違うだろう」
オルタンシアは、ゆっくりとうなずいた。
「……はい」
それだけしか言えなかったが、本心だった。
今すぐ行くと決めたわけではない。
王都を離れるべきかも、まだわからない。
けれど、自分で選んでいい道がある。それを差し出されただけで、こんなにも違うのだと思う。
これまでの自分は、決められた道をどれだけ綺麗に歩くかばかり考えてきた。婚約者として、侯爵令嬢として、王太子妃候補として。
だが今は違う。
道が一つではないからこそ、不安もある。
それでも、誰かの都合で一方的に閉じられたわけではない未来が、そこにある。
そのことに、オルタンシアは静かな救いを感じていた。
書斎を出ると、廊下の窓から午後の光が差し込んでいた。
明るいのに、まだ少し冷たい光だ。
オディールがそっと寄り添うように歩きながら言う。
「少しだけ、お顔がやわらぎました」
「そうかしら」
「はい。ほんの少しですけれど」
オルタンシアは窓の外へ目を向けた。
昨日の夜、自分の人生はそこで終わったような気がしていた。
けれど実際には、終わったのは一つの役目だけだったのかもしれない。
その先をどうするかは、まだ何も決まっていない。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど今は、その怖さの中にほんのわずかな余白がある。
それだけで、昨日よりは息がしやすかった。
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夫から呼び出されたセリーヌは式を上げて久しぶりに夫の顔を見たが隣には知らない女性が一緒にいた。
セリーヌは、この時初めて夫から聞かされた。
夫には愛人がいた。
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誤字脱字があります。更新が不定期ですが読んで貰えましたら嬉しいです。
よろしくお願いします。
婚約者から「君のことを好きになれなかった」と婚約解消されました。えっ、あなたから告白してきたのに?
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