8 / 31
8話 働かなくては、ではなく
8話 働かなくては、ではなく
アルケディウス領の公爵邸へ到着したのは、出立から数日後の夕方だった。
王都から遠ざかるにつれ道は険しくなり、景色も変わっていった。広い平野はやがて深い森と起伏のある丘陵に変わり、吹く風はひときわ冷たくなる。それでも不思議と、オルタンシアの胸の内は王都にいた時より静かだった。
もちろん疲れてはいる。
長旅に慣れていないわけではないが、今回はただの移動ではなく、心ごと場所を移すような旅だった。
それでも、王都に残って噂や視線の中で息を詰めるよりは、ずっとましだった。
馬車が最後の坂を上りきった時、窓の外に公爵邸が見えた。
それは王都の貴族たちの邸宅とは違う美しさを持っていた。
壮麗ではある。だが、華美ではない。
深い灰色の石で組まれた館は、周囲の山並みや森に溶け込むように建っていた。無駄な装飾は少なく、代わりに窓の位置も、屋根の角度も、すべてがこの土地の冬や風に逆らわないよう考え抜かれているように見える。
“見せるための邸宅”ではなく、“守り、暮らすための邸宅”。
そんな印象だった。
「いかがですか、お嬢様」
馬車の窓から同じように外を見ていたオディールが尋ねる。
オルタンシアは目を細めた。
「……思っていたより、ずっと落ち着くわ」
「それはよろしゅうございました」
その一方で、正門前に整列した使用人たちの姿を見た瞬間、オルタンシアの背筋は反射的に伸びた。
迎えの列だ。
王都でなら、こういう時には誰にどう挨拶し、どこでどの角度で微笑み、何を最初に口にするべきかを瞬時に計算していた。
その思考が、ほとんど条件反射のようによみがえる。
疲れていても、すぐに整えなければ。
客人として失礼があってはならない。
ルヴェリエ侯爵家の娘として、完璧でなければ。
馬車が止まり、扉が開く。
冷えた空気が流れ込み、オルタンシアは自然と表情を整えた。
先に降りたゼノンが、彼女へ手を差し出す。
「足元に気をつけろ」
簡潔な言葉だった。
その声音に押されるようにオルタンシアは彼の手を取り、馬車を降りる。
地面へ足をつけた瞬間、長旅を終えた実感が一気に押し寄せた。
ここが、アルケディウス領。
ここから先は、王都ではない。
出迎えの最前列には、年配の執事と女主人役を務めていそうな落ち着いた女性が立っていた。
執事が深く礼を取る。
「お帰りなさいませ、閣下。オルタンシア様、ようこそアルケディウス公爵邸へお越しくださいました。執事長のハロルドでございます」
女性も続く。
「家政を預かっておりますエルマにございます。長旅でお疲れでしょう。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
よく訓練された挨拶だった。
だが王都の屋敷のように、客人を値踏みするような視線がない。むしろ皆、ゼノンが連れてきた客人だから歓迎する、という率直な空気を持っていた。
それでもオルタンシアは、礼を返しながら無意識に周囲を観察していた。
誰が実務の中心か。
誰が古参で、誰が若いか。
この屋敷での力関係はどうなっているのか。
どこへ立てば流れを妨げないか。
完全に、染みついた癖だった。
館の中へ通されると、暖炉の熱が冷えた体にしみた。
高い天井、広い階段、落ち着いた色調の絨毯。飾られている絵画や花瓶も上質ではあるが、王都のような“見せびらかす豪奢さ”がない。どれもこの館の空気に合っていて、過不足がなかった。
「客室へ案内する」
ゼノンが言う。
「その前にお茶の支度を」
とエルマが口を挟んだが、ゼノンは首を振った。
「先に休ませる。長旅のあとの形式は不要だ」
その一言に、オルタンシアは少しだけ目を瞬いた。
王都なら、到着した客人にはまず応接間で一息、軽い会話、必要ならそのまま食事、という流れになることが多い。とくに家格のある客であればなおさらだ。
だがゼノンは、それを当然のように省いた。
形式より体調を優先する。
口で言うのは簡単だが、貴族社会でそれを本当にやる人は案外少ない。
「ありがとうございます、閣下」
そう言うと、ゼノンはわずかに眉を動かした。
「礼は不要だ。疲れている時に愛想を振りまくのは無駄だろう」
その言い方があまりにもぶれなくて、オルタンシアはほんの少しだけ口元を緩める。
客室は南向きの静かな部屋だった。
広く、明るく、そしてやはり過度に飾られていない。窓の外には森が見え、その向こうには夕暮れの山並みがうっすらと重なっていた。
王都の邸宅なら窓の外には手入れの行き届いた庭園や噴水が見えるところだろう。だがここでは自然がそのまま近い。風の動きまで見える気がした。
「お嬢様」
案内を終えて人が下がると、オディールがそっと呼びかける。
「お荷物はあとで整えますので、少しお掛けくださいませ」
「……ええ」
促されるまま、オルタンシアは窓際の椅子に腰を下ろした。
そこで初めて、自分がどれほど肩に力を入れていたのかに気づく。
背筋を保ち、表情を整え、周囲を見て、流れを読み、失礼がないように立ち回る。
ほんの短い到着の挨拶だけで、体の奥にまで馴染んだその習慣が勝手に働いていた。
オディールがそれを見抜いたように言う。
「もう、そこまでなさらなくてよろしいのではありませんか」
「何が?」
「今の一連のことです」
オルタンシアは少しだけ視線を逸らす。
「侯爵家の娘として恥ずかしい振る舞いはできないわ」
「それはそうでございます」
オディールはきっぱり認めた。
「ですが、“恥ずかしくない”と“完璧である”は別でございます」
その言葉に、オルタンシアは返事ができなかった。
たしかにそうだ。
誰も彼女に完璧な笑顔やよどみない返礼を求めてはいなかった。長旅の疲れがあることも皆わかっている。それなのに彼女は、反射的に“最良の応対”をしようとしていた。
休むことより先に、ちゃんとしなければと考えてしまう。
それがもう癖になっている。
「……何かしていないと、落ち着かないの」
小さくこぼすと、オディールは少しだけやわらかい表情になった。
「存じております」
「座っているだけなのに、何か抜けている気がして」
「それは“抜けている”のではなく、“やらなくていいことまで抱えていない”状態です」
妙な言い方だった。
けれど、妙に腑に落ちる。
王都ではいつも何かを抱えていた。誰かの失敗、誰かの機嫌、場の空気、先の予定。今ここにはそれがない。
ないことに、落ち着かなさを覚えているのだ。
「少し横になられては」
「そんなに疲れて見える?」
「はい」
また即答だった。
オルタンシアはとうとう苦笑する。
「あなたは本当に容赦がないわね」
「今日は旅の初日ですので、なおさらでございます」
結局、オディールに押し切られるようにして、オルタンシアは上着をゆるめ、しばし寝台に身を預けた。
ほんの少し目を閉じるだけのつもりだった。
けれど、気づけばかなりの時間が過ぎていたらしい。
扉を叩く音で目を覚ますと、窓の外はもうすっかり暗かった。
起き上がると、オディールが少し安心した顔で近づいてくる。
「お目覚めですか」
「……私、寝てしまったのね」
「ええ。かなり深く」
それを聞いて、オルタンシアは少し驚く。
王都では、ここしばらく浅い眠りしか取れていなかった。すぐ目が覚めるか、目を閉じても頭だけが働き続けるか、そのどちらかだったのに。
ここへ来てすぐ、そんなふうに眠れたのだ。
「閣下が、無理に夕食へ出なくてよいと仰っていました」
「え?」
「目が覚めたら軽いものを部屋へ運ぶようにと」
オルタンシアはまた、少しだけ目を見開いた。
どこまで気を回しているのだろう。
そしてどこまで、こちらに気を遣わせないようにしているのだろう。
「……本当に、この邸では形式が後なのね」
「少なくとも、今日はそうでございますね」
運ばれてきたのは、温かなスープと柔らかなパン、それに少しの温野菜だった。
旅の疲れた体にはちょうどいい。
オルタンシアは小さな丸卓でそれを口にしながら、窓の外の夜を見た。
王都の夜と違い、遠くまで静かだ。人のざわめきも、馬車の音もほとんどない。風が森を渡る気配と、時折どこかで鳴く鳥の声だけがある。
その静けさの中で、彼女はぽつりと呟いた。
「……働かなくては、と思ってしまうの」
オディールは食器の位置を整えながら、顔を上げる。
「今ですか?」
「ええ。こうして食事をしているだけなのに、何か見落としている気がして。誰かのために動いていない自分が、ひどく怠けているように思えてしまう」
言いながら、自分でも変だと思う。
長旅のあとで疲れているのだから、休んで当然だ。
誰も責めていない。
それなのに、自分の中のどこかが落ち着かない。
オディールは少し考えてから、静かに言った。
「お嬢様は長いあいだ、“役に立つこと”でしかご自分を安心させられなかったのだと思います」
その言葉は、やさしいようでいて容赦がなかった。
オルタンシアはスプーンを持つ手を止める。
「役に立つこと、でしか……」
「ええ。王家にとって、婚約者にとって、家にとって、場にとって。何かの役に立っている時だけ、ご自分の居場所が確かなものに思えたのではありませんか」
図星だった。
あまりにも。
何かを整え、誰かを支え、滞りをなくし、場を保つ。それができている限り、自分には存在する価値がある気がしていた。
逆に言えば、それがなければ不安だったのだ。
誰かに必要とされなくなったら、自分には何が残るのかと。
だからレオニードの婚約者という立場が壊れた時、あれほど強く足元が崩れたのかもしれない。
「……そうかもしれないわ」
ようやくそう言うと、オディールはうなずいた。
「でしたら、今は慣れるしかございません」
「慣れる?」
「ええ。“何かをしていなくても、お嬢様はここにいていい”ということに」
それは慰めのようでいて、実際にはかなり難しい課題だった。
何もしなくてもいていい。
そんなことを、オルタンシアはこれまで本気で許されたことがない。
食後、少しだけ気分転換にと窓を開けてもらうと、冷たい夜気が流れ込んできた。
王都より冷える。
けれど空気は澄んでいた。
その時、廊下の向こうに人の気配がして、扉の外から低い声がした。
「起きているか」
ゼノンだった。
オディールが一礼して扉を開けると、彼は室内へは入らず、開いた扉の外に立ったままオルタンシアを見る。
「体調はどうだ」
「思ったより、眠れました」
「そうか」
短いやり取りだった。
だがそれで十分だった。
ゼノンは続ける。
「明日は何も入れない。案内も後でいい」
“何も入れない”。
その言葉に、オルタンシアは少しだけ目を瞬く。
王都なら、客人が来れば館の紹介や領地の説明、形式的な歓迎の時間が必ず設けられる。まして侯爵令嬢ほどの相手ならなおさらだ。
だがゼノンは、到着翌日の予定を空にすると言う。
「そんなにお気遣いいただかなくても」
反射的にそう言うと、ゼノンは淡々と返した。
「気遣いではない。必要がないだけだ」
あまりにもぶれない答えだった。
「君はここへ働きに来たわけではない」
その一言が、静かに胸へ落ちる。
働きに来たわけではない。
当たり前だ。
客人として迎えられているのだから。
それなのに、言葉にされるまでどこかで“何か役に立たなくてはならない”と思っていた。
オルタンシアはゆっくり息をつく。
「……はい」
ゼノンはそれ以上何も言わず、ただ一つだけ付け加えた。
「慣れないだろうが、急がなくていい」
そのまま彼は去っていった。
扉が閉まったあと、オルタンシアはしばらくその場に座ったまま動けなかった。
オディールが小さく笑う。
「閣下は、本当に急がせませんね」
「ええ……」
「お嬢様にはちょうどよろしいのではありませんか」
その通りかもしれない。
王都では、いつも急がされていた。間に合わせろ、整えろ、間違えるな、取りこぼすなと。休むことすら予定の中にきっちり収めるような暮らしだった。
ここでは違う。
今日着いたばかりの客人に、何も求めない。
何もできなくても構わないと言われる。
それがありがたくて、同時に落ち着かない。
けれど、その落ち着かなさの正体がわかっただけでも少し違った。
役に立たなくては、ではなく。
ここにいていい、に慣れなければならないのだ。
難しい。
けれど、少しだけやってみようと思う。
王都の空気の中では、そんなことを考える余裕さえなかったのだから。
窓の外では、夜の森が静かに揺れている。
オルタンシアは冷えた空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
まだ何も始まっていない。
けれどそれでいいのかもしれない。
始める前に、まず立ち止まってもいいのだと、この館はそう言っているようだった。
アルケディウス領の公爵邸へ到着したのは、出立から数日後の夕方だった。
王都から遠ざかるにつれ道は険しくなり、景色も変わっていった。広い平野はやがて深い森と起伏のある丘陵に変わり、吹く風はひときわ冷たくなる。それでも不思議と、オルタンシアの胸の内は王都にいた時より静かだった。
もちろん疲れてはいる。
長旅に慣れていないわけではないが、今回はただの移動ではなく、心ごと場所を移すような旅だった。
それでも、王都に残って噂や視線の中で息を詰めるよりは、ずっとましだった。
馬車が最後の坂を上りきった時、窓の外に公爵邸が見えた。
それは王都の貴族たちの邸宅とは違う美しさを持っていた。
壮麗ではある。だが、華美ではない。
深い灰色の石で組まれた館は、周囲の山並みや森に溶け込むように建っていた。無駄な装飾は少なく、代わりに窓の位置も、屋根の角度も、すべてがこの土地の冬や風に逆らわないよう考え抜かれているように見える。
“見せるための邸宅”ではなく、“守り、暮らすための邸宅”。
そんな印象だった。
「いかがですか、お嬢様」
馬車の窓から同じように外を見ていたオディールが尋ねる。
オルタンシアは目を細めた。
「……思っていたより、ずっと落ち着くわ」
「それはよろしゅうございました」
その一方で、正門前に整列した使用人たちの姿を見た瞬間、オルタンシアの背筋は反射的に伸びた。
迎えの列だ。
王都でなら、こういう時には誰にどう挨拶し、どこでどの角度で微笑み、何を最初に口にするべきかを瞬時に計算していた。
その思考が、ほとんど条件反射のようによみがえる。
疲れていても、すぐに整えなければ。
客人として失礼があってはならない。
ルヴェリエ侯爵家の娘として、完璧でなければ。
馬車が止まり、扉が開く。
冷えた空気が流れ込み、オルタンシアは自然と表情を整えた。
先に降りたゼノンが、彼女へ手を差し出す。
「足元に気をつけろ」
簡潔な言葉だった。
その声音に押されるようにオルタンシアは彼の手を取り、馬車を降りる。
地面へ足をつけた瞬間、長旅を終えた実感が一気に押し寄せた。
ここが、アルケディウス領。
ここから先は、王都ではない。
出迎えの最前列には、年配の執事と女主人役を務めていそうな落ち着いた女性が立っていた。
執事が深く礼を取る。
「お帰りなさいませ、閣下。オルタンシア様、ようこそアルケディウス公爵邸へお越しくださいました。執事長のハロルドでございます」
女性も続く。
「家政を預かっておりますエルマにございます。長旅でお疲れでしょう。どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
よく訓練された挨拶だった。
だが王都の屋敷のように、客人を値踏みするような視線がない。むしろ皆、ゼノンが連れてきた客人だから歓迎する、という率直な空気を持っていた。
それでもオルタンシアは、礼を返しながら無意識に周囲を観察していた。
誰が実務の中心か。
誰が古参で、誰が若いか。
この屋敷での力関係はどうなっているのか。
どこへ立てば流れを妨げないか。
完全に、染みついた癖だった。
館の中へ通されると、暖炉の熱が冷えた体にしみた。
高い天井、広い階段、落ち着いた色調の絨毯。飾られている絵画や花瓶も上質ではあるが、王都のような“見せびらかす豪奢さ”がない。どれもこの館の空気に合っていて、過不足がなかった。
「客室へ案内する」
ゼノンが言う。
「その前にお茶の支度を」
とエルマが口を挟んだが、ゼノンは首を振った。
「先に休ませる。長旅のあとの形式は不要だ」
その一言に、オルタンシアは少しだけ目を瞬いた。
王都なら、到着した客人にはまず応接間で一息、軽い会話、必要ならそのまま食事、という流れになることが多い。とくに家格のある客であればなおさらだ。
だがゼノンは、それを当然のように省いた。
形式より体調を優先する。
口で言うのは簡単だが、貴族社会でそれを本当にやる人は案外少ない。
「ありがとうございます、閣下」
そう言うと、ゼノンはわずかに眉を動かした。
「礼は不要だ。疲れている時に愛想を振りまくのは無駄だろう」
その言い方があまりにもぶれなくて、オルタンシアはほんの少しだけ口元を緩める。
客室は南向きの静かな部屋だった。
広く、明るく、そしてやはり過度に飾られていない。窓の外には森が見え、その向こうには夕暮れの山並みがうっすらと重なっていた。
王都の邸宅なら窓の外には手入れの行き届いた庭園や噴水が見えるところだろう。だがここでは自然がそのまま近い。風の動きまで見える気がした。
「お嬢様」
案内を終えて人が下がると、オディールがそっと呼びかける。
「お荷物はあとで整えますので、少しお掛けくださいませ」
「……ええ」
促されるまま、オルタンシアは窓際の椅子に腰を下ろした。
そこで初めて、自分がどれほど肩に力を入れていたのかに気づく。
背筋を保ち、表情を整え、周囲を見て、流れを読み、失礼がないように立ち回る。
ほんの短い到着の挨拶だけで、体の奥にまで馴染んだその習慣が勝手に働いていた。
オディールがそれを見抜いたように言う。
「もう、そこまでなさらなくてよろしいのではありませんか」
「何が?」
「今の一連のことです」
オルタンシアは少しだけ視線を逸らす。
「侯爵家の娘として恥ずかしい振る舞いはできないわ」
「それはそうでございます」
オディールはきっぱり認めた。
「ですが、“恥ずかしくない”と“完璧である”は別でございます」
その言葉に、オルタンシアは返事ができなかった。
たしかにそうだ。
誰も彼女に完璧な笑顔やよどみない返礼を求めてはいなかった。長旅の疲れがあることも皆わかっている。それなのに彼女は、反射的に“最良の応対”をしようとしていた。
休むことより先に、ちゃんとしなければと考えてしまう。
それがもう癖になっている。
「……何かしていないと、落ち着かないの」
小さくこぼすと、オディールは少しだけやわらかい表情になった。
「存じております」
「座っているだけなのに、何か抜けている気がして」
「それは“抜けている”のではなく、“やらなくていいことまで抱えていない”状態です」
妙な言い方だった。
けれど、妙に腑に落ちる。
王都ではいつも何かを抱えていた。誰かの失敗、誰かの機嫌、場の空気、先の予定。今ここにはそれがない。
ないことに、落ち着かなさを覚えているのだ。
「少し横になられては」
「そんなに疲れて見える?」
「はい」
また即答だった。
オルタンシアはとうとう苦笑する。
「あなたは本当に容赦がないわね」
「今日は旅の初日ですので、なおさらでございます」
結局、オディールに押し切られるようにして、オルタンシアは上着をゆるめ、しばし寝台に身を預けた。
ほんの少し目を閉じるだけのつもりだった。
けれど、気づけばかなりの時間が過ぎていたらしい。
扉を叩く音で目を覚ますと、窓の外はもうすっかり暗かった。
起き上がると、オディールが少し安心した顔で近づいてくる。
「お目覚めですか」
「……私、寝てしまったのね」
「ええ。かなり深く」
それを聞いて、オルタンシアは少し驚く。
王都では、ここしばらく浅い眠りしか取れていなかった。すぐ目が覚めるか、目を閉じても頭だけが働き続けるか、そのどちらかだったのに。
ここへ来てすぐ、そんなふうに眠れたのだ。
「閣下が、無理に夕食へ出なくてよいと仰っていました」
「え?」
「目が覚めたら軽いものを部屋へ運ぶようにと」
オルタンシアはまた、少しだけ目を見開いた。
どこまで気を回しているのだろう。
そしてどこまで、こちらに気を遣わせないようにしているのだろう。
「……本当に、この邸では形式が後なのね」
「少なくとも、今日はそうでございますね」
運ばれてきたのは、温かなスープと柔らかなパン、それに少しの温野菜だった。
旅の疲れた体にはちょうどいい。
オルタンシアは小さな丸卓でそれを口にしながら、窓の外の夜を見た。
王都の夜と違い、遠くまで静かだ。人のざわめきも、馬車の音もほとんどない。風が森を渡る気配と、時折どこかで鳴く鳥の声だけがある。
その静けさの中で、彼女はぽつりと呟いた。
「……働かなくては、と思ってしまうの」
オディールは食器の位置を整えながら、顔を上げる。
「今ですか?」
「ええ。こうして食事をしているだけなのに、何か見落としている気がして。誰かのために動いていない自分が、ひどく怠けているように思えてしまう」
言いながら、自分でも変だと思う。
長旅のあとで疲れているのだから、休んで当然だ。
誰も責めていない。
それなのに、自分の中のどこかが落ち着かない。
オディールは少し考えてから、静かに言った。
「お嬢様は長いあいだ、“役に立つこと”でしかご自分を安心させられなかったのだと思います」
その言葉は、やさしいようでいて容赦がなかった。
オルタンシアはスプーンを持つ手を止める。
「役に立つこと、でしか……」
「ええ。王家にとって、婚約者にとって、家にとって、場にとって。何かの役に立っている時だけ、ご自分の居場所が確かなものに思えたのではありませんか」
図星だった。
あまりにも。
何かを整え、誰かを支え、滞りをなくし、場を保つ。それができている限り、自分には存在する価値がある気がしていた。
逆に言えば、それがなければ不安だったのだ。
誰かに必要とされなくなったら、自分には何が残るのかと。
だからレオニードの婚約者という立場が壊れた時、あれほど強く足元が崩れたのかもしれない。
「……そうかもしれないわ」
ようやくそう言うと、オディールはうなずいた。
「でしたら、今は慣れるしかございません」
「慣れる?」
「ええ。“何かをしていなくても、お嬢様はここにいていい”ということに」
それは慰めのようでいて、実際にはかなり難しい課題だった。
何もしなくてもいていい。
そんなことを、オルタンシアはこれまで本気で許されたことがない。
食後、少しだけ気分転換にと窓を開けてもらうと、冷たい夜気が流れ込んできた。
王都より冷える。
けれど空気は澄んでいた。
その時、廊下の向こうに人の気配がして、扉の外から低い声がした。
「起きているか」
ゼノンだった。
オディールが一礼して扉を開けると、彼は室内へは入らず、開いた扉の外に立ったままオルタンシアを見る。
「体調はどうだ」
「思ったより、眠れました」
「そうか」
短いやり取りだった。
だがそれで十分だった。
ゼノンは続ける。
「明日は何も入れない。案内も後でいい」
“何も入れない”。
その言葉に、オルタンシアは少しだけ目を瞬く。
王都なら、客人が来れば館の紹介や領地の説明、形式的な歓迎の時間が必ず設けられる。まして侯爵令嬢ほどの相手ならなおさらだ。
だがゼノンは、到着翌日の予定を空にすると言う。
「そんなにお気遣いいただかなくても」
反射的にそう言うと、ゼノンは淡々と返した。
「気遣いではない。必要がないだけだ」
あまりにもぶれない答えだった。
「君はここへ働きに来たわけではない」
その一言が、静かに胸へ落ちる。
働きに来たわけではない。
当たり前だ。
客人として迎えられているのだから。
それなのに、言葉にされるまでどこかで“何か役に立たなくてはならない”と思っていた。
オルタンシアはゆっくり息をつく。
「……はい」
ゼノンはそれ以上何も言わず、ただ一つだけ付け加えた。
「慣れないだろうが、急がなくていい」
そのまま彼は去っていった。
扉が閉まったあと、オルタンシアはしばらくその場に座ったまま動けなかった。
オディールが小さく笑う。
「閣下は、本当に急がせませんね」
「ええ……」
「お嬢様にはちょうどよろしいのではありませんか」
その通りかもしれない。
王都では、いつも急がされていた。間に合わせろ、整えろ、間違えるな、取りこぼすなと。休むことすら予定の中にきっちり収めるような暮らしだった。
ここでは違う。
今日着いたばかりの客人に、何も求めない。
何もできなくても構わないと言われる。
それがありがたくて、同時に落ち着かない。
けれど、その落ち着かなさの正体がわかっただけでも少し違った。
役に立たなくては、ではなく。
ここにいていい、に慣れなければならないのだ。
難しい。
けれど、少しだけやってみようと思う。
王都の空気の中では、そんなことを考える余裕さえなかったのだから。
窓の外では、夜の森が静かに揺れている。
オルタンシアは冷えた空気を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
まだ何も始まっていない。
けれどそれでいいのかもしれない。
始める前に、まず立ち止まってもいいのだと、この館はそう言っているようだった。
あなたにおすすめの小説
破棄されたのは、婚約だけではありませんでした
しばゎんゎん
ファンタジー
「私、ヴァルディア伯爵家次男、レオン・ヴァルディアはエリシアとの婚約を破棄する」
それは、一方的な婚約破棄だった。
公衆の面前で告げられた言葉と、エリシアに向けられる嘲笑。
だがエリシア・ラングレイは、それを静かに受け入れる。
断罪される側として…。
なぜなら、彼女は知っていたからだ。
この栄華を、誰が支え、誰が築き上げてきたのかを。
愚かな選択は、やがて当然の帰結をもたらす。
時が来たとき、真に断罪される者が明確に示される。
残酷な結果。
支えを外し、高みを目指した結果、真っ逆さまに転落する男、レオン。
利用価値がなくなった男〘レオン〙を容赦なく切り捨てる女、アルシェ侯爵家令嬢のミレイユ。
そう、真の勝者は彼らではない…
真の勝者はすべてを見通し、手中に収めたエリシアだった。
これは、静かにすべてを制する才女と、
自ら破滅を選んだ愚かな者たちの物語。
※毎日2話ずつ公開予定です(午前/午後 各1話を順次予約投稿予定)。
※16話で完結しました
幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係
紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。
顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。
※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)
旦那様から彼女が身籠る間の妻でいて欲しいと言われたのでそうします。
クロユキ
恋愛
「君には悪いけど、彼女が身籠る間の妻でいて欲しい」
平民育ちのセリーヌは母親と二人で住んでいた。
セリーヌは、毎日花売りをしていた…そんなセリーヌの前に毎日花を買う一人の貴族の男性がセリーヌに求婚した。
結婚後の初夜には夫は部屋には来なかった…屋敷内に夫はいるがセリーヌは会えないまま数日が経っていた。
夫から呼び出されたセリーヌは式を上げて久しぶりに夫の顔を見たが隣には知らない女性が一緒にいた。
セリーヌは、この時初めて夫から聞かされた。
夫には愛人がいた。
愛人が身籠ればセリーヌは離婚を言い渡される…
誤字脱字があります。更新が不定期ですが読んで貰えましたら嬉しいです。
よろしくお願いします。
『結婚前に恋がしたいんだ』、婚約者は妹を選び私を捨てた
恋せよ恋
恋愛
「結婚前に、身を焦がすような恋がしたいんだ」
信じていた婚約者の“恋愛”を許した結果、
彼は私の実の妹と「真実の愛」に落ちました。
優秀だった私は病人に仕立て上げられ、修道院へ。
不貞を恋と呼ぶのなら、私は二度と誰も愛さない。
家を追われ、絶望の底で彼女を救い上げたのは……。
🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。
🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。
🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。
🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。
🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!
私のことを嫌っている婚約者に別れを告げたら、何だか様子がおかしいのですが
雪丸
恋愛
エミリアの婚約者、クロードはいつも彼女に冷たい。
それでもクロードを慕って尽くしていたエミリアだが、クロードが男爵令嬢のミアと親しくなり始めたことで、気持ちが離れていく。
エミリアはクロードとの婚約を解消して、新しい人生を歩みたいと考える。しかし、クロードに別れを告げた途端、彼は今までと打って変わってエミリアに構うようになり……
◆エール、ブクマ等ありがとうございます!
◆小説家になろうにも投稿しております
【完結】この運命を受け入れましょうか
なか
恋愛
「君のようは妃は必要ない。ここで廃妃を宣言する」
自らの夫であるルーク陛下の言葉。
それに対して、ヴィオラ・カトレアは余裕に満ちた微笑みで答える。
「承知しました。受け入れましょう」
ヴィオラにはもう、ルークへの愛など残ってすらいない。
彼女が王妃として支えてきた献身の中で、平民生まれのリアという女性に入れ込んだルーク。
みっともなく、情けない彼に対して恋情など抱く事すら不快だ。
だが聖女の素養を持つリアを、ルークは寵愛する。
そして貴族達も、莫大な益を生み出す聖女を妃に仕立てるため……ヴィオラへと無実の罪を被せた。
あっけなく信じるルークに呆れつつも、ヴィオラに不安はなかった。
これからの顛末も、打開策も全て知っているからだ。
前世の記憶を持ち、ここが物語の世界だと知るヴィオラは……悲運な運命を受け入れて彼らに意趣返す。
ふりかかる不幸を全て覆して、幸せな人生を歩むため。
◇◇◇◇◇
設定は甘め。
不安のない、さっくり読める物語を目指してます。
良ければ読んでくだされば、嬉しいです。
【完結】離縁王妃アデリアは故郷で聖姫と崇められています ~冤罪で捨てられた王妃、地元に戻ったら領民に愛され「聖姫」と呼ばれていました~
猫燕
恋愛
「――そなたとの婚姻を破棄する。即刻、王宮を去れ」
王妃としての5年間、私はただ国を支えていただけだった。
王妃アデリアは、側妃ラウラの嘘と王の独断により、「毒を盛った」という冤罪で突然の離縁を言い渡された。「ただちに城を去れ」と宣告されたアデリアは静かに王宮を去り、生まれ故郷・ターヴァへと向かう。
しかし、領地の国境を越えた彼女を待っていたのは、驚くべき光景だった。
迎えに来たのは何百もの領民、兄、彼女の帰還に歓喜する侍女たち。
かつて王宮で軽んじられ続けたアデリアの政策は、故郷では“奇跡”として受け継がれ、領地を繁栄へ導いていたのだ。実際は薬学・医療・農政・内政の天才で、治癒魔法まで操る超有能王妃だった。
故郷の温かさに癒やされ、彼女の有能さが改めて証明されると、その評判は瞬く間に近隣諸国へ広がり──
“冷徹の皇帝”と恐れられる隣国の若き皇帝・カリオンが現れる。
皇帝は彼女の才覚と優しさに心を奪われ、「私はあなたを守りたい」と静かに誓う。
冷徹と恐れられる彼が、なぜかターヴァ領に何度も通うようになり――「君の価値を、誰よりも私が知っている」「アデリア・ターヴァ。君の全てを、私のものにしたい」
一方その頃――アデリアを失った王国は急速に荒れ、疫病、飢饉、魔物被害が連鎖し、内政は崩壊。国王はようやく“失ったものの価値”を理解し始めるが、もう遅い。
追放された王妃は、故郷で神と崇められ、最強の溺愛皇帝に娶られる!「あなたが望むなら、帝国も全部君のものだ」――これは、誰からも理解されなかった“本物の聖女”が、
ようやく正当に愛され、報われる物語。
※「小説家になろう」にも投稿しています
婚約破棄してくださって結構です
二位関りをん
恋愛
伯爵家の令嬢イヴには同じく伯爵家令息のバトラーという婚約者がいる。しかしバトラーにはユミアという子爵令嬢がいつもべったりくっついており、イヴよりもユミアを優先している。そんなイヴを公爵家次期当主のコーディが優しく包み込む……。
※表紙にはAIピクターズで生成した画像を使用しています