婚約破棄した王太子が今さら謝っても、私はもう戻りません

エスビ

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19話 王都再訪

19話 王都再訪

アルケディウス公爵領での暮らしが、ようやく呼吸の仕方を思い出させてくれ始めた頃だった。

オルタンシアは、久しぶりに王都の名を重く感じる知らせを受けた。

それは朝食のあと、ゼノンとエルマ、そしてオディールが揃う場で伝えられた。

「王都で春の大舞踏会が開かれる」

ゼノンがそう言った時、オルタンシアの手にあったティーカップがわずかに止まった。

春の大舞踏会。

王都の社交界において、それは単なる催しではない。冬の停滞を抜けて人と人の関係が再び動き出す場であり、縁談も、駆け引きも、噂の流れも、すべてがそこを境に新しく塗り替わることが多い。

そして、そういう大きな場ほど、“誰が来るか”と同じくらい“誰が来ないか”が意味を持つ。

オルタンシアはすぐには何も言わなかった。

ゼノンも急かさない。

静かな間のあと、エルマが控えめに言葉を添える。

「ルヴェリエ侯爵家からも正式な招待が届いております。侯爵閣下としては、ご無理のない範囲でご判断を、とのことでした」

無理のない範囲で。

以前の父なら、こういう言い方はしなかっただろう。

家の立場、社交上の意味、今後の印象――そういうものを先に並べたはずだ。

今は違う。

その変化がありがたい一方で、だからこそ返すべき答えの重みも感じた。

王都へ戻る。

あの祝賀会の夜、自分を切り裂いた場所へ、今度は客として入る。

考えただけで、胸の奥に冷たいものが走る。

オディールが主人の顔色を見て、すぐに口を開いた。

「お断りになっても、何の問題もございません」

その言い方は、かなり強かった。

オルタンシアは少しだけ口元を緩める。

「先にそう言ってしまうのね」

「はい。念のため、最初に申し上げておきます」

「ありがとう」

素直に礼を言ってから、オルタンシアはゼノンを見た。

彼は相変わらず、結論を押しつける顔をしていない。

ただ事実として、舞踏会があること、その招待が来ていることを置いているだけだ。

だからこそ、自分で考えなければならない。

「……行かない方が楽なのは、たしかです」

オルタンシアは静かに言った。

「行かなければ、王都の視線にさらされずに済む。嫌な顔を見ることも、余計な言葉を聞くこともないわ」

誰に向けるともなく続けると、部屋は静かなままだった。

「でも」

そこで一度息をつく。

「行かないことで、“まだ立てない”と思われるのも癪なのです」

自分で口にして、少し驚いた。

以前のオルタンシアなら、もっと理屈を先に並べただろう。侯爵家の立場、舞踏会の意味、周囲への影響。そういう言葉のあとでしか、自分の感情を置かなかったはずだ。

今は違う。

最初に出たのは、“癪”というずいぶん感情的な言葉だった。

ゼノンの口元がごくわずかに動く。

「それは悪くない理由だ」

「褒められているのかしら」

「少なくとも、誰かのためではなく君自身の理由だ」

その返しに、オルタンシアは少し黙った。

たしかにそうだ。

王家のためでもない。

侯爵家の体面のためだけでもない。

ただ、自分の中に“あの夜のままでは終わりたくない”という気持ちがある。

エルマが慎重に言う。

「もしご出席なさるなら、ルヴェリエ侯爵家のご令嬢として、正式に堂々とお戻りになる形がよろしいかと存じます」

「“傷ついて戻された娘”ではなく、ね」

オルタンシアがそう受けると、エルマは静かにうなずいた。

「はい」

その言葉が、妙に胸へ残る。

傷ついた娘ではなく。

捨てられた婚約者ではなく。

ルヴェリエ侯爵家の令嬢として戻る。

それは、失った立場の残り香にしがみつくのではなく、自分の足で立ち直るということなのかもしれなかった。

しばらく考えた末、オルタンシアはようやく口を開く。

「……行きます」

オディールが目を見開く。

エルマは表情を崩さないが、少しだけ息をついたようにも見える。

ゼノンだけは最初からその答えも想定していたように落ち着いていた。

「決めたか」

「ええ」

オルタンシアは自分の膝の上で指を重ねる。

少し冷えている。

緊張しているのだろう。

「逃げないために行くのではありません」

誰に言い訳するでもなく、けれど言葉にしておきたかった。

「もう、あの夜の続きのように扱われたくないのです。ですから今度は、自分の足で、ちゃんと立って戻りたい」

言い切ると、胸の中に妙な静けさが落ちた。

怖さが消えたわけではない。

けれど、決めたことで軸ができた気がする。

ゼノンは短くうなずいた。

「なら、その形にする」

「その形?」

「君が一人で無理に立つ必要はない、ということだ」

その一言で、オルタンシアははっと顔を上げた。

そうだ。

自分はまた、知らないうちに“自分一人で立たなければならない”と思い込んでいたのかもしれない。

王都へ戻る。

ならば、当然ルヴェリエ侯爵家としての動きも、アルケディウス公爵家としての配慮もある。

自分が一人であの夜の会場へ踏み込むわけではないのだ。

その当たり前を、ゼノンの一言が思い出させてくれる。

出発は数日後と決まった。

衣装は王都から持ってきたものだけでは足りないかもしれないとエルマが言い、オディールとともに必要な準備へ動き始める。あまり華美すぎず、けれど弱って見えないもの。哀れまれる色でも、喧嘩を売る色でもなく、ただ“今のオルタンシア”として立てる装い。

その選定に入ると、オディールは妙に真剣だった。

「これはだめです」

「なぜ?」

「お嬢様がお優しそうに見えすぎます」

「優しいのはいけないの?」

「今は“押せば戻りそう”に見えてはいけません」

「……ずいぶん具体的ね」

「具体的でなければ意味がございません」

そのやり取りが少し可笑しくて、オルタンシアは布を手にしたまま笑う。

王都へ戻るというのに、あの頃のような息苦しさ一色ではない。

緊張はある。

けれど、その緊張の中に妙な芯がある。

数日後、馬車は再び王都へ向かった。

来る時とは逆の道だ。

けれど気持ちはずいぶん違う。

前回の旅は、傷ついたまま追われるように王都を離れた。今度は違う。戻ると自分で決め、そのための形も整えたうえで向かっている。

窓の外の景色が王都へ近づくにつれて、胸の鼓動は少しずつ速くなった。

城壁が見える。

見慣れた街並みが遠くに広がる。

祝賀会の夜に見た灯りとは違う、昼下がりの王都だ。

それでも、ここへ戻るのだという実感が強くなるたび、指先が冷える。

向かいに座るゼノンが、それに気づいたのかどうかはわからない。

ただ、ふいに短く言った。

「呼吸が浅い」

オルタンシアは少しだけ苦笑した。

「閣下は本当に、そういうところばかり見ていらっしゃるのですね」

「見えるからな」

「見えないふりはしてくださらないの?」

「必要がない」

その即答が、かえってありがたい。

オルタンシアは窓の外から視線を外し、背をあずけて息を整えた。

「……少し緊張しているだけです」

「知っている」

「でも、逃げたくはないの」

「それも知っている」

言葉が短い。

なのに、そこには妙に安心する余地がある。

王都の門をくぐると、街の空気が一気に変わった。

人の多さ、馬車の往来、視線の濃さ。アルケディウス領の静けさに慣れ始めていた身には、それだけで少し圧迫感がある。

だが今回は、前とは違う。

馬車は堂々とルヴェリエ侯爵家の邸へ向かう。

正面から入る。

隠れるようにでもなく、追い返された娘のようにでもなく、帰ってきた侯爵令嬢として。

屋敷へ着くと、父が玄関先に立っていた。

その姿を見た瞬間、オルタンシアの胸が少しほどける。

ルヴェリエ侯爵は娘を見ると、以前よりはわずかにやわらいだ目をした。

「よく来た」

「ただいま戻りました、お父様」

侯爵は短くうなずき、それからゼノンへきちんと礼を述べた。

当主同士の挨拶は簡潔だが、そこにははっきりした敬意があった。娘を“預かった”でも“匿った”でもなく、きちんと客人として扱い、守るべき線を引いてくれた相手への敬意だろう。

館へ入ると、懐かしい空気が広がった。

生まれ育った家だ。

それなのに、以前とまったく同じには感じない。

自分が変わったからか、あるいはこの家の中での自分の立ち位置も少し変わったからかもしれない。

その夜は、舞踏会を控えていることもあって、家の中は静かな緊張に包まれていた。

翌日、支度の時間が近づくにつれ、オディールとルヴェリエ家の侍女たちの動きが忙しくなる。

オルタンシアは鏡の前に座りながら、自分の表情を見た。

頬は少し強張っている。

それでも以前のような、作り物めいた完璧さだけではない。

緊張している顔だ。

けれど逃げてはいない顔でもある。

衣装に選ばれたのは、深い青に銀をひそませたドレスだった。

夜会の灯りの中で沈みすぎず、けれど軽くも見えない色。祝賀会の夜の自分とは違うが、別人のように装うわけでもない絶妙な線だった。

支度を終えて立ち上がった時、オディールが息をつく。

「ようございます」

「大げさではなく?」

「むしろ少し控えめに言っております」

オルタンシアは笑いそうになり、けれど鏡の中の自分を見て、少しだけ目を細めた。

ここへ戻ってきた。

あの夜の続きとしてではなく、今の自分として。

馬車で会場へ向かう道中、王都の街は華やかだった。

舞踏会の日の高揚が街全体にある。けれどその華やかさの下に、人を見、値踏みし、噂を運ぶ王都らしい鋭さも変わらず潜んでいる。

会場へ到着し、扉が開いた瞬間、オルタンシアは一度だけ息を止めた。

光。

音楽。

ざわめき。

一瞬だけ、あの卒業祝賀会の夜が重なる。

あの時も、こんなふうに光はまぶしかった。

だが今回は違う。

今、自分の隣にいるのは、あの夜のように勝手な正義へ酔う男ではない。

馬車から先に降りたゼノンが、自然な動作で手を差し出す。

「行けるか」

短い問い。

オルタンシアはその手を見る。

差し伸べられた手が、支配でも演出でもなく、ただ“必要なら使え”という形であることを、もう知っている。

彼女はそっとその手を取った。

「ええ」

地面へ足を下ろす。

顔を上げる。

会場の扉の向こうには、すでに気配がある。誰かがこちらの到着に気づき始めている。

今夜、自分は見られるだろう。

噂されるだろう。

比較もされるだろう。

けれど、それでいい。

オルタンシアは背筋を伸ばした。

祝賀会の夜に傷ついた侯爵令嬢ではなく、ルヴェリエ侯爵家の娘として。

そして、アルケディウス公爵とともに、堂々と。

彼女はそのまま、王都の光の中へ足を踏み入れた。
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