婚約破棄した王太子が今さら謝っても、私はもう戻りません

エスビ

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24話 心が追いつくまで

24話 心が追いつくまで

舞踏会の熱気を抜けて、ルヴェリエ侯爵家の馬車へ戻った時、オルタンシアはようやく深く息を吐いた。

扉が閉まり、外のざわめきが一枚隔てられただけなのに、まるで別の世界へ戻ってきたような気がする。

王都の舞踏会は、やはり独特だ。

光は美しく、音楽は洗練されていて、皆が優雅に微笑んでいる。けれどその下では、視線が交わされ、言葉が測られ、立ち位置が静かに塗り替えられていく。

今夜のオルタンシアは、そのただ中に立っていた。

しかも、ただ晒されるのではなく、自分の足で。

それがどれほど心を使うことだったのか、馬車へ乗り込んだ途端に体が思い出したらしい。背筋を保っていた力が一気に抜け、指先に遅れて疲労が落ちてくる。

向かいにはゼノンが座っていた。

彼もまた、会場で見せていた社交用の輪郭を少しだけゆるめている。といっても、もともと大きく崩れる人ではない。だが、張りつめた空気の中にいた時よりは明らかに静かだった。

オディールは御者へ短く行き先を告げると、主人の様子を見て小さく息をついた。

「お嬢様」

「何かしら」

「今夜は、かなり頑張られました」

その言い方があまりに率直で、オルタンシアは少しだけ笑う。

「頑張らない顔をしていたつもりだったのだけれど」

「しておられました。ですが、頑張っていないわけではございません」

それはそうだろう。

会場では平然としていられた。

だが平然としていられたことと、何の負担もなかったことは違う。

オルタンシアは膝の上で組んだ指を見下ろし、それからゆっくりと窓の外へ目を向けた。

王都の夜景が流れていく。

祝賀会の夜に見た光と、同じはずなのに違って見える。

あの時は、この光が自分を閉じ込める檻のように思えた。

今夜は違う。

同じ王都の灯りなのに、自分の足でそこへ入って、自分の意思で出てきた。

その差は大きかった。

「……終わったのね」

ぽつりと漏らすと、オディールが一瞬だけ顔を上げた。

「何がでございますか」

「いろいろと」

曖昧な答えだった。

だが自分の中では、ちゃんと意味がある。

舞踏会が終わった、というだけではない。

あの夜から引きずっていた“いつかまた同じ場所へ戻されるのではないか”という恐れが、今夜でようやく薄くなった気がするのだ。

レオニードと顔を合わせた。

シェリルとも言葉を交わした。

王都の視線の中へ戻った。

そのうえで、自分はもう元の場所へ戻らないと、体ごと知った。

その実感が“終わった”という言葉になったのだろう。

オディールは何も言わなかった。

代わりに、向かいに座るゼノンが低く問う。

「後悔は」

オルタンシアは少しだけ考える。

後悔。

怖さはあった。

今も、思い返せば胃の奥が少しだけ冷える。

けれど後悔かと言われれば、違う。

「ありません」

今度は迷わずそう言えた。

ゼノンは短くうなずく。

「ならいい」

それだけだった。

その“ならいい”が、今夜はひどく心地よかった。

無理に褒めない。

大げさに慰めない。

ただ、自分で決めて、自分でやったことを、そのまま受け止める。

そのあり方に、オルタンシアは何度救われただろう。

ルヴェリエ侯爵家へ戻ると、館の中はすでに夜の静けさに包まれていた。

使用人たちは必要な礼だけを尽くし、余計な言葉は挟まない。

その気遣いがありがたかった。

今夜はもう、誰かに何かを説明する気力がなかったからだ。

自室へ戻り、ドレスをゆるめる。

きつく編み上げられていた背がほどけると、それだけで身体の重さが変わる。

鏡の前に立ったオルタンシアは、しばらく自分の顔を見つめた。

舞踏会の灯りの下で整えられていた顔とは違う、少し疲れて、けれど確かに張りつめすぎてはいない顔だった。

あの夜の自分とは、もう違う。

そこまではっきり思えたことに、自分で少し驚く。

オディールが髪をほどきながら、ぽつりと言った。

「お嬢様」

「何かしら」

「今夜、閣下のお隣に立っておられる時と、お一人で立っておられる時とでは、少しお顔が違いました」

その言葉に、オルタンシアは鏡越しに彼女を見る。

「どう違ったの」

「お一人の時は、もちろんきちんとしていらっしゃいました。でも、少しだけ力が入っておられました」

「……そう」

「閣下が戻ってこられると、その力が少し抜けるのです」

オルタンシアはすぐには答えなかった。

自覚があるかと問われれば、ある。

ゼノンが隣にいると、それだけで呼吸が一つ深くなる気がする。王都の濃い空気の中でも、自分が全部を背負わなくていいと思えるからだ。

それは依存なのだろうか、と一瞬思う。

だが違う気もする。

以前の婚約とは、まるで違う感覚だからだ。

レオニードの隣にいた時、自分は支える側だった。整える側だった。あの人が崩していくものを、自分が目立たぬよう拾い続けるしかなかった。

ゼノンの隣では逆だ。

こちらが立てるように、必要な時だけ静かに位置を取ってくれる。

守られているのに、押しつけられている感じがしない。

その差が、あまりに大きい。

「……少し怖いの」

オルタンシアは、鏡へ向けたまま小さく言った。

オディールの手が止まる。

「何がでございますか」

「こういうふうに、誰かが隣にいてくれることが」

それは思いのほか素直な告白だった。

口にした瞬間、自分でも少し驚く。

だが、口にしてしまうともう誤魔化したくなかった。

「ありがたいわ。助けられているとも思うの。今夜だって、閣下がいなければ、あそこまで落ち着いてはいられなかったと思う」

オディールは黙って聞いている。

だから、オルタンシアはさらに続けることができた。

「でも、そのありがたさが大きいほど、少しだけ怖いの。これに慣れてしまって、また失ったらと思うと」

鏡の中の自分の目が、ほんのわずかに揺れている。

それを見て、ようやく自分が何に戸惑っていたのかがはっきりした。

恋、というにはまだ早いのかもしれない。

けれど少なくとも、ゼノンの存在が自分にとって軽くないことは、もうわかっている。

わかっているからこそ、怖い。

また誰かに心を向けることが。

また誰かを必要と感じることが。

「お嬢様」

オディールが、今度はとても静かな声で言った。

「怖いと思われるのは、ちゃんと大事だからでございましょう」

オルタンシアはまばたきをする。

「大事……」

「はい。どうでもよい相手を失う想像で、そんなふうにはなりません」

それはあまりにもまっすぐだった。

だが否定もできない。

オディールは髪を整え終えると、鏡の中の主人を見つめた。

「すぐに答えを出す必要はございません」

「ええ」

「心が追いつくまで、待てばよろしいのです」

その言葉が、妙に胸へ沁みた。

心が追いつくまで。

たしかにそうだ。

今の自分は、頭ではいろいろなことを理解できる。

ゼノンが誠実であること。

自分を尊重してくれていること。

隣にいると息がしやすいこと。

けれど、だからすぐ何かを決めなければならないわけではない。

感謝と、安心と、好意と、怖さ。

それらがまだ胸の中で完全には整理されていない。

ならば、無理に名前をつけなくていい。

そのまま抱えていていいのだと、オディールの言葉が教えてくれる。

「……そうね」

オルタンシアはようやく少しだけ笑った。

「今夜は、そういう夜なのかもしれないわ」

「どういう夜でございますか」

「終わったことと、まだ追いついていないことが、どちらもはっきりする夜」

オディールは少しだけ目を細める。

「では、悪い夜ではございませんね」

「ええ。たぶん」

支度が終わり、オディールが下がったあと、オルタンシアは一人で窓辺に立った。

王都の夜はまだ明るい。

だがその灯りも、もう以前のように自分を縛るものには見えなかった。

今夜、自分はちゃんと立てた。

そのことは確かだ。

レオニードとも、シェリルとも、もう以前の関係には戻らない。

それも確かだ。

そのうえで、まだ追いついていないものがある。

ゼノンが隣にいる時に感じる安堵の意味。

守られることへの戸惑い。

そして、その人がいなくなったら怖いと思ってしまった自分の心。

それらは、まだ静かに胸の奥で揺れている。

けれど、急がなくていい。

彼はきっと、急がせない。

そのことも、もう知っていた。

窓を閉め、寝台へ向かう。

今夜は長かった。

けれど、ただ疲れただけの夜ではない。

過去を終わらせた夜であり、同時に、自分の心がまだ全部には追いついていないと知った夜でもある。

オルタンシアは毛布を引き寄せ、目を閉じる。

あの舞踏会の光の中で、自分はもう以前の自分ではいられなかった。

そしてそれは、少しだけ寂しく、けれどたしかに救いでもあった。
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