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綺麗な涙
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セシリアは一度目を閉じ、すっと背筋を伸ばした。いつもの笑顔を浮かべると、部屋に入る。重いドアが音を立てずに、ゆっくり閉まった。
薄ピンクのソファに腰を掛ける。どこか虚ろな目で天井を見た。高い天井は、クロードの家とは大違いだ。周りを見渡す。オークションで落札した絵、有名な彫刻家が作った置物。クロードの家にはなかった高価なものが目に入る。ここはもう違う世界なのだとセシリアは思った。
「セシリア様」
名を呼ばれ、差し出されたのは紅茶とシフォンケーキ。
「…相変わらず用意がいいのね」
「セシリア様の侍女ですから」
リディが冗談交じりにそう言うとセシリアは小さく笑みを浮かべた。
「そうね」
「…セシリア様、このままでいいのですか?」
まっすぐに見つめてくるリディの目があまりにも綺麗でセシリアは思わず視線を下に逸らした。沈黙が痛い。
しばらくして口を開いたのはリディだった。
「差し出がましいのは承知しております。けれど、…欲しいものを欲しいという権利は誰にだってあるはずです。たとえ手に入れられないとしても、手を伸ばすことを誰が止めるでしょうか」
「…」
「セシリア様も欲しいと手を伸ばしていいはずです」
「ねぇ、リディ」
「はい」
「…手を伸ばしたいものがあって、それが見える位置にあるってことはとても怖いことなのね」
「…?」
セシリアの言葉が理解できず、リディは小さく首を傾げた。その様子にセシリアは微苦笑を浮かべる。
「目に見えているから、届く気がしてしまう。そして、手を伸ばしてやっと、届かないことに気づくのよ」
「…セシリア様」
「届かないとわかっていて手を伸ばすのは、とても勇気がいることだわ。…自分がこんなに臆病だなんて知らなかった」
瞳に涙が溜まった。それがこぼれる前にセシリアは指で拭う。泣けないセシリアの代わりにリディが涙を流していた。セシリアは自分の隣を軽く叩く。リディは従うように座った。
セシリアはリディの栗色の髪に手を伸ばす。撫でるように2、3回頭を触れた。
「リディ、ありがとう。…私はあなたがいてくれてよかった。あなたがいてくれるから、ロラン様の手を笑顔で取れるわ」
「セシリア様…」
「手を伸ばしても、それが手に入れられないなら…私は嫌だわ。手を伸ばすまで手に入るのかわからないのなら私は、手を伸ばしたくない」
「…」
「だってね、とても怖いの。…手を伸ばして、あの日々があの方の中でないものになってしまうことがたまらなく怖いわ。だから、…欲しいだけじゃあ、手を伸ばせない」
「でも、きっと、クロード様はセシリア様を…」
続けようとしたリディの言葉をセシリアは手を上げて止めた。ゆっくり首を横に振る。
「クロード様には婚約者がいらっしゃるわ」
「…レリア様は、おそらくクロード様の婚約者ではないと思います」
「え?」
突然の言葉にセシリアは目を丸くしてリディを見た。
「クロード様はセシリア様の事をお嬢様とそして私のことをメイドさんと呼びます。けれど、レリア様は私たちのことを名前で呼ばれました。…おそらく私たちのことをどこかで知り、名前は扉の向こうで耳をそばだてていたのではないでしょうか?レリア様もルーブ族です。聴覚は私たちの何倍も優れているはずですから」
「でもどうしてそんな嘘を?それに、…きっとレリア様はクロード様がお好きなんだと思うわ」
「ええ。だからでしょう。好きだから、クロード様をセシリア様にとられたくなかったのではないでしょうか?」
リディの言葉を飲み込み、セシリアは少しだけ考えた。しかしすぐに首を振る。
「…たとえレリア様の言葉が嘘だとしても、関係ないわ。…あの方は、ルーブ族の方と結婚すべきよ」
「…セシリア様」
「たとえ今、私を選んでくれたとしても、きっと後悔する。ルーブ族の人と結婚すればよかったと」
「…」
黙ってしまったリディを見て、セシリアは小さく笑った。けれどその顔はどこか悲しそうだった。
「恋って怖いのね。手に入れた後も失うことを恐れなきゃならないなんて。…私には耐えられそうもないわ。だから、いらない」
「そんなこと…」
ない、と続けようとしたリディの言葉はセシリアによってかき消される。
「さあ、話はお終いよ。明日、クロード様にさよならを言いに行きましょう。そして、自分に言い聞かせるの。あの家にいた時間は夢だったと」
「……それでよろしいのですか?」
リディの問いにセシリアは笑みを浮かべるばかりで、肯定も否定もしなかった。
翌朝、目が覚めるとセシリアはすぐに服を選び始めた。最近買った一番高価な服を手に取り、鏡の前で合わせる。
「……すごく動きづらそう」
呟くように言ってセシリアは少しだけ笑った。けれど鏡に映る自分は笑っていなかった。セシリアは一つため息をつく。ドレスを置き、両手で頬を持ち上げた。
「笑うことは得意でしょ?ちゃんと笑ってね」
鏡の中の自分に告げる。頬を一度、軽く叩いた。ドレスを着替え始める。すぐにドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
「セシリア様、おはようございます」
「リディ、おはよう」
リディはセシリアが持っているドレスを見た。
「動きづらそうですね」
「ええ。私もそう思うわ」
リディはそのままセシリアに近寄り、着替えを手伝う。
「本当によろしいのですか?」
「…ええ。いいの。今日で最後よ。リディは馬車の中で待っていてね」
「……かしこまりました」
「リディ」
「はい」
「ありがとう」
セシリアの言葉にリディは小さく首を横に振る。
リディの表情は悲しいと訴えていた。自分は、きっとこの顔をしたいのだろうなと思う。胸の苦しさが、たまらなく悲しいのだと伝えてきた。けれどセシリアは笑顔の仮面をかぶる。
自分の代わりに悲しんでくれる人がいるから、セシリアは笑えるのだ。
「さあ、リディ。着替えを済ませたら、早く行きましょうね」
「かしこまりました」
青い空に白い雲が浮かんでいた。風に流され、雲が動く。セシリアは飛びそうになる帽子を片手で押さえた。後ろを振り返る。馬車の中からこちらを伺うリディに小さく手を振った。一度深呼吸をする。扉を軽く手で叩いた。
「セシリアです」
しばらくすると扉が開いた。首を傾げながら外を覗くクロードの黒髪が風に揺れる。端正な顔だなと改めて思った。部屋の中から独特のにおいがする。このにおいも今日で最後なのだ。
クロードはセシリアを見て一瞬眉をひそめた。
「…どうしたんだ?いつも勝手に入ってくるくせに。…メイドさんは?それに、何?その格好」
「あちらですわ。クロード様」
セシリアは馬車の場所を指さした。
「…どうした?いつもの様子と違うけど」
「いいえ。これがいつもの私です」
決して揺るがないセシリアの瞳に、クロードは馬車にいるリディを見た。リディの表情から何か読み取ったのか、怪訝そうな表情を浮かべる。
「…昨日、帰ったらレリアがいたが、それが原因か?」
「…」
「沈黙は肯定だよ。お嬢様」
セシリアは両頬を持ち上げ、可憐な笑みを浮かべた。
「昨日、うちにロラン様が来てくださいましたの」
「ロランって?」
「私の婚約者候補ですわ。…ロラン様が言ってくれたの。私に惹かれているって」
「…へぇ」
「クロード様にはご尽力いただいて大変ありがたく思っているのですが、そういう訳ですので、私にはもう惚れ薬はいらないみたいです」
「…」
「だって、惚れ薬なんてなくたって、愛のある結婚ができそうなんですもの。…だから、もうここには来ませんわ。今まで、ありがとうございました」
セシリアは頭を深々と下げた。そしてすぐに顔を上げる。クロードに背を向け、馬車に戻ろうとした。しかし、それは叶わなかった。クロードがセシリアの腕を掴んだから。
「…お嬢様は?」
「え?」
「お嬢様は、そいつのこと何とも思ってないんだろう?」
「…」
「お嬢様が言ったんだぜ?愛し、愛されたいって。それってお嬢様も愛してなきゃ、叶わないことだよな」
クロードは手を引いた。背を向けていたセシリアが再びクロードの方を向く。
セシリアはまっすぐにクロードの目を見た。少しだけつりあがっているその目は、綺麗で、泣いてしまいそうになる。
きっとクロードには自分の感情などお見通しだろう。けれどセシリアはそれでも表情を崩さなかった。
「ご心配いただかなくても、大丈夫です。これは、ロラン様と私の問題ですから」
手を振りほどこうとした。けれど強い力で掴まれたその手はほどけない。クロードはセシリアを自分のもとに引き寄せた。勢いでセシリアはクロードの胸に倒れこむ。クロードはセシリアの背中に腕を回した。
「俺にしろよ」
耳元で囁かれるように言われた言葉。セシリアの目に知らず涙が浮かんだ。
「俺だってお嬢様の婚約者候補のはずだ。…俺を選べよ。お嬢様にはその権利があるだろう?」
クロードの腕に力が込められる。苦しかった。けれど、心地よかった。セシリアの腕がゆっくりと上がっていく。クロードの広い背中に腕を回そうとした時、不意にレリアの言葉がセシリアの頭をよぎった。
『ルーブ族は、純血が必要なの。それもクロードの純血が』
流れそうになる涙を懸命に堪える。伸ばしかけた手を引き、クロードの胸を押した。
「…あなたは」
「え?」
「だって、あなたはルーブ族だわ」
小さな声だった。けれども、クロードの耳は、確実にその声を拾った。呆然とこちらを見るクロードから視線を逸らし、セシリアは走り出す。クロードは追ってはこなかった。
どうやって帰ってきたのかセシリアは憶えていなかった。次に気づいた時には部屋のソファに座っていた。辺りを見回す。もういいのだとセシリアは思った。泣いてもいいのだと。そう思うと涙が次から次への頬を伝った。それは悲劇のヒロインのような綺麗な涙だった。そんなセシリアを見て、リディはその頭を抱えるように抱きしめる。
こんな時まで「お嬢様」でいなくたっていいのにとリディは思った。もっと声を上げて鼻水を垂らして、素直に泣けばいいのに。それでもセシリアは声を出さず、ただ静かに泣いていた。
クロードは扉を閉めると部屋をゆっくりと見渡した。部屋の中はしんと静まっていた。いつもの何もない部屋だ。それなのに、どこか違う部屋のように思えた。
家の前までは作った笑顔で、家に入るとコロコロ表情を変える。そんなセシリアの姿が頭の中に浮かんでくる。一つにまとめられた綺麗なブロンドの髪。身にまとっているのは白と黒のメイド服なのに、セシリアはいつも「お嬢様」に見えた。楽しそうに笑い、時に言い争った。その一つ一つが夢のように思えた。
「クロード様」
名前を呼ばれ振り返った。けれど、そこには誰もいない。クロードは自嘲気味に笑った。
「仕事、しないとな」
鍋で煮た薬草をビンに流し込む。いつもと同じ作業だった。けれど、次の瞬間大きな音が鳴った。ビンが手から滑り落ち、ガラスの破片と煮汁が床に散らばる。
「…」
クロードは呆然とそれを見て、ゆっくりとしゃがみこんだ。割れたガラスを拾う。
「…っ!」
ガラスの破片で指先を切った。赤い血が流れる。クロードはしばらくそれを見ていた。流れた血はぽたりと床に落ちる。
「……くそ!」
苦しそうな声を出し、クロードが手を壁に叩きつける。血は止まらず、もう一つ、床に赤が広がった。
薄ピンクのソファに腰を掛ける。どこか虚ろな目で天井を見た。高い天井は、クロードの家とは大違いだ。周りを見渡す。オークションで落札した絵、有名な彫刻家が作った置物。クロードの家にはなかった高価なものが目に入る。ここはもう違う世界なのだとセシリアは思った。
「セシリア様」
名を呼ばれ、差し出されたのは紅茶とシフォンケーキ。
「…相変わらず用意がいいのね」
「セシリア様の侍女ですから」
リディが冗談交じりにそう言うとセシリアは小さく笑みを浮かべた。
「そうね」
「…セシリア様、このままでいいのですか?」
まっすぐに見つめてくるリディの目があまりにも綺麗でセシリアは思わず視線を下に逸らした。沈黙が痛い。
しばらくして口を開いたのはリディだった。
「差し出がましいのは承知しております。けれど、…欲しいものを欲しいという権利は誰にだってあるはずです。たとえ手に入れられないとしても、手を伸ばすことを誰が止めるでしょうか」
「…」
「セシリア様も欲しいと手を伸ばしていいはずです」
「ねぇ、リディ」
「はい」
「…手を伸ばしたいものがあって、それが見える位置にあるってことはとても怖いことなのね」
「…?」
セシリアの言葉が理解できず、リディは小さく首を傾げた。その様子にセシリアは微苦笑を浮かべる。
「目に見えているから、届く気がしてしまう。そして、手を伸ばしてやっと、届かないことに気づくのよ」
「…セシリア様」
「届かないとわかっていて手を伸ばすのは、とても勇気がいることだわ。…自分がこんなに臆病だなんて知らなかった」
瞳に涙が溜まった。それがこぼれる前にセシリアは指で拭う。泣けないセシリアの代わりにリディが涙を流していた。セシリアは自分の隣を軽く叩く。リディは従うように座った。
セシリアはリディの栗色の髪に手を伸ばす。撫でるように2、3回頭を触れた。
「リディ、ありがとう。…私はあなたがいてくれてよかった。あなたがいてくれるから、ロラン様の手を笑顔で取れるわ」
「セシリア様…」
「手を伸ばしても、それが手に入れられないなら…私は嫌だわ。手を伸ばすまで手に入るのかわからないのなら私は、手を伸ばしたくない」
「…」
「だってね、とても怖いの。…手を伸ばして、あの日々があの方の中でないものになってしまうことがたまらなく怖いわ。だから、…欲しいだけじゃあ、手を伸ばせない」
「でも、きっと、クロード様はセシリア様を…」
続けようとしたリディの言葉をセシリアは手を上げて止めた。ゆっくり首を横に振る。
「クロード様には婚約者がいらっしゃるわ」
「…レリア様は、おそらくクロード様の婚約者ではないと思います」
「え?」
突然の言葉にセシリアは目を丸くしてリディを見た。
「クロード様はセシリア様の事をお嬢様とそして私のことをメイドさんと呼びます。けれど、レリア様は私たちのことを名前で呼ばれました。…おそらく私たちのことをどこかで知り、名前は扉の向こうで耳をそばだてていたのではないでしょうか?レリア様もルーブ族です。聴覚は私たちの何倍も優れているはずですから」
「でもどうしてそんな嘘を?それに、…きっとレリア様はクロード様がお好きなんだと思うわ」
「ええ。だからでしょう。好きだから、クロード様をセシリア様にとられたくなかったのではないでしょうか?」
リディの言葉を飲み込み、セシリアは少しだけ考えた。しかしすぐに首を振る。
「…たとえレリア様の言葉が嘘だとしても、関係ないわ。…あの方は、ルーブ族の方と結婚すべきよ」
「…セシリア様」
「たとえ今、私を選んでくれたとしても、きっと後悔する。ルーブ族の人と結婚すればよかったと」
「…」
黙ってしまったリディを見て、セシリアは小さく笑った。けれどその顔はどこか悲しそうだった。
「恋って怖いのね。手に入れた後も失うことを恐れなきゃならないなんて。…私には耐えられそうもないわ。だから、いらない」
「そんなこと…」
ない、と続けようとしたリディの言葉はセシリアによってかき消される。
「さあ、話はお終いよ。明日、クロード様にさよならを言いに行きましょう。そして、自分に言い聞かせるの。あの家にいた時間は夢だったと」
「……それでよろしいのですか?」
リディの問いにセシリアは笑みを浮かべるばかりで、肯定も否定もしなかった。
翌朝、目が覚めるとセシリアはすぐに服を選び始めた。最近買った一番高価な服を手に取り、鏡の前で合わせる。
「……すごく動きづらそう」
呟くように言ってセシリアは少しだけ笑った。けれど鏡に映る自分は笑っていなかった。セシリアは一つため息をつく。ドレスを置き、両手で頬を持ち上げた。
「笑うことは得意でしょ?ちゃんと笑ってね」
鏡の中の自分に告げる。頬を一度、軽く叩いた。ドレスを着替え始める。すぐにドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
「セシリア様、おはようございます」
「リディ、おはよう」
リディはセシリアが持っているドレスを見た。
「動きづらそうですね」
「ええ。私もそう思うわ」
リディはそのままセシリアに近寄り、着替えを手伝う。
「本当によろしいのですか?」
「…ええ。いいの。今日で最後よ。リディは馬車の中で待っていてね」
「……かしこまりました」
「リディ」
「はい」
「ありがとう」
セシリアの言葉にリディは小さく首を横に振る。
リディの表情は悲しいと訴えていた。自分は、きっとこの顔をしたいのだろうなと思う。胸の苦しさが、たまらなく悲しいのだと伝えてきた。けれどセシリアは笑顔の仮面をかぶる。
自分の代わりに悲しんでくれる人がいるから、セシリアは笑えるのだ。
「さあ、リディ。着替えを済ませたら、早く行きましょうね」
「かしこまりました」
青い空に白い雲が浮かんでいた。風に流され、雲が動く。セシリアは飛びそうになる帽子を片手で押さえた。後ろを振り返る。馬車の中からこちらを伺うリディに小さく手を振った。一度深呼吸をする。扉を軽く手で叩いた。
「セシリアです」
しばらくすると扉が開いた。首を傾げながら外を覗くクロードの黒髪が風に揺れる。端正な顔だなと改めて思った。部屋の中から独特のにおいがする。このにおいも今日で最後なのだ。
クロードはセシリアを見て一瞬眉をひそめた。
「…どうしたんだ?いつも勝手に入ってくるくせに。…メイドさんは?それに、何?その格好」
「あちらですわ。クロード様」
セシリアは馬車の場所を指さした。
「…どうした?いつもの様子と違うけど」
「いいえ。これがいつもの私です」
決して揺るがないセシリアの瞳に、クロードは馬車にいるリディを見た。リディの表情から何か読み取ったのか、怪訝そうな表情を浮かべる。
「…昨日、帰ったらレリアがいたが、それが原因か?」
「…」
「沈黙は肯定だよ。お嬢様」
セシリアは両頬を持ち上げ、可憐な笑みを浮かべた。
「昨日、うちにロラン様が来てくださいましたの」
「ロランって?」
「私の婚約者候補ですわ。…ロラン様が言ってくれたの。私に惹かれているって」
「…へぇ」
「クロード様にはご尽力いただいて大変ありがたく思っているのですが、そういう訳ですので、私にはもう惚れ薬はいらないみたいです」
「…」
「だって、惚れ薬なんてなくたって、愛のある結婚ができそうなんですもの。…だから、もうここには来ませんわ。今まで、ありがとうございました」
セシリアは頭を深々と下げた。そしてすぐに顔を上げる。クロードに背を向け、馬車に戻ろうとした。しかし、それは叶わなかった。クロードがセシリアの腕を掴んだから。
「…お嬢様は?」
「え?」
「お嬢様は、そいつのこと何とも思ってないんだろう?」
「…」
「お嬢様が言ったんだぜ?愛し、愛されたいって。それってお嬢様も愛してなきゃ、叶わないことだよな」
クロードは手を引いた。背を向けていたセシリアが再びクロードの方を向く。
セシリアはまっすぐにクロードの目を見た。少しだけつりあがっているその目は、綺麗で、泣いてしまいそうになる。
きっとクロードには自分の感情などお見通しだろう。けれどセシリアはそれでも表情を崩さなかった。
「ご心配いただかなくても、大丈夫です。これは、ロラン様と私の問題ですから」
手を振りほどこうとした。けれど強い力で掴まれたその手はほどけない。クロードはセシリアを自分のもとに引き寄せた。勢いでセシリアはクロードの胸に倒れこむ。クロードはセシリアの背中に腕を回した。
「俺にしろよ」
耳元で囁かれるように言われた言葉。セシリアの目に知らず涙が浮かんだ。
「俺だってお嬢様の婚約者候補のはずだ。…俺を選べよ。お嬢様にはその権利があるだろう?」
クロードの腕に力が込められる。苦しかった。けれど、心地よかった。セシリアの腕がゆっくりと上がっていく。クロードの広い背中に腕を回そうとした時、不意にレリアの言葉がセシリアの頭をよぎった。
『ルーブ族は、純血が必要なの。それもクロードの純血が』
流れそうになる涙を懸命に堪える。伸ばしかけた手を引き、クロードの胸を押した。
「…あなたは」
「え?」
「だって、あなたはルーブ族だわ」
小さな声だった。けれども、クロードの耳は、確実にその声を拾った。呆然とこちらを見るクロードから視線を逸らし、セシリアは走り出す。クロードは追ってはこなかった。
どうやって帰ってきたのかセシリアは憶えていなかった。次に気づいた時には部屋のソファに座っていた。辺りを見回す。もういいのだとセシリアは思った。泣いてもいいのだと。そう思うと涙が次から次への頬を伝った。それは悲劇のヒロインのような綺麗な涙だった。そんなセシリアを見て、リディはその頭を抱えるように抱きしめる。
こんな時まで「お嬢様」でいなくたっていいのにとリディは思った。もっと声を上げて鼻水を垂らして、素直に泣けばいいのに。それでもセシリアは声を出さず、ただ静かに泣いていた。
クロードは扉を閉めると部屋をゆっくりと見渡した。部屋の中はしんと静まっていた。いつもの何もない部屋だ。それなのに、どこか違う部屋のように思えた。
家の前までは作った笑顔で、家に入るとコロコロ表情を変える。そんなセシリアの姿が頭の中に浮かんでくる。一つにまとめられた綺麗なブロンドの髪。身にまとっているのは白と黒のメイド服なのに、セシリアはいつも「お嬢様」に見えた。楽しそうに笑い、時に言い争った。その一つ一つが夢のように思えた。
「クロード様」
名前を呼ばれ振り返った。けれど、そこには誰もいない。クロードは自嘲気味に笑った。
「仕事、しないとな」
鍋で煮た薬草をビンに流し込む。いつもと同じ作業だった。けれど、次の瞬間大きな音が鳴った。ビンが手から滑り落ち、ガラスの破片と煮汁が床に散らばる。
「…」
クロードは呆然とそれを見て、ゆっくりとしゃがみこんだ。割れたガラスを拾う。
「…っ!」
ガラスの破片で指先を切った。赤い血が流れる。クロードはしばらくそれを見ていた。流れた血はぽたりと床に落ちる。
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