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6 反対をしてあげる
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小さな釘が宙を舞う。床に落ちる音がした。
『痛い―――!!』
その音と同時に叫び声が部屋中に響く。起き上がり怒号を放った。右に、左に頭を振る。本能のまま、暴れるライにハリオたちは手の中にある鎖に力を込めた。けれど、それでも動きは止まらない。
痛みの原因であるユリウスに向かって口を開く。口輪で押さえられた隙間から鋭い牙が見える。金属でできている口輪がギシギシ音をたてた。
「落ち着いて、大丈夫よ」
サーシャは盾になるように、ユリウスの前に立ち、手を広げた。
「サーシャ様、危険です!離れてください!」
ハリオが叫ぶ。口輪についている鎖を自分に引き寄せた。それでもライは前に進もうと頭を揺らす。
「サーシャ様!」
『サーシャ!!』
ハリオとオースが同時に叫ぶ。いくら言葉が通じるサーシャでもこの状態のライを止めることは不可能だった。
オースは何とかライの気を逸らそうとライの目の前を飛ぶ。けれど、ライの視線はサーシャだけに注がれていた。そんなライを前に、サーシャは静かに笑う。
「ライ、大丈夫よ」
『グゥルル』
唸り声が部屋中に響く。けれどサーシャは引かなかった。
「大丈夫よ。もう釘は王子が抜いてくれたわ。あとは、傷が治るのを待つだけ。だから、落ち着いて」
一歩、前に踏み出す。もう一歩。「大丈夫、大丈夫」おまじないのように何度も繰り返した。サーシャはライの頭に触れようと手を伸ばす。
けれど、ライは威嚇するように太い声を出す。伸びてきたサーシャの手はライにとって脅威だったのだろう。振り払うように右前脚を高く上げた。
勢いよく落とされる。避けることのできないそれにサーシャは何もできなかった。
『危ない!!』
オースの叫びとともに聞こえたのは、何かがぶつかる音。痛みはない。思わず閉じた目を開ければ、そこには黒いもの。そして、温かいぬくもり。
「ユリウス王子!!!」
ハリオを含めた男たちの声が重なった。横を見れば、ユリウスの顔。ユリウスがサーシャを左腕に抱き、盾でライの鋭い爪を押さえていた。拮抗する力に盾がギシギシと音を立てる。
「王…子…」
「やっぱり、お前バカだろう」
「…すみません」
「謝るくらいなら、さっさと何とかしろ」
ぶっきらぼうに、けれど、自分を信じている言葉にサーシャは驚いた。そして、大きく頷く。ユリウスの腕から離れ、ライを見た。
「大丈夫」
言い聞かせる様な優しい声。
「大丈夫よ。ライ。大丈夫なの」
ライの耳がぴくりと動く。
「大丈夫。ここにはあなたを傷つける人なんていないわ。だから、落ち着いて」
『俺もいるよ。大丈夫。サーシャは優しい人間だ。だから、信じていい』
オースはサーシャの肩に乗り、同じように声をかけた。
「大丈夫。大丈夫」
何度も繰り返す。心に届くように何回も。一歩、前に出た。もう一歩。
唸り声は聞こえない。
「大丈夫よ」
サーシャの声に、ユリウスの盾を押していた前脚が離れる。ユリウスは警戒しながら盾を降ろした。そんな様子にサーシャは小さく息を吐く。
微笑みながら、手を伸ばし、立派なたてがみに触れた。触り心地のよいそれを優しく撫でる。
「大丈夫。いいこね」
『…ごめんなさい。すごく、痛くて。びっくりして…』
「ううん。いいの。驚かせてしまってごめんなさい」
『ありがとう』
「ハリオ様、もう大丈夫ですから、口輪を外してください」
「いや、でも…」
戸惑うハリオは視線でユリウスに確認をする。そんなハリオにユリウスは頷いた。
「言うとおりにしてやれ」
「かしこまりました」
主人の言葉を受け、ハリオはゆっくりと手を離した。他の近衛兵たちも従った。
サーシャが手を伸ばし、ライの口輪を外す。圧迫感がなくなったのかライは嬉しそうに一つ声を上げた。
「ライ」
『なあに?』
「前脚の傷、ちゃんとお医者さんに診てもらいましょう。傷に触れてしまうから、少し痛いかもしれない。我慢できる?」
『うん。今度は大丈夫』
ためらいのない言葉にサーシャは嬉しそうに笑った。
「王子、獣医様を呼んでいただけますか?」
「ハリオ、獣医を。それから、ここの後処理もやっておけ」
「承知いたしました。待機している獣医をすぐ呼びます」
「ああ」
ハリオは部屋の外に出ると、数名の獣医を引き連れて部屋に入ってきた。白衣を身に付け、医療道具を持つ獣医がライの周りを取り囲む。けれど、ライの様子は穏やかだった。血の出ている前脚を何度か舐めている。
後は任せようとサーシャは獣医たちに頭を下げた。
『ねぇ、サーシャ』
呼び止められた声に、サーシャは後ろを振り返った。
「どうしたの?ライ」
『ユリウスにもごめんねって伝えてくれる?ユリウス、僕のことすごく心配していてくれたのに、僕、脚が痛くて、怒ってばっかだった。ユリウスは悪くないのに。だから、ユリウスにもごめんねって伝えて」
「ええ。わかったわ」
『ユリウス、口は悪いけど、優しいから』
「優しい?」
『うん!優しいよ」
「…そうね。優しいよね。大丈夫。ちゃんと伝えておくね」
『お願いだよ』
「うん。まかせて」
サーシャは笑みを浮かべ頷く。返事とばかりにライも一つ鳴き声を上げた。
サーシャは部屋を見渡した。部屋の隅の方にいるユリウスを見つけ、駆け寄る。
「王子、守っていただいて、ありがとうございました」
「お前を守ったつもりはない」
興味がないとばかりに視線が外される。そんな様子に、けれど今度はイラつかなかった。
「王子にそのつもりがなくても、私は守られました。だから、何かお礼がしたいんです」
ユリウスはサーシャに一度、視線を送る。しかし、すぐに目を逸らした。そして今度はライを見る。どこか穏やかなライの様子に安心したように、部屋を出て行こうと歩き出す。
サーシャは、ユリウスにライの言葉を伝えていないことを思い出し、慌てて引き留めた。
「ちょ、王子、まだ、話しが終わっていません!」
「っ…」
動きを止めようとサーシャはユリウスの腕を掴んだ。その瞬間小さく声が漏れる。ユリウスの眉間にしわが寄った。
けれどすぐ無表情に戻り、サーシャの手を振り払う。
「気安く触るな」
「王子、もしかして…」
「気安く話しかけるな」
「…失礼しました。けれど、王子。…少し、右腕を見せていただけませんか?」
「面倒だ」
「盾で私を守るときに、痛めたのですね?」
問いという形の断定だった。ユリウスの睨むような視線がサーシャに刺さる。けれど気にすることなく、サーシャはユリウスの腕に手を伸ばした。
「ハリオ様が呼んでくれたお医者様がいるはずです。診せましょう。…どこにいるのかな…」
「俺に触るな」
ユリウスは自分の腕を掴んでいるサーシャを振り払う。頑なな様子にサーシャは思わず叫ぶように言った。
「そんなこと言っている場合ですか!」
「騒ぐな、うるさい」
「王子!」
サーシャの呼びかけに、ユリウスは呆れたように小さく息を吐く。
「…俺が怪我をしたと分かれば、あのライオンはどうなる?お前の小さな脳みそでも、そのくらいわかるだろう」
「…」
「わかったら騒ぐな」
小声のその言葉にサーシャは右手で自分の口を覆う。この目の前の人物がどういった立場なのかをすっかり忘れていた。たしかに王族を、それも第二王子が怪我をしたのであればライは殺処分されてもおかしくない。
青くなるサーシャをユリウスはバカにしたように見る。左手で右手をかばうように触れた。
「バカだな」
「…軽率でした。すみません」
「わかったか、バカ」
繰り返される『バカ』という言葉に腹が立つが、そんなことを言っている場合ではないとサーシャは言いたい言葉を飲み込んだ。
「…けれど、そのまま、という訳にもいかないでしょう?まさか、そのまま我慢するおつもりですか?」
「大した痛みじゃない」
「手当をさせてください」
「……お前にできるのか?」
サーシャの言葉にユリウスは目を丸くする。
「簡単なものなら。何せ、一人で生きてきましたから。もちろん、オースたちはいましたけどね」
にっこりと笑う。そんなサーシャに小さく息を吐き、ユリウスは背を向けた。
「王子」
「…ついてこい」
顔だけ動かし、そう言った。その言葉にサーシャは従う。しかし、未婚の男女だ。ユリウスは少しだけ考え、嫌そうにハリオの名を呼ぶ。
「どうかされましたか?」
「お前もついてこい」
「はい?」
「うるさい。黙ってついてこい」
それ以上は説明せず、足早にライの部屋を後にする。ユリウスの部屋はすぐ隣だった。先ほどまでいた部屋はサーシャにとって豪華過ぎると思ったが、ユリウスの部屋はそれ以上だった。
豪華なシャンデリアに、座り心地のよさそうなソファ。装飾品も第一級なのだろう。サーシャは物珍しそうに辺りを見回す。
『これ、全部、めちゃくちゃ高いんだろうね』
「だよね、絶対」
『間違っても触っちゃだめだからね』
「オースこそ」
「何をこそこそ話してる」
ユリウスの言葉にサーシャは慌てて振り返る。首を勢いよく左右に振った。
「いえ、何も!」
「そうか」
「それより、王子、手を見せていただけますか?それから包帯などはこの部屋にあるのですか?」
「ここにある」
ユリウスは棚の上にある救急箱を取り出した。
「包帯?」
言われるがままについてきたハリオが首を傾げ、ユリウスを見た。反射的に腕を隠したその動作が、ユリウスの状況をハリオに伝える。
「お、王子、お怪我を!?」
「うるさい、騒ぐな」
「それに、どうして王子の部屋に救急箱なんてあるんですか!?」
確かに当たり前のように出てきたが、王子個人の部屋から救急箱が出てくるなど普通考えられない。しかも、救急箱を開ければ、それなりに使っている様子が見て取れた。ハリオの言うことももっともだなと、サーシャは口を挟まず、静かになるのを待つ。
「そんなの俺の勝手だ」
「王子!ご自分をもっと大切にしてください」
「うるさい」
繰り返される言葉の応酬にオースはつまらなそうにサーシャの肩から飛び上がる。
「ねぇ、オース。この間に、コーマの実を取ってきてくれる?」
『…あの、王子のために?』
分かりやすく嫌そうな声にサーシャは苦笑いを浮かべた。
「私の恩人よ?」
『それはそうだけど…」
「お願い、オース」
『……わかったよ』
不服そうに頷くとオースは開いている窓から飛び出した。その背を少しだけ目で追う。空高く飛び上がり、すぐに見えなくなった。
サーシャはユリウスとハリオに視線を戻す。真っ赤な顔をして怒るハリオに、面倒くさそうなユリウス。王子と側近というより兄弟と言った方がいい関係性にどこか羨ましさを感じた。
「もういい加減にしろ!うるさい」
「それなら、もう勝手なことはしないと約束してください!」
「そんなの俺の勝手だ」
無茶はするなと注意するハリオに、自分の勝手だというユリウス。どちらも譲らず、一歩も前に進まないやりとりに、サーシャはいつまで続くのだろう、と半ばあきれていた。
ふと、風が髪を揺らす。顔を上げれば、森から戻ってきたオースの姿がそこにあった。
「オース、おかえり」
『ただいま。…それより、こいつらまだやってたの?』
止まない舌戦に、白いコーマの実を口に3つ咥えてたオースは呆れ顔を浮かべる。空を飛んでいくとはいえ、宮殿から森は距離がある。時計を見たわけではないが、少なくとも20分は経っているだろう。
「そうなの。なかなか終わらなくて。どうしようかなって思ってたところなんだ」
『もう無視して帰ったら?』
「一応、手当てする約束だし」
『こいつら、バカなのかな?』
「さぁ?それより、オース、ありがとうね」
サーシャはコーマの実を受け取り、ハンカチで軽く拭いた。救急箱からガーゼを取り出し、コーマの実をガーゼの上に乗せる。縦に一回、さらに横に一回重ね、コーマの実を包んだ。手のひらの甲をガーゼに押し当て、実を潰す。一瞬、青臭い匂いが広がった。けれど、すぐに匂いはしなくなる。
「おい、お前、何をしている?」
匂いに反応したのか、ユリウスがサーシャのところに歩み寄る。ハリオはまだ言い足りない顔をしていたが、それでもサーシャの説明を待った。
「コーマの実を潰しています」
「コーマの実?…なんだ、それは」
「森に生えているコーマという木の実です。木と言っても背丈は私の腰の高さくらいですが。この実を潰して患部に当てると、痛みが和らぐのです。あ、食べられる実なので、人体に影響はありません」
「そんな木があるんですか…。知りませんでした」
「食べるとくるみのような味がします。少し森の奥にあるので、知らない人も多いと思います」
「コーマの実とやらは効くのか?」
「ええ。動物たちも怪我をすれば、この実に身体を摺り寄せて、身に付けています」
「サーシャ様は物知りですね」
感心したように呟くハリオに、サーシャは照れくさそうに笑いながら首を横に振った。
「いいえ。そんなこと、ありません。動物たちと過ごしていれば知ることのできる知識です」
「いやいや、それでも物知りです」
「…あの、それで、お話は終わりましたか?」
「え?」
「よければ、包帯を巻かせていただきたいのですが」
サーシャの言葉にハリオははっとし、すぐにユリウスを見た。視線をユリウスの右腕に向ける。
「王子、まだまだ言いたいことはありますが、後で伝えることにします。すぐに治療を受けてください。本来なら医者に診てもらいたいところですが、事情は分かりましたので」
「すぐにできなかったのはお前のせいだけどな」
ハリオに皮肉を言いながらユリウスはサーシャを見た。サーシャは小さく頷くと、ユリウスを座らせる。膝立ちをし、ユリウスの右手に触れた。
「痛みは?」
「動かしたときに少しだけ」
「わかりました。コーマの実をすりつぶしたものを患部に当てて、包帯を巻きます。少しきつめに巻きますね」
「わかった」
「ただ、これは応急措置です。もし、悪化するようならすぐにお医者様に診せてください」
「…」
「王子」
「……わかった」
しぶしぶ頷いたユリウスの様子に苦笑いを浮かべながら、サーシャはユリウスの右手首に包帯を巻いていく。手際のいいその動作にハリオが「すごいですね」と感想を漏らした。
「生活していく中で身に付けたものです。応急措置くらいしかできません」
「おい、お前」
「何でしょう?」
「この実はどうした?」
「どうした、とは?」
「いつも持ち歩いているのか?」
「いいえ。先ほど、オースに頼んで取ってきてもらいました」
そう言ってサーシャはオースを見る。返事とばかりにオースはサーシャの肩から飛び上がり、頭上を一回転した。
「そのスチャ、お前の言うことをよく聞くようだな」
「よく聞くというのは、違います。友達なんです」
「友達?」
「ええ。友達です」
「そうか。…友達か」
「どうかされましたか?」
「…便利だな、お前」
「便利?」
出てきた単語が自分に合わず、サーシャは怪訝そうな表情を浮かべた。けれどそんなサーシャに構わずユリウスは続ける。
「動物の言葉がわかるのも嘘ではないみたいだしな。それに、薬の知識もある。動物も言葉がわかるだけではなく、…従わせることもできる」
「従わせてなんていません。私と彼らは友達なんです」
「友達でもなんでも、お前の言うことを聞くのは変わらないだろう?」
『こいつ、むかつく!!』
「オース、ごめんね。でも、耐えて」
そういうサーシャの声も怒りで震えていた。自分の事をなんと言われてもいい。けれど、自分と動物たちとの信頼関係を笑われるのは耐えられなかった。睨むようにユリウスを見る。
「耐えて、と来たか。何と言ったんだ、そのスチャは」
「…いいえ。何も」
「ま、そんな鳥が何を言っても、どうでもいいがな」
どうしてそんな言い方をするのかはわからなかった。けれど、わざと嫌な言い方をしていることはわかった。だから、怒りを顕わにすることは得策ではないことはわかっていた。けれど、わかっていることとできることは別である。
サーシャは、小さく息を呑んで、ユリウスの目を見た。口角を持ち上げて、尋ねる。
「王子様にとって、ライはただのペットですか?」
「…何?」
「だから、あの、ホワイトライオンは王子様にとって、ただのペットなのか、と聞いているのです」
「…」
「…違いますよね?もしそうなら、御身に怪我を負わせた段階でそれなりの処分をしているはずです」
「…」
「ライを大切に思っている。違いますか?」
「何が言いたい?」
「私にとってオースも森の動物たちも大切な存在です。王子がライを思うと同じ気持ちです」
ユリウスに向かっていた視線はさらに鋭くなる。不敬だと言われても仕方ない視線だった。けれど視線を逸らすことはしなかった。そんなサーシャの態度をユリウスは鼻で笑う。
「別にお前らの関係がどうだとしても、俺には関係ない」
「そうですか」
「ただ、お前が便利なことは変わらない」
どこか含みを持たせた言葉。ユリウスの真意をサーシャははかりかねた。
「…私に何をしろと、おっしゃりたいのでしょうか?」
「ここに残れ」
「残る?」
「動物の言葉がわかるというだけでも、本来知り得ない情報を手に入れることができる可能性が高い。その力、この国のために生かせ」
ユリウスの言葉に身体が冷めていく気がした。
こんな風にサーシャの力を悪用する人が出てこないようにダリムは細心の注意を払ってくれている。紹介された人たちは信頼に値する人ばかりだった。そして、動物を大切にする人たちだった。
この力は、人と動物を繋ぐためのもの。そのために、両親が残してくれたものだとサーシャは信じていた。だからこそ、利用しようとするユリウスが許せなかった。
やりかけだった包帯を、最後まで巻き、簡単なテープで止めた。そして、立ち上がり、ユリウスを見下ろすように見る。
「お断りしますわ。王子様」
「…」
「それでは、怪我の手当ては終わりましたので、私は帰らせていただきます」
怒りに声が震えないよう細心の注意を払った。ダリムが淑女としての心得を教えてくれていたことに感謝する。そうでなければ、手が出ていたかもしれない。
スカートを持ち上げ、挨拶をした。どうしていいかわからずおろおろするハリオには申し訳ないと思いながらも、これ以上ここにいたくはない。
ユリウスの反応は待たずにサーシャは背を向けた。もう一生会うことはないだろうな、そう思って一歩を踏み出す。そんなサーシャの背中に声がかけられた。
「お礼をしたかったのではなかったのか?」
「…」
「それに、俺の怪我はすぐに治るものではないだろう?お前が居なければ、俺の怪我はすぐに周りにばれて、あのライオンのせいだと気づかれるだろうな」
ユリウスが独り言のように呟く。サーシャはゆっくりと振り返った。サーシャと目が合ったユリウスが右頬を持ち上げる。
「お前が居なければ、俺は医者に診せるしかない。その時、本当のことをしゃべってしまうかもな」
「…救急箱は王子の部屋にありました。ご自身である程度は手当できるのでは?」
「俺は王子だぞ?そんなことできるはずがない」
「…」
「いいのか?あのライオンのせいだとばれても」
「それは、脅しでしょうか?」
そう尋ねるサーシャにユリウスは楽しそうに黒い笑みを浮かべる。
「いや、交渉だ」
「…私をここに置く理由はどうするおつもりですか?」
「一目惚れとでもすればいい」
「はい?」
「一目惚れをしたから、傍に置いた。そう言えば済むだろう。俺に反対する奴なんていない」
そう言い切るユリウスの顔が憎たらしくて、サーシャは思わず唇を噛む。
「……反対されない、というのは、寂しいことだと思いますの。だから…私が反対してさしあげます」
サーシャは最上級の笑顔を浮かべた。そして、思い切り息を吸い込む。
「何でも思い通りいくと思うなよ、くそ王子!!」
「サ、サーシャ様!?」
なりゆきを見守っていたハリオが慌てたようにサーシャの名を呼んだ。一国の王子への暴言は不敬罪で捕まりかねない。けれど、言わずにはいられなかった。
そんなサーシャの言動にユリウスは一瞬目を丸くし、しかしすぐに楽しそうに笑った。
「お前面白いな。本当に気に入った」
『痛い―――!!』
その音と同時に叫び声が部屋中に響く。起き上がり怒号を放った。右に、左に頭を振る。本能のまま、暴れるライにハリオたちは手の中にある鎖に力を込めた。けれど、それでも動きは止まらない。
痛みの原因であるユリウスに向かって口を開く。口輪で押さえられた隙間から鋭い牙が見える。金属でできている口輪がギシギシ音をたてた。
「落ち着いて、大丈夫よ」
サーシャは盾になるように、ユリウスの前に立ち、手を広げた。
「サーシャ様、危険です!離れてください!」
ハリオが叫ぶ。口輪についている鎖を自分に引き寄せた。それでもライは前に進もうと頭を揺らす。
「サーシャ様!」
『サーシャ!!』
ハリオとオースが同時に叫ぶ。いくら言葉が通じるサーシャでもこの状態のライを止めることは不可能だった。
オースは何とかライの気を逸らそうとライの目の前を飛ぶ。けれど、ライの視線はサーシャだけに注がれていた。そんなライを前に、サーシャは静かに笑う。
「ライ、大丈夫よ」
『グゥルル』
唸り声が部屋中に響く。けれどサーシャは引かなかった。
「大丈夫よ。もう釘は王子が抜いてくれたわ。あとは、傷が治るのを待つだけ。だから、落ち着いて」
一歩、前に踏み出す。もう一歩。「大丈夫、大丈夫」おまじないのように何度も繰り返した。サーシャはライの頭に触れようと手を伸ばす。
けれど、ライは威嚇するように太い声を出す。伸びてきたサーシャの手はライにとって脅威だったのだろう。振り払うように右前脚を高く上げた。
勢いよく落とされる。避けることのできないそれにサーシャは何もできなかった。
『危ない!!』
オースの叫びとともに聞こえたのは、何かがぶつかる音。痛みはない。思わず閉じた目を開ければ、そこには黒いもの。そして、温かいぬくもり。
「ユリウス王子!!!」
ハリオを含めた男たちの声が重なった。横を見れば、ユリウスの顔。ユリウスがサーシャを左腕に抱き、盾でライの鋭い爪を押さえていた。拮抗する力に盾がギシギシと音を立てる。
「王…子…」
「やっぱり、お前バカだろう」
「…すみません」
「謝るくらいなら、さっさと何とかしろ」
ぶっきらぼうに、けれど、自分を信じている言葉にサーシャは驚いた。そして、大きく頷く。ユリウスの腕から離れ、ライを見た。
「大丈夫」
言い聞かせる様な優しい声。
「大丈夫よ。ライ。大丈夫なの」
ライの耳がぴくりと動く。
「大丈夫。ここにはあなたを傷つける人なんていないわ。だから、落ち着いて」
『俺もいるよ。大丈夫。サーシャは優しい人間だ。だから、信じていい』
オースはサーシャの肩に乗り、同じように声をかけた。
「大丈夫。大丈夫」
何度も繰り返す。心に届くように何回も。一歩、前に出た。もう一歩。
唸り声は聞こえない。
「大丈夫よ」
サーシャの声に、ユリウスの盾を押していた前脚が離れる。ユリウスは警戒しながら盾を降ろした。そんな様子にサーシャは小さく息を吐く。
微笑みながら、手を伸ばし、立派なたてがみに触れた。触り心地のよいそれを優しく撫でる。
「大丈夫。いいこね」
『…ごめんなさい。すごく、痛くて。びっくりして…』
「ううん。いいの。驚かせてしまってごめんなさい」
『ありがとう』
「ハリオ様、もう大丈夫ですから、口輪を外してください」
「いや、でも…」
戸惑うハリオは視線でユリウスに確認をする。そんなハリオにユリウスは頷いた。
「言うとおりにしてやれ」
「かしこまりました」
主人の言葉を受け、ハリオはゆっくりと手を離した。他の近衛兵たちも従った。
サーシャが手を伸ばし、ライの口輪を外す。圧迫感がなくなったのかライは嬉しそうに一つ声を上げた。
「ライ」
『なあに?』
「前脚の傷、ちゃんとお医者さんに診てもらいましょう。傷に触れてしまうから、少し痛いかもしれない。我慢できる?」
『うん。今度は大丈夫』
ためらいのない言葉にサーシャは嬉しそうに笑った。
「王子、獣医様を呼んでいただけますか?」
「ハリオ、獣医を。それから、ここの後処理もやっておけ」
「承知いたしました。待機している獣医をすぐ呼びます」
「ああ」
ハリオは部屋の外に出ると、数名の獣医を引き連れて部屋に入ってきた。白衣を身に付け、医療道具を持つ獣医がライの周りを取り囲む。けれど、ライの様子は穏やかだった。血の出ている前脚を何度か舐めている。
後は任せようとサーシャは獣医たちに頭を下げた。
『ねぇ、サーシャ』
呼び止められた声に、サーシャは後ろを振り返った。
「どうしたの?ライ」
『ユリウスにもごめんねって伝えてくれる?ユリウス、僕のことすごく心配していてくれたのに、僕、脚が痛くて、怒ってばっかだった。ユリウスは悪くないのに。だから、ユリウスにもごめんねって伝えて」
「ええ。わかったわ」
『ユリウス、口は悪いけど、優しいから』
「優しい?」
『うん!優しいよ」
「…そうね。優しいよね。大丈夫。ちゃんと伝えておくね」
『お願いだよ』
「うん。まかせて」
サーシャは笑みを浮かべ頷く。返事とばかりにライも一つ鳴き声を上げた。
サーシャは部屋を見渡した。部屋の隅の方にいるユリウスを見つけ、駆け寄る。
「王子、守っていただいて、ありがとうございました」
「お前を守ったつもりはない」
興味がないとばかりに視線が外される。そんな様子に、けれど今度はイラつかなかった。
「王子にそのつもりがなくても、私は守られました。だから、何かお礼がしたいんです」
ユリウスはサーシャに一度、視線を送る。しかし、すぐに目を逸らした。そして今度はライを見る。どこか穏やかなライの様子に安心したように、部屋を出て行こうと歩き出す。
サーシャは、ユリウスにライの言葉を伝えていないことを思い出し、慌てて引き留めた。
「ちょ、王子、まだ、話しが終わっていません!」
「っ…」
動きを止めようとサーシャはユリウスの腕を掴んだ。その瞬間小さく声が漏れる。ユリウスの眉間にしわが寄った。
けれどすぐ無表情に戻り、サーシャの手を振り払う。
「気安く触るな」
「王子、もしかして…」
「気安く話しかけるな」
「…失礼しました。けれど、王子。…少し、右腕を見せていただけませんか?」
「面倒だ」
「盾で私を守るときに、痛めたのですね?」
問いという形の断定だった。ユリウスの睨むような視線がサーシャに刺さる。けれど気にすることなく、サーシャはユリウスの腕に手を伸ばした。
「ハリオ様が呼んでくれたお医者様がいるはずです。診せましょう。…どこにいるのかな…」
「俺に触るな」
ユリウスは自分の腕を掴んでいるサーシャを振り払う。頑なな様子にサーシャは思わず叫ぶように言った。
「そんなこと言っている場合ですか!」
「騒ぐな、うるさい」
「王子!」
サーシャの呼びかけに、ユリウスは呆れたように小さく息を吐く。
「…俺が怪我をしたと分かれば、あのライオンはどうなる?お前の小さな脳みそでも、そのくらいわかるだろう」
「…」
「わかったら騒ぐな」
小声のその言葉にサーシャは右手で自分の口を覆う。この目の前の人物がどういった立場なのかをすっかり忘れていた。たしかに王族を、それも第二王子が怪我をしたのであればライは殺処分されてもおかしくない。
青くなるサーシャをユリウスはバカにしたように見る。左手で右手をかばうように触れた。
「バカだな」
「…軽率でした。すみません」
「わかったか、バカ」
繰り返される『バカ』という言葉に腹が立つが、そんなことを言っている場合ではないとサーシャは言いたい言葉を飲み込んだ。
「…けれど、そのまま、という訳にもいかないでしょう?まさか、そのまま我慢するおつもりですか?」
「大した痛みじゃない」
「手当をさせてください」
「……お前にできるのか?」
サーシャの言葉にユリウスは目を丸くする。
「簡単なものなら。何せ、一人で生きてきましたから。もちろん、オースたちはいましたけどね」
にっこりと笑う。そんなサーシャに小さく息を吐き、ユリウスは背を向けた。
「王子」
「…ついてこい」
顔だけ動かし、そう言った。その言葉にサーシャは従う。しかし、未婚の男女だ。ユリウスは少しだけ考え、嫌そうにハリオの名を呼ぶ。
「どうかされましたか?」
「お前もついてこい」
「はい?」
「うるさい。黙ってついてこい」
それ以上は説明せず、足早にライの部屋を後にする。ユリウスの部屋はすぐ隣だった。先ほどまでいた部屋はサーシャにとって豪華過ぎると思ったが、ユリウスの部屋はそれ以上だった。
豪華なシャンデリアに、座り心地のよさそうなソファ。装飾品も第一級なのだろう。サーシャは物珍しそうに辺りを見回す。
『これ、全部、めちゃくちゃ高いんだろうね』
「だよね、絶対」
『間違っても触っちゃだめだからね』
「オースこそ」
「何をこそこそ話してる」
ユリウスの言葉にサーシャは慌てて振り返る。首を勢いよく左右に振った。
「いえ、何も!」
「そうか」
「それより、王子、手を見せていただけますか?それから包帯などはこの部屋にあるのですか?」
「ここにある」
ユリウスは棚の上にある救急箱を取り出した。
「包帯?」
言われるがままについてきたハリオが首を傾げ、ユリウスを見た。反射的に腕を隠したその動作が、ユリウスの状況をハリオに伝える。
「お、王子、お怪我を!?」
「うるさい、騒ぐな」
「それに、どうして王子の部屋に救急箱なんてあるんですか!?」
確かに当たり前のように出てきたが、王子個人の部屋から救急箱が出てくるなど普通考えられない。しかも、救急箱を開ければ、それなりに使っている様子が見て取れた。ハリオの言うことももっともだなと、サーシャは口を挟まず、静かになるのを待つ。
「そんなの俺の勝手だ」
「王子!ご自分をもっと大切にしてください」
「うるさい」
繰り返される言葉の応酬にオースはつまらなそうにサーシャの肩から飛び上がる。
「ねぇ、オース。この間に、コーマの実を取ってきてくれる?」
『…あの、王子のために?』
分かりやすく嫌そうな声にサーシャは苦笑いを浮かべた。
「私の恩人よ?」
『それはそうだけど…」
「お願い、オース」
『……わかったよ』
不服そうに頷くとオースは開いている窓から飛び出した。その背を少しだけ目で追う。空高く飛び上がり、すぐに見えなくなった。
サーシャはユリウスとハリオに視線を戻す。真っ赤な顔をして怒るハリオに、面倒くさそうなユリウス。王子と側近というより兄弟と言った方がいい関係性にどこか羨ましさを感じた。
「もういい加減にしろ!うるさい」
「それなら、もう勝手なことはしないと約束してください!」
「そんなの俺の勝手だ」
無茶はするなと注意するハリオに、自分の勝手だというユリウス。どちらも譲らず、一歩も前に進まないやりとりに、サーシャはいつまで続くのだろう、と半ばあきれていた。
ふと、風が髪を揺らす。顔を上げれば、森から戻ってきたオースの姿がそこにあった。
「オース、おかえり」
『ただいま。…それより、こいつらまだやってたの?』
止まない舌戦に、白いコーマの実を口に3つ咥えてたオースは呆れ顔を浮かべる。空を飛んでいくとはいえ、宮殿から森は距離がある。時計を見たわけではないが、少なくとも20分は経っているだろう。
「そうなの。なかなか終わらなくて。どうしようかなって思ってたところなんだ」
『もう無視して帰ったら?』
「一応、手当てする約束だし」
『こいつら、バカなのかな?』
「さぁ?それより、オース、ありがとうね」
サーシャはコーマの実を受け取り、ハンカチで軽く拭いた。救急箱からガーゼを取り出し、コーマの実をガーゼの上に乗せる。縦に一回、さらに横に一回重ね、コーマの実を包んだ。手のひらの甲をガーゼに押し当て、実を潰す。一瞬、青臭い匂いが広がった。けれど、すぐに匂いはしなくなる。
「おい、お前、何をしている?」
匂いに反応したのか、ユリウスがサーシャのところに歩み寄る。ハリオはまだ言い足りない顔をしていたが、それでもサーシャの説明を待った。
「コーマの実を潰しています」
「コーマの実?…なんだ、それは」
「森に生えているコーマという木の実です。木と言っても背丈は私の腰の高さくらいですが。この実を潰して患部に当てると、痛みが和らぐのです。あ、食べられる実なので、人体に影響はありません」
「そんな木があるんですか…。知りませんでした」
「食べるとくるみのような味がします。少し森の奥にあるので、知らない人も多いと思います」
「コーマの実とやらは効くのか?」
「ええ。動物たちも怪我をすれば、この実に身体を摺り寄せて、身に付けています」
「サーシャ様は物知りですね」
感心したように呟くハリオに、サーシャは照れくさそうに笑いながら首を横に振った。
「いいえ。そんなこと、ありません。動物たちと過ごしていれば知ることのできる知識です」
「いやいや、それでも物知りです」
「…あの、それで、お話は終わりましたか?」
「え?」
「よければ、包帯を巻かせていただきたいのですが」
サーシャの言葉にハリオははっとし、すぐにユリウスを見た。視線をユリウスの右腕に向ける。
「王子、まだまだ言いたいことはありますが、後で伝えることにします。すぐに治療を受けてください。本来なら医者に診てもらいたいところですが、事情は分かりましたので」
「すぐにできなかったのはお前のせいだけどな」
ハリオに皮肉を言いながらユリウスはサーシャを見た。サーシャは小さく頷くと、ユリウスを座らせる。膝立ちをし、ユリウスの右手に触れた。
「痛みは?」
「動かしたときに少しだけ」
「わかりました。コーマの実をすりつぶしたものを患部に当てて、包帯を巻きます。少しきつめに巻きますね」
「わかった」
「ただ、これは応急措置です。もし、悪化するようならすぐにお医者様に診せてください」
「…」
「王子」
「……わかった」
しぶしぶ頷いたユリウスの様子に苦笑いを浮かべながら、サーシャはユリウスの右手首に包帯を巻いていく。手際のいいその動作にハリオが「すごいですね」と感想を漏らした。
「生活していく中で身に付けたものです。応急措置くらいしかできません」
「おい、お前」
「何でしょう?」
「この実はどうした?」
「どうした、とは?」
「いつも持ち歩いているのか?」
「いいえ。先ほど、オースに頼んで取ってきてもらいました」
そう言ってサーシャはオースを見る。返事とばかりにオースはサーシャの肩から飛び上がり、頭上を一回転した。
「そのスチャ、お前の言うことをよく聞くようだな」
「よく聞くというのは、違います。友達なんです」
「友達?」
「ええ。友達です」
「そうか。…友達か」
「どうかされましたか?」
「…便利だな、お前」
「便利?」
出てきた単語が自分に合わず、サーシャは怪訝そうな表情を浮かべた。けれどそんなサーシャに構わずユリウスは続ける。
「動物の言葉がわかるのも嘘ではないみたいだしな。それに、薬の知識もある。動物も言葉がわかるだけではなく、…従わせることもできる」
「従わせてなんていません。私と彼らは友達なんです」
「友達でもなんでも、お前の言うことを聞くのは変わらないだろう?」
『こいつ、むかつく!!』
「オース、ごめんね。でも、耐えて」
そういうサーシャの声も怒りで震えていた。自分の事をなんと言われてもいい。けれど、自分と動物たちとの信頼関係を笑われるのは耐えられなかった。睨むようにユリウスを見る。
「耐えて、と来たか。何と言ったんだ、そのスチャは」
「…いいえ。何も」
「ま、そんな鳥が何を言っても、どうでもいいがな」
どうしてそんな言い方をするのかはわからなかった。けれど、わざと嫌な言い方をしていることはわかった。だから、怒りを顕わにすることは得策ではないことはわかっていた。けれど、わかっていることとできることは別である。
サーシャは、小さく息を呑んで、ユリウスの目を見た。口角を持ち上げて、尋ねる。
「王子様にとって、ライはただのペットですか?」
「…何?」
「だから、あの、ホワイトライオンは王子様にとって、ただのペットなのか、と聞いているのです」
「…」
「…違いますよね?もしそうなら、御身に怪我を負わせた段階でそれなりの処分をしているはずです」
「…」
「ライを大切に思っている。違いますか?」
「何が言いたい?」
「私にとってオースも森の動物たちも大切な存在です。王子がライを思うと同じ気持ちです」
ユリウスに向かっていた視線はさらに鋭くなる。不敬だと言われても仕方ない視線だった。けれど視線を逸らすことはしなかった。そんなサーシャの態度をユリウスは鼻で笑う。
「別にお前らの関係がどうだとしても、俺には関係ない」
「そうですか」
「ただ、お前が便利なことは変わらない」
どこか含みを持たせた言葉。ユリウスの真意をサーシャははかりかねた。
「…私に何をしろと、おっしゃりたいのでしょうか?」
「ここに残れ」
「残る?」
「動物の言葉がわかるというだけでも、本来知り得ない情報を手に入れることができる可能性が高い。その力、この国のために生かせ」
ユリウスの言葉に身体が冷めていく気がした。
こんな風にサーシャの力を悪用する人が出てこないようにダリムは細心の注意を払ってくれている。紹介された人たちは信頼に値する人ばかりだった。そして、動物を大切にする人たちだった。
この力は、人と動物を繋ぐためのもの。そのために、両親が残してくれたものだとサーシャは信じていた。だからこそ、利用しようとするユリウスが許せなかった。
やりかけだった包帯を、最後まで巻き、簡単なテープで止めた。そして、立ち上がり、ユリウスを見下ろすように見る。
「お断りしますわ。王子様」
「…」
「それでは、怪我の手当ては終わりましたので、私は帰らせていただきます」
怒りに声が震えないよう細心の注意を払った。ダリムが淑女としての心得を教えてくれていたことに感謝する。そうでなければ、手が出ていたかもしれない。
スカートを持ち上げ、挨拶をした。どうしていいかわからずおろおろするハリオには申し訳ないと思いながらも、これ以上ここにいたくはない。
ユリウスの反応は待たずにサーシャは背を向けた。もう一生会うことはないだろうな、そう思って一歩を踏み出す。そんなサーシャの背中に声がかけられた。
「お礼をしたかったのではなかったのか?」
「…」
「それに、俺の怪我はすぐに治るものではないだろう?お前が居なければ、俺の怪我はすぐに周りにばれて、あのライオンのせいだと気づかれるだろうな」
ユリウスが独り言のように呟く。サーシャはゆっくりと振り返った。サーシャと目が合ったユリウスが右頬を持ち上げる。
「お前が居なければ、俺は医者に診せるしかない。その時、本当のことをしゃべってしまうかもな」
「…救急箱は王子の部屋にありました。ご自身である程度は手当できるのでは?」
「俺は王子だぞ?そんなことできるはずがない」
「…」
「いいのか?あのライオンのせいだとばれても」
「それは、脅しでしょうか?」
そう尋ねるサーシャにユリウスは楽しそうに黒い笑みを浮かべる。
「いや、交渉だ」
「…私をここに置く理由はどうするおつもりですか?」
「一目惚れとでもすればいい」
「はい?」
「一目惚れをしたから、傍に置いた。そう言えば済むだろう。俺に反対する奴なんていない」
そう言い切るユリウスの顔が憎たらしくて、サーシャは思わず唇を噛む。
「……反対されない、というのは、寂しいことだと思いますの。だから…私が反対してさしあげます」
サーシャは最上級の笑顔を浮かべた。そして、思い切り息を吸い込む。
「何でも思い通りいくと思うなよ、くそ王子!!」
「サ、サーシャ様!?」
なりゆきを見守っていたハリオが慌てたようにサーシャの名を呼んだ。一国の王子への暴言は不敬罪で捕まりかねない。けれど、言わずにはいられなかった。
そんなサーシャの言動にユリウスは一瞬目を丸くし、しかしすぐに楽しそうに笑った。
「お前面白いな。本当に気に入った」
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