1 / 42
序章
0. 突然の別離
しおりを挟む
いつも柔らかな笑みを浮かべているのに、今日は強張ったような表情を浮かべているのを見た時、ひどくいやな予感がした。
勧めたソファに腰を下ろそうともせず、すぐ帰る気配を見せた時に予感は確信に変わった。
だけど、まさか。
「ロゼ――突然の話で申し訳ないけど、僕との婚約を解消して欲しい」
婚約の解消を切り出されるだなんて思ってもみなかった。
「クロード様……?」
突然としか言い様のない申し出に、ロゼリエッタは信じられない思いで目の前の婚約者を見つめた。
自分が女性として愛されていないことはずっと前から知っている。それでも婚約を経て、いずれは夫婦という関係も恙なく続けて行けるだけの好意は抱かれている自負はあった。
だけど政略結婚の相手にすらしたくないと感じるほどに、ひどく嫌われてしまうような何かをしてしまったのだろうか。
心当たりがないわけではない。
先日の夜会でロゼリエッタはクロードとほとんど会話もせず、あまつさえ一人で先に帰った。
でもクロードもそれを望んでいたはずだ。
会話らしい会話も、先に帰ると言ったロゼリエッタを引き留めることも、クロードはしなかった。
たった一日の出来事だけでクロードが婚約を解消しようとする短絡的な人物だなんて、思えないし思いたくもない。
ならば以前からロゼリエッタに対する不満が積もり続けていて、夜会での振る舞いが引き金になったということなのだろうか。
「どうして、ですか。理由を……お聞かせいただけるでしょうか」
無理やり絞り出した為に掠れ気味の声で問いかける。
嫌われた原因なんて本当は知りたくもない。
知ったからと言って改善できない要素かもしれないし、改善できたとして愛される保証だってどこにもなかった。
けれど、何が悪かったのか分からないまま済ませられる話でもない。
クロードは肩で大きく息をつき、中空を見上げた。それから何かを断ち切るように目を閉じる。
次に目を開けた時には、先程まではまだ少し残っていた迷いの色はどこにも見えなくなっていた。ただ静かに凪いだ視線をロゼリエッタに戻し、口を開く。
「隣国にレミリア王女殿下の直命を受けて赴くことになった。君も知っていると思うけれど、隣国は今、王位継承問題で大きく不安定に揺れている。だから万が一の事態が起きた時の為に婚約を解消したい」
言われた言葉の意味が分からなかった。
何一つとして納得できる理由がない。それともクロードの中では、これだけで婚約の解消に同意が得られる理由なのだろうか。
胸が痛い。
今すぐ泣き出したいのに聞き分けがいい婚約者を演じていたロゼリエッタが、この期に及んでもなお涙をせき止める。
泣くのはせめて、理由を理解してからにしよう。
感情的に泣き喚いては、彼が心を寄せる強く美しく聡い大人の女性に近づけない。これ以上嫌われたくなかった。
「――王女殿下も、ご同行されるのですか」
心が痛い。
クロードは王女に仕える騎士だ。彼が隣国へ行くのであれば、王女も一緒なのだと十分に考えられた。
つまりロゼリエッタとの婚約を解消してまで、王女の護衛を優先したということだ。
胸が苦しい。
天秤にかけるべきではない事柄同士を天秤にかけ、その結果、王女にさえ嫉妬してしまう自分の醜さに息が詰まりそうだった。
「いや。殿下は隣国に向かわれないよ」
王女は一緒ではないことに安堵を覚える。だけど、クロードは主の命で危険な場所に行く事実は変わらない。
ロゼリエッタはともすればしゃがみ込んでしまいたくなる気持ちを押し殺し、必死に顔を上げた。
心が苦しい。
好きな人が離れて行こうとしているのに、どうして泣きながら引き留めてはいけないのか。
「ではそのような場所に、どうして公爵家のご令息のクロード様が行かなければならないのですか」
「僕は王女殿下に仕える騎士だ。殿下がそう望まれるのなら従う」
「でしたら、私もクロード様の将来の伴侶としてご一緒に――」
危険な場所であろうと共にありたい。それで命を落とすことになっても、クロードの傍にいられるなら怖くなかった。
けれどクロードはあくまでも冷静に、ロゼリエッタの夢見がちな想いを断ち切る。
「君も連れて行けるような情勢じゃない。だからと言って、帰って来れない可能性もあるのに君を婚約者という形に縛りつけるわけにも行かない」
まるで、死んでしまうと分かっているかのような口ぶりだ。
クロードは一人で何を諦め、何を受け入れているのか。
本当にロゼリエッタのことを考えてくれているなら、もっと別の言葉があるはずだ。少なくともロゼリエッタ自身はそう信じている。だって欲しい言葉は彼女の中にあるのだ。
(だけど、クロード様はその言葉は決して下さらない)
怒りがふつふつと込み上げて来た。
たった一言をくれるだけで、いいのに。言葉も約束も、優しいものは何も与えたくはないから、手っ取り早く婚約を解消したいというのだろうか。
両手を強く握りしめても、内側から溢れる感情を抑えることはできなかった。とうとう涙がこぼれ落ちる。
「私の為に帰って来て下さると、そう約束しては下さらないのですか……!」
初めてクロードの前で大きな声を出した次の瞬間、ロゼリエッタの身体が引き寄せられた。
何が起こったのか理解できず、瞳をしばたたかせる。そうして、自らを包み込む温かで逞しい感触に、クロードに抱きしめられているのだと分かった。だけど抱きしめられた理由は分からないままだ。
「クロ……ド、様……?」
「ロゼ。――ロゼリエッタ」
何かを乞うような熱を帯びた声色でクロードが名を呼ぶ。
聞き分けのないロゼリエッタに困っているのかもしれない。
やっぱり、表面だけを取り繕って笑っていたのは正解だったのだ。
子供なロゼリエッタはクロードに愛してはもらえない。大人であろうとしてようやく、女性としてではなく妹として見てもらえる程度に過ぎなかった。
ロゼリエッタの瞳にさらなる涙が潤む。
二人にとって初めての抱擁が別れ話を切り出されているその時だなんて、どんな皮肉なのだろうか。
それでもクロードの温もりに包まれていることに喜びを見出してしまう自分は、とても浅ましい。でもずっと、こうして欲しいと心の奥で願い続けていた。
「クロード様、どうか」
どこにも行かないで下さい。
心からの願いは口に出すことは叶わなかった。
いちばん伝えたい想いなのに、伝えたら困らせてしまう。
そのせいでいちばん伝えたいことだからこそ喉の奥に張りついてしまっている。
「――本当に、すまない」
きつく抱きしめられていることで動かせないでいた両腕を何とかクロードの背に回しかけたところで、ゆっくりと引き離された。
ロゼリエッタは顔を上げ、涙に濡れた視線を向ける。けれどクロードは、もう目を合わせてはくれなかった。
ああ、違う。
クロードはこれまで一度たりとも、ロゼリエッタと視線を合わせていてはくれなかった。視線を合わせたくて、ロゼリエッタが一方的に見つめていただけだ。
『そんな顔をしないでクロード。もう少しの辛抱なのだから』
ふと、夜会で聞きたくもないのに聞いてしまった言葉が脳裏をよぎった。
あれは、こういう意味だったのだ。
もう少ししたら、ロゼリエッタとの婚約を解消できると。
ただでさえ脆かった足元が一気に崩れ落ちた気がした。
「私、は……どうしたら、良かったのですか」
無力感に苛まれ、自嘲気味な笑みが浮かぶ。
心のままに泣いていても、無理をしてまで笑っていても、何をしても、クロードはロゼリエッタを選んではくれない。
美しいバラではなく、ひっそりと咲く白詰草では最初からだめだったのだ。
恋をする相手に選ぶつもりがないのなら優しくなんかしてくれない方が良かった。
都合が良いから傍に置いているだけの、本当は邪魔な存在なのだと態度でも示してくれていたら、得られるはずもない愛情を求めずに済んだ。
――いや。
それでもロゼリエッタはクロードに恋をして、今よりもっとみじめな想いを抱いていたに違いなかった。
悲しい時ほど、気がつかれないよう笑って来た。
でも今は唇を笑みの形に彩ることさえもできない。
ただ冷たいだけの涙が頬を伝った。
「さよなら、僕の可愛いロゼ。どうか幸せに」
「クロー……ド、様……」
幸せにとは、どういうことだろう。
ロゼリエッタはクロードがいないと幸せになんてなれない。
それなのにクロードは、泣き濡れるロゼリエッタを置いて立ち去ってしまった。
勧めたソファに腰を下ろそうともせず、すぐ帰る気配を見せた時に予感は確信に変わった。
だけど、まさか。
「ロゼ――突然の話で申し訳ないけど、僕との婚約を解消して欲しい」
婚約の解消を切り出されるだなんて思ってもみなかった。
「クロード様……?」
突然としか言い様のない申し出に、ロゼリエッタは信じられない思いで目の前の婚約者を見つめた。
自分が女性として愛されていないことはずっと前から知っている。それでも婚約を経て、いずれは夫婦という関係も恙なく続けて行けるだけの好意は抱かれている自負はあった。
だけど政略結婚の相手にすらしたくないと感じるほどに、ひどく嫌われてしまうような何かをしてしまったのだろうか。
心当たりがないわけではない。
先日の夜会でロゼリエッタはクロードとほとんど会話もせず、あまつさえ一人で先に帰った。
でもクロードもそれを望んでいたはずだ。
会話らしい会話も、先に帰ると言ったロゼリエッタを引き留めることも、クロードはしなかった。
たった一日の出来事だけでクロードが婚約を解消しようとする短絡的な人物だなんて、思えないし思いたくもない。
ならば以前からロゼリエッタに対する不満が積もり続けていて、夜会での振る舞いが引き金になったということなのだろうか。
「どうして、ですか。理由を……お聞かせいただけるでしょうか」
無理やり絞り出した為に掠れ気味の声で問いかける。
嫌われた原因なんて本当は知りたくもない。
知ったからと言って改善できない要素かもしれないし、改善できたとして愛される保証だってどこにもなかった。
けれど、何が悪かったのか分からないまま済ませられる話でもない。
クロードは肩で大きく息をつき、中空を見上げた。それから何かを断ち切るように目を閉じる。
次に目を開けた時には、先程まではまだ少し残っていた迷いの色はどこにも見えなくなっていた。ただ静かに凪いだ視線をロゼリエッタに戻し、口を開く。
「隣国にレミリア王女殿下の直命を受けて赴くことになった。君も知っていると思うけれど、隣国は今、王位継承問題で大きく不安定に揺れている。だから万が一の事態が起きた時の為に婚約を解消したい」
言われた言葉の意味が分からなかった。
何一つとして納得できる理由がない。それともクロードの中では、これだけで婚約の解消に同意が得られる理由なのだろうか。
胸が痛い。
今すぐ泣き出したいのに聞き分けがいい婚約者を演じていたロゼリエッタが、この期に及んでもなお涙をせき止める。
泣くのはせめて、理由を理解してからにしよう。
感情的に泣き喚いては、彼が心を寄せる強く美しく聡い大人の女性に近づけない。これ以上嫌われたくなかった。
「――王女殿下も、ご同行されるのですか」
心が痛い。
クロードは王女に仕える騎士だ。彼が隣国へ行くのであれば、王女も一緒なのだと十分に考えられた。
つまりロゼリエッタとの婚約を解消してまで、王女の護衛を優先したということだ。
胸が苦しい。
天秤にかけるべきではない事柄同士を天秤にかけ、その結果、王女にさえ嫉妬してしまう自分の醜さに息が詰まりそうだった。
「いや。殿下は隣国に向かわれないよ」
王女は一緒ではないことに安堵を覚える。だけど、クロードは主の命で危険な場所に行く事実は変わらない。
ロゼリエッタはともすればしゃがみ込んでしまいたくなる気持ちを押し殺し、必死に顔を上げた。
心が苦しい。
好きな人が離れて行こうとしているのに、どうして泣きながら引き留めてはいけないのか。
「ではそのような場所に、どうして公爵家のご令息のクロード様が行かなければならないのですか」
「僕は王女殿下に仕える騎士だ。殿下がそう望まれるのなら従う」
「でしたら、私もクロード様の将来の伴侶としてご一緒に――」
危険な場所であろうと共にありたい。それで命を落とすことになっても、クロードの傍にいられるなら怖くなかった。
けれどクロードはあくまでも冷静に、ロゼリエッタの夢見がちな想いを断ち切る。
「君も連れて行けるような情勢じゃない。だからと言って、帰って来れない可能性もあるのに君を婚約者という形に縛りつけるわけにも行かない」
まるで、死んでしまうと分かっているかのような口ぶりだ。
クロードは一人で何を諦め、何を受け入れているのか。
本当にロゼリエッタのことを考えてくれているなら、もっと別の言葉があるはずだ。少なくともロゼリエッタ自身はそう信じている。だって欲しい言葉は彼女の中にあるのだ。
(だけど、クロード様はその言葉は決して下さらない)
怒りがふつふつと込み上げて来た。
たった一言をくれるだけで、いいのに。言葉も約束も、優しいものは何も与えたくはないから、手っ取り早く婚約を解消したいというのだろうか。
両手を強く握りしめても、内側から溢れる感情を抑えることはできなかった。とうとう涙がこぼれ落ちる。
「私の為に帰って来て下さると、そう約束しては下さらないのですか……!」
初めてクロードの前で大きな声を出した次の瞬間、ロゼリエッタの身体が引き寄せられた。
何が起こったのか理解できず、瞳をしばたたかせる。そうして、自らを包み込む温かで逞しい感触に、クロードに抱きしめられているのだと分かった。だけど抱きしめられた理由は分からないままだ。
「クロ……ド、様……?」
「ロゼ。――ロゼリエッタ」
何かを乞うような熱を帯びた声色でクロードが名を呼ぶ。
聞き分けのないロゼリエッタに困っているのかもしれない。
やっぱり、表面だけを取り繕って笑っていたのは正解だったのだ。
子供なロゼリエッタはクロードに愛してはもらえない。大人であろうとしてようやく、女性としてではなく妹として見てもらえる程度に過ぎなかった。
ロゼリエッタの瞳にさらなる涙が潤む。
二人にとって初めての抱擁が別れ話を切り出されているその時だなんて、どんな皮肉なのだろうか。
それでもクロードの温もりに包まれていることに喜びを見出してしまう自分は、とても浅ましい。でもずっと、こうして欲しいと心の奥で願い続けていた。
「クロード様、どうか」
どこにも行かないで下さい。
心からの願いは口に出すことは叶わなかった。
いちばん伝えたい想いなのに、伝えたら困らせてしまう。
そのせいでいちばん伝えたいことだからこそ喉の奥に張りついてしまっている。
「――本当に、すまない」
きつく抱きしめられていることで動かせないでいた両腕を何とかクロードの背に回しかけたところで、ゆっくりと引き離された。
ロゼリエッタは顔を上げ、涙に濡れた視線を向ける。けれどクロードは、もう目を合わせてはくれなかった。
ああ、違う。
クロードはこれまで一度たりとも、ロゼリエッタと視線を合わせていてはくれなかった。視線を合わせたくて、ロゼリエッタが一方的に見つめていただけだ。
『そんな顔をしないでクロード。もう少しの辛抱なのだから』
ふと、夜会で聞きたくもないのに聞いてしまった言葉が脳裏をよぎった。
あれは、こういう意味だったのだ。
もう少ししたら、ロゼリエッタとの婚約を解消できると。
ただでさえ脆かった足元が一気に崩れ落ちた気がした。
「私、は……どうしたら、良かったのですか」
無力感に苛まれ、自嘲気味な笑みが浮かぶ。
心のままに泣いていても、無理をしてまで笑っていても、何をしても、クロードはロゼリエッタを選んではくれない。
美しいバラではなく、ひっそりと咲く白詰草では最初からだめだったのだ。
恋をする相手に選ぶつもりがないのなら優しくなんかしてくれない方が良かった。
都合が良いから傍に置いているだけの、本当は邪魔な存在なのだと態度でも示してくれていたら、得られるはずもない愛情を求めずに済んだ。
――いや。
それでもロゼリエッタはクロードに恋をして、今よりもっとみじめな想いを抱いていたに違いなかった。
悲しい時ほど、気がつかれないよう笑って来た。
でも今は唇を笑みの形に彩ることさえもできない。
ただ冷たいだけの涙が頬を伝った。
「さよなら、僕の可愛いロゼ。どうか幸せに」
「クロー……ド、様……」
幸せにとは、どういうことだろう。
ロゼリエッタはクロードがいないと幸せになんてなれない。
それなのにクロードは、泣き濡れるロゼリエッタを置いて立ち去ってしまった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
403
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる