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第1章 再会は罠の始まり
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見上げた空は陰鬱に暗く曇っていた。今にも黒雲から雨粒が落ちてきそうだ。
今の自分の気持ちを表したような空模様に、四宮美園は重いため息をつく。
火葬場の息苦しい親族控室から、この中庭に逃げ出してきたきた。中庭には死者を弔うものを慰めるように、緑が植えられ、今の時期は紫陽花が咲き乱れていた。
紫陽花の赤から青へ変わる自然のグラデーションの美しさにも、今の美園の気持ちは晴れるどころか、ますます落ち込んでいく。
――当たり前か。
美園は中庭の紫陽花の横に設置されたベンチに座った。途端に、もう立ち上がれないと思うほどの疲労感が、押し寄せてきた。身に纏っている喪服が、まるで鎧にでもなったように重い。
美園は曇天を仰いで、瞼を閉じる。目の奥がきりきりとした痛みを訴えた。
兄の事故の知らせから四日――ほとんど眠っていない体は疲労を訴える。けれど、精神は悲しみとショックに昂って、眠気が訪れる気配は一切ない。
心と体のバランスが崩れていることがわかるが、どうしようもない。
閉じた瞼の裏に、兄の優しい笑みが浮かぶ。
中性的な美貌で、常に微笑みを浮かべているような垂れ目顔。穏やかな声で、『美園』と呼びかけてくれる声が今も耳に残っている。
何時だって美園の一番の理解者でいてくれた兄。
三十六歳だった――突然すぎる兄の死が、いまだに受け入れられない。すべてが悪い夢のようだった。今も目を開ければこの悪夢が醒めて、兄が笑いかけてくれる気がして仕方ない。
――本当に、兄さんらしい。道路に飛び出した近所の子を、車から助けての事故死なんて……
正義感が強く行動力のあった兄らしい死因は理解できても、心は納得できていない。
仰向いた顔にぽつりと雫が落ちてきた。続いていくつもの雫が、次々と天から降り注いできた。
雨が降り出したことがわかっても、仰のいて瞼を閉じたまま美園は動けなかった。
――雨か。涙雨ね……
空さえも兄の死を嘆いてくれると思えば、心がほんの少しだけ慰められる気がした。
不意に影が差して、顔を打つ雨粒が遮られた。
――兄さん?
いつも家出をした美園を迎えに来てくれたように、雨に打たれる美園を兄が迎えに来てくれたような錯覚を覚えた。
瞼を開ければ、仕方ないやつだと笑う兄が立っている奇跡を願ってしまう。
「美園さん。こんなところにいたら、濡れますよ」
聞こえてきた声は、聞き馴染のある兄の声よりも低くて、美園は泣きたくなる。
そんな童話みたいな奇跡は起きてくれない。当たり前だ。
美園は泣きたくなる想いを噛み殺して、瞼を開く。喪服を着て、大きな傘を美園に差しかける男と目が合った。
「……高坂さん」
「こんなところにいたら風邪を引きます。控室にお戻りください」
ほぼ十年ぶりに再会した兄の側近――高坂守の言葉に、美園は苦い笑みを浮かべる。
「戻りたくない」
先ほどまでいた親族控室の様子を思い出せば、そんなわがままが口をついて出る。
一体、あの控室にいる人々の中で、どれほどの人間が、本当に兄の死を悼んでいるというのだろう。
四宮グループ総帥の座を狙い、隙あらば後継者を失った父に取り入ろうとする者。兄が生きていたころは、四宮家のお荷物として美園の存在を軽んじていたくせに、手のひらを返してすり寄って来ようとする者。
欲望渦巻くあの場所では、兄の死を悲しみ悼むことも出来はしない。
唯一この悲しみを共有できるはずの父は、後継者である優秀な息子を失ったことで、今後のグループの舵取りをどうするかに、気を取られている。
そうでもなくても、自分に反抗するばかりの娘の存在価値をあの父は認めていない。
父のことだ。優秀だった息子の代わりに、役立たずな美園が死ねばよかったくらいのことは思っていそうだ。
直接言葉にされることはなくても、その態度に父の考えが透けて見えている。
母は美園が幼い頃に亡くなり、令和の時代になっても変わらない男尊女卑思考の父が支配する息苦しい四宮の家で、美園の理解者は八歳年上だった兄の智也だけだった。
その兄がいなくなった今、四宮の家に美園の居場所などない。
あの控室に戻るくらいなら、ここで雨に打たれているほうがよかった。
美園のそんな想いが、顔に出ていたのか、高坂は小さくため息を吐いた。
その様にもう乗り越えたと思った過去のトラウマが疼いた。
『子どもに想われても、迷惑なだけです』
かつて、この人に初恋を拒まれた時のことが思い出されて、美園は高坂から視線を逸らして俯いた。
――子どもみたいなわがままに呆れたのなら、さっさと去ってほしい。
そう思うが、美園の願いとは裏腹に、高坂が立ち去る様子はなかった。
高坂は美園に傘を差しかけたまま、美園の隣に座った。
「高坂さん?」
彼の思わぬ行動に、美園は戸惑う。
「あの場所に戻りたくない気持ちはわかります」
静かに呟かれた高坂の言葉に、美園は思わず顔を上げた。
背筋を伸ばし真っ直ぐ前を向いたまま、美園に傘を差しかけるその横顔は無表情で、感情をうかがわせるものはない。けれど、傘の柄を握る男の指は白くなるほどに力が入っていた。
その姿に表に現れることのない高坂の哀しみを美園は感じ取った。
――ああ、彼は兄さんの死を悼んでくれているのか。
高坂は兄の親友だった。中学の先輩後輩として出会い、二十年以上公私にわたり兄を支えてくれた人だ。そんな人が兄の死を悲しんでいないわけがなかった。
美園以外にも兄の死を本当に悼んでくれている人がいた。その実感が、美園の心を慰める。
気まずいと思っていたこの時間すらも、優しいものに感じられた。
雨足は徐々に強くなり、二人ただ傘に当たる雨音を聞くだけの時間を過ごす。
余計な会話はなかった。純粋にただ、ただ静かに兄を想う。
どれくらいそうしていただろう。
「そろそろ時間ですね」
腕時計を見た高坂の言葉に、美咲も自分の腕時計を見やる。事前に告げられていた火葬終了の時間が迫っていた。
「戻りましょう」
「そうですね」
高坂の促しに今度は素直に頷いて、美園は立ち上がる。高坂も美園が濡れないように傘を差しかけたまま同時に立ち上がった。
館内への短い距離を、高坂と一つの傘の下で寄り添うように歩く。
中庭の出入り口で高坂が傘の雨滴を払い閉じるのを待つ間、ふと見やった彼の左肩がひどく濡れていることに気づく。
雨音を聞いていたあの時間――美園が濡れないように高坂が、傘の大部分を差しかけていてくれたことにやっと気づく。
「ごめんなさい」
「え?」
美園の謝罪に高坂が戸惑ったような顔をする。
「肩。濡れてる」
「ああ」
「私のせいでしょう?」
美園の言葉に高坂が目元を緩める。
「たいしたことありません。美園さんが濡れて風邪を引かれるくらいなら、これくらいなんともありませんよ」
穏やかな高坂の言葉に、美園の胸がかすかに疼いた。
――優しいところは、昔と変わらない。でも、勘違いしちゃいけない。
彼の優しさは、親友の妹への気遣いだ。その優しさが自分にだけ向けられる特別なものだと思ってはいけない。
そんな愚かな勘違いをしていた少女の頃、美園は高坂に恋をしていた――
今の自分の気持ちを表したような空模様に、四宮美園は重いため息をつく。
火葬場の息苦しい親族控室から、この中庭に逃げ出してきたきた。中庭には死者を弔うものを慰めるように、緑が植えられ、今の時期は紫陽花が咲き乱れていた。
紫陽花の赤から青へ変わる自然のグラデーションの美しさにも、今の美園の気持ちは晴れるどころか、ますます落ち込んでいく。
――当たり前か。
美園は中庭の紫陽花の横に設置されたベンチに座った。途端に、もう立ち上がれないと思うほどの疲労感が、押し寄せてきた。身に纏っている喪服が、まるで鎧にでもなったように重い。
美園は曇天を仰いで、瞼を閉じる。目の奥がきりきりとした痛みを訴えた。
兄の事故の知らせから四日――ほとんど眠っていない体は疲労を訴える。けれど、精神は悲しみとショックに昂って、眠気が訪れる気配は一切ない。
心と体のバランスが崩れていることがわかるが、どうしようもない。
閉じた瞼の裏に、兄の優しい笑みが浮かぶ。
中性的な美貌で、常に微笑みを浮かべているような垂れ目顔。穏やかな声で、『美園』と呼びかけてくれる声が今も耳に残っている。
何時だって美園の一番の理解者でいてくれた兄。
三十六歳だった――突然すぎる兄の死が、いまだに受け入れられない。すべてが悪い夢のようだった。今も目を開ければこの悪夢が醒めて、兄が笑いかけてくれる気がして仕方ない。
――本当に、兄さんらしい。道路に飛び出した近所の子を、車から助けての事故死なんて……
正義感が強く行動力のあった兄らしい死因は理解できても、心は納得できていない。
仰向いた顔にぽつりと雫が落ちてきた。続いていくつもの雫が、次々と天から降り注いできた。
雨が降り出したことがわかっても、仰のいて瞼を閉じたまま美園は動けなかった。
――雨か。涙雨ね……
空さえも兄の死を嘆いてくれると思えば、心がほんの少しだけ慰められる気がした。
不意に影が差して、顔を打つ雨粒が遮られた。
――兄さん?
いつも家出をした美園を迎えに来てくれたように、雨に打たれる美園を兄が迎えに来てくれたような錯覚を覚えた。
瞼を開ければ、仕方ないやつだと笑う兄が立っている奇跡を願ってしまう。
「美園さん。こんなところにいたら、濡れますよ」
聞こえてきた声は、聞き馴染のある兄の声よりも低くて、美園は泣きたくなる。
そんな童話みたいな奇跡は起きてくれない。当たり前だ。
美園は泣きたくなる想いを噛み殺して、瞼を開く。喪服を着て、大きな傘を美園に差しかける男と目が合った。
「……高坂さん」
「こんなところにいたら風邪を引きます。控室にお戻りください」
ほぼ十年ぶりに再会した兄の側近――高坂守の言葉に、美園は苦い笑みを浮かべる。
「戻りたくない」
先ほどまでいた親族控室の様子を思い出せば、そんなわがままが口をついて出る。
一体、あの控室にいる人々の中で、どれほどの人間が、本当に兄の死を悼んでいるというのだろう。
四宮グループ総帥の座を狙い、隙あらば後継者を失った父に取り入ろうとする者。兄が生きていたころは、四宮家のお荷物として美園の存在を軽んじていたくせに、手のひらを返してすり寄って来ようとする者。
欲望渦巻くあの場所では、兄の死を悲しみ悼むことも出来はしない。
唯一この悲しみを共有できるはずの父は、後継者である優秀な息子を失ったことで、今後のグループの舵取りをどうするかに、気を取られている。
そうでもなくても、自分に反抗するばかりの娘の存在価値をあの父は認めていない。
父のことだ。優秀だった息子の代わりに、役立たずな美園が死ねばよかったくらいのことは思っていそうだ。
直接言葉にされることはなくても、その態度に父の考えが透けて見えている。
母は美園が幼い頃に亡くなり、令和の時代になっても変わらない男尊女卑思考の父が支配する息苦しい四宮の家で、美園の理解者は八歳年上だった兄の智也だけだった。
その兄がいなくなった今、四宮の家に美園の居場所などない。
あの控室に戻るくらいなら、ここで雨に打たれているほうがよかった。
美園のそんな想いが、顔に出ていたのか、高坂は小さくため息を吐いた。
その様にもう乗り越えたと思った過去のトラウマが疼いた。
『子どもに想われても、迷惑なだけです』
かつて、この人に初恋を拒まれた時のことが思い出されて、美園は高坂から視線を逸らして俯いた。
――子どもみたいなわがままに呆れたのなら、さっさと去ってほしい。
そう思うが、美園の願いとは裏腹に、高坂が立ち去る様子はなかった。
高坂は美園に傘を差しかけたまま、美園の隣に座った。
「高坂さん?」
彼の思わぬ行動に、美園は戸惑う。
「あの場所に戻りたくない気持ちはわかります」
静かに呟かれた高坂の言葉に、美園は思わず顔を上げた。
背筋を伸ばし真っ直ぐ前を向いたまま、美園に傘を差しかけるその横顔は無表情で、感情をうかがわせるものはない。けれど、傘の柄を握る男の指は白くなるほどに力が入っていた。
その姿に表に現れることのない高坂の哀しみを美園は感じ取った。
――ああ、彼は兄さんの死を悼んでくれているのか。
高坂は兄の親友だった。中学の先輩後輩として出会い、二十年以上公私にわたり兄を支えてくれた人だ。そんな人が兄の死を悲しんでいないわけがなかった。
美園以外にも兄の死を本当に悼んでくれている人がいた。その実感が、美園の心を慰める。
気まずいと思っていたこの時間すらも、優しいものに感じられた。
雨足は徐々に強くなり、二人ただ傘に当たる雨音を聞くだけの時間を過ごす。
余計な会話はなかった。純粋にただ、ただ静かに兄を想う。
どれくらいそうしていただろう。
「そろそろ時間ですね」
腕時計を見た高坂の言葉に、美咲も自分の腕時計を見やる。事前に告げられていた火葬終了の時間が迫っていた。
「戻りましょう」
「そうですね」
高坂の促しに今度は素直に頷いて、美園は立ち上がる。高坂も美園が濡れないように傘を差しかけたまま同時に立ち上がった。
館内への短い距離を、高坂と一つの傘の下で寄り添うように歩く。
中庭の出入り口で高坂が傘の雨滴を払い閉じるのを待つ間、ふと見やった彼の左肩がひどく濡れていることに気づく。
雨音を聞いていたあの時間――美園が濡れないように高坂が、傘の大部分を差しかけていてくれたことにやっと気づく。
「ごめんなさい」
「え?」
美園の謝罪に高坂が戸惑ったような顔をする。
「肩。濡れてる」
「ああ」
「私のせいでしょう?」
美園の言葉に高坂が目元を緩める。
「たいしたことありません。美園さんが濡れて風邪を引かれるくらいなら、これくらいなんともありませんよ」
穏やかな高坂の言葉に、美園の胸がかすかに疼いた。
――優しいところは、昔と変わらない。でも、勘違いしちゃいけない。
彼の優しさは、親友の妹への気遣いだ。その優しさが自分にだけ向けられる特別なものだと思ってはいけない。
そんな愚かな勘違いをしていた少女の頃、美園は高坂に恋をしていた――
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