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第三章 マリーアントワネット
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そして翌日、事件は起こった。
いつも通り、学校帰りに「やまか深沢店」でお買い物。「カクリヨ美容室」の扉に手をかけた、直後のことだった。室内から、女性ものの金切り声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だった。
「これ以上染められないって、それどういう意味ですかッ!? ちゃんと見てください! この前、雨に濡れたんですよッ!? それできっと、色が抜けてしまったんです! お金はちゃんと払いますから、だから──」
「ちょっ、紅麗亜ちゃん! 落ち着いて!」
扉を開けると、案の定その声の主は紅麗亜ちゃん。そしてあろうことか、ほだか先生に掴みかかっていた。
わたしは紅麗亜ちゃんを羽交い締めにして、ほだか先生の体から引き剥がそうとする──が、あまりの力強さに気負けする。それでも、なんとか紅麗亜ちゃんをほだか先生から引き剥がすことに成功。咳き込むほだか先生の背中を摩る。
「大丈夫ですか、ほだか先生!?」
「ええ、僕の方はなにも。少し、首を絞められただけです」
ぞわりっ──寒気がした。
「首を絞められたって、一体なにが……」
「断りました」
「え?」
「だから、断りました。髪を、染めることを」
ほだか先生は着崩れた着物を整えながら、壁に背凭れガタガタと体を震わせている紅麗亜ちゃんを見つめる。
「時上さん、前回染めてからまだ数日しか経っていません。髪を染めることは否定しません……ですが、」
「……髪の痛みがどうって、またそうやっていつもみたいに誤魔化すつもりですか?」
紅麗亜ちゃんは、幽鬼のように体を揺らしながら、ほだか先生へと歩み出そうとする。
「もう、やめてくださいよ……そういうの……嘘つかないでください……私が鬱陶しいから消えてほしいだけなんだ……私のことを頭のおかしい女だって、心の中でそう思ってるんでしょッ!?」
瞳孔を開き、目を血走らせ、髪を振り乱し発狂する紅麗亜ちゃん。もはや、正気ではなかった。
「紅麗亜ちゃんっ、もうやめてッ!」
「……なんですか、結衣先輩。まさか、あなたも彼と同じことを」
「そうじゃなくてっ、紅麗亜ちゃん……もう、こんなこと止めようよ……」
「こんな、こと?」
わたしは、ギリギリまで迷った。でもやはり、言わざるを得ないと、心が叫んでいた。だから、言うことにした。
「紅麗亜ちゃんの髪は……白くなんかなってない。今も昔も、ずっと黒のまま。だから、ぜんぶ紅麗亜ちゃんの思い込みで、勘違いだよっ!」
先日だ。わたしは、店長からその事実を打ち明けられた。
──紅麗亜の髪については、俺も前々から知っていた。というのも、あいつが面接のとき「病気で髪が真っ白になるときがあるかもしれませんが、それでもよかったら」って言ってたからな。最初はなにかの冗談かと思ったけど、バイトも空きがあったからとりあえず雇ったんだ。本当にそんなこともあるのかって、好奇心も少しはあったがな……。
だけど、そんなこと一度もなかった。それは一緒に働いてた如月がよく知っているよな? でな、あるとき冗談のつもりで言っちまったんだ。『毎月、白髪染めしてんのか?』って……え? 最低? まあ、そうだけどよぉ……でも、仕方ねえだろ。そのときは、あれは紅麗亜の単なる冗談だって思い込んでたんだからさ。
話を戻すけど、紅麗亜が「昨日染めたばかりなんです」って、嬉しそうに言うんだ。でもそのうち、いきなり泣き出してな……。
それから、昔のことをいろいろと教えてくれたよ……なんでも、父親は重度のアル中で紅麗亜が小学生のとき肝臓を壊して亡くなったらしい。母親も似たり寄ったりで、父親の遺産を食い潰して毎晩呑み歩いてたとか……悲惨だよな。
家庭がそんなもんだから、紅麗亜自身も当時は相当荒れてたみたいだ。中学時代は地元の先輩たちと毎日遊び回ってたんだと。そん時だったらしい。髪を、真っ白に染めだしたのは。え? 染めるんじゃなくて脱色? いやどっちでもいいが、最初は遊び半分だったらしいけど、先輩もみんな同じようにしてるからって、あいつもマネしてたんだとよ。
協調性ってやつだな。まわりと同じことをしないと、仲間外れにされる。特に紅麗亜は、そういった繋がりに執着してたんだろうな……俺も分かるんだ、その気持ち。
俺も小山とそういった関係になるまでは、周りの奴らと同じように普通の女と恋愛して、普通に生きないといけないとか、そういった世間の常識に併せてな……は? それとこれとは話が別? いや同じだろ。俺たちはみんな、協調性っていう誰が決めたのかも分からないルールに縛られて生きているんだ。
紅麗亜もそうだろ。あいつの普通は、そもそもが俺たちの普通とは違ったんだ。両親に愛されてて、家に帰ったらあったかい飯が用意されてて、明日の心配なんかしなくていい。そんな普通が、紅麗亜にはなかった。あいつにとっては、異常な日常こそが普通。だったら、その異常な日常に併せて生きていくしかない。そこからあぶれたら、本当に行き場を失ってしまうから。
だから俺たちみたいな人種は、いつも王子さまを待ってんだよ……無償の愛で、優しく包み込んでくれて、違う世界へ連れてってくれる。そんな、王子さまの存在をよ……で、出会っちまったんだとよ。その、『彼』ってやつに。
その日はいきなり雨が降ってきて、紅麗亜がバス停で雨宿りをしているときだったらしい。で、その『彼』が傘を貸してくれたんだとよ。それから、バス停で鉢合うたびに話すようになって、いろいろと話したらしい。今の自分がいるのは、そいつのおかげなんだとよ。「あの人に救われたんです」だとさ。素敵な話じゃねーか。
その後は髪を黒に戻して、学校にも通い出して、なんだかんだ楽しくやってたみたいだ……彼と、出会えなくなるまでは。ある時から、バス停に姿を現さなくなったらしい。
そいつはなんでも美容関係の男らしくてな、確か実家も美容室で……深沢にある、だったかな? まあ、そのへんのことはよく分からないが、とにかく紅麗亜はその現実を受け止めきれなくて、例のアレの始まった。なぜか、髪が白くなるようになった。
もちろん、全ては紅麗亜の思い込みからくる問題なんだろう……こっそり、あいつの両親に連絡して確認もとったが、やっぱり家でもあの調子なんだとよ。精神が不安定になると、「髪が白くなった」と取り乱しちまうみたいだ。今じゃあ、遊び呆けていた親ですら心配する程だよ──
これが真実。紅麗亜ちゃんの髪は、やはり黒のままだった。それは今現在にしても、この前のことにしてもそうだ。全ては、紅麗亜ちゃんの思い込みからくる勘違いに過ぎない。『彼』という、紅麗亜ちゃんにとって最も大切だった存在に会えなくなったショックから、この悲しい連鎖は始まってしまった。
そして、紅麗亜ちゃんがこの「カクリヨ美容室」へわざわざ髪を染めに来ている理由──それこそ大好きな『彼』と会うため、そうだったのだろう。
当時の『彼』が、どんな風だったかは分からない。だけど多分、素敵な人だったのだろう。決して楽しくはない話を静かに聞いてくれて、つらくて泣きそうなときは優しく微笑み慰めてくれて、傷つき弱った心を無償の愛で包み込んでくれる──黄昏の名を持つ彼に、彼女もまた魅力されてしまっただけ。
「(紅麗亜ちゃんを救ったのは……ほだか先生のことだったんだ)」
彼は、魔性のような魅力を持っている。性格も良くて、美しくて、美容師で。それら完璧さが、今回に至っては悪い方向へ傾いてしまった。
美味しいお菓子も、食べすぎると糖尿病になる。便利な車だって、乗ってばかりだと運動不足になる。スマホやゲームにしても、やり過ぎは心と体に毒なのだ。そして人を好きになる気持ちも、一歩間違えれば恐ろしいことになる──今しがた首を絞められたばかりのほだか先生がその被害者だ。人を狂わせる恋の力。自制は、きっと難しい。
もしもわたしが紅麗亜ちゃんと同じような状況だったら、同じことになっていたかもしれない。わたしはただ、運が良かっただけ。もしくは、わたしの真っ正直な性格がそうさせたのか。いずれにせよ、このままにはしておけない。
「紅麗亜ちゃん、もう止めよ。一回、ちゃんと話し合おうよ」
ね? とわたしは紅麗亜ちゃんへと笑いかける。お次にほだか先生へ。でも、わたしの声はどうも届いていない。
「なんで……」
紅麗亜ちゃんは青白くなった顔を両手で覆い隠し、嗚咽を出して泣き出した。
「誰も、信じてくれない……誰も、私のことをちゃんと見てくれない……なんで、どうして……」
「紅麗亜ちゃん」
わたしは紅麗亜ちゃんへ近寄ろうとするが──
「来ないで!」
突き飛ばされる。ほだか先生が背中を支えてくれなければ、倒れるところだった。紅麗亜ちゃんはそんなわたしたちを恨めしそうに睨みつけ、店を飛び出していった──と、ほだか先生は小さくなっていく紅麗亜ちゃんの背中を見送りながら、突然。
「黙っていて、申し訳ありません」
それは、何に対しての謝罪なのか。
「時上さんの髪が白く見えていたのは、事実なんです」
え──
「いや、でも……だって、え? では、ほだか先生の目には、白く見えていた……そういうことですか?」
ほだか先生は頷いた。
「今回は些か特殊な事例、生き霊と呼ばれるものです」
「生き霊!?」
聞いたことがある。確か、あれだ。他人の妬む執念のような感情が、霊体と化して他人へ取り憑いてしまう。昔、心霊特番なんかでやっている心霊写真鑑定で、「この写真に写っている白いモヤは、生き霊。そしてこの写真に写っている彼は、親族の誰かに恨まれています」という、心霊話。
「じゃあ、紅麗亜ちゃんは……生きている誰かに呪われていた?」
「そういうケースもありますが、今回は違います。時上さんに元から備わっている霊力と、彼女の強い念が混じり合ってしまった結果として、このような事態を招いてしまった」
「霊力って、紅麗亜ちゃんにですか?」
ほだか先生は頷きながら、
「結衣くんと、同じものですよ。守護霊の齎す、霊力。その魂自体は清らかに浄化されていますが、死して尚紡がれる一族の想いが、時上さんにも備わっていた。ただ今回は、結衣くんと真逆のことが起こってしまった」
真逆?
「本来、彼女を悪しきものから守るべき守護霊の力が、彼女の強い願いを汲み取り、逆に悪夢を見せています」
「! そ、そんなことって……」
「悪気はないんです。ただ、それ以上に、時上さんの気持ちが強過ぎます……それにこれは、決して悪い力ではありません。だから手出しができない。時上さん自身が、心の闇を取り払わないことには……悪夢は、永遠と続く」
その言葉、真実に、わたしの心は打ち砕かれてしまう。頭が真っ白となりかけていた。
「じゃあ……わたしが、勝手な勘違いをして……わたし、なんてことを」
ほだか先生は悲しそうに顔をしかめて、首を横に振りながら言った。
「そうではありません。結衣くんの目に映っていたもの、それもまた真実。むしろ、僕のような感覚の持ち主の方が、異端なんですよ……そして、それら真実を知っておきながら伝えなかったのは、僕の選択です。僕が、悪かったんです」
「! ほだか先生は、なにも悪くありません! わたしが……わたしがいけないんです。ほだか先生が、紅麗亜ちゃんのためを思ってしていたことを、わたしが──」
「それこそ勘違いですよ。結衣くんが僕のことをどう見ているかは知りませんが……僕は決して、人に褒められるような人間ではありません」
いや、それこそ絶対に違う。断言できる。
カクリヨ美容室を訪れる人たちは皆、傷ついている。常識に塗れたこの世界で、正論という弾丸に心と体を蜂の巣にされ、それでも真っ当に生きねばと、よろけながらも歩き続けていた。そんなにもギリギリの瀬戸際の先に、ほだか先生は待っていてくれる。その優しさに、みんな救われている。三觜のときにしても、紅麗亜ちゃんにしてもそうなのだろう。
紅麗亜ちゃんにとって、ほだか先生こそが最後の心の砦だった。例え真っ当に生きているように見えていても、それは彼の存在があるからこそ。「もう会えないかもしれない」という想いが、彼女に再び悪夢を見せた。その悪夢から逃れたくて、彼に会いに来ていた。
白髪を染めるという、そんな妄想を口実に。ほだか先生とて、最初は困ったことだろう。でも、なにも言い出せなかった。きっと、そんなことをしたら、紅麗亜ちゃんの心が壊れてしまうと分かっていたから。
ほら、やっぱりほだか先生は人に褒められることをしてるじゃないか。悪くない。悪いのは、なにも知らないくせに勝手なことをしたわたしだ。
「わたし、紅麗亜ちゃんを追いかけます!」
言うが早かった。わたしは、紅麗亜ちゃんの後を追って店を飛び出そうとして──咄嗟に、入り口の傘立てからその傘を抜き取った。ほだか先生がわたしの名前を呼んでいる。また「待って!」とも。でもごめんなさい、行かせてください。わたしは心の中で、そう言うのが限界だった。
いつも通り、学校帰りに「やまか深沢店」でお買い物。「カクリヨ美容室」の扉に手をかけた、直後のことだった。室内から、女性ものの金切り声が聞こえてきた。聞き覚えのある声だった。
「これ以上染められないって、それどういう意味ですかッ!? ちゃんと見てください! この前、雨に濡れたんですよッ!? それできっと、色が抜けてしまったんです! お金はちゃんと払いますから、だから──」
「ちょっ、紅麗亜ちゃん! 落ち着いて!」
扉を開けると、案の定その声の主は紅麗亜ちゃん。そしてあろうことか、ほだか先生に掴みかかっていた。
わたしは紅麗亜ちゃんを羽交い締めにして、ほだか先生の体から引き剥がそうとする──が、あまりの力強さに気負けする。それでも、なんとか紅麗亜ちゃんをほだか先生から引き剥がすことに成功。咳き込むほだか先生の背中を摩る。
「大丈夫ですか、ほだか先生!?」
「ええ、僕の方はなにも。少し、首を絞められただけです」
ぞわりっ──寒気がした。
「首を絞められたって、一体なにが……」
「断りました」
「え?」
「だから、断りました。髪を、染めることを」
ほだか先生は着崩れた着物を整えながら、壁に背凭れガタガタと体を震わせている紅麗亜ちゃんを見つめる。
「時上さん、前回染めてからまだ数日しか経っていません。髪を染めることは否定しません……ですが、」
「……髪の痛みがどうって、またそうやっていつもみたいに誤魔化すつもりですか?」
紅麗亜ちゃんは、幽鬼のように体を揺らしながら、ほだか先生へと歩み出そうとする。
「もう、やめてくださいよ……そういうの……嘘つかないでください……私が鬱陶しいから消えてほしいだけなんだ……私のことを頭のおかしい女だって、心の中でそう思ってるんでしょッ!?」
瞳孔を開き、目を血走らせ、髪を振り乱し発狂する紅麗亜ちゃん。もはや、正気ではなかった。
「紅麗亜ちゃんっ、もうやめてッ!」
「……なんですか、結衣先輩。まさか、あなたも彼と同じことを」
「そうじゃなくてっ、紅麗亜ちゃん……もう、こんなこと止めようよ……」
「こんな、こと?」
わたしは、ギリギリまで迷った。でもやはり、言わざるを得ないと、心が叫んでいた。だから、言うことにした。
「紅麗亜ちゃんの髪は……白くなんかなってない。今も昔も、ずっと黒のまま。だから、ぜんぶ紅麗亜ちゃんの思い込みで、勘違いだよっ!」
先日だ。わたしは、店長からその事実を打ち明けられた。
──紅麗亜の髪については、俺も前々から知っていた。というのも、あいつが面接のとき「病気で髪が真っ白になるときがあるかもしれませんが、それでもよかったら」って言ってたからな。最初はなにかの冗談かと思ったけど、バイトも空きがあったからとりあえず雇ったんだ。本当にそんなこともあるのかって、好奇心も少しはあったがな……。
だけど、そんなこと一度もなかった。それは一緒に働いてた如月がよく知っているよな? でな、あるとき冗談のつもりで言っちまったんだ。『毎月、白髪染めしてんのか?』って……え? 最低? まあ、そうだけどよぉ……でも、仕方ねえだろ。そのときは、あれは紅麗亜の単なる冗談だって思い込んでたんだからさ。
話を戻すけど、紅麗亜が「昨日染めたばかりなんです」って、嬉しそうに言うんだ。でもそのうち、いきなり泣き出してな……。
それから、昔のことをいろいろと教えてくれたよ……なんでも、父親は重度のアル中で紅麗亜が小学生のとき肝臓を壊して亡くなったらしい。母親も似たり寄ったりで、父親の遺産を食い潰して毎晩呑み歩いてたとか……悲惨だよな。
家庭がそんなもんだから、紅麗亜自身も当時は相当荒れてたみたいだ。中学時代は地元の先輩たちと毎日遊び回ってたんだと。そん時だったらしい。髪を、真っ白に染めだしたのは。え? 染めるんじゃなくて脱色? いやどっちでもいいが、最初は遊び半分だったらしいけど、先輩もみんな同じようにしてるからって、あいつもマネしてたんだとよ。
協調性ってやつだな。まわりと同じことをしないと、仲間外れにされる。特に紅麗亜は、そういった繋がりに執着してたんだろうな……俺も分かるんだ、その気持ち。
俺も小山とそういった関係になるまでは、周りの奴らと同じように普通の女と恋愛して、普通に生きないといけないとか、そういった世間の常識に併せてな……は? それとこれとは話が別? いや同じだろ。俺たちはみんな、協調性っていう誰が決めたのかも分からないルールに縛られて生きているんだ。
紅麗亜もそうだろ。あいつの普通は、そもそもが俺たちの普通とは違ったんだ。両親に愛されてて、家に帰ったらあったかい飯が用意されてて、明日の心配なんかしなくていい。そんな普通が、紅麗亜にはなかった。あいつにとっては、異常な日常こそが普通。だったら、その異常な日常に併せて生きていくしかない。そこからあぶれたら、本当に行き場を失ってしまうから。
だから俺たちみたいな人種は、いつも王子さまを待ってんだよ……無償の愛で、優しく包み込んでくれて、違う世界へ連れてってくれる。そんな、王子さまの存在をよ……で、出会っちまったんだとよ。その、『彼』ってやつに。
その日はいきなり雨が降ってきて、紅麗亜がバス停で雨宿りをしているときだったらしい。で、その『彼』が傘を貸してくれたんだとよ。それから、バス停で鉢合うたびに話すようになって、いろいろと話したらしい。今の自分がいるのは、そいつのおかげなんだとよ。「あの人に救われたんです」だとさ。素敵な話じゃねーか。
その後は髪を黒に戻して、学校にも通い出して、なんだかんだ楽しくやってたみたいだ……彼と、出会えなくなるまでは。ある時から、バス停に姿を現さなくなったらしい。
そいつはなんでも美容関係の男らしくてな、確か実家も美容室で……深沢にある、だったかな? まあ、そのへんのことはよく分からないが、とにかく紅麗亜はその現実を受け止めきれなくて、例のアレの始まった。なぜか、髪が白くなるようになった。
もちろん、全ては紅麗亜の思い込みからくる問題なんだろう……こっそり、あいつの両親に連絡して確認もとったが、やっぱり家でもあの調子なんだとよ。精神が不安定になると、「髪が白くなった」と取り乱しちまうみたいだ。今じゃあ、遊び呆けていた親ですら心配する程だよ──
これが真実。紅麗亜ちゃんの髪は、やはり黒のままだった。それは今現在にしても、この前のことにしてもそうだ。全ては、紅麗亜ちゃんの思い込みからくる勘違いに過ぎない。『彼』という、紅麗亜ちゃんにとって最も大切だった存在に会えなくなったショックから、この悲しい連鎖は始まってしまった。
そして、紅麗亜ちゃんがこの「カクリヨ美容室」へわざわざ髪を染めに来ている理由──それこそ大好きな『彼』と会うため、そうだったのだろう。
当時の『彼』が、どんな風だったかは分からない。だけど多分、素敵な人だったのだろう。決して楽しくはない話を静かに聞いてくれて、つらくて泣きそうなときは優しく微笑み慰めてくれて、傷つき弱った心を無償の愛で包み込んでくれる──黄昏の名を持つ彼に、彼女もまた魅力されてしまっただけ。
「(紅麗亜ちゃんを救ったのは……ほだか先生のことだったんだ)」
彼は、魔性のような魅力を持っている。性格も良くて、美しくて、美容師で。それら完璧さが、今回に至っては悪い方向へ傾いてしまった。
美味しいお菓子も、食べすぎると糖尿病になる。便利な車だって、乗ってばかりだと運動不足になる。スマホやゲームにしても、やり過ぎは心と体に毒なのだ。そして人を好きになる気持ちも、一歩間違えれば恐ろしいことになる──今しがた首を絞められたばかりのほだか先生がその被害者だ。人を狂わせる恋の力。自制は、きっと難しい。
もしもわたしが紅麗亜ちゃんと同じような状況だったら、同じことになっていたかもしれない。わたしはただ、運が良かっただけ。もしくは、わたしの真っ正直な性格がそうさせたのか。いずれにせよ、このままにはしておけない。
「紅麗亜ちゃん、もう止めよ。一回、ちゃんと話し合おうよ」
ね? とわたしは紅麗亜ちゃんへと笑いかける。お次にほだか先生へ。でも、わたしの声はどうも届いていない。
「なんで……」
紅麗亜ちゃんは青白くなった顔を両手で覆い隠し、嗚咽を出して泣き出した。
「誰も、信じてくれない……誰も、私のことをちゃんと見てくれない……なんで、どうして……」
「紅麗亜ちゃん」
わたしは紅麗亜ちゃんへ近寄ろうとするが──
「来ないで!」
突き飛ばされる。ほだか先生が背中を支えてくれなければ、倒れるところだった。紅麗亜ちゃんはそんなわたしたちを恨めしそうに睨みつけ、店を飛び出していった──と、ほだか先生は小さくなっていく紅麗亜ちゃんの背中を見送りながら、突然。
「黙っていて、申し訳ありません」
それは、何に対しての謝罪なのか。
「時上さんの髪が白く見えていたのは、事実なんです」
え──
「いや、でも……だって、え? では、ほだか先生の目には、白く見えていた……そういうことですか?」
ほだか先生は頷いた。
「今回は些か特殊な事例、生き霊と呼ばれるものです」
「生き霊!?」
聞いたことがある。確か、あれだ。他人の妬む執念のような感情が、霊体と化して他人へ取り憑いてしまう。昔、心霊特番なんかでやっている心霊写真鑑定で、「この写真に写っている白いモヤは、生き霊。そしてこの写真に写っている彼は、親族の誰かに恨まれています」という、心霊話。
「じゃあ、紅麗亜ちゃんは……生きている誰かに呪われていた?」
「そういうケースもありますが、今回は違います。時上さんに元から備わっている霊力と、彼女の強い念が混じり合ってしまった結果として、このような事態を招いてしまった」
「霊力って、紅麗亜ちゃんにですか?」
ほだか先生は頷きながら、
「結衣くんと、同じものですよ。守護霊の齎す、霊力。その魂自体は清らかに浄化されていますが、死して尚紡がれる一族の想いが、時上さんにも備わっていた。ただ今回は、結衣くんと真逆のことが起こってしまった」
真逆?
「本来、彼女を悪しきものから守るべき守護霊の力が、彼女の強い願いを汲み取り、逆に悪夢を見せています」
「! そ、そんなことって……」
「悪気はないんです。ただ、それ以上に、時上さんの気持ちが強過ぎます……それにこれは、決して悪い力ではありません。だから手出しができない。時上さん自身が、心の闇を取り払わないことには……悪夢は、永遠と続く」
その言葉、真実に、わたしの心は打ち砕かれてしまう。頭が真っ白となりかけていた。
「じゃあ……わたしが、勝手な勘違いをして……わたし、なんてことを」
ほだか先生は悲しそうに顔をしかめて、首を横に振りながら言った。
「そうではありません。結衣くんの目に映っていたもの、それもまた真実。むしろ、僕のような感覚の持ち主の方が、異端なんですよ……そして、それら真実を知っておきながら伝えなかったのは、僕の選択です。僕が、悪かったんです」
「! ほだか先生は、なにも悪くありません! わたしが……わたしがいけないんです。ほだか先生が、紅麗亜ちゃんのためを思ってしていたことを、わたしが──」
「それこそ勘違いですよ。結衣くんが僕のことをどう見ているかは知りませんが……僕は決して、人に褒められるような人間ではありません」
いや、それこそ絶対に違う。断言できる。
カクリヨ美容室を訪れる人たちは皆、傷ついている。常識に塗れたこの世界で、正論という弾丸に心と体を蜂の巣にされ、それでも真っ当に生きねばと、よろけながらも歩き続けていた。そんなにもギリギリの瀬戸際の先に、ほだか先生は待っていてくれる。その優しさに、みんな救われている。三觜のときにしても、紅麗亜ちゃんにしてもそうなのだろう。
紅麗亜ちゃんにとって、ほだか先生こそが最後の心の砦だった。例え真っ当に生きているように見えていても、それは彼の存在があるからこそ。「もう会えないかもしれない」という想いが、彼女に再び悪夢を見せた。その悪夢から逃れたくて、彼に会いに来ていた。
白髪を染めるという、そんな妄想を口実に。ほだか先生とて、最初は困ったことだろう。でも、なにも言い出せなかった。きっと、そんなことをしたら、紅麗亜ちゃんの心が壊れてしまうと分かっていたから。
ほら、やっぱりほだか先生は人に褒められることをしてるじゃないか。悪くない。悪いのは、なにも知らないくせに勝手なことをしたわたしだ。
「わたし、紅麗亜ちゃんを追いかけます!」
言うが早かった。わたしは、紅麗亜ちゃんの後を追って店を飛び出そうとして──咄嗟に、入り口の傘立てからその傘を抜き取った。ほだか先生がわたしの名前を呼んでいる。また「待って!」とも。でもごめんなさい、行かせてください。わたしは心の中で、そう言うのが限界だった。
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