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3 香り(1)
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土曜日の朝、会社が休みで本当によかったと思ったのは、働きだして今日が初めてだ。
社長室からの眺めも、黒ヒョウの人が社長だったことも忘れようと思った。
そして、公園でのことも――
「公園……」
無防備に眠る姿、おにぎりを食べた時に笑った顔を思い出し、乾いた布巾を握って、しばらく動けなかった
宮ノ入から申し込まれたお見合いは、私に伝えられることはなく、父も継母も話題を避けているように思えた。
きっと心の中では、なんとしてでも私ではなく、梨沙と結婚させたいと考えているはずだ。
私にお見合いの話が来ただけで、家の中はピリピリしているのに、これがもし、結婚なんて話になったら、どんな嫌がらせが待っているかわからない。
ゾッとして、背筋が寒くなった。
「忘れよう……。それに断ったんだから、向こうは私に興味がなくなったはずよ」
――宮ノ入グループの社長ともなれば、相手に困ってないだろうし。
現に先輩たちは襟のご飯粒だけで、盛り上がっていたのだから。
そう思いながら、掃除をしていると、梨沙がキッチンに入ってきた。
「美桜~。パンを作って。明日の朝はパンが食べたいの。でも、買ってきたのじゃなくて、手作りにしてよ」
「わかりました」
梨沙はパンを作るのが大変だと思っているけど、ホームベーカリーという文明の利器がある。
パンの材料を入れておけば、朝には焼き立てパンが出来上がっているというわけです。
これくらいは、まだ嫌がらせのうちにも入らない。
「ねえ、美桜。宮ノ入さんって知っている?」
「いいえ」
一瞬、ドキッとしたけど、いつもの無表情を心がけた。
何年間もやってきたから、今回もうまく自分の動揺を隠せたと思う。
「そう……? ならいいわ」
私の顔を眺めて、少しの間、怪しんでいたけど、納得してくれたようで、リビングでネイルを塗ってる継母に、梨沙が報告する。
「宮ノ入さんのこと知らないって~」
「本当に?」
「美桜が働いているのって、小さい会社でしょ。出会うこともないと思うわ」
「確かにそうね」
私の就職先について、二人は誤解している。
父のほうは、私に興味はなく、知らないけど、私が大学の就職活動をしていた先は、宮ノ入ではなく、取引先の扇田工業。
そこで声をかけられ、なにかの縁だと思って、宮ノ入グループを受けたのが、入社のきっかけだ。
だから、二人は私が扇田工業で働いていると思っている。
その時もさんざん、沖重よりも小さい会社だと笑って、大喜びしていた。
二人はそれで油断して、私の実際の就職先を確認しないまま、今に至る。
「向こうの勘違いかしら。他の家のお嬢さんと間違えたのかもしれないわ」
「それでもいいの! これはチャンスだもん。宮ノ入グループの社長夫人なんて、夢みたーい!」
まだ結婚も決まってないうちから、すでに梨沙の気持ちは社長夫人。
梨沙は自信があるようで、ずっと機嫌がいい。
「梨沙。お父様も宮ノ入さんとの結婚は賛成よ。宮ノ入グループの資金力は魅力的だとおっしゃっていたわ」
最近、沖重グループの経営はうまくいっていない。
父が継母に頭があがらないのも、継母の実家の銀行に助けられているから。
父は無理にでもこの話は進めていくはずだ。
「お父様がお食事に、宮ノ入さんを誘ったって聞いたわ。新しい洋服とバッグが欲しいんだけど~」
「いいわよ。それじゃあ、今から買いに行きましょ」
――お食事会。
それを聞いて、私は拍子抜けした。
梨沙と会うんだと知って、やっぱり昨日のあれは夢だったんじゃないかなって思った。
二人はでかけるのか、慌ただしい雰囲気が伝わってくる。
「そうよね。どう考えても、私を気に入るなんてあり得ないわ。からかわれただけかも……」
窓拭きをしていると、自分の顔が窓に映る。
いつもの無表情が崩れ、どこか苦しそうな顔をしていた。
ここから出ていけるんじゃないかなって、ほんの少しだけ期待してしまった。
好きとか嫌いとかではなく、私は誰かにここから、連れ出してほしいと思って願っただけ。
自分の顔を見ていたくなくて、窓吹きを止め、他の家事をすることに決めた。
私が窓から離れた瞬間、インターフォンが鳴り、玄関まで小走りで出て行く。
「はい」
玄関のドアを開けると、家の前にベンツが見えた。
ここは高級住宅地だから、ベンツも珍しくないけれど、門の前にどーんと止めて、不遜な態度で立っていたのは、噂の人、宮ノ入社長だった。
「えっ?」
考えるより先に体が動いて、バンッと玄関のドアを閉めていた。
「今のはなに? 目の錯覚かも……?」
私の目の錯覚じゃない証拠に、玄関の窓ガラスから、ばっちりベンツが見える。
玄関のドアをもう一度開けると、私を見て、不機嫌そうな顔をしている。
「おい、挨拶もなくドアを閉めるなよ」
呆れた様子でこっちを見てくる。
「な、な、なにしにきたんですか?」
借金の取り立てより、威圧感がある。
まだヤクザのほうが可愛いのではと思うくらいだ。
次にドアを閉じたら、喉元に食らいつかれるかもしれないと思って、ドアを数センチ開け、顔半分で向こう側を見る。
「おにぎりのお礼を持ってきた」
「お礼? お礼なんて結構です。あれはっ……」
私の声が聞こえたのか、継母の声がした。
「美桜さん、なにかの勧誘なの? うまくことわってちょうだいよ!」
出かける準備をしている二人は、まだ玄関にまで出てこないけど、いつ出てくるかわからない。
私は息を吸い込み、小声で宮ノ入社長に言った。
「すみません。裏に回ってもらってもよろしいでしょうか?」
こんなこと社長にお願いするのも、おかしな話だけど、継母に見つかると面倒なことになる。
「わかった。直真が裏から訪問したほうがいいみたいなことを言ってたな」
いったい何者なのか、八木沢さんの配慮は間違っていない。
むしろ、訪問を止めてくれたらよかったのだ。
こんな正々堂々、真正面から来てもらったら困る。
「美桜さん。お客様なの?」
継母の声に、勢いよく玄関のドアを閉め、抑揚のない声で返事をした。
「いいえ」
「なにか話してなかった?」
「宗教の勧誘で、しばらく話を聞いていました。たった今、勧誘の方が、お帰りになられたところです」
「あら、そう。それならいいのよ」
「はい」
継母と梨沙の心の中は、宮ノ入社長とのお食事会で、頭がいっぱいらしく、私のことはどうでもいいようだった。
二人が玄関から出て行く頃には、社長が乗ってきたベンツはなく、バレずに済んで、ホッと胸をなでおろした。
キッチンに戻ると、裏口から社長が現れる。
申し訳ないくらい裏口が似合わない人だった。
きっと私と違って、目立たず地味に、隠れて生きるなんてことを一度もしてこなかったに違いない。
でも、今回だけは、ひっそりしていてもらわなくては……
「誰が宗教の勧誘だ」
私の言い訳を聞いていたようで、とても不満そうだった。
「社長に対して、とても失礼な真似をしているとわかってます。でも、私の立場上、これが精一杯なんです。それに、沖重は梨沙と社長を結婚させたいと思っていて、私には一切、社長のことは知らされてません」
「俺が申し込んだ相手は君だ。名前もきちんと告げた」
社長に非がないことくらいわかっていた。
八木沢さんを代理に立て、私のお見合いの話を沖重の家に持ってきた。
相手が私でなかったら、公園で一目惚れしたという話も納得できたと思う。
「私のどこがよかったのか、わかりません」
「寝顔」
「えっ!? 寝顔って、いつも眠っているのは自分じゃないですかっ!」
「いつも見てたわけだ。俺の寝顔を?」
「ちっ、違います!」
否定しても笑われて、私の嘘はあっさりバレてしまった。
――これは恋じゃないって思いたいのに。
頭の中で危険信号が点滅し、そこから先に行けば、なんとか平穏を保っていた私の生活が、すべて一変してしまうと告げていた。
逃げようとした私に気づき、とんっと壁に手をついて、私を逃がさないよう捕獲する。
そして、後悔した。
――どうして、こんな危険な人を家に入れてしまったのだろう。こうなる可能性もあったのに、私は冷静さを失っていた?
人と関わらないようにしてきたのに、なぜ私は近づいてしまったのか。
それに、久しぶりに人とこんな至近距離にいるような気がする。
「昨日は逃がしたが、今日は逃がさない」
この人は眠っている時は、あんなに穏やかな顔をするのに、実際は獣だ。
狙った獲物の喉笛を食いちぎり、滅茶苦茶にできる人。
それだけの力が、この人にはある。
「み、宮ノ入の力で……私を愛人にでもするつもりですかっ!」
「愛人?」
驚いた顔で私を見る。
「新しいパターンだな。お見合いを申し込み、結婚したいと告げて、そこからの愛人? 謎の思考パターンだ」
「違うんですか?」
「どこの世界に、父親に『娘さんを愛人にください』と申し込みに行く男がいるんだ?」
「どこかにいるかもしれません……」
「いない」
私に短くそう言って顎を掴み、不敵に笑う。
「少なくとも俺は遊びで付き合う時間があるほど、暇な男じゃない」
その顔は宮ノ入グループの社長だった。
公園で見るぼんやりした男の人ではなかった。
ふわりと香る爽やかな香りに、気をとられ、私の唇に彼の唇が重なっていることに気づいたのは数秒後のこと。
「……っ!?」
逃れようにも顎を掴まれていて、顔を背けることさえできなかった。
外見より、ずっと優しいキスが私の抵抗を溶かす。
離れた唇は、私の耳の形をなぞり、息がかかる。
吹きかかる息と唇の感触に、体がぞくぞくして、力が抜けてしまいそうになる。
執拗な唇に、頭の中がぼうっとして、壁に体を滑らせ、床にへたり込む前に大きな手が、私を支えた。
「やりすぎたか」
「……ひ、ひどい……です……!」
「悪い。次回は手加減する」
「次回じゃなくてっ」
体に力が入らないくらいにまでされたことではなく、この行為がひどいと言ったのに、社長はまったくわかってない。
軽々と私の体を抱え、椅子の上に座らせた。
「俺は君に結婚を申し込んだ。愛人ではない」
「はい……」
私をまっすぐ見つめる黒い瞳が、私の否定を奪い去った。
「よし」
頭を優しく撫でて、笑った顔が、私の心を甘く溶かす。
――不思議な人。
思えば、初めてこの人を見た時から、目はいつも彼を追っていた。
人を惹きつける力を持っている。
このまま、私を撫でる大きな手にすがれたら、きっと楽になれる。
そう思った瞬間、頭の中に梨沙と継母が言っていた『お食事会』が思い浮かんだ。
幸せなのは今だけ。
今まで、ずっとそうだった。
私を気にかけてくれる近所の人も、友人も、全部奪われた。
親しくなれば、親しくなるほど、傷は深くて、なかなか立ち直れない――社長から目を逸らし、私は椅子から立ち上がった。
「お茶を淹れますね」
「直真が食べたっていうパウンドケーキを食べたい」
八木沢さんは社長に、お茶菓子の内容まで報告しているのか、おにぎりを渡した時と同じ顔をして、社長は言った。
「すみません。パウンドケーキ、今はなくて。今日の朝、クッキーを焼いたので食べますか?」
「じゃあ、今度」
「今度なんて……」
「ん?」
「わ、わかりました! 今度っ……!」
またキスをされては困ると思い、約束をしてしまった。
「楽しみだな」
――絶対わざとに決まってるっ……!
私が離れようとしても、簡単に手中に絡めとり、今や私の城であるキッチンは、社長に乗っ取られた。
侵略者に紅茶とクッキーを出し、私は手の届かない距離まで遠ざかる。
「俺は猛獣か?」
「自覚してください。かなり危険です」
「おかしいな。いつもより、だいぶ優しいはずだが」
仕事をしている姿を見ているわけじゃないからわからないけど、新社長が発表された時から、株価は上がっていて、評判もいい。
私が思っている以上に、すごい人なのだろう。
父が梨沙と結婚させたいと、考えるくらいには――
「そうだ。おにぎりのお礼を忘れるところだった」
私に手渡してくれたのは、有名ブランドのマークが入った箱。プレゼント用にラッピングされていて、気になったので開けてみた。
「シャネルのハンドクリームとボディクリーム……? こういうのもあるんですね……」
バッグや財布、スーツならともかく、ハイブランドの消耗品を使おうという発想がまずなかった。
「それなら、迷惑にならないだろ?」
「そうですけど、いろいろ考えてくれたんですね」
「実用的なものが、いいって言っていたからな」
その発案者は、間違いなく八木沢さんだろう。
社長と私では、あまりに家庭環境が違いすぎて、きっと想像できない。
それに、シャネルが実用的だと言ってるところで、その感覚、間違ってますよって教えてあげたい。
「気に入ってくれたか?」
継母と梨沙に見つかったら、大騒ぎになることはわかっていた。
だから、本当なら、これは返すべきだった。
でも、さっきまで自信たっぷりな態度だったくせに、私が気に入ったどうかを気にしていて、それでつい受け取ってしまった。
「……ありがとうございます」
私のお礼を聞いて、社長は紅茶を一口飲んだ。
なごやかな空気が流れ、ホッとしたのも束の間。
「結婚は急すぎたかもしれない」
「『かも』じゃなくて、急すぎです」
「だから、お互いもっと知るために、付き合うところから始めよう。こちらは、妥協した」
「妥協……?」
突然、結婚でなく恋人からスタートしようということだろうか。
結婚から、妥協して恋人、
確かにランクダウンさせている。
「そっちも誠意をみせてほしい」
「誠意!? 誠意ならありますけど……」
「よし。恋人からで決定だな」
社長は取引成立とばかりに、満足そうな顔をして、ティーカップを置く。
「それじゃあ、月曜日に。また公園で」
「ま、待って……」
「待てない。今日はこれから仕事だ」
社長は土曜日なのにスーツ姿で、時計に目をやる。
忙しいというのは、本当らしい。
私の次の言葉を聞く間もなく、社長は裏口から出ていった。
社長がいなくなった後、私はしばらく動けなかった。
それは、私のものではない爽やかな香水の名残が、私の頭を混乱させ、いつもの思考を狂わせたせい。
私はきっと彼に勝てない。
もしかして、彼なら私を連れ出してくれる?
継母の嫉妬と憎悪に囚われ、閉じ込められた私を。
期待してはいけないと思いながら、私は香りが消えない間だけ、それを願っていた。
社長室からの眺めも、黒ヒョウの人が社長だったことも忘れようと思った。
そして、公園でのことも――
「公園……」
無防備に眠る姿、おにぎりを食べた時に笑った顔を思い出し、乾いた布巾を握って、しばらく動けなかった
宮ノ入から申し込まれたお見合いは、私に伝えられることはなく、父も継母も話題を避けているように思えた。
きっと心の中では、なんとしてでも私ではなく、梨沙と結婚させたいと考えているはずだ。
私にお見合いの話が来ただけで、家の中はピリピリしているのに、これがもし、結婚なんて話になったら、どんな嫌がらせが待っているかわからない。
ゾッとして、背筋が寒くなった。
「忘れよう……。それに断ったんだから、向こうは私に興味がなくなったはずよ」
――宮ノ入グループの社長ともなれば、相手に困ってないだろうし。
現に先輩たちは襟のご飯粒だけで、盛り上がっていたのだから。
そう思いながら、掃除をしていると、梨沙がキッチンに入ってきた。
「美桜~。パンを作って。明日の朝はパンが食べたいの。でも、買ってきたのじゃなくて、手作りにしてよ」
「わかりました」
梨沙はパンを作るのが大変だと思っているけど、ホームベーカリーという文明の利器がある。
パンの材料を入れておけば、朝には焼き立てパンが出来上がっているというわけです。
これくらいは、まだ嫌がらせのうちにも入らない。
「ねえ、美桜。宮ノ入さんって知っている?」
「いいえ」
一瞬、ドキッとしたけど、いつもの無表情を心がけた。
何年間もやってきたから、今回もうまく自分の動揺を隠せたと思う。
「そう……? ならいいわ」
私の顔を眺めて、少しの間、怪しんでいたけど、納得してくれたようで、リビングでネイルを塗ってる継母に、梨沙が報告する。
「宮ノ入さんのこと知らないって~」
「本当に?」
「美桜が働いているのって、小さい会社でしょ。出会うこともないと思うわ」
「確かにそうね」
私の就職先について、二人は誤解している。
父のほうは、私に興味はなく、知らないけど、私が大学の就職活動をしていた先は、宮ノ入ではなく、取引先の扇田工業。
そこで声をかけられ、なにかの縁だと思って、宮ノ入グループを受けたのが、入社のきっかけだ。
だから、二人は私が扇田工業で働いていると思っている。
その時もさんざん、沖重よりも小さい会社だと笑って、大喜びしていた。
二人はそれで油断して、私の実際の就職先を確認しないまま、今に至る。
「向こうの勘違いかしら。他の家のお嬢さんと間違えたのかもしれないわ」
「それでもいいの! これはチャンスだもん。宮ノ入グループの社長夫人なんて、夢みたーい!」
まだ結婚も決まってないうちから、すでに梨沙の気持ちは社長夫人。
梨沙は自信があるようで、ずっと機嫌がいい。
「梨沙。お父様も宮ノ入さんとの結婚は賛成よ。宮ノ入グループの資金力は魅力的だとおっしゃっていたわ」
最近、沖重グループの経営はうまくいっていない。
父が継母に頭があがらないのも、継母の実家の銀行に助けられているから。
父は無理にでもこの話は進めていくはずだ。
「お父様がお食事に、宮ノ入さんを誘ったって聞いたわ。新しい洋服とバッグが欲しいんだけど~」
「いいわよ。それじゃあ、今から買いに行きましょ」
――お食事会。
それを聞いて、私は拍子抜けした。
梨沙と会うんだと知って、やっぱり昨日のあれは夢だったんじゃないかなって思った。
二人はでかけるのか、慌ただしい雰囲気が伝わってくる。
「そうよね。どう考えても、私を気に入るなんてあり得ないわ。からかわれただけかも……」
窓拭きをしていると、自分の顔が窓に映る。
いつもの無表情が崩れ、どこか苦しそうな顔をしていた。
ここから出ていけるんじゃないかなって、ほんの少しだけ期待してしまった。
好きとか嫌いとかではなく、私は誰かにここから、連れ出してほしいと思って願っただけ。
自分の顔を見ていたくなくて、窓吹きを止め、他の家事をすることに決めた。
私が窓から離れた瞬間、インターフォンが鳴り、玄関まで小走りで出て行く。
「はい」
玄関のドアを開けると、家の前にベンツが見えた。
ここは高級住宅地だから、ベンツも珍しくないけれど、門の前にどーんと止めて、不遜な態度で立っていたのは、噂の人、宮ノ入社長だった。
「えっ?」
考えるより先に体が動いて、バンッと玄関のドアを閉めていた。
「今のはなに? 目の錯覚かも……?」
私の目の錯覚じゃない証拠に、玄関の窓ガラスから、ばっちりベンツが見える。
玄関のドアをもう一度開けると、私を見て、不機嫌そうな顔をしている。
「おい、挨拶もなくドアを閉めるなよ」
呆れた様子でこっちを見てくる。
「な、な、なにしにきたんですか?」
借金の取り立てより、威圧感がある。
まだヤクザのほうが可愛いのではと思うくらいだ。
次にドアを閉じたら、喉元に食らいつかれるかもしれないと思って、ドアを数センチ開け、顔半分で向こう側を見る。
「おにぎりのお礼を持ってきた」
「お礼? お礼なんて結構です。あれはっ……」
私の声が聞こえたのか、継母の声がした。
「美桜さん、なにかの勧誘なの? うまくことわってちょうだいよ!」
出かける準備をしている二人は、まだ玄関にまで出てこないけど、いつ出てくるかわからない。
私は息を吸い込み、小声で宮ノ入社長に言った。
「すみません。裏に回ってもらってもよろしいでしょうか?」
こんなこと社長にお願いするのも、おかしな話だけど、継母に見つかると面倒なことになる。
「わかった。直真が裏から訪問したほうがいいみたいなことを言ってたな」
いったい何者なのか、八木沢さんの配慮は間違っていない。
むしろ、訪問を止めてくれたらよかったのだ。
こんな正々堂々、真正面から来てもらったら困る。
「美桜さん。お客様なの?」
継母の声に、勢いよく玄関のドアを閉め、抑揚のない声で返事をした。
「いいえ」
「なにか話してなかった?」
「宗教の勧誘で、しばらく話を聞いていました。たった今、勧誘の方が、お帰りになられたところです」
「あら、そう。それならいいのよ」
「はい」
継母と梨沙の心の中は、宮ノ入社長とのお食事会で、頭がいっぱいらしく、私のことはどうでもいいようだった。
二人が玄関から出て行く頃には、社長が乗ってきたベンツはなく、バレずに済んで、ホッと胸をなでおろした。
キッチンに戻ると、裏口から社長が現れる。
申し訳ないくらい裏口が似合わない人だった。
きっと私と違って、目立たず地味に、隠れて生きるなんてことを一度もしてこなかったに違いない。
でも、今回だけは、ひっそりしていてもらわなくては……
「誰が宗教の勧誘だ」
私の言い訳を聞いていたようで、とても不満そうだった。
「社長に対して、とても失礼な真似をしているとわかってます。でも、私の立場上、これが精一杯なんです。それに、沖重は梨沙と社長を結婚させたいと思っていて、私には一切、社長のことは知らされてません」
「俺が申し込んだ相手は君だ。名前もきちんと告げた」
社長に非がないことくらいわかっていた。
八木沢さんを代理に立て、私のお見合いの話を沖重の家に持ってきた。
相手が私でなかったら、公園で一目惚れしたという話も納得できたと思う。
「私のどこがよかったのか、わかりません」
「寝顔」
「えっ!? 寝顔って、いつも眠っているのは自分じゃないですかっ!」
「いつも見てたわけだ。俺の寝顔を?」
「ちっ、違います!」
否定しても笑われて、私の嘘はあっさりバレてしまった。
――これは恋じゃないって思いたいのに。
頭の中で危険信号が点滅し、そこから先に行けば、なんとか平穏を保っていた私の生活が、すべて一変してしまうと告げていた。
逃げようとした私に気づき、とんっと壁に手をついて、私を逃がさないよう捕獲する。
そして、後悔した。
――どうして、こんな危険な人を家に入れてしまったのだろう。こうなる可能性もあったのに、私は冷静さを失っていた?
人と関わらないようにしてきたのに、なぜ私は近づいてしまったのか。
それに、久しぶりに人とこんな至近距離にいるような気がする。
「昨日は逃がしたが、今日は逃がさない」
この人は眠っている時は、あんなに穏やかな顔をするのに、実際は獣だ。
狙った獲物の喉笛を食いちぎり、滅茶苦茶にできる人。
それだけの力が、この人にはある。
「み、宮ノ入の力で……私を愛人にでもするつもりですかっ!」
「愛人?」
驚いた顔で私を見る。
「新しいパターンだな。お見合いを申し込み、結婚したいと告げて、そこからの愛人? 謎の思考パターンだ」
「違うんですか?」
「どこの世界に、父親に『娘さんを愛人にください』と申し込みに行く男がいるんだ?」
「どこかにいるかもしれません……」
「いない」
私に短くそう言って顎を掴み、不敵に笑う。
「少なくとも俺は遊びで付き合う時間があるほど、暇な男じゃない」
その顔は宮ノ入グループの社長だった。
公園で見るぼんやりした男の人ではなかった。
ふわりと香る爽やかな香りに、気をとられ、私の唇に彼の唇が重なっていることに気づいたのは数秒後のこと。
「……っ!?」
逃れようにも顎を掴まれていて、顔を背けることさえできなかった。
外見より、ずっと優しいキスが私の抵抗を溶かす。
離れた唇は、私の耳の形をなぞり、息がかかる。
吹きかかる息と唇の感触に、体がぞくぞくして、力が抜けてしまいそうになる。
執拗な唇に、頭の中がぼうっとして、壁に体を滑らせ、床にへたり込む前に大きな手が、私を支えた。
「やりすぎたか」
「……ひ、ひどい……です……!」
「悪い。次回は手加減する」
「次回じゃなくてっ」
体に力が入らないくらいにまでされたことではなく、この行為がひどいと言ったのに、社長はまったくわかってない。
軽々と私の体を抱え、椅子の上に座らせた。
「俺は君に結婚を申し込んだ。愛人ではない」
「はい……」
私をまっすぐ見つめる黒い瞳が、私の否定を奪い去った。
「よし」
頭を優しく撫でて、笑った顔が、私の心を甘く溶かす。
――不思議な人。
思えば、初めてこの人を見た時から、目はいつも彼を追っていた。
人を惹きつける力を持っている。
このまま、私を撫でる大きな手にすがれたら、きっと楽になれる。
そう思った瞬間、頭の中に梨沙と継母が言っていた『お食事会』が思い浮かんだ。
幸せなのは今だけ。
今まで、ずっとそうだった。
私を気にかけてくれる近所の人も、友人も、全部奪われた。
親しくなれば、親しくなるほど、傷は深くて、なかなか立ち直れない――社長から目を逸らし、私は椅子から立ち上がった。
「お茶を淹れますね」
「直真が食べたっていうパウンドケーキを食べたい」
八木沢さんは社長に、お茶菓子の内容まで報告しているのか、おにぎりを渡した時と同じ顔をして、社長は言った。
「すみません。パウンドケーキ、今はなくて。今日の朝、クッキーを焼いたので食べますか?」
「じゃあ、今度」
「今度なんて……」
「ん?」
「わ、わかりました! 今度っ……!」
またキスをされては困ると思い、約束をしてしまった。
「楽しみだな」
――絶対わざとに決まってるっ……!
私が離れようとしても、簡単に手中に絡めとり、今や私の城であるキッチンは、社長に乗っ取られた。
侵略者に紅茶とクッキーを出し、私は手の届かない距離まで遠ざかる。
「俺は猛獣か?」
「自覚してください。かなり危険です」
「おかしいな。いつもより、だいぶ優しいはずだが」
仕事をしている姿を見ているわけじゃないからわからないけど、新社長が発表された時から、株価は上がっていて、評判もいい。
私が思っている以上に、すごい人なのだろう。
父が梨沙と結婚させたいと、考えるくらいには――
「そうだ。おにぎりのお礼を忘れるところだった」
私に手渡してくれたのは、有名ブランドのマークが入った箱。プレゼント用にラッピングされていて、気になったので開けてみた。
「シャネルのハンドクリームとボディクリーム……? こういうのもあるんですね……」
バッグや財布、スーツならともかく、ハイブランドの消耗品を使おうという発想がまずなかった。
「それなら、迷惑にならないだろ?」
「そうですけど、いろいろ考えてくれたんですね」
「実用的なものが、いいって言っていたからな」
その発案者は、間違いなく八木沢さんだろう。
社長と私では、あまりに家庭環境が違いすぎて、きっと想像できない。
それに、シャネルが実用的だと言ってるところで、その感覚、間違ってますよって教えてあげたい。
「気に入ってくれたか?」
継母と梨沙に見つかったら、大騒ぎになることはわかっていた。
だから、本当なら、これは返すべきだった。
でも、さっきまで自信たっぷりな態度だったくせに、私が気に入ったどうかを気にしていて、それでつい受け取ってしまった。
「……ありがとうございます」
私のお礼を聞いて、社長は紅茶を一口飲んだ。
なごやかな空気が流れ、ホッとしたのも束の間。
「結婚は急すぎたかもしれない」
「『かも』じゃなくて、急すぎです」
「だから、お互いもっと知るために、付き合うところから始めよう。こちらは、妥協した」
「妥協……?」
突然、結婚でなく恋人からスタートしようということだろうか。
結婚から、妥協して恋人、
確かにランクダウンさせている。
「そっちも誠意をみせてほしい」
「誠意!? 誠意ならありますけど……」
「よし。恋人からで決定だな」
社長は取引成立とばかりに、満足そうな顔をして、ティーカップを置く。
「それじゃあ、月曜日に。また公園で」
「ま、待って……」
「待てない。今日はこれから仕事だ」
社長は土曜日なのにスーツ姿で、時計に目をやる。
忙しいというのは、本当らしい。
私の次の言葉を聞く間もなく、社長は裏口から出ていった。
社長がいなくなった後、私はしばらく動けなかった。
それは、私のものではない爽やかな香水の名残が、私の頭を混乱させ、いつもの思考を狂わせたせい。
私はきっと彼に勝てない。
もしかして、彼なら私を連れ出してくれる?
継母の嫉妬と憎悪に囚われ、閉じ込められた私を。
期待してはいけないと思いながら、私は香りが消えない間だけ、それを願っていた。
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