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3 香り(1)

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 土曜日の朝、会社が休みで本当によかったと思ったのは、働きだして今日が初めてだ。
 社長室からの眺めも、黒ヒョウの人が社長だったことも忘れようと思った。
 そして、公園でのことも――

「公園……」

 無防備に眠る姿、おにぎりを食べた時に笑った顔を思い出し、乾いた布巾を握って、しばらく動けなかった
 宮ノ入みやのいりから申し込まれたお見合いは、私に伝えられることはなく、父も継母も話題を避けているように思えた。
 きっと心の中では、なんとしてでも私ではなく、梨沙りさと結婚させたいと考えているはずだ。
 私にお見合いの話が来ただけで、家の中はピリピリしているのに、これがもし、結婚なんて話になったら、どんな嫌がらせが待っているかわからない。
 ゾッとして、背筋が寒くなった。

「忘れよう……。それに断ったんだから、向こうは私に興味がなくなったはずよ」

 ――宮ノ入グループの社長ともなれば、相手に困ってないだろうし。
 
 現に先輩たちは襟のご飯粒だけで、盛り上がっていたのだから。
 そう思いながら、掃除をしていると、梨沙がキッチンに入ってきた。

「美桜~。パンを作って。明日の朝はパンが食べたいの。でも、買ってきたのじゃなくて、手作りにしてよ」 
「わかりました」

 梨沙はパンを作るのが大変だと思っているけど、ホームベーカリーという文明の利器がある。
 パンの材料を入れておけば、朝には焼き立てパンが出来上がっているというわけです。
 これくらいは、まだ嫌がらせのうちにも入らない。

「ねえ、美桜。宮ノ入さんって知っている?」
「いいえ」

 一瞬、ドキッとしたけど、いつもの無表情を心がけた。
 何年間もやってきたから、今回もうまく自分の動揺を隠せたと思う。

「そう……? ならいいわ」  

 私の顔を眺めて、少しの間、怪しんでいたけど、納得してくれたようで、リビングでネイルを塗ってる継母に、梨沙が報告する。

「宮ノ入さんのこと知らないって~」
「本当に?」
「美桜が働いているのって、小さい会社でしょ。出会うこともないと思うわ」
「確かにそうね」

 私の就職先について、二人は誤解している。
 父のほうは、私に興味はなく、知らないけど、私が大学の就職活動をしていた先は、宮ノ入ではなく、取引先の扇田おおぎだ工業。 
 そこで声をかけられ、なにかの縁だと思って、宮ノ入グループを受けたのが、入社のきっかけだ。
 だから、二人は私が扇田工業で働いていると思っている。
 その時もさんざん、沖重よりも小さい会社だと笑って、大喜びしていた。
 二人はそれで油断して、私の実際の就職先を確認しないまま、今に至る。

「向こうの勘違いかしら。他の家のお嬢さんと間違えたのかもしれないわ」
「それでもいいの! これはチャンスだもん。宮ノ入グループの社長夫人なんて、夢みたーい!」
 
 まだ結婚も決まってないうちから、すでに梨沙の気持ちは社長夫人。
 梨沙は自信があるようで、ずっと機嫌がいい。

「梨沙。お父様も宮ノ入さんとの結婚は賛成よ。宮ノ入グループの資金力は魅力的だとおっしゃっていたわ」

 最近、沖重グループの経営はうまくいっていない。
 父が継母に頭があがらないのも、継母の実家の銀行に助けられているから。
 父は無理にでもこの話は進めていくはずだ。

「お父様がお食事に、宮ノ入さんを誘ったって聞いたわ。新しい洋服とバッグが欲しいんだけど~」
「いいわよ。それじゃあ、今から買いに行きましょ」

 ――お食事会。

 それを聞いて、私は拍子抜けした。
 梨沙と会うんだと知って、やっぱり昨日のあれは夢だったんじゃないかなって思った。
 二人はでかけるのか、慌ただしい雰囲気が伝わってくる。
 
「そうよね。どう考えても、私を気に入るなんてあり得ないわ。からかわれただけかも……」

 窓拭きをしていると、自分の顔が窓に映る。
 いつもの無表情が崩れ、どこか苦しそうな顔をしていた。
 ここから出ていけるんじゃないかなって、ほんの少しだけ期待してしまった。
 好きとか嫌いとかではなく、私は誰かにここから、連れ出してほしいと思って願っただけ。
 自分の顔を見ていたくなくて、窓吹きを止め、他の家事をすることに決めた。
 私が窓から離れた瞬間、インターフォンが鳴り、玄関まで小走りで出て行く。

「はい」

 玄関のドアを開けると、家の前にベンツが見えた。
 ここは高級住宅地だから、ベンツも珍しくないけれど、門の前にどーんと止めて、不遜な態度で立っていたのは、噂の人、宮ノ入社長だった。
 
「えっ?」

 考えるより先に体が動いて、バンッと玄関のドアを閉めていた。

「今のはなに? 目の錯覚かも……?」

 私の目の錯覚じゃない証拠に、玄関の窓ガラスから、ばっちりベンツが見える。
 玄関のドアをもう一度開けると、私を見て、不機嫌そうな顔をしている。

「おい、挨拶もなくドアを閉めるなよ」

 呆れた様子でこっちを見てくる。

「な、な、なにしにきたんですか?」

 借金の取り立てより、威圧感がある。
 まだヤクザのほうが可愛いのではと思うくらいだ。
 次にドアを閉じたら、喉元に食らいつかれるかもしれないと思って、ドアを数センチ開け、顔半分で向こう側を見る。

「おにぎりのお礼を持ってきた」
「お礼? お礼なんて結構です。あれはっ……」

 私の声が聞こえたのか、継母の声がした。

「美桜さん、なにかの勧誘なの? うまくことわってちょうだいよ!」

 出かける準備をしている二人は、まだ玄関にまで出てこないけど、いつ出てくるかわからない。
 私は息を吸い込み、小声で宮ノ入社長に言った。

「すみません。裏に回ってもらってもよろしいでしょうか?」

 こんなこと社長にお願いするのも、おかしな話だけど、継母に見つかると面倒なことになる。

「わかった。直真なおさだが裏から訪問したほうがいいみたいなことを言ってたな」

 いったい何者なのか、八木沢やぎさわさんの配慮は間違っていない。
 むしろ、訪問を止めてくれたらよかったのだ。
 こんな正々堂々、真正面から来てもらったら困る。 

「美桜さん。お客様なの?」

 継母の声に、勢いよく玄関のドアを閉め、抑揚のない声で返事をした。

「いいえ」
「なにか話してなかった?」
「宗教の勧誘で、しばらく話を聞いていました。たった今、勧誘の方が、お帰りになられたところです」
「あら、そう。それならいいのよ」
「はい」

 継母と梨沙の心の中は、宮ノ入社長とのお食事会で、頭がいっぱいらしく、私のことはどうでもいいようだった。
 二人が玄関から出て行く頃には、社長が乗ってきたベンツはなく、バレずに済んで、ホッと胸をなでおろした。
 キッチンに戻ると、裏口から社長が現れる。
 申し訳ないくらい裏口が似合わない人だった。
 きっと私と違って、目立たず地味に、隠れて生きるなんてことを一度もしてこなかったに違いない。
 でも、今回だけは、ひっそりしていてもらわなくては……

「誰が宗教の勧誘だ」

 私の言い訳を聞いていたようで、とても不満そうだった。

「社長に対して、とても失礼な真似をしているとわかってます。でも、私の立場上、これが精一杯なんです。それに、沖重は梨沙と社長を結婚させたいと思っていて、私には一切、社長のことは知らされてません」
「俺が申し込んだ相手は君だ。名前もきちんと告げた」

 社長に非がないことくらいわかっていた。
 八木沢さんを代理に立て、私のお見合いの話を沖重の家に持ってきた。
 相手が私でなかったら、公園で一目惚れしたという話も納得できたと思う。

「私のどこがよかったのか、わかりません」
「寝顔」
「えっ!? 寝顔って、いつも眠っているのは自分じゃないですかっ!」
「いつも見てたわけだ。俺の寝顔を?」
「ちっ、違います!」

 否定しても笑われて、私の嘘はあっさりバレてしまった。

 ――これは恋じゃないって思いたいのに。

 頭の中で危険信号が点滅し、そこから先に行けば、なんとか平穏を保っていた私の生活が、すべて一変してしまうと告げていた。
 逃げようとした私に気づき、とんっと壁に手をついて、私を逃がさないよう捕獲する。
 そして、後悔した。

 ――どうして、こんな危険な人を家に入れてしまったのだろう。こうなる可能性もあったのに、私は冷静さを失っていた?

 人と関わらないようにしてきたのに、なぜ私は近づいてしまったのか。
 それに、久しぶりに人とこんな至近距離にいるような気がする。

「昨日は逃がしたが、今日は逃がさない」

 この人は眠っている時は、あんなに穏やかな顔をするのに、実際は獣だ。
 狙った獲物の喉笛を食いちぎり、滅茶苦茶にできる人。
 それだけの力が、この人にはある。

「み、宮ノ入の力で……私を愛人にでもするつもりですかっ!」
「愛人?」

 驚いた顔で私を見る。

「新しいパターンだな。お見合いを申し込み、結婚したいと告げて、そこからの愛人? 謎の思考パターンだ」
「違うんですか?」
「どこの世界に、父親に『娘さんを愛人にください』と申し込みに行く男がいるんだ?」
「どこかにいるかもしれません……」
「いない」

 私に短くそう言って顎を掴み、不敵に笑う。
 
「少なくとも俺は遊びで付き合う時間があるほど、暇な男じゃない」

 その顔は宮ノ入グループの社長だった。
 公園で見るぼんやりした男の人ではなかった。
 ふわりと香る爽やかな香りに、気をとられ、私の唇に彼の唇が重なっていることに気づいたのは数秒後のこと。
 
「……っ!?」

 逃れようにも顎を掴まれていて、顔を背けることさえできなかった。
 外見より、ずっと優しいキスが私の抵抗を溶かす。
 離れた唇は、私の耳の形をなぞり、息がかかる。
 吹きかかる息と唇の感触に、体がぞくぞくして、力が抜けてしまいそうになる。
 執拗な唇に、頭の中がぼうっとして、壁に体を滑らせ、床にへたり込む前に大きな手が、私を支えた。

「やりすぎたか」
「……ひ、ひどい……です……!」
「悪い。次回は手加減する」
「次回じゃなくてっ」

 体に力が入らないくらいにまでされたことではなく、この行為がひどいと言ったのに、社長はまったくわかってない。
 軽々と私の体を抱え、椅子の上に座らせた。

「俺は君に結婚を申し込んだ。愛人ではない」
「はい……」

 私をまっすぐ見つめる黒い瞳が、私の否定を奪い去った。

「よし」

 頭を優しく撫でて、笑った顔が、私の心を甘く溶かす。
 
 ――不思議な人。

 思えば、初めてこの人を見た時から、目はいつも彼を追っていた。
 人を惹きつける力を持っている。
 このまま、私を撫でる大きな手にすがれたら、きっと楽になれる。
 そう思った瞬間、頭の中に梨沙と継母が言っていた『お食事会』が思い浮かんだ。
 幸せなのは今だけ。
 今まで、ずっとそうだった。
 私を気にかけてくれる近所の人も、友人も、全部奪われた。
 親しくなれば、親しくなるほど、傷は深くて、なかなか立ち直れない――社長から目を逸らし、私は椅子から立ち上がった。

「お茶を淹れますね」
「直真が食べたっていうパウンドケーキを食べたい」

 八木沢さんは社長に、お茶菓子の内容まで報告しているのか、おにぎりを渡した時と同じ顔をして、社長は言った。

「すみません。パウンドケーキ、今はなくて。今日の朝、クッキーを焼いたので食べますか?」
「じゃあ、今度」
「今度なんて……」
「ん?」
「わ、わかりました! 今度っ……!」

 またキスをされては困ると思い、約束をしてしまった。

「楽しみだな」

 ――絶対わざとに決まってるっ……!

 私が離れようとしても、簡単に手中に絡めとり、今や私の城であるキッチンは、社長に乗っ取られた。
 侵略者に紅茶とクッキーを出し、私は手の届かない距離まで遠ざかる。

「俺は猛獣か?」
「自覚してください。かなり危険です」
「おかしいな。いつもより、だいぶ優しいはずだが」

 仕事をしている姿を見ているわけじゃないからわからないけど、新社長が発表された時から、株価は上がっていて、評判もいい。
 私が思っている以上に、すごい人なのだろう。
 父が梨沙と結婚させたいと、考えるくらいには―― 

「そうだ。おにぎりのお礼を忘れるところだった」

 私に手渡してくれたのは、有名ブランドのマークが入った箱。プレゼント用にラッピングされていて、気になったので開けてみた。

「シャネルのハンドクリームとボディクリーム……? こういうのもあるんですね……」

 バッグや財布、スーツならともかく、ハイブランドの消耗品を使おうという発想がまずなかった。

「それなら、迷惑にならないだろ?」
「そうですけど、いろいろ考えてくれたんですね」
「実用的なものが、いいって言っていたからな」

 その発案者は、間違いなく八木沢さんだろう。
 社長と私では、あまりに家庭環境が違いすぎて、きっと想像できない。 
 それに、シャネルが実用的だと言ってるところで、その感覚、間違ってますよって教えてあげたい。

「気に入ってくれたか?」

 継母と梨沙に見つかったら、大騒ぎになることはわかっていた。
 だから、本当なら、これは返すべきだった。
 でも、さっきまで自信たっぷりな態度だったくせに、私が気に入ったどうかを気にしていて、それでつい受け取ってしまった。

「……ありがとうございます」

 私のお礼を聞いて、社長は紅茶を一口飲んだ。
 なごやかな空気が流れ、ホッとしたのも束の間。

「結婚は急すぎたかもしれない」
「『かも』じゃなくて、急すぎです」
「だから、お互いもっと知るために、付き合うところから始めよう。こちらは、妥協した」
「妥協……?」

 突然、結婚でなく恋人からスタートしようということだろうか。
 結婚から、妥協して恋人、
 確かにランクダウンさせている。

「そっちも誠意をみせてほしい」
「誠意!? 誠意ならありますけど……」
「よし。恋人からで決定だな」

 社長は取引成立とばかりに、満足そうな顔をして、ティーカップを置く。

「それじゃあ、月曜日に。また公園で」
「ま、待って……」
「待てない。今日はこれから仕事だ」

 社長は土曜日なのにスーツ姿で、時計に目をやる。
 忙しいというのは、本当らしい。
 私の次の言葉を聞く間もなく、社長は裏口から出ていった。
 社長がいなくなった後、私はしばらく動けなかった。
 それは、私のものではない爽やかな香水の名残が、私の頭を混乱させ、いつもの思考を狂わせたせい。
 私はきっと彼に勝てない。
 もしかして、彼なら私を連れ出してくれる?
 継母の嫉妬と憎悪に囚われ、閉じ込められた私を。
 期待してはいけないと思いながら、私は香りが消えない間だけ、それを願っていた。
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