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第一章

12 妹の罠

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 結婚式が終わり、東京へ旅立つ日の朝、私は郷戸ごうどの台所に立っていた。
 かつおぶしと煮干しの出汁の香りが、土間の中に広がり、ご飯を炊いているかまどからは白い湯気が上がっている。
 いくつも並んだ竈のすべてが使われるのは、田植えと稲刈りの時期で、手伝いの人が大勢やってくるためだ。
 郷戸へ戻ったのが、ちょうど稲刈りの時期だったから、食事作りに朝から晩まで追われていたのを思い出す。
 勝手のわからない台所で苦労した――

「東京に戻る日まで、働かせなくてもいいのにねぇ」
玲花れいかお嬢さんが暴れたそうだよ。旦那様が世梨せりさんの祝言にかかりきりだったから、面白くなかったんだろうね」

 そんな会話が聞こえてきた。
 本当は、ここに来る前、私は玲花に会えるのを楽しみにしていた。
 両親と清睦きよちかさんが、私に冷たくても妹は違うんじゃないかと、勝手に期待してしまった。 
 でも、期待を裏切ったのは、私も同じ。

 ――玲花はきっと私を見て、がっかりした。
 
 東京から戻った姉は女学校も出ず、地味な着物姿で現れて、自慢できるところはなにひとつなかった。
 せめて、玲花のために用意した贈り物があれば、私たちの関係も違ったかもしれない。
 でも、私が用意した玲花のための贈り物は、本宮もとみやの叔父夫婦に奪われてしまった。

千後瀧ちごたきの奥様を働かせるなんて、申し訳ないわぁ」
「色仕掛けして、玲花お嬢さんの結婚を邪魔したらしいわよ」

 玲花のことを考えていた私の耳に、悪意ある声が聞こえてきた。

「やめなさいよ! そういうひがみは、みっともないってわからないの?」

 叱ったのは、私に卵焼きをくれた女性だった。
 私と同じ年頃なのに、お姉さんらしく、しっかりしてたくましい。
 大きな声ではっきり言われたのが、嫌だったのか、気まずそうに若い女中たちは目を逸らした。
 
「気にすることないわよ。同じ立場だと思ってた世梨さんが、お金持ちに見初められて、東京へ戻るのが羨ましいだけなんだから」

 朝の味噌汁に入れる大根を切りながら、彼女は笑った。

「結婚おめでとう。こんなふうな口の利き方をしたら、叱られるかもしれないけど、急に態度を変えられるのも嫌かと思って」
「ありがとうございます。あの……卵焼き、本当に美味しかったです」

 お互い照れたように笑い合った。
 野菜を切りながら、話をしている間も台所は忙しく、卵を回収しに外へ出て行く人、箱膳を並べ始めた人たちが、忙しなく動き回っていた。
 
「お味噌汁の彩りに、かぶの葉を味噌汁に入れたほうが綺麗ですよね。取ってきます」
「あっ、お願い!」

 裏口から出て、小石混じりの坂を下り、畑へ向う。
 坂を下りた先の地面一帯は郷戸の土地で、田畑が広がっている。
 田はあぜが塗られ、土が起こされ、焦げ茶色の土に覆われていた。
 気の早い家の田んぼは、すでに水がたたえられ、水面に空を映す。
 そして、気づく。

「空に鴉がいない?」

 よく目にした鴉は、田舎だからたくさんいたというわけではなかったのだ。
 陽文ひふみさんからの情報によると、継山つぐやまさんは東京へ戻ったと聞いた。
 私も紫水しすい様たちと一緒に、今日ここを発つ。
 朝食が終われば、駅に向かう予定になっている。

「新しい生活が始まる……」

 不安はあるけれど、もう後戻りはできない。
 私の利き手の右手には、龍文りゅうもんがある。
 その右手で、かぶの葉に触れる。
 朝露の残るかぶの葉から、丸い露の玉が数個、地面に滑り落ちていく。
 木製のザルにかぶの葉を入れ、急勾配な坂道を戻る。
 坂道を上った私を待っていたのは――

「世梨、待ってたわ」

 土間へ戻る裏口前に、玲花が立っていた。

「今日、東京へ帰るんですってね」
「え、ええ……」
「私、世梨に結婚のお祝いをしたいの。よかったら、私のお気に入りの洋服をもらってくれないかしら?」
「洋服……」

 私はまだ洋服を一着も持っていなかった。
 女学校に通っていれば、セーラー服を着るチャンスもあっただろうけど、道行く女学生を眺めるだけだった。
 玲花は洋服を何着も持っているらしい。

「東京だと、洋服を着ている人が増えてるでしょ。それで、たくさん作ってもらったの。もしかして、迷惑だった?」
「迷惑なんて……。でも、妹から洋服をもらうなんて申し訳ないわ。玲花のために作ったものだし……」
「世梨のためになにかしてあげたいの。そんなこと気にしないで。早く!」

 玲花があまりにかすため、かぶの葉が入ったザルを裏口前に置いていくしかなかった。
 私の腕を強引に腕を引っ張り、どこかへ連れて行く。

「帽子と靴でしょ。それに、ワンピースもあるのよ。ひざ丈より少し下のね! すっごくお洒落なんだから!」

 誰にも言えなかったけど、洋服を着てみたいと思っていた。
 私にとって、帽子や靴など、和装でないものは憧れで、馴染みの薄いものだった。
 祖父や祖母に洋服を着たいと言い出せなかったし、他のことも――

「ここの中にあるわ」

 片喰紋かたばみもんを施された鉄製の錠前が、 土蔵どぞうの入り口を守っていた。
 片喰は春になると黄色い花を咲かせる繁殖しやすい花で、丸く可愛らしい葉が特徴だ。
 田の畔や土手で見かける花、片喰紋は郷戸の家紋である。
 玲花は土蔵の鍵を開けた。

「どれがいいか、中に入って選んでちょうだい」

 そう言われたものの、暗くて中がよく見えず、足を一歩踏み出す。

「でも、玲花。ここって土蔵でしょう? こんなところに洋服を置いてあるの?」

 郷戸の土蔵は大きいけれど、光源は高い所にある窓だけ。
 中は暗くて見えづらく、なにがあるかわからなかった。
 玲花は私を土蔵の入り口に立たせると、思いっきり体を突き飛ばした。

「玲花!」

 カビ臭くほこりっぽい空気を肺に吸い込み、これが玲花の罠だと、ようやく気づいた。
 入口を振り返り、外に出ようとした私を阻んだのは玲花だった。

「世梨に洋服をあげるわけないでしょ。それから、私を妹と呼ばないで!」

 玲花の力とは思えない強い力で、再び突き飛ばされ、入口から遠ざかる。
 押された肩に痛みを感じ、目を開けると――そこにいたのは玲花ではなく、死霊だった。

「……っ!」

 暗いからこそ、はっきり見えるものもある。
 苦しみ、恐怖、悔恨の念に囚われた死霊の姿が、闇の中で輪郭をはっきりさせていく。
 あまりの禍々しさに悲鳴を上げそうになった。

 ――これは普通の死霊ではない。

 紫水様が玲花を止めていたのを思い出す。

「玲花。このまま力を使い続けるのは危険よ。死んでしまったら、どうするの!」
「私に嫉妬してるの? 世梨の力がなんなのか知らないけど、どうせ大したことない力でしょ。それに、私の心配をしている場合?」

 蔵の中にすうっとした冷たい風が吹き、こちらを向けと言われたような気がして、死霊のほうを見る。
 私には現れた死霊が何者なのか、一目でわかってしまった。
 それは、ずっと会いたかった人。

「おじいちゃん……」

 懐かしい祖父の姿だった――
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