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第一章

13 言いたい言葉 言えない言葉

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 目の前にいるのは、死霊なんて生易しい存在ではない。
 これは、怨霊と呼んだほうが正しい。
 禍々しい空気が、闇をより濃く染め、両肩に圧し掛かるような重さを感じ、うまく呼吸ができなくなっていく。
 息苦しさを感じて、胸のあたりを掻いた。
 
「おじいちゃん……。私に怒ってるの……?」

 祖父が怨霊になるわけがない。
 頭ではわかっていても、声が出ず、なにも言えなかった。
 声が出なかったのは、私が祖父に対して、消せない後ろめたさがあるから。

「ねぇ、世梨せり。亡くなった本宮もとみやのおじい様に会いたかったでしょ? 私なりに気を遣ってあげたの。ゆっくり話すといいわ」
「待って! 玲花れいか!」

 足に力が入らず、座り込んで動けない私を無視し、笑いながら、土蔵どぞうの戸を閉めた。
  
「ち、違うの。裏切ったわけじゃ……」

 怨霊となった祖父が、玲花から私のほうへ視線を移す。
 祖父が口にしたのは、恨み言だった。

『ウラギリ……ダマサレ……』

 裏切り者、騙された――聞きたくなかった言葉の数々に耳を塞ぐ。

「ごめんなさい……。おじいちゃ……」

 丸くうずくまり、その場で何度でも謝罪した。
 でも、祖父は許してくれないだろう。
 育ててくれたのに、最後の最後で祖父を裏切った。
 震える体に力が入らず、逃げることもできず、ただ暗闇の中で謝り続ける。

「ごめん……なさい、ごめんなさい……」

 何度目かの謝罪で、顔を上げると、私の目の前に祖父が立っていた。
 
 ――殺される。

 憎しみと苦しみが混じった感情が、表情から伝わってくる。
 怨霊となった祖父の手が、私の首に伸びても、抵抗できなかった。
 育ててもらったのに、祖父の跡を継がず、遺した着物からは文様を奪い、駄作にしてしまった。
 私の罪は大きい。

「期待に応えられなかった……私を許してくださ……い」

 私の首にかかった手から逃れようと、弱い抵抗をみせた私に、手のひらの龍文が目に入った。
 龍文は闇より濃い黒に染まり、その存在を主張している。
 これは、私を守るためにくれた文様であることを思い出した。

『死にたいとは思っていないようだな。安心した』

 安心したと言った――私を心配してくれる人なんて、この世に誰もいないと思っていた。
 私が死にたくないと答えた時、紫水しすい様は喜んでくれた。
 喜んでくれる人がいるのに、ここで死を受け入れるわけにはいかない。
 涙で滲んだ目に、高い窓から入る明るい日差しが見える。日差しは風に揺れるスカートの裾のように柔らかい。
 
 ――祖父をがっかりさせてしまうと、わかっていた。それなのに今さら、楽になろうなんて虫が良すぎる。
 
 固く閉ざされた土蔵の入口に視線をやり、攻撃的な気持ちで手をかざす。

「文様……【龍】っ……!」
 
 身に宿した文様を使う時と同じように、龍を放ったはずだった。
 だけど、私が想像していた力と、まったく違っていた。
 それは――闇よりも暗い龍、影よりも黒い影。
 龍の形のようなものが、土蔵の戸をぶち破る。
 戸がなくなり、明るくなった出入り口から、鉄製の片喰かたばみの錠前が、遠くまで吹き飛ばされ、歪んで地面に転がっているのが見える。

「え……? い、今の……?」

 今まで私が使った文様の中で、一番危険で凶悪な文様だった。
 頑丈な戸の消失と、鉄製の錠前が歪むほどの衝撃。
 
「なにやってるんだ? 隠れ鬼か?」

 土蔵の中の私を一番に見つけたのは、紫水様だった。
 その紫水様の足元には、錠前の残骸が転がっている。
 まだ木くずが落ちる入口をくぐり抜けて、涙で頬を濡らした私に近づくと、冷たい指で涙をぬぐう。
 それで、やっと私は落ち着き、口を利くことができた。

「隠れ鬼では……ないですけど……」
「そのようだな」

 大きな破壊音を耳にした人たちが、何事かと土蔵の周辺に集まってきた。

「これはいったい……。なにがありましたかな!?」

 駆けつけた父は事態が把握できず、壊れた戸、鍵を目にして混乱していた。
 昨日、遅くまで宴会が続いたせいか、父は寝間着から着替えておらず、まだ浴衣姿のまま。
 同じように駆けつけた母も髪をまだ整えていなかった。
 
「誰かが土蔵の中に、世梨を閉じ込めたようだ」

 紫水様の怒りを抑えた低い声に、両親も駆けつけた者たちも息を呑んだ。
 玲花だけは笑っていたけど、紫水様に睨まれ、サッと母の後ろに隠れた。

「だ、誰でしょうな。そのような真似をするのは……」
「わかっているだろう?」

 両親は玲花の態度から、誰が私を閉じ込めたか気づいている。
 でも、玲花を庇いたい気持ちが強いからか、二人とも口をつぐみ、私から気まずそうに目を逸らす。
 私は両親に捨てられた気持ちを味わった。
 紫水様は呆然としている私の腕を掴み、立ち上がらせると、両親を睨んで言った。

「長居する気にはなれない。陽文ひふみ、東京へ戻るぞ」
「そうですね。異論はありません」

 陽文さんに笑みはなく、両親は陽文さんからも目を逸らし、知らぬ存ぜぬを通した。
 すでに、紫水様たちの準備は出来ており、長居するつもりは最初からなかったようだ。

「昨日、荷物は送りましたから、いつでも戻れますよ。他に荷物はありますか?」
「俺はない。世梨は?」

 私もなかったので、首を横に振ると、車の鍵を手にした陽文さんが微笑んだ。

「じゃあ、行きましょうか」
 
 郷戸を去る私に、両親がかけてくれる言葉は一言もなく、願うような気持ちで振り返った。
 一度でよかった。
 せめて一度だけ、優しい言葉が欲しくて、血の繋がった家族のほうを見た。
 でも、両親は玲花を守るように立ち、その目は紫水様たちを追っている。

「世梨、行くぞ」

 紫水様に黙ってうなずき、顔を前へ向けた。
 それと、同時に涙がこぼれ、言葉にできない苦しい感情に、自分がまだ両親からの愛情を諦めていなかったのだと知った。 

「俺に親はいない。だから、なんと言えば、泣き止むかわからないが……。泣くな」

 紫水様はどうしていいかわからないという顔をしていて、今までで一番人間らしさを感じ、胸の苦しさを忘れた。
 どんな相手にも動じない紫水様が、私が泣いているから困っているなんて、なんだか不思議な気持ちになった。

「お前が泣くと、なんとかしてやりたくなる。だが、あの家を破壊したいわけじゃないだろう?」
「そ、それはもちろんです! どうして壊すんですか?」
「スッとするかと思ってな」
「い、いえ……。驚いて涙は止まるかもしれませんが、すっきりはしません」
「そうか。なら、やめておく」

 どこか残念そうに見えたのは、私の目の錯覚だろうか。 

「それで、土蔵でなにがあった。力を使っただろう?」

 私を恨む祖父の姿を思いだし、一瞬、それを紫水様に言っていいのかどうか迷った。
 でも、紫水様なら、私の弱さも辛さも受け止めてくれる気がして、不安な気持ちを口に出した。

「おじいちゃんが怨霊になって現れたんです」
千秋せんしゅうが?」
「はい。でも、おじいちゃんに文様の力を向けられなくて……」
「それで、戸を壊したというわけか」
「壊すつもりはなく、ちょっと音が出たらいいなくらいでした」

 錠前が歪み、戸を粉砕するほどの力があるとは思わなかった。
 身を守るにしては、威力がありすぎると思う。

「先生は手加減を知りませんからね」
「うるさい。人の世に合わせた力加減なんぞできるか!」
「そんなこと言わずに、手加減してくださいよ。それにしても、千秋様が怨霊になるとはおかしな話ですね。世梨ちゃんを恨む理由がわかりません」

 陽文さんから見たらそうかもしれない。
 でも、私には心当たりがある――

「なんだ。千秋に言えなかったことでもあるのか?」

 紫水様は私の心がわかるのか、うつむいた私を見て笑った。
 でも、私の話を聞いたら、きっとそんなふうには笑えない。

「紫水様にも言えません……」

 怒るかもしれないと思っていたのに、紫水様は怒らなかった。

「わかった。言えるようになったら、聞いてやる」
「言わなくてもいいんですか?」
「そのうち自分から言うだろう」

 そんな日がやってくるだろうか――紫水様に自分の夢を語る日が。

「我慢をして生きてきた者は、自分の思いを口にするのは難しい」
「そうかもしれません……」
「これは、あやかしも同じだ。人の世は生き難い。あやかしは人の世において、異分子だ」

 紫水様の言葉に、陽文さんもうなずいた。

「だから、人間の嫁なんですよ。人間の嫁なら、人の世の常識を最初から、持っているでしょう? 暮らしていく上でも助かるってわけです」

 陽文さんの金色に近い瞳が、郷戸の屋敷を眺める。

「その代わり、選んだ女性は全力で守る」

 ハンチング帽をかぶり直した陽文さんの瞳は、元の茶色に戻り、私を見つめていた。

「だから、お前が望めば、屋敷ひとつくらい壊してやったんだがな」
「そっ、それは、やめてくださいっ!」
「先生……。さすがに千後瀧ちごたき本家も誤魔化すのは難しいですよ。人間は好奇心旺盛ですからね。ほら、見てください」

 陽文さんが指差したのは、自分が乗ってきた車だった。
 そこには、好奇心旺盛な村の子たちが集まっている。
 車の持ち主がやってきて、村の子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
 人は珍しいものに目がない。
 少しでも変わったことがあれば、こうして注目を集めてしまう。
 それでは、困ることもある。

「ああ、そうだ。世梨」

 車に乗る前に、紫水様は言っておかなくてはと思ったらしく、足を止め、私に言った。

「次に千秋が現れたら、俺を呼べ。怨霊でもいいから、俺はあいつに会いたい」
「紫水様……」
「人は弱く、命は短すぎる」

 紫水様の声は、どこか寂しさを含んでいた。
 会いたい理由を陽文さんが、教えてくれた。
 
「千秋様は筆を置いた後、身内以外、近寄ることを禁じました。もし、その約束を破れば、所持している作品の全てを焼却すると、言われたんです」

 今にして思えば、祖父が病の床についてから、訪ねてくる人はいなかった。
 筆を持てなくなった自分に価値はないと言って、すべての人を拒んだ。
 世話をする私以外、誰も寄せ付けなかった。

「紫水様は連絡くらいと思ったようですが、残された短い時間を世梨さんと過ごさせて差し上げたかった」
「そうだ。あいつはお前と過ごす時間を選んだんだ。自分の作品すべてを捨ててもいいと思うほど、お前を大事にしていたのに、お前を恨むわけがない」
「はい……」

 涙がまたこぼれてきた。
 ずっと私は誰かに、そう言ってほしかったのだ。
 祖父は私を恨んでないと。
 
「世梨ちゃん、どうぞ」 

 陽文さんが車のドアを開けてくれた。

「田舎道だから、ちょっとばかり揺れるけど、便利なんですよ」
「近くの駅まででいい」
「えっー! 東京まで、車で帰りましょうよ!」
「陽文だけで帰れ」

 この光景、一度見た気がすると思いながら、紫水様たちのやりとりを眺めていると、声がした。
 
「世梨さん! 待ってー!」

 息を切らせて走ってきたのは、私と同じ年頃の卵焼きをくれた女中で、その手には包みを持っていた。

「よかった。間に合った! これ、お弁当。朝ごはん食べてないだろうから、お二人の分も」

 それは、竹の皮に包まれたお弁当だった。
 渡してくれたお弁当は、まだほんのり温かい。

「土蔵に閉じ込められたって聞いたわ。大変だったわね。怪我はない?」

 両親でさえ、かけてくれなかった優しい言葉に、また涙がこぼれた。

「ど、どうかした? やっぱり、どこか痛めたところがあるの?」
「いえ……。ありがとうございました。あの、よかったら、名前を聞かせてもらっていいですか?」

 東京に着いたら、彼女にお礼の手紙を書きたい――人に対する暗い気持ちを抱いたまま、ここを去るところだった私を救ってくれた彼女に。

「私? 私の名前は高芝たかしば初季はづき。そのうち、私も大阪か東京に行くつもりよ!」

 初季さんは明るく、すっきりした顔をしていた。

「東京へ戻る世梨さんを見て、夢を捨てちゃ駄目だと思ったの。だから、私もここを出る」
「夢……」
「そっ! 親には反対されちゃってるけど、ここで働いて、お金を貯めたら出てってやるわ!」
「反対されてもですか?」
「そーよ。人生は泣いても笑っても一度きりなんだから! 世梨さんもここにいるより、結婚したほうがいいと思って結婚したんでしょ。出会ったばかりの人でもさ!」

 紫水様は自分との結婚が、妥協案のように扱われ、納得いかない顔をしていたけれど、初季さんは気にしていなかった。

「だからね。絶対、世梨さんを見送りたかったの。次は私の番だって言いたくて。お弁当、冷めないうちに食べてね!」

 初季さんは力強く私の背中を叩き、門出を祝福してくれた。
 私の見送りは彼女だけ。
 でも、一人だけでも私の新しい旅立ちを祝福する人が、ここにいた。
 私たちが乗った車が見えなくなるまで、初季さんは大きく手を振りながら、見送ってくれた。

「初季さんですか。なんといういか面白くて、元気な女性ですね」
「はい。とても、いい人で……。私のことを気にかけてくれました」

 膝の上に置いたお弁当が温かい。
 冷めないうちにねと、初季さんが言っていたのを思い出した。
 
「紫水様、陽文さん。お弁当を食べますか?」
「もちろんです! 朝早くて、店も開いてないから、昼まで食事はお預けかと思っていました」

 お弁当の包みを紫水様と陽文さんに渡す。
 竹の皮に包まれたお弁当を開けると、そこには海苔に包まれたおにぎりが並んでいた。

「これ……」

 一口食べたおにぎりの中身は卵焼き。
 
「初季さん、卵は特別なのに……」

 私のために、こっそり入れてくれたのだろう。
 初季さんの優しさに、また涙がこぼれた。
 
 ――いつか私も初季さんのように、自分の夢を堂々と口に出して言いたい。

 顔を上げ、前を向く。
 水田の畔は緑に染まり、春の花が咲く田舎道の先に、駅舎が見える。
 私の新たな旅立ちの日――本物のうぐいすの声が聞こえ、白い梅の花が咲き、春を告げていた。

【第一章    了】【第二章    続】
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