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救いの手

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 外は、ざあざあと瀑布を思わせるほどの土砂降りだった。
 通り沿いに並ぶ店の灯りは勢いを失い、雨靄の向こうでぼんやりとけぶっている。当然人通りは皆無に等しい。普段の賑々しさが名残惜しいほどの寂しさがじっとりと立ち込めていた。
 マリアンナは、雨に打たれるのも構わずその街並みを駆けた。舗装の甘い水たまりを踏み抜き、ばしゃりとスカートに泥が跳ね返る。いつの間にスカーフが脱げ落ちていたのか、伸ばしっぱなしの銀髪が額に、頬に、首筋にまとわりついていた。

「っ、う……」

 頭の中も、四肢も、特に指先は感覚を失くして身震いするほど冷え切っているのに目頭だけが熱い。
 己の見てくれを気に掛ける余裕など、もうなかった。衝動に突き動かされるまま胸を喘がせて暗い道をひた走る。そんな娘に、身近な人が亡くなったのか、あるいは暴漢にでも襲われたのか――そんな奇異な目を向ける者さえ、雨と肌寒さに家の中に押し込められていたのは、せめてもの神の思し召しか。

 ――どうしてこんなことになってしまったの。

 自分を見てくれる相手を見つけ、やっと変われると思った。閉塞した日常から抜け出せると夢を見た。それがいけなかったのだろうか。自分一人では何一つ変えられなかったくせに、差し伸べられた手を軽率に取った。己を顧みずに楽をした、だから試練を与えたもうたとでも言うのだろうか。
 それが神の意思なら仕方がない。でも、もう乗り越えられそうもなかった。この王都で、唯一の居場所を失くした家名も取り得も持たない娘が行き着く先など決まっている。そして、そこから這い上がることがどれだけ不可能に近しいことであるか、も。

 無我夢中で走り続けていたマリアンナがふと足を止めると、そこは、初めてファントムと邂逅を果たしたあの石橋であった。
 導きか、それとも無意識下で彼を求めたのか。左手に目を向けると、街灯代わりの輝石に照らされ、ごうごうと波打つ茶色い濁流が見えた。水嵩が増していた。穏やかに寄り添うような雰囲気はなりをひそめ、大地のなすがままに荒れ狂っている。まるでマリアンナの心中を映し出したかのようだ。

 その奔流をぼうっと眺めているうちに、徐々に冷静さを取り戻してきた。そうだ、自分の心もこの川と同じだ。今はただ、時流に翻弄されて乱れているだけだ。この暗雲が去れば、凪いだ心を取り戻し、退屈ながら平凡な日々を過ごすことが出来る。

 ――罪を咎められて逃げ出すなんて……謝らなきゃ……。

 メレーサがあんなに憤っていたことを考えると、騎士団に突き出されてしまうかもしれない。何らかの罰を受けることも十分有り得る。けれど、どんな組織より英讃教が幅を利かせるこの町で怯えて隠れるように暮らすよりはマシだ。

 落ち着いてみると、先ほどまでの自分は本当にどうかしていた。あの場で頭を床に擦り付けて謝罪こそすれ、逃げ出してしまうだなんて――そんな気概が自分の中に存在していたとは。
 ファントムとの別れを突きつけられて気が動転したのか。いや、それだけではない。だって、まだファントム自身から決別を告げられたわけでも、数か月の時を経てそれを実感したわけではなかった。彼らには人としての道義や感性が通用しないかもしれないと、そんな希望を抱ける程度には、普段の自分は楽天的で浅ましいはずだ。

 いつからか、メレーサを前にすると、どうも正気ではいられなくなってしまった。

 ――たぶん、神々しすぎて……自分の汚らわしさが嫌になってしまうのね。

 強烈なコンプレックスを抱いているという自覚はある。憧れていて目を離せないのに、近づきたくはないし、関わりたいとは思わない。だからといって、遁走が許されるはずもないわけだが。

「くしゅんっ! ……さ、さむい……!」

 劇場内は昼夜を問わず熱魔石で一定を保ち続けている。そのままの薄着で飛び出し、雨に濡れていることを自覚するともう耐えられない。

「……――もういっそのこと……」

 波打つ水面を見下ろしながら目を伏せた。いっそのこと、修道女を目指そうか。相応の教育は受けて来たが、代わりに生涯の自由と人としての『個』を失ってしまう。皆が等しく神と謳姫の使徒となるため、衣装や髪形を統一し、名も既に亡くなった先人の欠名から順番に割り振られ、『マリアンナ』ではなくなるのだ。それがどうにも恐ろしいことのように思えて、これまでその道を志したことはなかった。
今はそうも言っていられない。他に道はないように思える。英讃教は何人にも門扉を閉ざさない。罪人であろうと、人外であろうと懐深く迎え入れ、神の御許へ導いてくれる。

 ――いえ、そもそも神に仕えられるぐらい五体満足でいられるかどうか……。

 ふう、とため息ともつかない声を漏らし、一先ず宿を探そうと思い直して――ぴたりと、その琥珀色の瞳が右前方の闇中へ釘付けになる。

 ――何か、光った?

 この大雨に打たれて輝石も流れ落ちてしまったのか。いや、この目が確かなら、二つ同時にきらめいた気がしたが。そもそもあのあたりは川面なのだろうか、石積みの法面になっているところではないか。
 何だろう、と思わず欄干から身を乗り出した、そのとき――。

「な、何をしているんだ⁉」
「っ!」

 突如、切迫した声とともに、ぐいと二の腕を掴んで引き戻された。
 その力強さに慄きつつ随分と高い位置にある顔を凝視する。

「――……」

 頭上に掲げられた白地の傘のおかげで、視界がクリアなり人を観察するだけの余裕が生じた。息を呑んだ。まず目に飛び込んできたのは、驚愕に見開かれた赤褐色の双眸だった。眦は怜悧に切れ上がり、瞼を縁取る刷毛のように長い睫毛から雨粒が滴っている。その彫りの深い美貌に影を落としていたであろう前髪はべったりと右半分に張り付き、その金糸のように艶やかな長髪は後ろでひとつに括られていた。小作りながら繊細な彫像じみたその青年の頬は、焦燥ゆえか血色をすっかり失っている。が、それがかえって作り物めいた冷たい麗容に色を添えているように見える。

「……ぁ……」

 いいえ何も、と答えようとした言葉を慌てて呑み込む。この男が自分の声を不快に思わないとは限らない。綺麗だと褒めてくれたのは、後にも先にもファントムだけだった。
 返事の代わりに、何でもない、と首を横に振った。

「だが、君はさっき確かに、いっそのこと、と――」
「……?」
「あ、いや。……ともかく、こんなにずぶ濡れのレディを放っておくわけにはいかない、こちらへ。……どうした? …………、ああすまない、強く握りすぎたか」

 男は慌てた様子で手を離した。仕立ての良いシルクの手袋はすっかり水を含んで重くなってしまっている。

 ――レディ……? いったい、誰のことを……。
 まさかメレーサが、と弾かれたように周囲を確認する。けれど、自分と目の前の男以外に人影はない。人はいないが、男の背後に一台の質素な馬車が佇んでいることに、そのときようやく気付いた。

「そんなに周りを気にしてどうした? どこかに連れでもいるのか?」

 視線が交わっているということは、どうやら自分に話しかけているのだろうと、恐縮しながら再び首を振る。心なしか男の表情が和らいだ。

「ならば問題ないだろう。さあ乗りなさい、体が震えている」

 マリアンナは戸惑い身を固くした。夢でも見ているのだろうか。こんな一点の瑕疵もなさそうな貴人が、どうして庶民でしかない己を構おうとするのだろう。

「どうしたんだい。何も取って食おうというわけでもないんだが……いつまでもここでこうしていると?」
「…………」
「……話したくもないか。仕方がない、強引なのは良くないと分かってはいるが……」

 困ったような微笑を浮かべた男はそう呟くやいなや、マリアンナの背後に回り――ふわ、と体が浮き上がる。気づくと、彼に横抱きにされていたのだった。

「⁉」
「まるで氷のようだ……どれだけの時間こうしていたんだ? いったい何があって……ああ、危ない」

 馬車へ運ばれながら、せめてもの抵抗にその胸を押しのける素振りをしながら、ぶんぶんと首を横に振る。ここまでされたら、マリアンナにだって分かる。

 ――誰かと勘違いされてる!

 こんなにも高貴な身分の男に、ここまで甲斐甲斐しく接してもらえるような存在ではないことはマリアンナ自身が良く知っている。何の取り得もない、教団の情けで仕事を得ていた下女だ。おそらくどこかの令嬢が、この大雨に乗じて使用人に成り代わり出奔したのだろう。そういったスキャンダルは時折耳にする。この男性は身内か婚約者で、薄汚いだけのマリアンナを変装したその娘だと誤認したに違いない。

 その思い違いを晴らさなくてはと思うのに、混乱していて胸を叩く以上のことはできない。誤解を解きたいだけで、怪我を負わせたいわけではないのだ。
 そう困惑しているうちに、なめらかな手触りの布が張られた座席へ押し込められていた。何やら花のようないい香りもする。

「ひとまずこれを。熱魔石を織り込んだ生地で出来ているから温かいはずだ」

 格子柄の掛物を体に巻き付けられたマリアンナは、目に飛び込んでくる室内の豪華さに言葉を失っていた。大判の花が描かれたソファに、窓枠を金で縁取る竜の陽刻。天井の照明は揺れを考慮してかシャンデリアではないものの、薄手の花のガラス彫刻が幾重にも花開いて光を散らしている。外見からは想像も出来ない豪勢な造りだった。
 男が対面に乗り込むと、見計らったかのように馬が嘶き馬車が発進する。

 ――どうしよう、このままじゃ……。

 寒さと疲労ですっかり思考が鈍り、気力も損なわれている。雨風を凌げる場所に逃げ込んだという安心感だけで、今にも意識が飛んでしまいそうだ。
 呆然と口を閉ざしたままのマリアンナに、カーテンの隙間から外の様子を窺っていた男が小さく笑いかけてくる。マリアンナの無言も、見つけ出されたことで拗ねているのだとでも解釈されているのだろう。

「ひどく濡れてしまったな、屋敷につき次第、何か温かいものでも用意させよう」

 ふいに花が綻んだかのような笑みに、ひどい罪悪感と切なさがこみ上げた。見ず知らずの人を騙して、その厚意に付け込んでいるような気分だ。それにこの笑みは自分が向けられてよいものではない。この男の優しさも贅沢な空間も、マリアンナが享受していい心地よさではない。
 どうして自分はこんなに口下手なのだろう。気が逸るばかりで、順序だてて説明するだけの言葉が浮かんでこなかった。
 馬車の揺れが心地いい。夢の中にいるようだ。

 ――きっと、大丈夫。お屋敷につけば、間違いだったと気づいてくださる。

 そうして、マリアンナを怒鳴りつけたり打ち据えたりして、また雨の降る街に放り出すのだ。すぐに、身勝手に振り回されて踏みにじられるだけの元の生活に戻れるはずなのだ。
 天蓋に打ちつける雨音が遠くなるのを感じながら、そんな諦観だけが胸に満ちていく――。

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