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ハシュアとジスラン
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客人とともにt邸内へと消えるジスランを見送ったマリアンナは、テキストを手に外へ出ていた。
一人で室内に籠りきりだと、どうしても先ほどのことを思い起こして気が塞いでしまう。穏やかな日差しと小鳥の囀り、柔らかな木々の香りに身を委ねていれば、少しは気が紛れるだろうと思った。
幸い、庭園の至る所にちょっとした休憩場所が設けられている。そのうちの一画――薔薇垣を背にした木陰にある猫足のベンチに目を留め、日傘を畳んで腰かけてみた。ニケットにはしばらく一人にしてほしいと言いつけてある。タルト生地にクリームを流し込んでいたところを見ると、焼きたての菓子とティーセットを手に現れるのは小一時間ほど先だろう。
狙い通り、漣立っていた心が少しずつ凪いでいくのを感じた。息を吸い込むたび、肺一杯に濃い緑の匂いが流れ込んでくる。ファントムとニケットに教えられた深い呼吸を何度か繰り返し、まるで楽園のような光景をぼうっと眺めた。
小径の向こうに、自ら鋏を手に薔薇の剪定をするジスランの幻影がまざまざと浮かび上がる。凛とした目元を伏せて、蕾の開き具合を確認しながら枝を切り落とす。ぱちん、ぱちんと小気味いい音に耳を澄ませていると、摘みたての薔薇を大きなブーケにしたジスランが、ふいに顔を持ち上げてこちらを見、それを差し出してくる――――というところまで夢想し、マリアンナはぱあっと頬に紅葉を散らした。
――な、何を考えているのかしら私。見たこともない光景なのに、妄想がたくましすぎる……。
もしジスランがその薔薇を贈るとしても、相手は自分ではない。本物のマリーに贈るのだ、自惚れにもほどがある。
マリアンナが緩く首を横に振ったそのとき、突如、眼前に白薔薇が差し出され面食らった。
「すごい百面相だね、何か考え事?」
一拍遅れてひょい、とこちらを覗き込んできたその人物に、マリアンナは大きく目を見開いた。緑色の髪に、神秘的な白銀の双眸。儚くも柔和な笑みを刻んだその美貌は、あの客人のものだ。
「あは、驚かせてしまった? ごめんね、俺、足音も気配も薄いみたいで」
「あ、いえ、そのような! ……おれ……?」
ジスランがあまりに長身で気づかなかったが、こちらを見下ろしているこの人物、『マリー』もなかなか背が高い。それに、この声色。女性にしては低すぎるのではないか。
マリアンナの怪訝な顔の意味に気づいたのだろう、『マリー』は目を何度か瞬かせたあと、小さく吹き出した。
「あはっ、すまない! 俺があまりに女顔だから誤解したんだね? こう見えて男なんだよ」
「! も、申し訳ありません、無礼を……」
「よくあることなんだ、気にしないで。一部の男はこの声で話しても真実に気づいてくれないぐらいだからね」
小さく下げた頭を持ち上げて、マリアンナは彼の顔をじいっと見た。長い睫毛に大粒の瞳、確かに小作りで端正な顔をしているが、そこに見惚れたわけではない。彼が『マリー』でないということも即座に察し、途轍もない安堵を覚えたことも確かだ。
だが、何よりもマリアンナの心を奪ったのは、その声に聞き覚えがあるような気がしたことだ。
――劇場のお客様かしら……いえ、でも私が実際に声を聞けるだけの距離にいて、顔も知らないなんてことありえない。
そこで、ジスランに無断で彼と会話していることに気づいて狼狽えた。客人と話すなとは言われていないが、積極的にかかわるようにとも言われていない。どうしよう、『マリー』として振る舞えるだろうか。
「君がマリアンナでしょう? 俺はハシュア、薬師と星詠を生業にしている。ジスラン卿のお抱えだよ」
言いながら、口を噤んだマリアンナの隣に腰かける。
「ああ、話はすべて聞いているんだ。俺は一応、君の病状を見るという名目でここに来ているからね、楽にしてくれて構わない」
「全てというと、ええと……」
「君が何者なのか、とか。本物のフィアンセではないんでしょう?」
きょろきょろと人目をはばかる素振りを見せて言ったハシュアに、マリアンナはほうと安堵の息を吐いた。
「そうでしたか……度重なる無礼をお許しください、驚いてしまって」
「いえいえ。それとお嬢様、俺に敬語は必要ないよ、爵位も何もない庶民ですから」
「でも、ジスラン様のご友人でらっしゃるのでは……」
「鋭いね、やっぱりあの時、俺たちのことを見てたんだ?」
「あ……すみません、あまり顔を見せるのは良くないと分かっていたんですけれど」
「そうだよねえ、でも気になるよねえ、謎多きジスランと関わりのある相手のこと」
ふいに浮かべられた不敵な微笑が、まるで内心を見透かされたようでどきりとした。そんなことはない、と否定するのは何か違う気がするけれど、肯定してしまうのも妙だ。気恥ずかしさにいっそのこと話題を変えてしまおうと口を開きかけたとき、ハシュアが明後日の方へ目を向けた。
「おや、案外早かったな」
「マリー! マリー、いるかい? 返事をして、マリー」
庭園の手前の方から、どこか緊張感をはらんだジスランの声が近づいてくる。何だろうと腰を浮かせかけると、ふふ、と微笑したハシュアに腕をとられた。
驚いたマリアンナに、満開の白薔薇を挟んでハシュアの麗容が迫る。思わず息を呑んだ。その、氷のようだと言い表した瞳の無機質さに。
「……そう、受け継いだのは髪色だけか」
「えっ……」
「やはり顔は全く似ていないのに。ジスランは、無意識のうちに見抜いて……いや、考え過ぎかな」
飄々と独り言ちるハシュアの不気味さに、思わず身震いした。無邪気な子供のような印象を抱いた先ほどとはまるで別人のような、本能的な恐怖を呼び起こすオーラに圧倒され言葉を継げない。
このままこの視線に射殺されてしまうのではないか――そう空唾を飲んだとき、背後から伸びて来た手に視界を奪われていた。
一人で室内に籠りきりだと、どうしても先ほどのことを思い起こして気が塞いでしまう。穏やかな日差しと小鳥の囀り、柔らかな木々の香りに身を委ねていれば、少しは気が紛れるだろうと思った。
幸い、庭園の至る所にちょっとした休憩場所が設けられている。そのうちの一画――薔薇垣を背にした木陰にある猫足のベンチに目を留め、日傘を畳んで腰かけてみた。ニケットにはしばらく一人にしてほしいと言いつけてある。タルト生地にクリームを流し込んでいたところを見ると、焼きたての菓子とティーセットを手に現れるのは小一時間ほど先だろう。
狙い通り、漣立っていた心が少しずつ凪いでいくのを感じた。息を吸い込むたび、肺一杯に濃い緑の匂いが流れ込んでくる。ファントムとニケットに教えられた深い呼吸を何度か繰り返し、まるで楽園のような光景をぼうっと眺めた。
小径の向こうに、自ら鋏を手に薔薇の剪定をするジスランの幻影がまざまざと浮かび上がる。凛とした目元を伏せて、蕾の開き具合を確認しながら枝を切り落とす。ぱちん、ぱちんと小気味いい音に耳を澄ませていると、摘みたての薔薇を大きなブーケにしたジスランが、ふいに顔を持ち上げてこちらを見、それを差し出してくる――――というところまで夢想し、マリアンナはぱあっと頬に紅葉を散らした。
――な、何を考えているのかしら私。見たこともない光景なのに、妄想がたくましすぎる……。
もしジスランがその薔薇を贈るとしても、相手は自分ではない。本物のマリーに贈るのだ、自惚れにもほどがある。
マリアンナが緩く首を横に振ったそのとき、突如、眼前に白薔薇が差し出され面食らった。
「すごい百面相だね、何か考え事?」
一拍遅れてひょい、とこちらを覗き込んできたその人物に、マリアンナは大きく目を見開いた。緑色の髪に、神秘的な白銀の双眸。儚くも柔和な笑みを刻んだその美貌は、あの客人のものだ。
「あは、驚かせてしまった? ごめんね、俺、足音も気配も薄いみたいで」
「あ、いえ、そのような! ……おれ……?」
ジスランがあまりに長身で気づかなかったが、こちらを見下ろしているこの人物、『マリー』もなかなか背が高い。それに、この声色。女性にしては低すぎるのではないか。
マリアンナの怪訝な顔の意味に気づいたのだろう、『マリー』は目を何度か瞬かせたあと、小さく吹き出した。
「あはっ、すまない! 俺があまりに女顔だから誤解したんだね? こう見えて男なんだよ」
「! も、申し訳ありません、無礼を……」
「よくあることなんだ、気にしないで。一部の男はこの声で話しても真実に気づいてくれないぐらいだからね」
小さく下げた頭を持ち上げて、マリアンナは彼の顔をじいっと見た。長い睫毛に大粒の瞳、確かに小作りで端正な顔をしているが、そこに見惚れたわけではない。彼が『マリー』でないということも即座に察し、途轍もない安堵を覚えたことも確かだ。
だが、何よりもマリアンナの心を奪ったのは、その声に聞き覚えがあるような気がしたことだ。
――劇場のお客様かしら……いえ、でも私が実際に声を聞けるだけの距離にいて、顔も知らないなんてことありえない。
そこで、ジスランに無断で彼と会話していることに気づいて狼狽えた。客人と話すなとは言われていないが、積極的にかかわるようにとも言われていない。どうしよう、『マリー』として振る舞えるだろうか。
「君がマリアンナでしょう? 俺はハシュア、薬師と星詠を生業にしている。ジスラン卿のお抱えだよ」
言いながら、口を噤んだマリアンナの隣に腰かける。
「ああ、話はすべて聞いているんだ。俺は一応、君の病状を見るという名目でここに来ているからね、楽にしてくれて構わない」
「全てというと、ええと……」
「君が何者なのか、とか。本物のフィアンセではないんでしょう?」
きょろきょろと人目をはばかる素振りを見せて言ったハシュアに、マリアンナはほうと安堵の息を吐いた。
「そうでしたか……度重なる無礼をお許しください、驚いてしまって」
「いえいえ。それとお嬢様、俺に敬語は必要ないよ、爵位も何もない庶民ですから」
「でも、ジスラン様のご友人でらっしゃるのでは……」
「鋭いね、やっぱりあの時、俺たちのことを見てたんだ?」
「あ……すみません、あまり顔を見せるのは良くないと分かっていたんですけれど」
「そうだよねえ、でも気になるよねえ、謎多きジスランと関わりのある相手のこと」
ふいに浮かべられた不敵な微笑が、まるで内心を見透かされたようでどきりとした。そんなことはない、と否定するのは何か違う気がするけれど、肯定してしまうのも妙だ。気恥ずかしさにいっそのこと話題を変えてしまおうと口を開きかけたとき、ハシュアが明後日の方へ目を向けた。
「おや、案外早かったな」
「マリー! マリー、いるかい? 返事をして、マリー」
庭園の手前の方から、どこか緊張感をはらんだジスランの声が近づいてくる。何だろうと腰を浮かせかけると、ふふ、と微笑したハシュアに腕をとられた。
驚いたマリアンナに、満開の白薔薇を挟んでハシュアの麗容が迫る。思わず息を呑んだ。その、氷のようだと言い表した瞳の無機質さに。
「……そう、受け継いだのは髪色だけか」
「えっ……」
「やはり顔は全く似ていないのに。ジスランは、無意識のうちに見抜いて……いや、考え過ぎかな」
飄々と独り言ちるハシュアの不気味さに、思わず身震いした。無邪気な子供のような印象を抱いた先ほどとはまるで別人のような、本能的な恐怖を呼び起こすオーラに圧倒され言葉を継げない。
このままこの視線に射殺されてしまうのではないか――そう空唾を飲んだとき、背後から伸びて来た手に視界を奪われていた。
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