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第一章:はじめの一歩
8、初めての土の感触(後半)
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再びくわを握る。
少し汗ばんできた手のひらの中で、木の柄がしっとりとなじんでいた。
私は、目の前の土を見つめた。
掘り返された表面は、まるであたらしい肌のようにしっとりと柔らかく、ほのかに湯気のようなものを漂わせていた。
その匂いを深く吸い込む。
どこか懐かしい――遠い記憶の中の、運動会の校庭のにおい。小学校の帰り道、雨上がりの公園。
ああ、こんな香り、あったんだ。
忘れていただけで、私の中にもちゃんとあったんだ。
「……土って、生きてるみたい」
ふと、言葉が漏れた。
それは、自分でも意識しないまま出た言葉だった。
けれど、それを聞いた藤原さんは、少し目を細めて、笑った。
「……うん。いいこと言うなぁ」
くしゃっと、目尻の皺が深くなる。
「昔から土は生き物だって言われてるんだよ。微生物もいっぱいいるし、温度もあるし、呼吸もしてる。だからね、人の都合だけで動かそうとすると、なかなかうまくいかんのよ」
土の都合、か――。
思ってもみなかった考え方だった。
「まるで、人みたいですね」
私がつぶやくと、藤原さんはもう一度笑った。
「そうだな。まるで人。踏んづけたら固くなるし、丁寧に触れば、応えてくれる。人も土も、手をかけたぶんだけ、ちゃんと育つんだよ」
私は頷いた。
まだ実感ではない。けれど、わかる気がした。
この土のあたたかさに、少しだけ触れられたような気がしていた。
しばらくして、陽が少し高くなり、肌に当たる光がじりじりと力を持ちはじめた頃、美咲が手を伸ばして私の袖を引いた。
「ねえ陽菜ちゃん、ちょっとこれ見て」
差し出されたのは、さっきまで一緒に耕していた隣の畝。
美咲がしゃがみこんで指さす先には、小さな芽が、土の隙間から顔を出していた。
それは本当に小さくて、ちょっと見ただけでは草と見分けがつかないくらいだった。
けれど、たしかに、そこに命があった。
「昨日まではなかったんだって」
美咲が声をひそめるように言った。
「朝来たら、もうこんなに伸びてたんだって。すごいよね」
私は思わずしゃがみこみ、土の匂いに近づいた。
小さな双葉は、湿った土を押しのけるように、かすかに震えていた。
そのとき、ぐっと胸の奥があたたかくなった。
言葉にならない想いが、喉の奥に溜まっていく。
小さな葉が伸びる、その当たり前の奇跡が、こんなにも静かに、人の心を揺らすんだ。
「……これが育つと、何になるの?」
「たしか、ラディッシュ? 赤くて丸いやつ。サラダに入れると可愛いの」
美咲の声は、どこかうれしそうだった。
彼女もまた、この芽に心を動かされたのかもしれない。
「食べる前に、こうやって見るの、初めてかも」
「うん。わたしも」
私たちは二人で、しばらくその小さな芽を見ていた。
見ていたというより、眺めて、感じて、吸い込まれていた。
何も話さなくても、その場に流れる空気が、じんわりと心を満たしてくれる気がした。
その後、作業が終わって一息ついたころ、藤原さんが皆におにぎりを配ってくれた。
「今日は、おばちゃん特製の味噌おにぎりやで。よかったら食べてってな」
新聞紙を広げて、畝の端に座り込む。
朝の作業で汗をかいた体に、味噌の香ばしさがしみわたった。
私は、おにぎりを一口かじりながら、ふと空を見上げた。
青く、澄みきった空。遠くで雲がゆっくりと流れていた。
土の感触は、まだ手袋の奥に残っている。
あたたかさ、湿り気、重さ、香り――
きっとこの感触は、今日だけじゃなくて、これからも何度も思い出す。
たぶん私は、少しだけ、この土の世界に心を動かされた。
やってみるだけ、と思っていた畑のバイト。
でも、そのやってみるの一歩が、確かに今日、なにかを揺らした。
そう思えたことが、ほんの少しだけ、うれしかった。
少し汗ばんできた手のひらの中で、木の柄がしっとりとなじんでいた。
私は、目の前の土を見つめた。
掘り返された表面は、まるであたらしい肌のようにしっとりと柔らかく、ほのかに湯気のようなものを漂わせていた。
その匂いを深く吸い込む。
どこか懐かしい――遠い記憶の中の、運動会の校庭のにおい。小学校の帰り道、雨上がりの公園。
ああ、こんな香り、あったんだ。
忘れていただけで、私の中にもちゃんとあったんだ。
「……土って、生きてるみたい」
ふと、言葉が漏れた。
それは、自分でも意識しないまま出た言葉だった。
けれど、それを聞いた藤原さんは、少し目を細めて、笑った。
「……うん。いいこと言うなぁ」
くしゃっと、目尻の皺が深くなる。
「昔から土は生き物だって言われてるんだよ。微生物もいっぱいいるし、温度もあるし、呼吸もしてる。だからね、人の都合だけで動かそうとすると、なかなかうまくいかんのよ」
土の都合、か――。
思ってもみなかった考え方だった。
「まるで、人みたいですね」
私がつぶやくと、藤原さんはもう一度笑った。
「そうだな。まるで人。踏んづけたら固くなるし、丁寧に触れば、応えてくれる。人も土も、手をかけたぶんだけ、ちゃんと育つんだよ」
私は頷いた。
まだ実感ではない。けれど、わかる気がした。
この土のあたたかさに、少しだけ触れられたような気がしていた。
しばらくして、陽が少し高くなり、肌に当たる光がじりじりと力を持ちはじめた頃、美咲が手を伸ばして私の袖を引いた。
「ねえ陽菜ちゃん、ちょっとこれ見て」
差し出されたのは、さっきまで一緒に耕していた隣の畝。
美咲がしゃがみこんで指さす先には、小さな芽が、土の隙間から顔を出していた。
それは本当に小さくて、ちょっと見ただけでは草と見分けがつかないくらいだった。
けれど、たしかに、そこに命があった。
「昨日まではなかったんだって」
美咲が声をひそめるように言った。
「朝来たら、もうこんなに伸びてたんだって。すごいよね」
私は思わずしゃがみこみ、土の匂いに近づいた。
小さな双葉は、湿った土を押しのけるように、かすかに震えていた。
そのとき、ぐっと胸の奥があたたかくなった。
言葉にならない想いが、喉の奥に溜まっていく。
小さな葉が伸びる、その当たり前の奇跡が、こんなにも静かに、人の心を揺らすんだ。
「……これが育つと、何になるの?」
「たしか、ラディッシュ? 赤くて丸いやつ。サラダに入れると可愛いの」
美咲の声は、どこかうれしそうだった。
彼女もまた、この芽に心を動かされたのかもしれない。
「食べる前に、こうやって見るの、初めてかも」
「うん。わたしも」
私たちは二人で、しばらくその小さな芽を見ていた。
見ていたというより、眺めて、感じて、吸い込まれていた。
何も話さなくても、その場に流れる空気が、じんわりと心を満たしてくれる気がした。
その後、作業が終わって一息ついたころ、藤原さんが皆におにぎりを配ってくれた。
「今日は、おばちゃん特製の味噌おにぎりやで。よかったら食べてってな」
新聞紙を広げて、畝の端に座り込む。
朝の作業で汗をかいた体に、味噌の香ばしさがしみわたった。
私は、おにぎりを一口かじりながら、ふと空を見上げた。
青く、澄みきった空。遠くで雲がゆっくりと流れていた。
土の感触は、まだ手袋の奥に残っている。
あたたかさ、湿り気、重さ、香り――
きっとこの感触は、今日だけじゃなくて、これからも何度も思い出す。
たぶん私は、少しだけ、この土の世界に心を動かされた。
やってみるだけ、と思っていた畑のバイト。
でも、そのやってみるの一歩が、確かに今日、なにかを揺らした。
そう思えたことが、ほんの少しだけ、うれしかった。
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