土から育てるぼくらの青春

武内れい

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第一章:はじめの一歩

19、新しい朝の気配(前半)

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 朝、まだ陽が完全に昇る前の空は、うっすらと青みを帯びて、どこか頼りなげな色をしていた。
 夜の名残を少しだけ引きずりながら、それでも確実に、今日という時間が始まっていく。

 私は、まだ人影のない道を一人で歩いていた。
 制服じゃない。
 今日は畑の水やりを頼まれて、学校に行く前に立ち寄ることになったからだ。
 薄手の長袖シャツに、くたびれたジーンズ。
 朝の空気はまだ涼しくて、腕に触れる風が少しだけ冷たい。だけど、そのひんやりとした感触が、なんだか心地よかった。

 足元には昨晩の雨が少し残っていて、道端の草の先にしずくがきらりと光っていた。
 その水滴が朝日を受けて、淡い虹色をつくっているのが目に入った。
 私はそれを横目で見ながら、深く息を吸い込む。

 冷たくて、透明で、少しだけ土の匂いが混ざった空気。
 胸の奥にまで届いて、昨日の疲れがどこかに消えていくようだった。

 鳥の声がした。
 どこか高い木の上で、まだ眠そうに鳴く声が聞こえる。
 それに混じって、小さな虫たちの羽音も、そこここからかすかに響く。
 目を閉じれば、風と光と音のなかに、自分の輪郭が溶けていくような気がした。

 畑までの道は、昨日よりもずっと短く感じた。
 何も変わっていないはずなのに、朝の光に包まれるだけで、風景が少しだけ違って見える。
 電柱の影も、民家の屋根も、どこか柔らかく、静かに存在している。
 人がまだ目を覚ます前の街には、凛とした気配が漂っていて、それがなぜか好きだった。

 小さな橋を渡ると、畑のある一帯に出る。
 田んぼやビニールハウスの並ぶその一角は、昨日よりも少しだけ朝露に濡れて、全体がうっすらと霞んで見えた。
 草の匂い。土の匂い。
 それが風に乗ってふわりと鼻をくすぐる。
 深呼吸をすると、胸の奥がすうっと静かになった。

 私は、まだ誰もいない畑に入ると、ゆっくりと水やり用のホースを引っ張った。
 ビニールハウスの端にある蛇口をひねると、水が一気に流れ出し、ホースの先から勢いよく吹き出した。
 朝の光のなかで、水の粒が細かく弾け、虹のようなアーチが一瞬だけ現れては消えた。

「わあ……」
 思わず声が出た。

 こんなに静かな時間に、こんなに綺麗なものがあるなんて。
 畑の野菜たちは、まだ眠っているような顔をしていて、だけどその葉の一枚一枚に、朝露がしっかり宿っていた。
 キラキラと光る水玉のなかに、空の色が映っていた。

 私はゆっくり、まっすぐに伸びる列に沿って水を撒いていく。
 昨日よりも少しだけ、ホースの扱いがうまくなった気がした。
 あまり泥を跳ね飛ばさず、根元にふんわりと水を落とす。
 その加減を探るのが、なんとなく面白い。

 ふと、小さなカエルが跳ねていくのが視界の端に見えた。
 ピーマンの株元からぴょんと飛び出し、少し先の草むらにすっと姿を消す。
 昨日のあの青いトンボも、また来るだろうか。
 そう思いながら、私は手を止めずに、水を撒き続けた。

 時間はゆっくりと、けれど確実に進んでいく。
 東の空が少しずつ明るさを増し、雲の端に光が差し始めた。
 その光が畑のすべてを静かに染めていく。
 柔らかく、優しく、誰にも急かされることのない朝。

 私は一度立ち止まり、ホースの先を少しだけ下に向けて、水を止めた。
 自分の靴のつま先に落ちた水が土にしみていくのを見つめながら、もう一度、ゆっくりと深呼吸をした。

「今日も……やってみるだけ」

 小さく口に出してみると、その言葉が、空気にふわりと溶けていった。
 誰に向けたものでもない、でも、たしかに自分のなかから出てきた言葉だった。

 昨日より、ほんの少しだけ軽くなった足取り。
 緊張と不安のなかに、小さな楽しさと、誇らしさのようなものが混ざっている。
 それをうまく言葉にはできないけれど、でも、ちゃんと感じている。

 私は再びホースを握り、水を撒き始めた。
 朝の陽が、少しずつ地面を照らし始めている。
 新しい一日が、また始まろうとしていた。
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