19 / 40
第一章:はじめの一歩
19、新しい朝の気配(前半)
しおりを挟む
朝、まだ陽が完全に昇る前の空は、うっすらと青みを帯びて、どこか頼りなげな色をしていた。
夜の名残を少しだけ引きずりながら、それでも確実に、今日という時間が始まっていく。
私は、まだ人影のない道を一人で歩いていた。
制服じゃない。
今日は畑の水やりを頼まれて、学校に行く前に立ち寄ることになったからだ。
薄手の長袖シャツに、くたびれたジーンズ。
朝の空気はまだ涼しくて、腕に触れる風が少しだけ冷たい。だけど、そのひんやりとした感触が、なんだか心地よかった。
足元には昨晩の雨が少し残っていて、道端の草の先にしずくがきらりと光っていた。
その水滴が朝日を受けて、淡い虹色をつくっているのが目に入った。
私はそれを横目で見ながら、深く息を吸い込む。
冷たくて、透明で、少しだけ土の匂いが混ざった空気。
胸の奥にまで届いて、昨日の疲れがどこかに消えていくようだった。
鳥の声がした。
どこか高い木の上で、まだ眠そうに鳴く声が聞こえる。
それに混じって、小さな虫たちの羽音も、そこここからかすかに響く。
目を閉じれば、風と光と音のなかに、自分の輪郭が溶けていくような気がした。
畑までの道は、昨日よりもずっと短く感じた。
何も変わっていないはずなのに、朝の光に包まれるだけで、風景が少しだけ違って見える。
電柱の影も、民家の屋根も、どこか柔らかく、静かに存在している。
人がまだ目を覚ます前の街には、凛とした気配が漂っていて、それがなぜか好きだった。
小さな橋を渡ると、畑のある一帯に出る。
田んぼやビニールハウスの並ぶその一角は、昨日よりも少しだけ朝露に濡れて、全体がうっすらと霞んで見えた。
草の匂い。土の匂い。
それが風に乗ってふわりと鼻をくすぐる。
深呼吸をすると、胸の奥がすうっと静かになった。
私は、まだ誰もいない畑に入ると、ゆっくりと水やり用のホースを引っ張った。
ビニールハウスの端にある蛇口をひねると、水が一気に流れ出し、ホースの先から勢いよく吹き出した。
朝の光のなかで、水の粒が細かく弾け、虹のようなアーチが一瞬だけ現れては消えた。
「わあ……」
思わず声が出た。
こんなに静かな時間に、こんなに綺麗なものがあるなんて。
畑の野菜たちは、まだ眠っているような顔をしていて、だけどその葉の一枚一枚に、朝露がしっかり宿っていた。
キラキラと光る水玉のなかに、空の色が映っていた。
私はゆっくり、まっすぐに伸びる列に沿って水を撒いていく。
昨日よりも少しだけ、ホースの扱いがうまくなった気がした。
あまり泥を跳ね飛ばさず、根元にふんわりと水を落とす。
その加減を探るのが、なんとなく面白い。
ふと、小さなカエルが跳ねていくのが視界の端に見えた。
ピーマンの株元からぴょんと飛び出し、少し先の草むらにすっと姿を消す。
昨日のあの青いトンボも、また来るだろうか。
そう思いながら、私は手を止めずに、水を撒き続けた。
時間はゆっくりと、けれど確実に進んでいく。
東の空が少しずつ明るさを増し、雲の端に光が差し始めた。
その光が畑のすべてを静かに染めていく。
柔らかく、優しく、誰にも急かされることのない朝。
私は一度立ち止まり、ホースの先を少しだけ下に向けて、水を止めた。
自分の靴のつま先に落ちた水が土にしみていくのを見つめながら、もう一度、ゆっくりと深呼吸をした。
「今日も……やってみるだけ」
小さく口に出してみると、その言葉が、空気にふわりと溶けていった。
誰に向けたものでもない、でも、たしかに自分のなかから出てきた言葉だった。
昨日より、ほんの少しだけ軽くなった足取り。
緊張と不安のなかに、小さな楽しさと、誇らしさのようなものが混ざっている。
それをうまく言葉にはできないけれど、でも、ちゃんと感じている。
私は再びホースを握り、水を撒き始めた。
朝の陽が、少しずつ地面を照らし始めている。
新しい一日が、また始まろうとしていた。
夜の名残を少しだけ引きずりながら、それでも確実に、今日という時間が始まっていく。
私は、まだ人影のない道を一人で歩いていた。
制服じゃない。
今日は畑の水やりを頼まれて、学校に行く前に立ち寄ることになったからだ。
薄手の長袖シャツに、くたびれたジーンズ。
朝の空気はまだ涼しくて、腕に触れる風が少しだけ冷たい。だけど、そのひんやりとした感触が、なんだか心地よかった。
足元には昨晩の雨が少し残っていて、道端の草の先にしずくがきらりと光っていた。
その水滴が朝日を受けて、淡い虹色をつくっているのが目に入った。
私はそれを横目で見ながら、深く息を吸い込む。
冷たくて、透明で、少しだけ土の匂いが混ざった空気。
胸の奥にまで届いて、昨日の疲れがどこかに消えていくようだった。
鳥の声がした。
どこか高い木の上で、まだ眠そうに鳴く声が聞こえる。
それに混じって、小さな虫たちの羽音も、そこここからかすかに響く。
目を閉じれば、風と光と音のなかに、自分の輪郭が溶けていくような気がした。
畑までの道は、昨日よりもずっと短く感じた。
何も変わっていないはずなのに、朝の光に包まれるだけで、風景が少しだけ違って見える。
電柱の影も、民家の屋根も、どこか柔らかく、静かに存在している。
人がまだ目を覚ます前の街には、凛とした気配が漂っていて、それがなぜか好きだった。
小さな橋を渡ると、畑のある一帯に出る。
田んぼやビニールハウスの並ぶその一角は、昨日よりも少しだけ朝露に濡れて、全体がうっすらと霞んで見えた。
草の匂い。土の匂い。
それが風に乗ってふわりと鼻をくすぐる。
深呼吸をすると、胸の奥がすうっと静かになった。
私は、まだ誰もいない畑に入ると、ゆっくりと水やり用のホースを引っ張った。
ビニールハウスの端にある蛇口をひねると、水が一気に流れ出し、ホースの先から勢いよく吹き出した。
朝の光のなかで、水の粒が細かく弾け、虹のようなアーチが一瞬だけ現れては消えた。
「わあ……」
思わず声が出た。
こんなに静かな時間に、こんなに綺麗なものがあるなんて。
畑の野菜たちは、まだ眠っているような顔をしていて、だけどその葉の一枚一枚に、朝露がしっかり宿っていた。
キラキラと光る水玉のなかに、空の色が映っていた。
私はゆっくり、まっすぐに伸びる列に沿って水を撒いていく。
昨日よりも少しだけ、ホースの扱いがうまくなった気がした。
あまり泥を跳ね飛ばさず、根元にふんわりと水を落とす。
その加減を探るのが、なんとなく面白い。
ふと、小さなカエルが跳ねていくのが視界の端に見えた。
ピーマンの株元からぴょんと飛び出し、少し先の草むらにすっと姿を消す。
昨日のあの青いトンボも、また来るだろうか。
そう思いながら、私は手を止めずに、水を撒き続けた。
時間はゆっくりと、けれど確実に進んでいく。
東の空が少しずつ明るさを増し、雲の端に光が差し始めた。
その光が畑のすべてを静かに染めていく。
柔らかく、優しく、誰にも急かされることのない朝。
私は一度立ち止まり、ホースの先を少しだけ下に向けて、水を止めた。
自分の靴のつま先に落ちた水が土にしみていくのを見つめながら、もう一度、ゆっくりと深呼吸をした。
「今日も……やってみるだけ」
小さく口に出してみると、その言葉が、空気にふわりと溶けていった。
誰に向けたものでもない、でも、たしかに自分のなかから出てきた言葉だった。
昨日より、ほんの少しだけ軽くなった足取り。
緊張と不安のなかに、小さな楽しさと、誇らしさのようなものが混ざっている。
それをうまく言葉にはできないけれど、でも、ちゃんと感じている。
私は再びホースを握り、水を撒き始めた。
朝の陽が、少しずつ地面を照らし始めている。
新しい一日が、また始まろうとしていた。
0
あなたにおすすめの小説
14歳で定年ってマジ!? 世界を変えた少年漫画家、再起のノート
谷川 雅
児童書・童話
この世界、子どもがエリート。
“スーパーチャイルド制度”によって、能力のピークは12歳。
そして14歳で、まさかの《定年》。
6歳の星野幸弘は、将来の夢「世界を笑顔にする漫画家」を目指して全力疾走する。
だけど、定年まで残された時間はわずか8年……!
――そして14歳。夢は叶わぬまま、制度に押し流されるように“退場”を迎える。
だが、そんな幸弘の前に現れたのは、
「まちがえた人間」のノートが集まる、不思議な図書室だった。
これは、間違えたままじゃ終われなかった少年たちの“再スタート”の物語。
描けなかった物語の“つづき”は、きっと君の手の中にある。
パンティージャムジャムおじさん
KOU/Vami
児童書・童話
夜の街に、歌いながら歩く奇妙なおじさんが現れる。
口癖は「パラダイス~☆♪♡」――名乗る名は「パンティージャムジャムおじさん」。
子供たちは笑いながら彼の後についていき、歌を真似し、踊り、列は少しずつ長くなる。
そして翌朝、街は初めて気づく。昨夜の歌が、ただの遊びではなかったことに。
星降る夜に落ちた子
千東風子
児童書・童話
あたしは、いらなかった?
ねえ、お父さん、お母さん。
ずっと心で泣いている女の子がいました。
名前は世羅。
いつもいつも弟ばかり。
何か買うのも出かけるのも、弟の言うことを聞いて。
ハイキングなんて、来たくなかった!
世羅が怒りながら歩いていると、急に体が浮きました。足を滑らせたのです。その先は、とても急な坂。
世羅は滑るように落ち、気を失いました。
そして、目が覚めたらそこは。
住んでいた所とはまるで違う、見知らぬ世界だったのです。
気が強いけれど寂しがり屋の女の子と、ワケ有りでいつも諦めることに慣れてしまった綺麗な男の子。
二人がお互いの心に寄り添い、成長するお話です。
全年齢ですが、けがをしたり、命を狙われたりする描写と「死」の表現があります。
苦手な方は回れ右をお願いいたします。
よろしくお願いいたします。
私が子どもの頃から温めてきたお話のひとつで、小説家になろうの冬の童話際2022に参加した作品です。
石河 翠さまが開催されている個人アワード『石河翠プレゼンツ勝手に冬童話大賞2022』で大賞をいただきまして、イラストはその副賞に相内 充希さまよりいただいたファンアートです。ありがとうございます(^-^)!
こちらは他サイトにも掲載しています。
【奨励賞】おとぎの店の白雪姫
ゆちば
児童書・童話
【第15回絵本・児童書大賞 奨励賞】
母親を亡くした小学生、白雪ましろは、おとぎ商店街でレストランを経営する叔父、白雪凛悟(りんごおじさん)に引き取られる。
ぎこちない二人の生活が始まるが、ひょんなことからりんごおじさんのお店――ファミリーレストラン《りんごの木》のお手伝いをすることになったましろ。パティシエ高校生、最速のパート主婦、そしてイケメンだけど料理脳のりんごおじさんと共に、一癖も二癖もあるお客さんをおもてなし!
そしてめくるめく日常の中で、ましろはりんごおじさんとの『家族』の形を見出していく――。
小さな白雪姫が『家族』のために奔走する、おいしいほっこり物語。はじまりはじまり!
他のサイトにも掲載しています。
表紙イラストは今市阿寒様です。
絵本児童書大賞で奨励賞をいただきました。
極甘独占欲持ち王子様は、優しくて甘すぎて。
猫菜こん
児童書・童話
私は人より目立たずに、ひっそりと生きていたい。
だから大きな伊達眼鏡で、毎日を静かに過ごしていたのに――……。
「それじゃあこの子は、俺がもらうよ。」
優しく引き寄せられ、“王子様”の腕の中に閉じ込められ。
……これは一体どういう状況なんですか!?
静かな場所が好きで大人しめな地味子ちゃん
できるだけ目立たないように過ごしたい
湖宮結衣(こみやゆい)
×
文武両道な学園の王子様
実は、好きな子を誰よりも独り占めしたがり……?
氷堂秦斗(ひょうどうかなと)
最初は【仮】のはずだった。
「結衣さん……って呼んでもいい?
だから、俺のことも名前で呼んでほしいな。」
「さっきので嫉妬したから、ちょっとだけ抱きしめられてて。」
「俺は前から結衣さんのことが好きだったし、
今もどうしようもないくらい好きなんだ。」
……でもいつの間にか、どうしようもないくらい溺れていた。
王女様は美しくわらいました
トネリコ
児童書・童話
無様であろうと出来る全てはやったと満足を抱き、王女様は美しくわらいました。
それはそれは美しい笑みでした。
「お前程の悪女はおるまいよ」
王子様は最後まで嘲笑う悪女を一刀で断罪しました。
きたいの悪女は処刑されました 解説版
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる