土から育てるぼくらの青春

武内れい

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第一章:はじめの一歩

20、新しい朝の気配(後半)

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 一通りの水やりを終えるころ、空はすっかり明るくなっていた。
 朝露に濡れた土は、光を浴びて湯気のような匂いを立ち上らせる。
 その匂いは、昨日の記憶と今日の始まりをまぜこぜにして、胸の奥にしみ込んでくるようだった。

 ホースの水を止めて蛇口を閉め、私はゆっくりと背筋を伸ばした。
 腰のあたりがじんわりと重くて、慣れない作業の余韻が体の中にまだ残っていた。
 でもその重さが、なぜだか心地よく感じる。
「ちゃんと動いたんだな」って、体が教えてくれるみたいだった。

 畑のすみには、小さな木造のベンチが置いてある。
 私はそこに腰をおろして、首元のタオルでうっすらと汗をぬぐった。
 まだ風は涼しいけれど、動いたあとの体はじっとりとしていて、ほのかに熱を持っている。
 その温度もまた、昨日とは違って、自分のものとして感じられた。

 ポケットからスマホを取り出して、昨日撮った野菜の写真を眺める。
 ピーマンの艶やかな緑、トマトのつやつやした赤、まだ小さなきゅうりの粒のような姿。
 画面のなかのそれらは、まるで「生きてるよ」と声をかけてくるみたいだった。

 ……やっぱり不思議だ。
 たった数日で、こんなにも何かが変わった気がする。
 何が、とはまだはっきりと言えないけれど。
 学校と家の往復だけだった日々のなかに、畑というもう一つの場所ができて。
 そこで動く自分の手や、誰かの声や、風の感触が、確実に私を少しずつ揺らしている。

 昨日、美咲が「また来週も行こうね」って言った声が頭の中によみがえる。
 あの子の笑顔や、言葉のテンポが少しずつ自然に近づいてきている気がして、胸の奥が温かくなった。
 拓海くんの「手つき、慣れてきたじゃん」ってひとことも。
 私はあのとき、何も返せなかったけれど、本当は嬉しかった。
 ぎこちなくても、伝えようとしてくれる言葉が、あんなにまっすぐ届くなんて。

 小屋の奥のほうから、カラスが一羽、カアと鳴きながら飛び立っていった。
 その黒い羽根が朝日を浴びて、ほんの一瞬だけ青く光るのが見えた。
 まるで夜と朝のはざまを運ぶ鳥みたいに、カラスは田んぼの向こうへ消えていった。

 私は立ち上がり、手をパンと軽く叩いた。
 靴の裏に少しだけ土がついていて、地面にぽとりと小さな跡を残した。
 その形が、私がここにいた証のように思えて、なんだか見つめてしまう。

 帰り道は、行きよりも少し明るくなっていた。
 通学途中の小学生たちが、前を走り抜けていく。
 ランドセルに揺れるお守りや、草のついた帽子。
 私よりもずっと元気そうなその背中を、少し離れた場所から見送る。

 ふと、畑から離れる足取りが軽くなっているのに気づいた。
 昨日までは、体を前に押すように歩いていたのに。
 今は、なにかに背中をそっと押されているようだった。

「やってみるだけ」

 そう口のなかでつぶやいてみると、声にならない音が舌先にふわりと乗った。
 昨日よりも、少しだけ確かに言えた気がした。

 道ばたには、小さな花がいくつか咲いていた。
 名前も知らない、紫色の小さな花。
 私はしゃがみこんで、その花にそっと指を伸ばした。
 触れるか触れないかの距離で、指先に風が吹き抜ける。
 それだけで、胸がすうっとなった。

 また一歩、踏み出していい気がした。
 誰かのペースじゃなくて、自分の足で、自分の歩幅で。
 畑という場所が、それを教えてくれた。

 私はもう一度背筋を伸ばして、歩き出した。
 朝の光が背中を包む。
 遠くで犬の鳴き声がして、空には白い飛行機雲がゆっくりと伸びていた。

 一日がまた始まる。
 それは、昨日と同じようでいて、やっぱり少しだけ違う。
 私のなかで動き出した何かが、それを確かに教えてくれる。

 今日も、やってみるだけ。
 その言葉を胸に、私は通学路をまっすぐに進んだ。
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