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第二章:気まずさと距離感
33、好きってなんだっけ(前半)
しおりを挟む家の窓の外は、すっかり夜の色に染まっていた。昼間のざわざわした気持ちはまだ胸の奥でじんわりと残っていて、私は居間のすみにあるアップライトピアノの前に座っていた。
部屋の明かりは少し暗めで、天井の照明が黄色くピアノの鍵盤を照らしていた。外からは時おり、車の通る音がかすかに聞こえるだけで、家の中はしんと静かだった。
指先に力をこめて、私は音をひとつ、ぽつりと鳴らした。
「……ド」
それから続けて、ミ、ソ。
いつもなら慣れているはずの練習曲なのに、何度弾いてもミスタッチばかりで、きれいな音にならない。右手と左手のタイミングがずれて、和音がくぐもった音に変わってしまう。
「……もう、なんで……」
小さくつぶやいて、私は指を止めた。
いつからだろう。ピアノを弾くのが、こんなに重たく感じるようになったのは。好きなはずだったのに。ううん、今でも好きなはずなのに。
でも、今日の私の心は、まるでどこか遠くに行ってしまっているみたいだった。
頭の中には、昼間のいろんなことがぐるぐる回っていた。
颯太のこと。レナのこと。図書室での湊とのやりとり。先生の言葉。
その全部が、まだ頭の中でまとまらなくて、私はどうしてもピアノの音に気持ちをのせられなかった。
「好きって……なんなんだろう」
ぽつりと、誰に聞かせるでもなく言葉がこぼれた。
ピアノの上には、教本と練習ノート。それと、小学校に入ってからずっと使ってる、小さな木のメトロノームが置いてある。いつの間にか止まった針が、ちょっと斜めになって見えた。
「ほのか、大丈夫? 無理しなくていいのよ」
リビングから、お母さんの声がやさしく届いた。
「……うん。大丈夫」
私は返事をして、でもピアノにはもう手を戻さなかった。
ほんとうは、「大丈夫じゃないかも」って言いたかった。
でも言ったところで、なんて説明すればいいのか、私にはまだわからなかった。
好きって言葉、どうしてあんなに強く響くんだろう。
友達って、ただ仲良く笑い合うだけじゃ、だめなのかな。
颯太のこと、たしかに気になってる。ちょっと話しかけられたら、うれしくなる。だけど、それって好きってことなの?
最近は、クラスのあちこちで「○○が○○を好きらしいよ」っていう声が聞こえてくる。LINEでも、そんな話題がやたらとまわってくる。
「付き合うとか、両想いとか……そういうの、ちゃんとわかってなきゃダメなの?」
つぶやいても、答えなんて返ってこない。
私は膝の上で手を握ったり開いたりしながら、自分の胸の奥の気持ちを探してみる。でも、それはまだ、はっきりした形になってくれなかった。
わからない。
でも、たしかに何かがある。
湊と図書室で交わした一言。あのとき、なぜか少しだけ救われた気がした。私の話にちゃんと耳を傾けて、黙ってうなずいてくれた湊。
それだけのことなのに、なんであんなに安心できたんだろう。
そして、颯太。バカみたいにふざけてる姿に、笑っちゃうこともあるし、ちょっとイラっとすることもある。でも、怒ったあとにごめんって書いたプリントを見たとき、心のどこかがほっとした。
もしかしたら、それも好きってことの一部なのかな。
だけど、付き合うとか両想いっていう言葉をあてはめたとたんに、それがすごく遠く感じてしまう。
……それって、おかしいのかな。
気づけば、私はピアノの鍵盤のふちにそっと頬をのせていた。冷たいはずなのに、その冷たささえも今は落ち着く気がして、しばらくそのまま目を閉じる。
どこかから、夕ごはんのにおいがかすかにしてきた。お味噌汁の香り。たぶん、わかめと豆腐かな。
「好きって、ちゃんと言葉にしなきゃいけないの?」
「友達のままじゃ、だめ?」
私の中で、何度もその問いがぐるぐるとまわる。
でも――たぶん、今はまだその答えを無理に出さなくてもいいのかもしれない。
そう思えたら、ちょっとだけ呼吸がしやすくなった気がした。
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