恋や友情が、なくても

武内れい

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第二章:気まずさと距離感

35、偶然の再会(前半)

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 放課後の空気は、少しだけ冬の名残を残していて、肌に触れる風がほんのり冷たい。
 学校からの帰り道、私はなんとなくこむぎ日和に寄り道していた。

 焼きたてのパンの匂いが、ガラス戸越しにほのかに香ってくる。
 それだけで、体の奥からほっとする感じがして、自然とドアに手を伸ばしていた。

 カラン、と鈴の音。
 あたたかな店内の空気に包まれながら、一歩足を踏み入れた瞬間だった。

「……あ」

 レジ横の木のベンチに、小さくうずくまるように座っている男の子の姿が目に入った。
 マフラーを首にゆるく巻いて、フードをかぶったまま、両手でパンを包んでいる。

 一瞬、声をかけようか迷って――でも、気づいたら口が動いていた。

「……沢井くん?」

 彼が、こちらに顔を向けた。
 少しやつれたような、でも変わっていない顔。
 大きな目と、少し伏せがちなまなざし。

「あ……朝見さん……?」

 かすれた声でそう言った陽翔の視線が、すぐにまたパンへと戻った。
 私はどう返せばいいかわからず、とりあえずレジの手前まで歩いていく。

「……ひさしぶりだね」

 ようやく絞り出したその言葉に、陽翔は小さくうなずいた。

「うん……ひさしぶり」

 パン屋の奥から、やさしい笑顔のおばさんが「いらっしゃい」と声をかけてくれる。
 私は手を振って、「見てから決めます」と軽く返した。

 店内には、甘いミルクパンやチョコ入りクロワッサン、ふかふかのロールパンが並んでいる。
 でも、今日はどうしても、目の端に映る陽翔の存在が気になって、手が伸びなかった。

「……パン、好きなんだね」

 私のつぶやきに、陽翔は少しだけ肩をすくめた。

「うん。……ここの、あったかい匂いが好き。……落ち着くから」

「……わかるかも」

 私もそう思ってた。
 なんでもない放課後に、なんとなく立ち寄るこの店が、どこか心の休憩場所みたいに感じてた。

 ふと、陽翔がぽつりとつぶやいた。

「学校、行ってないけど……ここのパンの匂い嗅いでると、呼吸がしやすくなるんだ」

 その言葉は、静かだけど、私の胸にすとんと落ちてきた。

「呼吸……?」

「うん。学校にいると、息が詰まりそうになる時があった。苦しくて。……でも、ここに来ると、少しだけ息ができるっていうか……そんな感じ」

 私は、何も言えなくなった。
 わかる、なんて簡単には言えない。
 でも、きっとそれに近い気持ちを、私はどこかで知ってる気がした。

 教室のざわめきの中で、言いたいことが言えなくなること。
 みんなと同じ空気に馴染めなくて、自分だけが浮いてる気がすること。

「……私も、最近ちょっと苦しかった」

 やっとの思いで、私は口を開いた。

「学校で、うまく話せなくなっちゃって。なんか、自分だけちょっとズレてるみたいな……そんな感じ」

 陽翔は顔をあげて、私の方をじっと見た。
 その目の奥に、驚きと、少しだけ安心したような色が浮かんでいた。

「……朝見さんでも、そういうの、あるんだ」

「うん。あるよ。全然、うまくいかない日とか、いっぱいある」

 パン屋の中に流れるBGMの、小さなメロディが耳に届いた。
 それが、ふたりの間の沈黙をそっと包んでくれる。

 外はもう、夕暮れの色に染まりはじめていた。
 ガラス越しに見える空が、薄オレンジ色に変わっていて、街灯が一つ、また一つと灯りはじめる。

 私はふと、ショーケースの中に並んでいた小さなクリームパンに目を留めた。
 あたたかそうな色と、ふっくらとした形。
 なんだかそのパンも、陽翔と同じで、ここにいることが理由のすべてのような気がした。

「……これ、ください」

 私がそう言うと、おばさんはにこにことパンを紙袋に入れてくれた。

 その香ばしい香りが、心の中まで届いてくる。
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