恋や友情が、なくても

武内れい

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第二章:気まずさと距離感

37、仲直りのきっかけ(前半)

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 教室の扉を開けた瞬間、空気がひんやりしていることに気がついた。
 昼間の熱が少しずつ抜けて、夕方の冷たさが、静かに入り込んできている。
 いつもなら気にもとめない廊下の風が、今日はやけに肌に触れてくるようで、私は自然と肩をすくめた。

 誰もいない教室。
 机も椅子も、きちんと前を向いて整列している。
 さっきまで笑い声や話し声であふれていた場所とは思えないくらい、しんと静まりかえっていた。
 黒板のチョークのあとが、夕陽に照らされて少しきらきらして見える。
 窓際の白いカーテンが、風にゆらゆら揺れていて、床にはそれに合わせて長い影が落ちていた。

 私はランドセルを背負ったまま、ゆっくりと教室の奥、自分の席に向かって歩いた。
 その途中、机の上に何かが置かれているのが、視界の端にひっかかった。

 一枚のプリントだった。
 宿題でもなければ、テストでもない。
 裏返しになっていて、光に透けて、うっすらと何か文字が見えた。

「……?」

 何気なく手に取って、くるっと裏返す。
 その瞬間、ふいに、心臓がトクンと跳ねた気がした。



「昨日は ごめん 高森より」



 それだけ。
 ほんの短い一文。
 でも、そこに詰まっている気持ちは、すぐに伝わってきた。

 文字はちょっとだけ斜めに傾いていて、ところどころ形がいびつで、まるで手が震えながら書いたみたいだった。
 でも、それが逆に、颯太らしかった。
 乱暴そうで、てきとうそうで――だけど、ちゃんと考えてくれている。
 そんならしさがにじみ出ている字だった。

 声に出すんじゃなくて、目を見て言うんじゃなくて、こうして紙に書いて、そっと机の上に置いておく。
 誰にも気づかれないように。
 でも――私には届くように。

「なんだよ、それ……」

 思わず、小さく笑ってしまった。
 笑ったのは、今日初めてかもしれない。
 机にひじをついて、もう一度、その文字をゆっくり目で追った。

「昨日は、ごめん。」

 それだけなのに、すごくたくさんの気持ちがこめられている気がした。
 言葉って、こんなに短くても、伝わるんだなって思った。

 私、ずっとモヤモヤしてた。
 颯太のあの態度にムカついたし、自分が怒ってしまったことにも、あとから罪悪感が残ってた。
 友達なのに。
 どうして、ちゃんと笑っていられなかったんだろう。
 どうして、すぐ怒っちゃうんだろう。

 ――でも、きっと颯太も、同じように思ってたのかもしれない。

 ふざけたことを言ったあとで、私の顔を見て、少しだけ驚いたような、困ったような顔をしてた。
 あの顔が、ずっと頭に残ってた。
 ごめんって、言いたかったのかもしれない。
 でも、そのタイミングを逃して、言えなかったのかもしれない。

 そして今日、こうして紙に書いて、置いていってくれた。

「……不器用すぎるよ、ほんとに」

 でも、だからこそ――心にしみた。
 言葉が、じんわりと私の中に広がっていく。
 怒りとか、寂しさとか、そういうごちゃごちゃした気持ちを、少しずつ溶かしていくように。

 ふと、昨日の放課後を思い出した。

 あのあと、私は保健室で川島先生と話した。
「優しい子ほど、自分の怒りを許せなくなるのよ」って言われて、なんだか涙が出そうになった。
 私の中のいろんな気持ちを、川島先生は静かにすくい取ってくれた。
 そして今は、颯太のこの言葉が、また別の形で私の心を包んでくれている。

 たぶん、私はずっと誰かに――「大丈夫だよ」って、言ってほしかったのかもしれない。
 自分の感情をぶつけたっていいし、それでもちゃんと関係をつなごうとしてくれる人がいるんだって。
 そのことが、すごくうれしかった。

 私はプリントを、そっと折りたたんだ。
 小さく、小さく――まるでお守りみたいに。
 筆箱の中にそっと入れると、心の奥までふわっと温かくなる感じがした。

 明日、ちゃんと返事をしよう。
 口でうまく言えなくても、笑顔でもいい。
 読んだよって伝えるだけでも、きっといい。

 ほんのちょっとでも、気持ちを前に出せたら、それだけで十分だと思えた。

 私は席を立ち、教室をひとまわり見渡す。
 もう誰もいない教室は、静けさの中に夕方の優しい光をたたえていて、いつもの場所なのに、ちょっとだけ違う世界みたいに見えた。

「……明日、がんばろう」

 誰にも聞こえないような声でつぶやいて、私はゆっくりと教室をあとにした。

 ポケットの中の指先が、ほんの少しだけ、あたたかかった。
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