42 / 53
第四章
【アズトール伯爵視点】
しおりを挟むリリー・アレナの姿が見えなくなった途端に、周囲に立ち込めた黒い霧と銀色の光が消滅した。まるで何もなかったかのような、いつも通りの廊下に戻っている。
しかし私の手には無数の裂傷が走り、血が滴り続けていた。窓も一部が破損している。
「アズトール伯爵! 手を見せてください!」
駆け寄ってきたサイラムが、強引に私の手をつかんだ。
いつもは穏やかな物腰を崩さないのに、私が拒むことを許さないような表情だ。
「ひどい傷だ。……毒の反応はないようですが、念のため、これを飲んでください」
サイラムは私に薬瓶を押し付ける。
魔獣退治に出向くときに携帯するような、貴重な毒消しの薬だ。
魔剣を鞘に納め、薬を一息に飲み干す。濃い魔力が含まれているせいで、舌先が痺れるように甘く感じる。
この味を「苦い」と感じた時は、命が失われつつあるという。
「甘いな」
「それはよかったです。伯爵様の気力と体力は、魔力を取り込んでも問題ないようですから。……傷を治癒します」
少しだけ微笑んだサイラムは、すぐに真顔に戻って私の腕の傷口に手をかざす。緩やかな詠唱とともに、傷口に熱が集まるのを感じた。
次の瞬間、傷という傷が一斉に燃えるように痛む。でもそれは本当に一瞬で過ぎ去り、傷があった場所は全て新しい皮膚に覆われていた。
まだ皮膚に残っている血を用心深く拭き取って、全ての傷口がふさがっていうことを確認したのか、サイラムはやっと手を離した。
「見事だな。痛みもほとんどなかったぞ」
「治癒術は鍛えられてきましたから。……それで、リリーは?」
「拐われたようだ。まさか、リリー・アレナを狙っていたとは予想外だった」
私は廊下の向こうに目を向ける。
治癒師サイラムも振り返った。廊下の向こうから駆けてくるのは、オクタヴィアだった。
どうやら、長女は無事だったらしい。
ただし、付き従っている騎士は無事ではなかった。無傷なものはほとんどいない。だがどれも軽傷ですんでいるようで、サイラムが手をかざすとすぐにそれも癒えていった。
「お父様……今回のことは……」
オクタヴィアはまだ青ざめている。
しかし顔はしっかりしていて、次期当主として不足はない。気弱なところを心配していたが、急激に成長したようだ。
いや、リリーのために成長したのだろう。だがそのリリーは、私の目の前で……。
私はグッと歯を噛み締める。それから静かに告げた。
「お前が狙われたと思ったのだが、本命はリリーだったようだな」
「なぜリリーが狙われたのでしょうか。まだ何も表に出ていないはずなのに。それに、今も強力な魔力が残っているようではありませんか」
「わからない。だから、助力を求めよう」
「……それで良いのですか?」
「我がアズトールの誇りなど、あの子の無事と引き換えならば安いものだ」
私が呟くと、オクタヴィアは僅かに目を大きくした。でも反対することはない。同じことを考えていたんだろう。
控えているロイカーに、王宮に向けて知らせを送るように命じようとした時、割れた窓から何かが飛び込んできた。
鳥だ。
小さな鳥が、ひらりと翼を動かして廊下を回る。
一瞬、皆の動きが止まる。
しかしロイカーはいつでも魔力を発動できるように陣を描いている。私も魔剣の柄に手をかけた。
ピュイ、と鳥が鳴く。
くるりと同じ場所で円を描き、飛びながらを大きく翼を広げた。まるで着地をする直前のような動きで、でも次の瞬間、ぼうっと青い炎が生じた。
「……これは、まさか」
私が剣を抜きかけた横で、ロイカーが愕然と呟く。その声に危機感はなく、私は剣を抜く手を止めた。
小鳥の体が青い炎に包まれる。
しかし燃えているわけではなく、華奢な鳥の体の真上に炎で描かれた魔法陣が浮かび上がっていることに気がついた。
ゆらりと青い炎が揺れる。
その中から人の形が生じて、緩やかに廊下の床へと降り立つ。小鳥はその肩にとまった。
「非常時ゆえ、失礼する」
炎の中から現れた人物は、私を見た。
黒い髪と、氷のような水色の目。まだ周囲に青い炎をちらつかせながら、少しの気負いも感じさせない。
「ノルワール公爵閣下」
「先ほど、王都の封印に歪みが生じた。ここにも魔力が渦巻いている。一体何が……」
その言葉が、ふと途切れる。
水色の目が廊下を動き、リリーが姿を消した場所を見つめている。
目が細められ、眉が動く。肩に止まっていた小鳥が、慌てたように飛び立って、廊下をくるくると落ち着きなく飛んだ。
「……ずいぶんと舐めたことをしてくれたな」
感情のない声が聞こえる。
私はそれほど魔力を持たないが、それでも総毛立つような圧力を感じた。
だが、その魔力が突然消え、水色の目は再び私を映していた。
「リリー・アレナ嬢が何者かに拉致されたのは理解した。だが、なぜあの者なのかがわからない。あなたには心当たりがあるのか?」
半ば予想していた言葉を聞きながら、私は口を引き結んだ。
答えることはできない。
思考も封鎖しなければならない。
私の魔力など、この男が本気になれば一瞬ももたないだろうが、それでも全力で抗わなければならない。
ロイカーが緊張しているのがわかる。
オクタヴィアも一歩下がった。
しかし私はゆっくりと息を吐き、まだ握っていた剣の柄から手を離した。金属が擦れ合う音がして、魔剣は自らの重みで鞘の中に戻っていく。
できるだけ心を無にし、私は真っ直ぐに水色の目を見返した。
「申し訳ないが、あなたには言えない」
「それが答えか?」
「あなたが敵ではないことは分かっている。だが、これだけは言えぬ。あなたが知ることは止められない。あなたが簡単に暴くであろう秘密は、我らの口から告げることはない。何があろうと」
「……なるほど。では今は聞くまい。優先すべきはそれではないからな」
その言葉に、私は顔を動かしそうになった。
冷徹な公爵の言葉は、怒りを含んでいるようだった。
なおも秘密を漏らすまいとする、意固地な我らに対するものではない。まるで……あの子を拉致したものたちへの怒りのようだ。整った顔は表情が乏しい。何の感情も読み取れない。
それでも、この男があの子を救ってくれるのなら。
リリー・アレナが無事で戻るのなら、我らは何も望まないのだ。
20
あなたにおすすめの小説
転生先が意地悪な王妃でした。うちの子が可愛いので今日から優しいママになります! ~陛下、もしかして一緒に遊びたいのですか?
朱音ゆうひ@『桜の嫁入り』発売中です
恋愛
転生したら、我が子に冷たくする酷い王妃になってしまった!
「お母様、謝るわ。お母様、今日から変わる。あなたを一生懸命愛して、優しくして、幸せにするからね……っ」
王子を抱きしめて誓った私は、その日から愛情をたっぷりと注ぐ。
不仲だった夫(国王)は、そんな私と息子にそわそわと近づいてくる。
もしかして一緒に遊びたいのですか、あなた?
他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5296ig/)
余命六年の幼妻の願い~旦那様は私に興味が無い様なので自由気ままに過ごさせて頂きます。~
流雲青人
恋愛
商人と商品。そんな関係の伯爵家に生まれたアンジェは、十二歳の誕生日を迎えた日に医師から余命六年を言い渡された。
しかし、既に公爵家へと嫁ぐことが決まっていたアンジェは、公爵へは病気の存在を明かさずに嫁ぐ事を余儀なくされる。
けれど、幼いアンジェに公爵が興味を抱く訳もなく…余命だけが過ぎる毎日を過ごしていく。
私は幼い頃に死んだと思われていた侯爵令嬢でした
さこの
恋愛
幼い頃に誘拐されたマリアベル。保護してくれた男の人をお母さんと呼び、父でもあり兄でもあり家族として暮らしていた。
誘拐される以前の記憶は全くないが、ネックレスにマリアベルと名前が記されていた。
数年後にマリアベルの元に侯爵家の遣いがやってきて、自分は貴族の娘だと知る事になる。
お母さんと呼ぶ男の人と離れるのは嫌だが家に戻り家族と会う事になった。
片田舎で暮らしていたマリアベルは貴族の子女として学ぶ事になるが、不思議と読み書きは出来るし食事のマナーも悪くない。
お母さんと呼ばれていた男は何者だったのだろうか……? マリアベルは貴族社会に馴染めるのか……
っと言った感じのストーリーです。
義妹の嫌がらせで、子持ち男性と結婚する羽目になりました。義理の娘に嫌われることも覚悟していましたが、本当の家族を手に入れることができました。
石河 翠
ファンタジー
義母と義妹の嫌がらせにより、子持ち男性の元に嫁ぐことになった主人公。夫になる男性は、前妻が残した一人娘を可愛がっており、新しい子どもはいらないのだという。
実家を出ても、自分は家族を持つことなどできない。そう思っていた主人公だが、娘思いの男性と素直になれないわがままな義理の娘に好感を持ち、少しずつ距離を縮めていく。
そんなある日、死んだはずの前妻が屋敷に現れ、主人公を追い出そうとしてきた。前妻いわく、血の繋がった母親の方が、継母よりも価値があるのだという。主人公が言葉に詰まったその時……。
血の繋がらない母と娘が家族になるまでのお話。
この作品は、小説家になろうおよびエブリスタにも投稿しております。
扉絵は、管澤捻さまに描いていただきました。
看病しに行ったら、当主の“眠り”になってしまった
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全36話⭐︎
倒れた当主を看病する役目を振られた使用人リィナは、彼の部屋へ通うことになる。
栄養、灯り、静かな時間、話し相手――“眠れる夜”を整えていく。そして、回復していく当主アレクシス。けれど彼は、ある夜そっと手を握り返し、低い声で囁く。
「責任、取って?」
噂が燃える屋敷で、ふたりが守るのは“枠(ルール)”。
手だけ、時間だけ、理由にしない――鍵はリィナが握ったまま。
けれど、守ろうとするほど情は育ち、合図の灯りはいつしか「帰る」ではなく「眠る」へ変わっていく。
看病から始まった優しい夜は、静かな執着に捕まっていく。
それでも、捕獲の鍵は彼ではなく――彼女の手にある。
私をいじめていた女と一緒に異世界召喚されたけど、無能扱いされた私は実は“本物の聖女”でした。
さら
恋愛
私――ミリアは、クラスで地味で取り柄もない“都合のいい子”だった。
そんな私が、いじめの張本人だった美少女・沙羅と一緒に異世界へ召喚された。
王城で“聖女”として迎えられたのは彼女だけ。
私は「魔力が測定不能の無能」と言われ、冷たく追い出された。
――でも、それは間違いだった。
辺境の村で出会った青年リオネルに助けられ、私は初めて自分の力を信じようと決意する。
やがて傷ついた人々を癒やすうちに、私の“無”と呼ばれた力が、誰にも真似できない“神の光”だと判明して――。
王都での再召喚、偽りの聖女との再会、かつての嘲笑が驚嘆に変わる瞬間。
無能と呼ばれた少女が、“本物の聖女”として世界を救う――優しさと再生のざまぁストーリー。
裏切りから始まる癒しの恋。
厳しくも温かい騎士リオネルとの出会いが、ミリアの運命を優しく変えていく。
魔法師団長の家政婦辞めたら溺愛されました【完結】
iru
恋愛
第19回 恋愛小説大賞エントリーしています。ぜひ1票お願いします。
小説家になろうですでに完結済みの作品です。よければお気に入りブックマークなどお願いします。
両親と旅をしている途中、魔物に襲われているところを、魔法師団に助けられたティナ。
両親は亡くなってしまったが、両親が命をかけて守ってくれた自分の命を無駄にせず強く生きていこうと決めた。
しかし、肉親も家もないティナが途方に暮れていると、魔物から助けてくれ、怪我の入院まで面倒を見てくれた魔法師団の団長レオニスから彼の家政婦として住み込みで働かないと誘われた。
魔物から助けられた時から、ひどく憧れていたレオニスの誘いを、ティナはありがたく受ける事にした。
自分はただの家政婦だと強く言い聞かせて、日に日に膨らむ恋心を抑え込むティナだった。
一方、レオニスもティナにどんどん惹かれていっていた。
初めはなくなった妹のようで放っては置けないと家政婦として雇ったが、その健気な様子に強く惹かれていった。
恋人になりたいが、年上で雇い主。
もしティナも同じ気持ちでないなら仕事まで奪ってしまうのではないか。
そんな思いで一歩踏み出せないレオニスだった。
そんな中ある噂から、ティナはレオニスの家政婦を辞めて家を出る決意をする。
レオニスは思いを伝えてティナを引き止めることができるのか?
両片思いのすれ違いのお話です。
我儘令嬢なんて無理だったので小心者令嬢になったらみんなに甘やかされました。
たぬきち25番
恋愛
「ここはどこですか?私はだれですか?」目を覚ましたら全く知らない場所にいました。
しかも以前の私は、かなり我儘令嬢だったそうです。
そんなマイナスからのスタートですが、文句はいえません。
ずっと冷たかった周りの目が、なんだか最近優しい気がします。
というか、甘やかされてません?
これって、どういうことでしょう?
※後日談は激甘です。
激甘が苦手な方は後日談以外をお楽しみ下さい。
※小説家になろう様にも公開させて頂いております。
ただあちらは、マルチエンディングではございませんので、その関係でこちらとは、内容が大幅に異なります。ご了承下さい。
タイトルも違います。タイトル:異世界、訳アリ令嬢の恋の行方は?!~あの時、もしあなたを選ばなければ~
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる