姉の婚約者に口説かれた。どうやら王都の男どもの目は節穴らしい。

ナナカ

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第五章

(43)帰り道

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 ゼンフィール侯爵邸の前で待っていた馬車は、見たことのない紋章の入ったとても立派な作りをしていた。
 馬もがっしりとしているのに、とても美しい。
 いかにも乗り心地が良さそうだ。アズトール家の馬車よりすごい。馬の質ではそんなに負けていないと思うけど。
 思わず立ち止まってしまった私が、しげしげと馬や馬車を見ていると、ゼンフィール家のメイドから何か受け取ったお兄さんがやってきて、眉を動かした。

「何をしている。早く乗れ」
「いや、でもですね。……この馬車、いったいどのお家のものなのでしょう?」
「私の馬車だ。だから気にせずに乗れ」

 いや、気にしますよ!
 でもお兄さんの目が冷たいので、私は大人しく乗り込んだ。
 そっと座ってから、地下室の床で座り込んでいたことを思い出し、私のドレスが汚れていたかもしれないと慌てた。でも向かいに座ったお兄さんは、私をチラリと見てため息をついた。

「気にするなと言っただろう。多少土埃がついたとしても、大したことではない」
「でも……」
「忘れているようだが、お前は拉致された被害者だ。そんなお前のせいで汚れたとして、それを怒るほど私の家の使用人たちは心が狭くはないぞ」

 ……そうかな。
 お兄さんがそう言ってくれるなら、気にしないようにしよう。私は事件の被害者だからね。うん、ちょっと忘れていたかもしれない。
 怖かったのは確かだけど、お兄さんがすぐに来てくれたし、黒い犬にたっぷり触らせてもらって癒されたし、黒い犬がなんか本体を見せようとしていたし……。
 いや、最後のは忘れるべきことだった。

 それより、身支度を整えよう。そっちの方が建設的だ。
 私は自分のドレスを見た。見える範囲ではそんなに汚れていないし、破れたりもしていない。どのくらいの時間かはわからないけど、床に倒れ込んでいたから少し変なシワはついていた。それも、綺麗に伸ばせばそのうち目立たなくなるはず。
 軽く引っ張ったり、伸ばしたりしていると、お兄さんがメイドから受け取った袋から何かを取り出した。
 女性用の櫛だ。
 渡してくれるのかと思ったのに、私を見て少し悩んでいる。珍しい。

「……お前は、身支度はメイドにさせていたのだったか?」
「ドレスはいつも着せてもらってますけど」
「髪は整えられるか?」
「凝った形に整えるのではなければ、一通りは」

 私は庶民育ちだったから、最低限の身支度くらいはできるのだ。
 でも、胸を張った私が櫛を使って髪を解こうとした途端に、顔色を変えて櫛を取り上げられてしまった。なぜ?!

「お前の一通りは、令嬢としてではないということだけは分かった」
「あの?」
「私がやってやる。場所からをあけろ。そちらに行くぞ」

 お兄さんは私の横に座り直すと、有無も言わさずに髪を解き始めた。
 まず毛先から丁寧に櫛を入れていうのは、メイドたちのやり方と同じだ。それに手つきもとても優しい。
 ふーん、女性の髪の手入れに慣れているなんて、それはつまり、いわゆる女性たちの髪を……。

「言っておくが、お前が想像しているような女遊びのせいではないからな」
「では、誰の髪で練習したのか聞いていいですか? お兄さんも髪が長かった時期があったとかですか?」
「……昔、母の髪を整えていたことがある」

 まともに答えてくれるはずがない、と思っていたのに、お兄さんはぽつりとつぶやいた。
 でもそれ以上の言葉はなく、お兄さんは無言で私の髪に櫛を入れて行った。少しクシャッと乱れていた髪が、きれいになっていく。癖があるからサラサラにはならないけど、ふんわりとしている。もちろんどこも絡まっていない。

 でもお兄さんはそれで終わらず、窓の外を見てまだ時間があることを確かめた上で、さらに髪に何かし始めた。軽く引っ張られる感覚もあるから、何かの形に結ってくれているらしい。
 お兄さん、凝り性ですね。
 まるでメイドたちに身支度を整えてもらっているようで、私はだんだん眠くなってきた。頭を動かしたら絶対に怒られる、と思うのに目が重くてたまらない。

「できたぞ。……寝るのは家族に無事な姿を見せてやってからにしろ」

 お兄さんの声が耳元で聞こえ、私はハッと目を開けた。
 背筋を伸ばすと、お兄さんが向かいに座り直すところだった。窓を外を見ると、見慣れた木が見えた。屋敷の敷地に入っているようだ。
 帰ってきた。
 ふとそう考えて、急に嬉しくなってきた。
 程なく馬車が止まり、私は急いで立ち上がる。でもお兄さんは冷たい目で私を見て、ため息をついた。

「……少し待て」

 そう言うと、私より先に降りてしまった。
 でもそこで振り返り、私の方へと手を差し出す。一瞬、何があっているのかと悩んだけど、これが淑女への作法だと気が付いて急いでお兄さんの手を借りることにした。

 お兄さんの手は、やっぱり大きい。
 お父様ほどゴツゴツいていないけど、私が体重をかけても揺らぎはなさそうだ。だから、思い切ってお兄さんの手を頼りに馬車を降りる。
 足が無事に地面について、私は手を離そうとした。
 でもお兄さんはぎゅっと私の手を掴んだ。
 え、私、もう逃げませんよ?
 思わず首を傾げると、お兄さんはじっと私の目を見つめ、それから手を離してくれた。

「あの?」
「体調は戻ったようだな。……お前、思ったより魔力があるな」
「へ? 私が?」
「気付いていなかったのか? お前は魔力の大量放出をしていた。あの馬鹿を撃退しただろう」

 撃退?
 奇跡的に思考封鎖の魔術が成功しただけではないの?
 というか、今さらっと「馬鹿」と言ったよね? セレイス様のことだよね?!

 でもお兄さんは私の思考には答えてくれなかった。そして私もさらに聞くことはできなかった。
 屋敷の中から、恐ろしい速さで何かが接近して私を抱きしめてしまったから!
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