本当は、二番目に愛してます

唯純 楽

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馬に乗るのは、勝つためです 2

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 ビヴァリーが無事目覚めたことを確かめ、その横でちょっと微睡むつもりがうっかり日が暮れるまで寝入ってしまったハロルドは、テレンスと共に王宮の一角に宿泊してもらっているの部屋へ向かっていた。

「ビヴァリーの様子はどうですか?」

「疲れてはいるだろうが、大きな怪我はないし、身体のほうは大丈夫だろう」

 ハロルドが目覚めたとき、ビヴァリーもハロルドの横で蹲るようにして眠っていた。

 そうでなければ、アップルグリーンの瞳を潤ませた「お願い」攻撃を言い訳にして、大人しくベッドで安静を保ち、さらにもう一晩大事な客人を待たせることになったかもしれない。

「それ以外は大丈夫ではないと?」

「表面上は大丈夫なようには見えるが、色んなことが一度に起きたんだ。まだ混乱しているだろう。それに……おまえだって経験があるだろう? 時間が経ってから悪夢に悩まされることもある」

 悲惨な戦場にいるときには、それが日常であることを受け入れてしまえば感覚が麻痺して、何も感じなくなる。そうしなければ、とても乗り切れない。

 だが、平和な日常へ戻ったとき、麻痺していた感覚が蘇ると、かつての日常は悪夢に代わる。

 時間や支えてくれる人の存在がやがて悪夢を打ち消してくれることもあるが、苦しみ続ける者もいる。消えたはずの悪夢がふとした拍子に蘇ることもある。

「状況は違うが、ビヴァリーは五年前に父親を厩舎の火事で亡くしているし、今回の件は全部自分のせいだと思っている」

「生きていると思っていた母親が死んでいたなんて、確証を得るまでは言いたくなかったという少佐の気持ちはわかります。私が、ビヴァリーに余計なことを言ったせいでもあるでしょう」

 テレンスは、自分がビヴァリーにデボラたちがブレントリーに立ち寄る予定だと伝えなければよかったのだと、沈痛な面持ち言う。 

「いや……おまえから聞いていなくとも、結果は同じだったろう。俺が、確証を得るまで待たずに、可能性があるとだけでも伝えておくべきだったんだ。つい、軍にいた時のように、どこまでビヴァリーに情報を与えるかを勝手に決める癖が抜けないのが悪い」 

「思い遣っているつもりが、思い通りに動かそうとしているだけだと?」

「無意識にな」
 
 ハロルドは、十三歳から独りで生きて来たビヴァリーは弱い人間ではないと思っているし、自分にはとても乗り越えられなさそうなことを、いくつも乗り越えて来たことを尊敬している。
 
 この先だって、自分がいなくとも、ビヴァリーは逞しくひとりで生きていけるだろう。

 だからこそ、余計に手を出し、口を出したくなる。

「……ビヴァリーに必要なのは、馬だけじゃないかと思えて、焦っている部分もあるかもしれない」

「ビヴァリーにとって一番大事なのは馬であることは否定はできませんが、少佐も人間にしては、それなりに気に入られていると思いますが」

 わかっていても、他人の口から改めて言われると、かなり傷つく。
 しかも「それなり」だ。「かなり」じゃない。

 人間と張り合うよりも馬と張り合うほうがまだマシだと思っていたが、種が違うと比較の基準が違うだろう。比べるほうがどうかしている。

 最初から勝ち目がないのではということに気付いて、ハロルドが絶望しかけていると、テレンスが闇に紛れて月明かりにぼんやりと浮かび上がるものを指さした。

「あそこです」

 テレンスが示した先には、王宮の西側に作られた人工の森の入り口に佇む、長らく空き家となっている庭師用のコテージがあった。

 テレンスが陸軍大臣から脅し取った鍵で軋む扉を開けると、冷えた空気に出迎えられる。

 一度も火を入れられたことのない暖炉に歩み寄ったテレンスが軽くひと押しすると、壁が沈むようにして回転し、かび臭い空気が噴き上げた。

 実際に墓に入ったことはないが、まるで墓場のようだと思う。

 暖炉の扉の向こうには、地下へと続く階段があり、その先には、ごく限られた者しか存在を知らない地下牢があるらしい。

 暗く、湿った空気に満ちた空間は、みじめな気分を増大させるのにとても効果がありそうだ。

 しかも、どこかで絶え間なく滴っている水の音しか聞こえない暗闇は、眠りを奪い、孤独や恐怖をかき立て、ここから逃げ出したい一心で、墓場まで持って行くつもりだったことも話してしまいたくなるだろう。

(もっとも……死にかけている男には、どこにいようと大した違いはないだろうが)

 昨夜厩舎にビヴァリーを呼び出して殺しかけた馬丁の男は、助からないであろう重傷を負っていたものの、まだ生きていた。

 男が生きていると知れば、裏で糸を引いている人物が口封じをしようとするかもしれないため、表向きは死んだことしたのだ。

 昨夜は、男を診た医者にとても話せる状態ではないと言われて尋問をあきらめ、別口から誰が男に命じたのかを探り出したが、手にした情報が正しいものなのかを念のため確認したかった。

 階段を下りきったテレンスがランタンを掲げて暗闇の先を見通すと、淡い光が漏れている場所から人の気配がした。

 そちらへ向かって足を踏み出そうとしたとき、ちょうど中から護衛役の屈強な兵士二人と共に顔見知りの軍医が現れた。

「どうだ? 話せるか?」

 軍医はハロルドたちに気付くと閉めかけた兵士を止め、部屋の中へ入るよう促した。

「錯乱はしていませんが、話すのは無理でしょう。簡単な質問をするくらいなら、大丈夫でしょうが」

「あとどれくらい保つ?」

「今と同じ状態でしたら、せいぜい二日でしょう」

 男は、かろうじて水は口に含むことはできるが、馬に腹を酷く蹴られたらしく、物を食べることはできない状態だという。

 ランタンで照らしてもまだ闇が残る暗い牢の中へ入ると、壁際に置かれたベッドとも呼べない粗末な木枠の上に、浅い呼吸を繰り返している男がいた。

 薄っすらと目を開けてこちらを見ているようだが、判別できているとは思えない。

「起こしますか?」

 テレンスがなぜか腕まくりするのを見て、ハロルドは首を振った。

 まさに虫の息である男は、テレンスがちょっと小突いただけであの世行きだろう。

「おまえに、聞きたいことがある。話すことは難しいだろうから、『はい』なら瞬きを一度。『いいえ』なら目を閉じて答えろ。拒否すれば……お前の指を一本ずつ折る」

 既に、体中の骨が折れている男にとって、今さら指の一本や二本折れたところでどうってことはないかもしれないと思ったが、男は一度瞬きをした。

 ハロルドが男から聞きたいことは三つだけだ。

 単に、正しい情報かどうかを確かめたいだけだから、虫の息の男でも十分用は足りる。

「おまえに、ビヴァリーを呼び出すよう命じたのは、コルディアで馬産事業を取りまとめている男……バルクール担当官だな?」

 男は、瞬きをした。

「勝ち馬は……マクファーソン侯爵の馬になる予定だな?」

 男は、再び瞬きをした。

 アルウィンとビヴァリーが出るレースには、十五頭の馬が出走する。

 ビヴァリーひとりを排除したところで、残り十四頭もいれば何かのきっかけで番狂わせが生じる可能性はあるのだが、それがまったくないということは、ビヴァリーを除いた他の馬主もしくは騎手たちは、進んで応じたかどうかは別として、全員マクファーソン侯爵に買収されているということになる。

 そして、コルディアの繁殖を手掛けている厩舎のうち、自身が贔屓にしている厩舎から、商人を介してマクファーソン侯爵へ馬を売ったのは、バルクールだ。

「ビヴァリーを……馬たちを殺そうと思っていたのか?」

 固く目をつぶった男の眦から、透明な雫が流れ落ちた。

 後悔することを知っているだけマシだとビヴァリーには言ったが、取り返しのつかないことをしてしまったことへの後悔は、知らないほうが幸せだろう。

「馬だって、八百長で勝っても嬉しくはないだろうに」

 男が瞬きするのを見て、ハロルドは賭け事で身を滅ぼし、苦しみながら死ぬ運命にあるこの男も、かつては王宮に勤めるほかの馬丁たちと同じく、真面目に働く馬を愛する人物だったのだということを思い出した。

 大きな代償を支払うことになった男を許すつもりはない。

 だが、罪を罪とすら思わずに、代償を他人に支払わせ続けている者たちがいることを思えば、せめて犯した罪を悔いる者には、一片の慈悲が与えられてもいいのではないかと思った。

「二度目の死は、安らかなほうがいいだろう」

 男の濡れた睫毛が瞬きをするのを見て、傍らの軍医に目配せをする。

 戦場で、助からないほどの怪我を負った兵士には、安らかな眠りを与えるのが不甲斐ない指揮官としてのせめてもの償いだった。

 だんだんと穏やかな顏つきになっていく男を見下ろして、ハロルドは尋ねてみた。

「バルクールに言われなかったら……アルウィンとビヴァリーに賭けようと思っていたんじゃないのか?」

 男はハロルドを見上げて微かに唇を歪め、一度瞬きをして、ゆっくりと目を閉じた。
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