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番外編
番外編:海鷲の贈り物 9
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「あれは何ですの? これは何ですの? どうしてこんな風に? 何か意味があるのですか?」
「え、ええと、そのあれは見張りのための場所で……」
「これはハンモックという寝床をしまっているんで……」
「水が入らないように覆っているんですが、ボートの中で鳥を飼ったりすることもあるんで……」
グレースの矢継ぎ早の質問に、しどろもどろで乗組員たちが答える。
生まれて初めて、軍艦と呼ばれるものに乗船したグレースには、何もかもが珍しかった。
首都ラティフィアを出て、港町のラウィックに着いたのはちょうど昼時。
ラウィックはカーディナル海軍の拠点であるため、町は首都ラティフィアに次ぐ大きさがあり、有事の際には皇帝や皇族が首都から避難できるよう、小さな宮殿もある。
グレースは、父やアランと共に一旦町の高台にある宮殿に入り、軽く食事をしてから目的の新造艦に乗り込んだ。
ラティフィアからラウィックまでの馬車にはアランも同乗していたが、終始、皇帝とアンテメール海や北海、さらには西海での情勢などの話をしており、グレースは口を挟むことができなかった。
船に乗ってからも、いかにこの船で効果的な海戦が行えるかなどといった話や北海での勢力争いなどの話が続き、グレースはほったらかしだ。
アランと話したい気持はあれど、単なる物見遊山気分の見学ではないのだから、仕方がないとわかっていた。かまってくれないから拗ねたり不貞腐れたりするなんて、子供っぽい真似をしたいとは思わない。
二人がすっかり話に夢中なのをいいことに、グレースは気になることは自分で尋ねてみることにして、あちこち覗き込み、その辺にいる人物に説明を要求した。
港から小さなボートで沖合の船に辿り着き、そこから縄梯子で乗り移るまでは怖い思いもしたが、乗ってしまえば何の不安も感じない。
ボートから見上げた船は想像以上に大きくて驚いたが、乗ってみればさらにその大きさに驚かされた。
そびえ立つマストは天を突き、そこに白い帆が張られている姿を見たくてたまらなくなったし、できれば見るだけでなく船が風を受けて力強く進む様を体感したくなる。
船は、各階層ごとに様々な機能があり、船長や士官用の部屋からずらりと大砲が並ぶ空間。厨房や医務室に食堂と、航海に出る際にはぎっしりと食料や酒樽が詰め込まれるのだろう船倉など、迷子になりそうなほどたくさんの部屋があった。
各部屋の用途についてはもちろん、海水をくみ上げる仕組みや、錨を巻き上げる方法、ハンモックの吊るし方からしまい方まで、そこかしこにいる乗組員たちを捕まえて、事細かに説明してもらった。
ハンモックについては、収納から展開までを実演してもらい、自分でもその寝心地を試してみたかったのだが、ハンモックの持ち主に「アラン様に殺されるのでやめてくれ」と懇願され、断念した。
あまりにもグレースががっかりするのを見かねた乗組員が、アランに言えば譲ってもらえるだろうと教えてくれたので、後で訊いてみることにした。
ひと通り上から下まで、隈なく船の中を見て回り、満足して甲板へ再び上がった頃にはすっかり日が傾きかけていた。
あまりに面白くて時間が経つのも忘れていた。
いい加減、二人の話も終わっただろうと思ったグレースは、何故か青い顔をしたアランと父に出迎えられて驚いた。
「グレースっ!」
「グレース、一体、どこへ行っていたんだっ!?」
一番高い船尾の甲板にいたアランは、グレースを見つけるなり飛び降りてきて、両腕を掴んでガクガクと揺さぶった。
「船内にいたのかっ!? どうして案内を頼まなかったんだっ!」
頼みたくとも頼めなかったのだと主張したいところだが、見学中、ことあるごとに乗組員たちが現在この船の仮の船長であるアランの意向をとても気にしていたことを思い出した。
船では、船長の命令は絶対であり、逆らってはいけないらしい。
グレースは、勝手に見て回ったのはいけなかったと反省した。
「あの、許可なく勝手に歩き回ってしまい、申し訳ありませんでした。アラン様と陛下はずっとお話していらっしゃったので、お忙しいかと……」
「声をかけるくらいできただろうがっ!? 船の上で行方がわからなくなれば、海に落ちたかもしれないという可能性を真っ先に考えるんだっ! 落ちたところを誰も目撃していなければ、気付くまでに時間が掛かかり、手遅れになる。こんな着飾った格好で海に落ちたら、たとえ水練でも溺れるだろうがっ」
ビリビリと鼓膜が破れそうな大声で叱られ、グレースは竦んでしまった。
荒々しい人間はもとより身近にはいないし、叱られるとしても、せいぜい教師に礼儀作法などのことでネチネチ言われた程度。父の皇帝も、数多くの妃を娶っているため、女性の扱いは心得ており、厳しくはしても、声を荒らげることはほとんどない。
自分よりも大きな男性に、大声で、しかもキツイ口調で叱られると怖さが先に立ってしまい、何を言われているのか耳に入って来なくなる。
「おい、聞いているのかっ!?」
恐怖のあまり涙目になりながら、聞こえてはいると微かに頷いたとき、「ピゥィーッ」という甲高い鳴き声が聞こえた。
「――っ!」
大きな影が突然横合いから突っ込んで来たと思ったら、黄色い鉤爪がグレースを掴むアランの腕に食い込んだ。
「うっ! ちょっと待て、誤解だっ! 襲ってないっ!」
獲物を捕獲するように、アランの腕を掴み上げたのは海鷲だった。
驚くグレースの目の前で、海鷲は大きな翼でアランを滅多打ちにする。
「いっ!」
やがて海鷲の黄色い嘴が形のよい左の耳を齧ったところで、グレースは慌てて涙を拭って止めに入った。
「やめっ、やめてっ!」
海鷲は、グレースの声を聞くなり、アランの耳をくわえたままぴたりと動きを止めた。
金色の瞳には、『本当にやめていいのか?』と問う色がある。
グレースがすぐに反応せずにいると、ぎゅーっと引っ張った。
「――っ!」
アランは、みっともなく悲鳴を上げはしなかったが、その額には脂汗が滲み、焦茶色の瞳は潤んでいる。
「と、とりあえず、やめなさい」
グレースが海鷲に命ずると、アランは恐怖に顔を引きつらせながら呟く。
「とりあえず……?」
海鷲はグレースの命令なら仕方ないとでも言うようにあっさり嘴を離したが、アランの腕には乗っかったままだ。
「あ、血が……」
見れば、鋭い嘴の攻撃を受けたアランの耳朶には赤い血が滲んでいた。
「思い切り齧りやがって……」
忌々しげに海鷲を睨みながら、アランは懐から取り出した手巾で耳を覆ったが、逆手のために押さえづらそうだ。
「私が押さえます」
グレースが手を差し伸べて代わりに押さえると、アランは「すまない」と言って手を離す。
必然的に再び距離が近くなったが、見つめ合うのも恥ずかしく、グレースが伏し目がちに視線を逸らすとアランがぼそっと呟いた。
「悪かった。怒鳴ったりして……」
「い、いえ……船の上での振舞いについて、不勉強で……私が、軽率でした。申し訳ありません」
アランが怒ったのは、姿の見えないグレースの居場所がわからず、海に落ちたのではないかと心配してくれたからだ。
怒鳴りつけられるのは好きではないが、叱られるような真似をしてしまった自分が悪いとグレースも詫びた。
「その、泣かせるつもりはなかった。もしも、気付かぬうちに海に落ちていたらと、焦って……」
大きな手が頬を覆い、固い指が優しく濡れた目元を拭う。
思わず頬ずりしたくなってうっとりしかけたところで、アランが咳払いした。
「んんっ……グレース。こいつを追い払ってくれないか?」
「……?」
視線の先には、アランの左腕をしっかりと鉤爪で捕獲したまま、二人の間に挟まっている海鷲がいる。
金色の瞳には『必要ならいつでも襲うぞ』という脅しが見て取れた。
海鷲はリヴィエール公爵家と長い付き合いがあるらしいが、アランよりもグレースの言葉を優先してくれるのは、やはり餌付けに成功したということだろうか。
ゲンキンでも心強い味方だ。
魚で買収できるなら、安いものだ。
「追い払って、どうするつもりです?」
アランは「どうもしない」と言ったものの、視線をさまよわせている。
信用していいものかどうか迷うところだが、もう怒鳴ることはないだろうと判断し、グレースは海鷲に頷いてみせた。
もちろん「もう手助けはいらない」という意味ではない。「必要なときは全力で手助けをお願いする」という意味だ。
海鷲は、今回は見逃してやると言うようにアランを一瞥するとふわりと浮き上がり、偶然を装ってアランの頭をひと叩きしてから、あっという間に空へと消えた。
アランを捕まえる姿ではなく、海で魚を捕まえる姿を見られなかったのが残念だ。
ひらひらと舞い落ちてくる一枚の羽根を見上げながら、「ペン以外の何かに使えるかしら」などと考えていると、アランが大きな溜息を吐いて、いきなりその右腕をグレースの腰に回して引き寄せた。
「きゃっ」
広い胸にぶつかるようにして抱き込まれ、硬直したグレースの耳に、先ほどとは違う穏やかで少し掠れた声が落ちる。
「知りたいことは何でも俺が教えるから、黙っていなくなったりしないと約束してくれ」
「は、はい……」
すっかり慣れた心地よい匂いを吸い込んで、グレースは頷き、侍女たちから聞いて気になっていたことをさっそく尋ねてみた。
「では。庭からこっそり覗いていたというのは、本当でしょうか?」
「え?」
「いつから、私のことをご存知で?」
「あ、いや……」
「ドレスは、結局どれくらいお贈りになって?」
「……」
「何でも教えてくださるのでしょう?」
「勘弁してくれ……今は」
呻くように答えるアランに、グレースは「わかりました」と答えた。
別に急ぎの用件でもないから、猶予を与えたところで問題はない。
しかし、うやむやにはしたくない。
「では、いつならいいのでしょう?」
「……」
結局、アランから回答を貰えぬまま、日が落ち切る前に港へ戻るため、船を離れた。
日が暮れてから首都へ戻れば着くのは真夜中になる。
当初から、父とグレースはラウィックに一泊する予定になっており、そのための護衛から料理人まで必要とされる人員はすべて配置済だった。
アランも、もちろん一緒にラウィックの宮殿に泊まることになっている。
先ほどの船の上での一件を見ていた父は苦い表情で、これ以上アランを独り占めしたりはしないと言っていたから、先ほど貰えなかった回答について、アランを追及する時間はたっぷりある。
グレースは、なんの不運も降りかかって来ない、素晴らしい一日の終わりを予感して、浮かれていた。
ボートから岸壁へと飛び移るまでは。
「揺れるから、気を付けて」
グレースは、海鷲に耳を齧られて以来、再び紳士になったアランが差し出した手に、手を乗せるのと同時に足を踏み出したが、どうしたことか乗せたはずの手が空を切った。
「え…」
当然のことながら、岸壁にかかるはずの足も空を切った。
「い、やぁっ!」
すっかり油断して体重を前にかけていたせいで、波の加減で岸壁から大きく離れたボートから転げ落ち、バシャンという音と共に、海面へ落下した。
「グレースっ!」
顔を上げなくてはと思ったが、アッという間に沈み、塩辛い水がガバガバと口や鼻から入って来る。
ほとんど窒息寸前のグレースだったが、力強い腕に引き揚げられ、海面から何とか顔を出すことができた。
「げほっ……う、げほっ」
「大丈夫だ。暴れれば、余計に沈む」
アランの声だった。
グレースが頷くと、首に腕を回すようにして抱えて泳ぎ出す。
「縄を!」
「アランっ!」
「引けっ!」
大勢の人の声がして、アランはグレースを背負うように体位を入れ替えると、投げ込まれた縄を掴む。
「しっかり、しがみつくんだ」
言われなくとも、とグレースがその背にぴったり貼り付けば「くっ……やばい……何の呪いだ」などと呻きながら、縄を伝って岸壁を上った。
「毛布をっ! 大丈夫か? グレース」
父に抱き止められ、毛布に包まれたグレースは、力尽きたように傍らでずぶ濡れのまま転がっているアランを見下ろした。
池に落ちてもせいぜい笑い話だが、海に落ちるのは笑い話では済まない。
カタカタ震えていると、じっとグレースを見上げていたアランが口を開いた。
再び雷のような怒声が来ることを覚悟して身を竦めたが、聞こえて来たのは笑い声だった。
しかも、爆笑だ。
「いや、もう、最高だっ! わざと落ちようと思っても、ああも綺麗には落ちないだろう? 小芝居か? 窓に池に、今度は海。次は川だな。どこからどうみても、いかにも皇女様なのに、天然だなんて……。面白すぎるだろう!」
「おも、おもしろっ……」
笑い転げるアランを見下ろしながら、グレースは怒りで顔が熱くなってくるのを自覚した。
ひとしきり笑った後、むくっと起き上がったアランは、グレースの前に跪くと濡れて頬に貼り付いた髪を払い、にやりと笑った。
「グレースがいれば、きっと、一生退屈はしないだろうな。ただし……落ちるのは水回りに限り、俺がいるときだけにしてくれないか?」
「わ、私だっていつも落ちるわけではありませんっ! アラン様が見ていると、落ちるのですっ! ですから、アラン様が見ていなければ落ちませんっ!」
いつだって、グレースがみっともない姿をさらしてしまうのは、アランがいるときだ。要するに、アランがいなければ落ちないはずだと主張すれば、アランは目を見開き、顔を背けた。
俯く肩が震えているのは、怒りのためでも涙のためでもない。
「何がおかしいのですっ!?」
「ぐふっ……お、おかしくはない。ただ……」
アランは咳払いして笑いを誤魔化したが、その顔は緩み切っていた。
「こ、この、ぶっ……」
ワナワナと震えるグレースが立ち上がろうとするのに先んじて、アランに軽々と抱き上げられた。
急に目線の高さが同じになり、顔が近づいたことに驚いていると、柔らかな温もりが唇に押し当てられた。
「……っ!」
目を見開くグレースに、アランは再びにやりと笑った。
「……こうしたくて、我慢できなくなるから、人前ではあまり落ちないように」
「え、ええと、そのあれは見張りのための場所で……」
「これはハンモックという寝床をしまっているんで……」
「水が入らないように覆っているんですが、ボートの中で鳥を飼ったりすることもあるんで……」
グレースの矢継ぎ早の質問に、しどろもどろで乗組員たちが答える。
生まれて初めて、軍艦と呼ばれるものに乗船したグレースには、何もかもが珍しかった。
首都ラティフィアを出て、港町のラウィックに着いたのはちょうど昼時。
ラウィックはカーディナル海軍の拠点であるため、町は首都ラティフィアに次ぐ大きさがあり、有事の際には皇帝や皇族が首都から避難できるよう、小さな宮殿もある。
グレースは、父やアランと共に一旦町の高台にある宮殿に入り、軽く食事をしてから目的の新造艦に乗り込んだ。
ラティフィアからラウィックまでの馬車にはアランも同乗していたが、終始、皇帝とアンテメール海や北海、さらには西海での情勢などの話をしており、グレースは口を挟むことができなかった。
船に乗ってからも、いかにこの船で効果的な海戦が行えるかなどといった話や北海での勢力争いなどの話が続き、グレースはほったらかしだ。
アランと話したい気持はあれど、単なる物見遊山気分の見学ではないのだから、仕方がないとわかっていた。かまってくれないから拗ねたり不貞腐れたりするなんて、子供っぽい真似をしたいとは思わない。
二人がすっかり話に夢中なのをいいことに、グレースは気になることは自分で尋ねてみることにして、あちこち覗き込み、その辺にいる人物に説明を要求した。
港から小さなボートで沖合の船に辿り着き、そこから縄梯子で乗り移るまでは怖い思いもしたが、乗ってしまえば何の不安も感じない。
ボートから見上げた船は想像以上に大きくて驚いたが、乗ってみればさらにその大きさに驚かされた。
そびえ立つマストは天を突き、そこに白い帆が張られている姿を見たくてたまらなくなったし、できれば見るだけでなく船が風を受けて力強く進む様を体感したくなる。
船は、各階層ごとに様々な機能があり、船長や士官用の部屋からずらりと大砲が並ぶ空間。厨房や医務室に食堂と、航海に出る際にはぎっしりと食料や酒樽が詰め込まれるのだろう船倉など、迷子になりそうなほどたくさんの部屋があった。
各部屋の用途についてはもちろん、海水をくみ上げる仕組みや、錨を巻き上げる方法、ハンモックの吊るし方からしまい方まで、そこかしこにいる乗組員たちを捕まえて、事細かに説明してもらった。
ハンモックについては、収納から展開までを実演してもらい、自分でもその寝心地を試してみたかったのだが、ハンモックの持ち主に「アラン様に殺されるのでやめてくれ」と懇願され、断念した。
あまりにもグレースががっかりするのを見かねた乗組員が、アランに言えば譲ってもらえるだろうと教えてくれたので、後で訊いてみることにした。
ひと通り上から下まで、隈なく船の中を見て回り、満足して甲板へ再び上がった頃にはすっかり日が傾きかけていた。
あまりに面白くて時間が経つのも忘れていた。
いい加減、二人の話も終わっただろうと思ったグレースは、何故か青い顔をしたアランと父に出迎えられて驚いた。
「グレースっ!」
「グレース、一体、どこへ行っていたんだっ!?」
一番高い船尾の甲板にいたアランは、グレースを見つけるなり飛び降りてきて、両腕を掴んでガクガクと揺さぶった。
「船内にいたのかっ!? どうして案内を頼まなかったんだっ!」
頼みたくとも頼めなかったのだと主張したいところだが、見学中、ことあるごとに乗組員たちが現在この船の仮の船長であるアランの意向をとても気にしていたことを思い出した。
船では、船長の命令は絶対であり、逆らってはいけないらしい。
グレースは、勝手に見て回ったのはいけなかったと反省した。
「あの、許可なく勝手に歩き回ってしまい、申し訳ありませんでした。アラン様と陛下はずっとお話していらっしゃったので、お忙しいかと……」
「声をかけるくらいできただろうがっ!? 船の上で行方がわからなくなれば、海に落ちたかもしれないという可能性を真っ先に考えるんだっ! 落ちたところを誰も目撃していなければ、気付くまでに時間が掛かかり、手遅れになる。こんな着飾った格好で海に落ちたら、たとえ水練でも溺れるだろうがっ」
ビリビリと鼓膜が破れそうな大声で叱られ、グレースは竦んでしまった。
荒々しい人間はもとより身近にはいないし、叱られるとしても、せいぜい教師に礼儀作法などのことでネチネチ言われた程度。父の皇帝も、数多くの妃を娶っているため、女性の扱いは心得ており、厳しくはしても、声を荒らげることはほとんどない。
自分よりも大きな男性に、大声で、しかもキツイ口調で叱られると怖さが先に立ってしまい、何を言われているのか耳に入って来なくなる。
「おい、聞いているのかっ!?」
恐怖のあまり涙目になりながら、聞こえてはいると微かに頷いたとき、「ピゥィーッ」という甲高い鳴き声が聞こえた。
「――っ!」
大きな影が突然横合いから突っ込んで来たと思ったら、黄色い鉤爪がグレースを掴むアランの腕に食い込んだ。
「うっ! ちょっと待て、誤解だっ! 襲ってないっ!」
獲物を捕獲するように、アランの腕を掴み上げたのは海鷲だった。
驚くグレースの目の前で、海鷲は大きな翼でアランを滅多打ちにする。
「いっ!」
やがて海鷲の黄色い嘴が形のよい左の耳を齧ったところで、グレースは慌てて涙を拭って止めに入った。
「やめっ、やめてっ!」
海鷲は、グレースの声を聞くなり、アランの耳をくわえたままぴたりと動きを止めた。
金色の瞳には、『本当にやめていいのか?』と問う色がある。
グレースがすぐに反応せずにいると、ぎゅーっと引っ張った。
「――っ!」
アランは、みっともなく悲鳴を上げはしなかったが、その額には脂汗が滲み、焦茶色の瞳は潤んでいる。
「と、とりあえず、やめなさい」
グレースが海鷲に命ずると、アランは恐怖に顔を引きつらせながら呟く。
「とりあえず……?」
海鷲はグレースの命令なら仕方ないとでも言うようにあっさり嘴を離したが、アランの腕には乗っかったままだ。
「あ、血が……」
見れば、鋭い嘴の攻撃を受けたアランの耳朶には赤い血が滲んでいた。
「思い切り齧りやがって……」
忌々しげに海鷲を睨みながら、アランは懐から取り出した手巾で耳を覆ったが、逆手のために押さえづらそうだ。
「私が押さえます」
グレースが手を差し伸べて代わりに押さえると、アランは「すまない」と言って手を離す。
必然的に再び距離が近くなったが、見つめ合うのも恥ずかしく、グレースが伏し目がちに視線を逸らすとアランがぼそっと呟いた。
「悪かった。怒鳴ったりして……」
「い、いえ……船の上での振舞いについて、不勉強で……私が、軽率でした。申し訳ありません」
アランが怒ったのは、姿の見えないグレースの居場所がわからず、海に落ちたのではないかと心配してくれたからだ。
怒鳴りつけられるのは好きではないが、叱られるような真似をしてしまった自分が悪いとグレースも詫びた。
「その、泣かせるつもりはなかった。もしも、気付かぬうちに海に落ちていたらと、焦って……」
大きな手が頬を覆い、固い指が優しく濡れた目元を拭う。
思わず頬ずりしたくなってうっとりしかけたところで、アランが咳払いした。
「んんっ……グレース。こいつを追い払ってくれないか?」
「……?」
視線の先には、アランの左腕をしっかりと鉤爪で捕獲したまま、二人の間に挟まっている海鷲がいる。
金色の瞳には『必要ならいつでも襲うぞ』という脅しが見て取れた。
海鷲はリヴィエール公爵家と長い付き合いがあるらしいが、アランよりもグレースの言葉を優先してくれるのは、やはり餌付けに成功したということだろうか。
ゲンキンでも心強い味方だ。
魚で買収できるなら、安いものだ。
「追い払って、どうするつもりです?」
アランは「どうもしない」と言ったものの、視線をさまよわせている。
信用していいものかどうか迷うところだが、もう怒鳴ることはないだろうと判断し、グレースは海鷲に頷いてみせた。
もちろん「もう手助けはいらない」という意味ではない。「必要なときは全力で手助けをお願いする」という意味だ。
海鷲は、今回は見逃してやると言うようにアランを一瞥するとふわりと浮き上がり、偶然を装ってアランの頭をひと叩きしてから、あっという間に空へと消えた。
アランを捕まえる姿ではなく、海で魚を捕まえる姿を見られなかったのが残念だ。
ひらひらと舞い落ちてくる一枚の羽根を見上げながら、「ペン以外の何かに使えるかしら」などと考えていると、アランが大きな溜息を吐いて、いきなりその右腕をグレースの腰に回して引き寄せた。
「きゃっ」
広い胸にぶつかるようにして抱き込まれ、硬直したグレースの耳に、先ほどとは違う穏やかで少し掠れた声が落ちる。
「知りたいことは何でも俺が教えるから、黙っていなくなったりしないと約束してくれ」
「は、はい……」
すっかり慣れた心地よい匂いを吸い込んで、グレースは頷き、侍女たちから聞いて気になっていたことをさっそく尋ねてみた。
「では。庭からこっそり覗いていたというのは、本当でしょうか?」
「え?」
「いつから、私のことをご存知で?」
「あ、いや……」
「ドレスは、結局どれくらいお贈りになって?」
「……」
「何でも教えてくださるのでしょう?」
「勘弁してくれ……今は」
呻くように答えるアランに、グレースは「わかりました」と答えた。
別に急ぎの用件でもないから、猶予を与えたところで問題はない。
しかし、うやむやにはしたくない。
「では、いつならいいのでしょう?」
「……」
結局、アランから回答を貰えぬまま、日が落ち切る前に港へ戻るため、船を離れた。
日が暮れてから首都へ戻れば着くのは真夜中になる。
当初から、父とグレースはラウィックに一泊する予定になっており、そのための護衛から料理人まで必要とされる人員はすべて配置済だった。
アランも、もちろん一緒にラウィックの宮殿に泊まることになっている。
先ほどの船の上での一件を見ていた父は苦い表情で、これ以上アランを独り占めしたりはしないと言っていたから、先ほど貰えなかった回答について、アランを追及する時間はたっぷりある。
グレースは、なんの不運も降りかかって来ない、素晴らしい一日の終わりを予感して、浮かれていた。
ボートから岸壁へと飛び移るまでは。
「揺れるから、気を付けて」
グレースは、海鷲に耳を齧られて以来、再び紳士になったアランが差し出した手に、手を乗せるのと同時に足を踏み出したが、どうしたことか乗せたはずの手が空を切った。
「え…」
当然のことながら、岸壁にかかるはずの足も空を切った。
「い、やぁっ!」
すっかり油断して体重を前にかけていたせいで、波の加減で岸壁から大きく離れたボートから転げ落ち、バシャンという音と共に、海面へ落下した。
「グレースっ!」
顔を上げなくてはと思ったが、アッという間に沈み、塩辛い水がガバガバと口や鼻から入って来る。
ほとんど窒息寸前のグレースだったが、力強い腕に引き揚げられ、海面から何とか顔を出すことができた。
「げほっ……う、げほっ」
「大丈夫だ。暴れれば、余計に沈む」
アランの声だった。
グレースが頷くと、首に腕を回すようにして抱えて泳ぎ出す。
「縄を!」
「アランっ!」
「引けっ!」
大勢の人の声がして、アランはグレースを背負うように体位を入れ替えると、投げ込まれた縄を掴む。
「しっかり、しがみつくんだ」
言われなくとも、とグレースがその背にぴったり貼り付けば「くっ……やばい……何の呪いだ」などと呻きながら、縄を伝って岸壁を上った。
「毛布をっ! 大丈夫か? グレース」
父に抱き止められ、毛布に包まれたグレースは、力尽きたように傍らでずぶ濡れのまま転がっているアランを見下ろした。
池に落ちてもせいぜい笑い話だが、海に落ちるのは笑い話では済まない。
カタカタ震えていると、じっとグレースを見上げていたアランが口を開いた。
再び雷のような怒声が来ることを覚悟して身を竦めたが、聞こえて来たのは笑い声だった。
しかも、爆笑だ。
「いや、もう、最高だっ! わざと落ちようと思っても、ああも綺麗には落ちないだろう? 小芝居か? 窓に池に、今度は海。次は川だな。どこからどうみても、いかにも皇女様なのに、天然だなんて……。面白すぎるだろう!」
「おも、おもしろっ……」
笑い転げるアランを見下ろしながら、グレースは怒りで顔が熱くなってくるのを自覚した。
ひとしきり笑った後、むくっと起き上がったアランは、グレースの前に跪くと濡れて頬に貼り付いた髪を払い、にやりと笑った。
「グレースがいれば、きっと、一生退屈はしないだろうな。ただし……落ちるのは水回りに限り、俺がいるときだけにしてくれないか?」
「わ、私だっていつも落ちるわけではありませんっ! アラン様が見ていると、落ちるのですっ! ですから、アラン様が見ていなければ落ちませんっ!」
いつだって、グレースがみっともない姿をさらしてしまうのは、アランがいるときだ。要するに、アランがいなければ落ちないはずだと主張すれば、アランは目を見開き、顔を背けた。
俯く肩が震えているのは、怒りのためでも涙のためでもない。
「何がおかしいのですっ!?」
「ぐふっ……お、おかしくはない。ただ……」
アランは咳払いして笑いを誤魔化したが、その顔は緩み切っていた。
「こ、この、ぶっ……」
ワナワナと震えるグレースが立ち上がろうとするのに先んじて、アランに軽々と抱き上げられた。
急に目線の高さが同じになり、顔が近づいたことに驚いていると、柔らかな温もりが唇に押し当てられた。
「……っ!」
目を見開くグレースに、アランは再びにやりと笑った。
「……こうしたくて、我慢できなくなるから、人前ではあまり落ちないように」
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しかし、ある日突然、夫に愛人がいるという噂が彼女の耳に入る。偶然街で目にした、夫と親しげに寄り添う女性の姿に、アメリアは絶望する。信じていた愛が偽りだったと思い込み、彼女は家を飛び出すことを決意する。
一方、レオンハルトには、アメリアに言えない秘密があった。彼の不自然な行動には、王国の未来を左右する重大な使命が関わっていたのだ。妻を守るため、愛する者を危険に晒さないため、彼は自らの心を偽り、冷徹な仮面を被り続けていた。
家出したアメリアは、身分を隠してとある街の孤児院で働き始める。そこでの新たな出会いと生活は、彼女の心を少しずつ癒していく。
しかし、運命は二人を再び引き合わせる。アメリアを探し、奔走するレオンハルト。誤解とすれ違いの中で、二人の愛の真実が試される。
偽りの愛人、王宮の陰謀、そして明かされる公爵の秘密。果たして二人は再び心を通わせ、真実の愛を取り戻すことができるのだろうか。
白詰草は一途に恋を秘め、朝露に濡れる
瀬月 ゆな
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イラスト 灰梅 由雪(https://twitter.com/haiumeyoshiyuki)様
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