夢の終わり ~蜀漢の滅亡~

久保カズヤ

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第2章 迷当の反乱

第5話 五丈原

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 五丈原。草原は冷たい風にそよぎ、どこまでも広がる星々は、眺めていると何故か不安になってくる。
 戦場だというのに、夜は静かなものだった。魏軍はこちらを攻めるつもりもなく、ただ固く陣を守るのみ。そうなれば、蜀軍も動くことは無い。両軍に漂う緊張感も、どこか気の抜けたものである。

「姜伯約」

 消え入りそうな、か細い声。されど、姜維にはその声がどこまでも深く染みわたる。
「丞相、外は体を冷やします。もう、お戻りになられた方が」
「このままでよい、まだ、星を見ていたい」
 白羽扇を膝にのせて、骨に皮が張り付いてるだけの酷く痩せた姿で、諸葛亮は星を眺めていた。
 その隣では、諸葛亮の右腕として、常に軍政を助けていた楊儀が、声を押し殺し涙を流していた。

「伯約、星がいくつあるのか数えたことはあるか?」
「……いえ。あまり、天文には通じておりませんので」
「私はさっきまで何となく数えていたが、三十を超えたあたりで馬鹿らしく思えて止めた。まず、どこからが始まりなのかも分からん」

 きっと何か深い意味があるのだろうかと一言一句聞き入っていたが、ただの気まぐれの様だ。

「星空は、際限がない。空の極みとは、何処であろうや」
「丞相、それこそ答えのない問いです」
「北伐も、夢も、志も、似たようなものである」
 諸葛亮は笑うと、激しく咳き込んだ。慌てて楊儀が背中をさする。口の端に、血が見えた。

「丞相っ、ご安静にして下され!」
「楊儀、良いのだ。もう、良い」
「何も良くはありませんっ。丞相にもし何かあれば、私は、私は生きていけませぬ!」
「あぁ、楊儀よ。もっと、許す事を覚えよ。お前は、自分と他人に厳しすぎるのだ。死の際にて、お前が一番の心残りである」

 縋る様に泣く楊儀を制し、諸葛亮は姜維を手で招く。

「伯約よ、もう、私は長くない」
「何をっ……丞相はお疲れになられているだけです。養生なされば、きっと良くなります」
「自分の事は、自分が一番よく分かる」
 再び咳をして、血を吐きながら、荒れた呼吸を整える。
 息をするのも苦しそうだった。ヒューヒューと、空気の擦れる音が、胸を痛いほどに締め付ける。

 諸葛亮。天下の英雄として、ただ唯一の存在として、命を捧げる程に惚れ込んだ、肉親以上に敬愛した人である。その英雄が、まさに今、灯を消そうとしていた。何も出来ない自分があまりにも不甲斐なくて、姜維は血が滲むほど、強く拳を握り固める。

「私はずっと、不思議であった。伯約。どうしてお前が、蜀の軍門に下ってくれたのか。どうしてここまで、忠節を尽くしてくれるのかと」
「丞相の目指す、漢室の復興の志に、命を懸けても良いと思いました」
「それは、母を捨ててまで、貫くほどの、夢であったか?」

 まだ十歳にも満たない小さい頃に、姜維の父は戦で命を落とした。それ以来、姜維は母の手一つで育てられたのだ。
 とても賢く、気高い母であった。父が亡き後も、豪族であった姜氏を没落させない様に手腕を振るいながら、武芸と学問を姜維に徹底的に叩きこんだ。

 治安の悪い涼州で頭首を失った豪族など、あっという間に略奪によって滅ぼされるのが常である。しかし、姜氏が没落すること無くその家を保てたのは、母の力によることが大きかった。
 異例の若さで姜維が涼州魏軍の校尉になったとき、母は大層喜んだ。勿論、そんな母を見て、姜維も涙を流すほど嬉しく思った。

 それでも、その母を故郷において、姜維は身一つで蜀軍に加わったのだ。

 初めは、小さな違和感にすぎなかった。
 漢の血脈は四百年も続いた国の根幹であるはずなのに、どうして今は曹氏の傀儡となっているのだろうと。
 周囲は皆、天命だとか、徳あるものが国を為すとか、色々言ってはいたものの、姜維にしてみれば「反乱」を体良く言い換えたのみで、一つとして納得できる答えは無かった。

 やがて年を経て、体が大人に近づくにつれ、その違和感は耐え難いものとなった。
 自分が魏という国に属しているということを腹に落とし込むと、それはやがて自らの体の中で真っ黒な煙となって、心を闇に包んでいく。

 そして、漢室は滅び、魏が興った。

 その数年後、漢室の末裔を称する国の蜀漢が、丞相である諸葛亮の指揮のもと、逆賊討伐の名目で北伐を開始。姜維は魏の軍人として、蜀と向かい合った。

 自らの境遇を笑うしかなかった。
 幼い頃より麒麟児と呼ばれ、違和感を打ち払うように武芸と学問に没頭する日々を送り、しかし今は、耐え難い違和感を押し殺しながら、魏を守るために命を懸けていた。しかもその敵が、漢室の末裔を称する蜀漢であるのだ。

 一目で良いから、諸葛亮という男に会いたい。蜀の英雄として名高い、漢の遺志を継ぐ男。取るに足らないと思えれば、これからは何の思いも無く、魏の将兵として戦える。
 日に日に、その思いは強まる一方であった。

「母には、酷く辛い思いをさせていると、分かっております。それでも私は、鬼になると決めたのです。母に育ててもらったこの身を滅ぼしてでも、漢の世を再び。その夢に賭けようと」

「どこまでも、胆が据わっておる。たまにお主が、麒麟児なのか、ただの馬鹿なのか分からなくなる。初めて会った時も、そうであったな」
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