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第2章 迷当の反乱
第11話 老将の憂鬱
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劉禅の顔が一気に曇る。
以前より蒋琬は、胃に病を抱えていた。昔はそれほど重いものでもなく、飲食も全く気にしなくて良い程度の物であった。
しかし今は、全て侍医の指定したものを決められた量食べることしか出来なくなっているという。加えて、飲む薬の量もまた多い。
ただ、蒋琬はどうしても、寝る前に酒を呑むという習慣だけはやめる事が出来なかった。それが無いと寝れないのだというが、そのせいで夜中や朝に嘔吐を繰り返している。
何度も侍医が費褘や劉禅に対して、蒋琬の飲酒を禁じさせるよう言ってきてはいるが、こればかりはいくら劉禅が命じたところで無駄であった。蒋琬の性格からして、何食わぬ顔で隠れて酒を飲むに決まっているのだ。
おまけに、いくら酒を飲んでも蒋琬はあの鉄の表情のままなのだから、誰に見分けることすら出来ない。
命令に対する返答では「私は酒を飲まねば死ぬやもしれません」と脅しをかけてきたこともある。ならばせめて、量を減らす事だけは努めさせるようにしていた。
「たしかに、今の症状での進軍は、体に応えるだろう。費褘よ、蒋琬を引き戻すという事も考えておいた方が良いやもしれぬな」
「しかし、代わりの指揮官が居りません。蒋琬殿を戻すのであれば、北伐自体を中止にせざるを得ませんが、なにかひとつ『勝ち』か『負け』が無ければ、国民も撤兵を納得しますまい。戦争の負担は、民に圧し掛かっているのですから」
一瞬、二人の頭には、姜維の姿が浮かんだ。しかし、互いに口には出さなかった。
確かに姜維は、天才である。その戦に関する才覚を見れば、蒋琬に変わってこの北伐を任せても良いだろうと、そう思えるほどだ。
しかし同時に危うさも存分に孕んでいると、そう思わざるを得ない。姜維の才覚の凄さとは、一瞬の閃きで、誰も考えつかないところまで思考が到達するところにあった。
つまり、誰も着いていけないのだ。姜維の思考を推し量れる人間が一人でも居れば、安心して指揮権を委ねられるのだが。生憎、そう言った人間は見当たらない。
「小競り合いの中で、姜将軍が何か一つ、成果を持ち帰ってくれるのを祈る他ないだろう」
しかし、魏軍は防備を固めるのみで、依然として膠着が続いていた。これでは姜維であろうと、戦線を動かすことは出来そうにもない。
誰もが長期の対陣を覚悟して、文官武官揃っての評定を終えた。
皆が議会から去っていく中、ただ一人、武官が残っていることに劉禅は気づく。
あれは、呉班であった。
亡き呉懿将軍の従弟であり、今は隠遁の身で戦に出る事は無いものの、董允が統括する近衛兵の調練を担当していた。元々は将軍達の筆頭でもあった為に、その発言力は未だ重いものがある。
「どうなされたのだ、老将軍」
「もはや将軍の立場ではございません、その呼び方はおやめくだされ」
老いたと言えど、心身より溢れる力強さは衰えを知らない。
頑固者が多い武官の中では極めて接しやすい性格である。そんな彼が武官を取りまとめていることで、劉禅も非常に助けられていた。
「公の場で話すことも憚られた為に、この様な真似をした次第です。お許しいただきたい」
「構うことはありません。呉班殿であれば、朕を呼び出しても良いくらいだ」
「め、めっそうもございません」
「それで?どうなされた」
浮かべているのは苦笑いである。
さほど深刻な話ではなさそうだが、呉班ほどの臣下が人目を憚るというのだから、多少なりとも厄介な事なのだろう。
「全ては黄皓に申し伝えておりますので、そちらに聞いていただきたい、という一言をお耳に入れたかっただけです。張彩(ちょうさい)様の事で一つ、と言えばお察しいただけるかと」
「あぁ……」
劉禅は溜息を吐いて、眉間を揉む。呉班の苦笑いの意味も、ようやく全てが分かった気がした。
張彩。先帝劉備の義弟であり、蜀軍最強の武将とも呼ばれた張飛将軍の娘の一人。張敬の妹であり、劉禅の義妹でもある。
姉の張敬が、穏やかで容姿端麗であった母の血を色濃く継いだのなら、妹の張彩は、一騎当千の猛将であった父の血を色濃く継いでいた。
その体格はそこらの武将に引けを取らない程に大きく、よく食べて、よく飲んで、何よりも武芸を好む天真爛漫な女性であった。気に入らない奴を見るとすぐに打ち据えようとするところも、父親によく似ていた。
あまりの粗暴さに、あの董允ですらほとほと困っているほどなのだ。
何よりも困っているのが、後宮を抜け出しては鎧に身を包んで男の格好をし、近衛兵の調練に顔を出しては、思うがままに暴れまわっていること。
そして、成都近辺の戦にも何度か、こっそりと参戦しているという話も聞いていた。並の将兵では適わない程に、力も強かった。
「流石にそろそろ、本気で注意せねばなるまい。呉班殿の気を煩わせるのは、あまりに忍びない」
「よろしくお願いします」
皇后の妹というあまりに高貴な身分、これでは皇族の面子も保たれない心配がある。
呉班と分かれ、劉禅は速足で議会を後にした。
以前より蒋琬は、胃に病を抱えていた。昔はそれほど重いものでもなく、飲食も全く気にしなくて良い程度の物であった。
しかし今は、全て侍医の指定したものを決められた量食べることしか出来なくなっているという。加えて、飲む薬の量もまた多い。
ただ、蒋琬はどうしても、寝る前に酒を呑むという習慣だけはやめる事が出来なかった。それが無いと寝れないのだというが、そのせいで夜中や朝に嘔吐を繰り返している。
何度も侍医が費褘や劉禅に対して、蒋琬の飲酒を禁じさせるよう言ってきてはいるが、こればかりはいくら劉禅が命じたところで無駄であった。蒋琬の性格からして、何食わぬ顔で隠れて酒を飲むに決まっているのだ。
おまけに、いくら酒を飲んでも蒋琬はあの鉄の表情のままなのだから、誰に見分けることすら出来ない。
命令に対する返答では「私は酒を飲まねば死ぬやもしれません」と脅しをかけてきたこともある。ならばせめて、量を減らす事だけは努めさせるようにしていた。
「たしかに、今の症状での進軍は、体に応えるだろう。費褘よ、蒋琬を引き戻すという事も考えておいた方が良いやもしれぬな」
「しかし、代わりの指揮官が居りません。蒋琬殿を戻すのであれば、北伐自体を中止にせざるを得ませんが、なにかひとつ『勝ち』か『負け』が無ければ、国民も撤兵を納得しますまい。戦争の負担は、民に圧し掛かっているのですから」
一瞬、二人の頭には、姜維の姿が浮かんだ。しかし、互いに口には出さなかった。
確かに姜維は、天才である。その戦に関する才覚を見れば、蒋琬に変わってこの北伐を任せても良いだろうと、そう思えるほどだ。
しかし同時に危うさも存分に孕んでいると、そう思わざるを得ない。姜維の才覚の凄さとは、一瞬の閃きで、誰も考えつかないところまで思考が到達するところにあった。
つまり、誰も着いていけないのだ。姜維の思考を推し量れる人間が一人でも居れば、安心して指揮権を委ねられるのだが。生憎、そう言った人間は見当たらない。
「小競り合いの中で、姜将軍が何か一つ、成果を持ち帰ってくれるのを祈る他ないだろう」
しかし、魏軍は防備を固めるのみで、依然として膠着が続いていた。これでは姜維であろうと、戦線を動かすことは出来そうにもない。
誰もが長期の対陣を覚悟して、文官武官揃っての評定を終えた。
皆が議会から去っていく中、ただ一人、武官が残っていることに劉禅は気づく。
あれは、呉班であった。
亡き呉懿将軍の従弟であり、今は隠遁の身で戦に出る事は無いものの、董允が統括する近衛兵の調練を担当していた。元々は将軍達の筆頭でもあった為に、その発言力は未だ重いものがある。
「どうなされたのだ、老将軍」
「もはや将軍の立場ではございません、その呼び方はおやめくだされ」
老いたと言えど、心身より溢れる力強さは衰えを知らない。
頑固者が多い武官の中では極めて接しやすい性格である。そんな彼が武官を取りまとめていることで、劉禅も非常に助けられていた。
「公の場で話すことも憚られた為に、この様な真似をした次第です。お許しいただきたい」
「構うことはありません。呉班殿であれば、朕を呼び出しても良いくらいだ」
「め、めっそうもございません」
「それで?どうなされた」
浮かべているのは苦笑いである。
さほど深刻な話ではなさそうだが、呉班ほどの臣下が人目を憚るというのだから、多少なりとも厄介な事なのだろう。
「全ては黄皓に申し伝えておりますので、そちらに聞いていただきたい、という一言をお耳に入れたかっただけです。張彩(ちょうさい)様の事で一つ、と言えばお察しいただけるかと」
「あぁ……」
劉禅は溜息を吐いて、眉間を揉む。呉班の苦笑いの意味も、ようやく全てが分かった気がした。
張彩。先帝劉備の義弟であり、蜀軍最強の武将とも呼ばれた張飛将軍の娘の一人。張敬の妹であり、劉禅の義妹でもある。
姉の張敬が、穏やかで容姿端麗であった母の血を色濃く継いだのなら、妹の張彩は、一騎当千の猛将であった父の血を色濃く継いでいた。
その体格はそこらの武将に引けを取らない程に大きく、よく食べて、よく飲んで、何よりも武芸を好む天真爛漫な女性であった。気に入らない奴を見るとすぐに打ち据えようとするところも、父親によく似ていた。
あまりの粗暴さに、あの董允ですらほとほと困っているほどなのだ。
何よりも困っているのが、後宮を抜け出しては鎧に身を包んで男の格好をし、近衛兵の調練に顔を出しては、思うがままに暴れまわっていること。
そして、成都近辺の戦にも何度か、こっそりと参戦しているという話も聞いていた。並の将兵では適わない程に、力も強かった。
「流石にそろそろ、本気で注意せねばなるまい。呉班殿の気を煩わせるのは、あまりに忍びない」
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