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第2章 迷当の反乱
第24話 後宮の主
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張彩が落ち着いてくれたことで、後宮は穏やかになりつつあった。
あの騒動以降、黄皓の調略の甲斐もあり、劉禅や皇室に対して不穏なうわさが広がることも無く、呉班が自死を願い出る必要も無くなった。
ただ、これも全て張敬の人徳の為せる結果であろうと、黄皓は後宮を見渡して、改めて思う。
表立って後宮を取りまとめているのは、皇后である張敬なのだ。
あくまで黄皓は、目に見えない様な裏方を取りまとめているに過ぎない。
昔より、一つの国が崩壊する時の、大きな原因の一つが後宮内の権力闘争であった。
跡継ぎを巡り、陰湿なまでに残酷な、愛憎に塗れた闘争によって、やがて国家は転覆していくのである。
それを防ぐ事が出来るのは、やはり最も大きな権力を持つ皇后の他ならない。
そんな愛憎渦巻くはずの後宮が、ここまでの平穏を保つ事が出来ているのは、過去の歴史を見ても、非常に珍しい事であると言える。
「黄皓、入りなさい」
「奥方様。急なお呼び出しでしたが、何か御用で御座いましょうか?」
普段なら十人程侍っているはずの宮女も居ない。少し広い一室で、張敬と黄皓だけが向かい合っていた。
日の光に淡く照らされる彼女の姿を見ていると、時間を忘れてしまいそうな、そんな美しさを感じる。
歳を重ねるごとに、その美しさは、より透き通ったものになっていく。
「循(じゅん)は、健やかですか?」
劉禅と張敬の間に生まれた、長子の名前である。
この国の、皇太子でもあった。
「はい、ご先祖様よりのご加護を得ておられます。最近では、字の読み書きまで覚えられるようになっておいでです」
「つい先日に、循の練習書きを見ました。私の『敬』と、陛下の『禅』の字を、書いてくれていました。これほど嬉しい事はありません」
「陛下も大層お喜びになられていた様です。費褘殿や董允殿にまで、それを見せて回っておいででした」
「まぁ」
口元を隠して、幸せそうに笑う。
しかし、黄皓の胸の奥で、何か僅かな違和感が燻ぶっていた。
気をつけなければ気づかない程の、自分の中の小さな違和感である。
「彩の様子は如何ですか?」
「後宮に長くいる事で、ようやく、奥方様のご苦労を察しておいでです。もう、戦場に出たいとは言いますまい。ただ、武芸の鍛錬だけは、毎日の様にやっております」
「宮女にまで武装をさせていると聞きます。今は反省していても、数日後には全て忘れてしまうような、悪い意味での清々しさをあの娘は持っています。父上が、そうであったように」
「陛下も度々、顔を見せて下さいます。きっと、張彩様の悪い気が起こらない様に、注視しておられるのでしょうな」
「ならば心配はありませんね」
しばらく、考え込むように、張敬は目を閉じた。
何か忘れ物は無いだろうか。
そんなことを考えている様に見えてしまうのが、黄皓には不思議であった。
「黄皓」
「はい」
「北伐の状況は、如何ですか?」
予想もしていなかった問いかけである。
不意を突かれたのか、黄皓は少し慌てて、自分の中で情報を確かめるように、一つ一つ言葉を並べ始めた。
「現状は、極めて逼迫したものとなっております。あまり大きな声では言えませぬが、蒋琬殿の病が重く、北伐軍は準備こそ整っておりますが、動き出せないでいます。全ては、その蒋琬殿の病次第でございましょう」
「助かる見込みは?彼は、諸葛丞相亡き後の、最たる重臣です。何かがあっては、この国は大きな痛手を負います」
「五分五分、と言ったところでしょう」
蒋琬の病は、益々篤くなっていた。
おかげで軍政も取り仕切る事が出来ず、姜維将軍が王平将軍と前線の任を交代し、代役で軍政を取り仕切っているらしい。成都からもその補佐として、費褘の右腕でもある陳祇という文官が、漢中へ向かっていた。
回復の見込みは、五分である。侍医からの報告書にはそう書かれたあった。
血便や吐血が多く、食べ物もほとんど消化されていないらしい。
ただ、医者の言う通りの生活を送れば、いくらか回復の見込みはある病なのだ。
それでも、業務以外では極めて自由な気質がある蒋琬には、どうもそんな生活を送る事が出来ないらしい。
あの鉄仮面の裏に溜まっているものを吐き出す為に必要な、自由であるのだ。
自由がなくなれば、今度は心が壊れてしまう。
しかし蒋琬がそれを口に出すことは、まず無い。
「禅は、苦労するでしょうね」
「だからこその、奥方様なのです。陛下の、あのお優しすぎる心をお救い出来るのは、奥方様を置いて他に御座いません」
「黄皓よ、そなたに頼みがあります」
顔を上げると、張敬の顔は涙で濡れていた。
あの騒動以降、黄皓の調略の甲斐もあり、劉禅や皇室に対して不穏なうわさが広がることも無く、呉班が自死を願い出る必要も無くなった。
ただ、これも全て張敬の人徳の為せる結果であろうと、黄皓は後宮を見渡して、改めて思う。
表立って後宮を取りまとめているのは、皇后である張敬なのだ。
あくまで黄皓は、目に見えない様な裏方を取りまとめているに過ぎない。
昔より、一つの国が崩壊する時の、大きな原因の一つが後宮内の権力闘争であった。
跡継ぎを巡り、陰湿なまでに残酷な、愛憎に塗れた闘争によって、やがて国家は転覆していくのである。
それを防ぐ事が出来るのは、やはり最も大きな権力を持つ皇后の他ならない。
そんな愛憎渦巻くはずの後宮が、ここまでの平穏を保つ事が出来ているのは、過去の歴史を見ても、非常に珍しい事であると言える。
「黄皓、入りなさい」
「奥方様。急なお呼び出しでしたが、何か御用で御座いましょうか?」
普段なら十人程侍っているはずの宮女も居ない。少し広い一室で、張敬と黄皓だけが向かい合っていた。
日の光に淡く照らされる彼女の姿を見ていると、時間を忘れてしまいそうな、そんな美しさを感じる。
歳を重ねるごとに、その美しさは、より透き通ったものになっていく。
「循(じゅん)は、健やかですか?」
劉禅と張敬の間に生まれた、長子の名前である。
この国の、皇太子でもあった。
「はい、ご先祖様よりのご加護を得ておられます。最近では、字の読み書きまで覚えられるようになっておいでです」
「つい先日に、循の練習書きを見ました。私の『敬』と、陛下の『禅』の字を、書いてくれていました。これほど嬉しい事はありません」
「陛下も大層お喜びになられていた様です。費褘殿や董允殿にまで、それを見せて回っておいででした」
「まぁ」
口元を隠して、幸せそうに笑う。
しかし、黄皓の胸の奥で、何か僅かな違和感が燻ぶっていた。
気をつけなければ気づかない程の、自分の中の小さな違和感である。
「彩の様子は如何ですか?」
「後宮に長くいる事で、ようやく、奥方様のご苦労を察しておいでです。もう、戦場に出たいとは言いますまい。ただ、武芸の鍛錬だけは、毎日の様にやっております」
「宮女にまで武装をさせていると聞きます。今は反省していても、数日後には全て忘れてしまうような、悪い意味での清々しさをあの娘は持っています。父上が、そうであったように」
「陛下も度々、顔を見せて下さいます。きっと、張彩様の悪い気が起こらない様に、注視しておられるのでしょうな」
「ならば心配はありませんね」
しばらく、考え込むように、張敬は目を閉じた。
何か忘れ物は無いだろうか。
そんなことを考えている様に見えてしまうのが、黄皓には不思議であった。
「黄皓」
「はい」
「北伐の状況は、如何ですか?」
予想もしていなかった問いかけである。
不意を突かれたのか、黄皓は少し慌てて、自分の中で情報を確かめるように、一つ一つ言葉を並べ始めた。
「現状は、極めて逼迫したものとなっております。あまり大きな声では言えませぬが、蒋琬殿の病が重く、北伐軍は準備こそ整っておりますが、動き出せないでいます。全ては、その蒋琬殿の病次第でございましょう」
「助かる見込みは?彼は、諸葛丞相亡き後の、最たる重臣です。何かがあっては、この国は大きな痛手を負います」
「五分五分、と言ったところでしょう」
蒋琬の病は、益々篤くなっていた。
おかげで軍政も取り仕切る事が出来ず、姜維将軍が王平将軍と前線の任を交代し、代役で軍政を取り仕切っているらしい。成都からもその補佐として、費褘の右腕でもある陳祇という文官が、漢中へ向かっていた。
回復の見込みは、五分である。侍医からの報告書にはそう書かれたあった。
血便や吐血が多く、食べ物もほとんど消化されていないらしい。
ただ、医者の言う通りの生活を送れば、いくらか回復の見込みはある病なのだ。
それでも、業務以外では極めて自由な気質がある蒋琬には、どうもそんな生活を送る事が出来ないらしい。
あの鉄仮面の裏に溜まっているものを吐き出す為に必要な、自由であるのだ。
自由がなくなれば、今度は心が壊れてしまう。
しかし蒋琬がそれを口に出すことは、まず無い。
「禅は、苦労するでしょうね」
「だからこその、奥方様なのです。陛下の、あのお優しすぎる心をお救い出来るのは、奥方様を置いて他に御座いません」
「黄皓よ、そなたに頼みがあります」
顔を上げると、張敬の顔は涙で濡れていた。
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