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第2章 迷当の反乱
第25話 悪い冗談
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黄皓は慌てて地に額をこすりつける。
「何か、ご無礼が御座いましたでしょうや。何なりと、罰をお申し付け下され!」
「違うのです。そのまま、私の話を聞きなさい。そなたにしか、頼めない事なのです」
恐る恐る、視線を上げる。
涙に濡れながら、あの、力強い瞳が真っすぐに視線に飛び込んできた。
「私は、数日の後に、この世を去ります」
「な……何を、そのような。ご冗談にしても、お辞めくださいませ」
病に伏している訳でも、顔色が悪い訳でもない。体調に異変を来したと言う話も全く聞いていない。
それどころか血色も良く、いつもと何ら変わらない姿である。
悪い冗談にしか聞こえなかった。それでも、張敬の表情だけは悲痛である。
「母と、同じ病です。ここが、私も弱いのです」
張敬はそう言って、左胸に両手を添えた。
心臓。黄皓は呟く。
「昔から、鼓動の周期が不規則になる時がありました。しかし、それだけで、特に体におかしい事はありません。しかし最近はよく、眠るように意識を失ったり、呼吸が苦しくなる感覚が私を襲います。気づかぬうちに、止まってしまうのです」
「ならばっ、早く医者をっ」
「無駄です。母がそうであったように、治らぬことは私が一番よく知っています。幸いにして彩は父上の血を濃く引いています。母や私の病とは関係なく過ごせましょう」
胸に添えていた手は握られ、衣服に強い皺を作る。
まるで張敬の心痛を体現しているかのようで、黄皓は、目を反らすしかなかった。
「今の私にできる事は、陛下のお気持ちを煩わせない事。北伐と言う大事な時期に、無駄な心配はかけられません。陛下は、禅は、この国そのものなのですから」
「無駄などと……」
「黄皓、私の死後についてです」
一つ、大きく深呼吸をする。
それでもまだ、張敬の声は震えていた。
「私は母上と同じように、眠りながら、突然息を引き取り、目覚める事がなくなるでしょう。ただ、このことを誰にも知られるわけにはいきません。黄皓、その時は私の死を隠し通しなさい。せめて、北伐が終わるまでです。決して、誰にも悟られてはなりません」
「陛下に、奥方様に仕える身として、それはあまりに酷な命令で御座います」
「それでもやるのです。陛下でも、私の為でもなく、この国に対して忠義を尽くしなさい」
以前より張敬が憂いていたのは、このことであった。
黄皓は確かに、忠義者である。劉禅に対してなら、全てを捨てる覚悟すら持っているのは分かっていた。
しかし、それは危険なのである。
董允の如く、臣下という存在は、国に忠義を尽くさなければならないからだ。
黄皓は、その意識が圧倒的に欠けている。
「私の死を、禅と彩は、この上なく悲しんでくれるでしょう。そんな二人を支えるのが、そなたの役目であり、使命です」
「胆に、銘じます」
「そして、私の後の皇后に、李昭儀(りしょうぎ)を立ててはなりません」
昭儀とは、側室を表す位である。彼女は名を、李伊といった。
まだ若く、溌溂とした明るさと、幼さの残る可愛げな容姿を備えている。
黄皓が劉禅の為に拾い上げてきた少女で、劉禅の激情をそのままに、艶やかな肢体に喜んで受け入れる事が出来る稀有な女性である。
李伊には後宮内の権力闘争など全く興味は無いらしく、ただ純粋に、劉禅を慕っているだけだった。
しかし、このひた向きなまでの純粋さは、劉禅の心を掴み、国を傾かせかねない。
皇后とは、皇帝を支える存在でなければならない。張敬はそのことを、良く分かっていた。
考えを同じくしていたのか、黄皓もそれにはすぐに頷く。
張敬は、安心したように息を吐いた。
「あとはただ、循が健やかに育ってくれるのを望むのみです。別に皇帝にならずとも、元気で生きてくれるだけで、それだけで良い」
「……それでは、失礼します」
部屋を出る。
すすり泣く声が、小さく聞こえた。
諸葛亮という柱を失い、更に張敬を失う。劉禅の心痛は、如何ほどであろうか。
劉禅や張彩、劉循を残して死に臨まなければならない張敬の心痛は、如何ほどであろうか。
それを想うだけで、黄皓は張り裂けんばかりに胸が痛んだ。
「何か、ご無礼が御座いましたでしょうや。何なりと、罰をお申し付け下され!」
「違うのです。そのまま、私の話を聞きなさい。そなたにしか、頼めない事なのです」
恐る恐る、視線を上げる。
涙に濡れながら、あの、力強い瞳が真っすぐに視線に飛び込んできた。
「私は、数日の後に、この世を去ります」
「な……何を、そのような。ご冗談にしても、お辞めくださいませ」
病に伏している訳でも、顔色が悪い訳でもない。体調に異変を来したと言う話も全く聞いていない。
それどころか血色も良く、いつもと何ら変わらない姿である。
悪い冗談にしか聞こえなかった。それでも、張敬の表情だけは悲痛である。
「母と、同じ病です。ここが、私も弱いのです」
張敬はそう言って、左胸に両手を添えた。
心臓。黄皓は呟く。
「昔から、鼓動の周期が不規則になる時がありました。しかし、それだけで、特に体におかしい事はありません。しかし最近はよく、眠るように意識を失ったり、呼吸が苦しくなる感覚が私を襲います。気づかぬうちに、止まってしまうのです」
「ならばっ、早く医者をっ」
「無駄です。母がそうであったように、治らぬことは私が一番よく知っています。幸いにして彩は父上の血を濃く引いています。母や私の病とは関係なく過ごせましょう」
胸に添えていた手は握られ、衣服に強い皺を作る。
まるで張敬の心痛を体現しているかのようで、黄皓は、目を反らすしかなかった。
「今の私にできる事は、陛下のお気持ちを煩わせない事。北伐と言う大事な時期に、無駄な心配はかけられません。陛下は、禅は、この国そのものなのですから」
「無駄などと……」
「黄皓、私の死後についてです」
一つ、大きく深呼吸をする。
それでもまだ、張敬の声は震えていた。
「私は母上と同じように、眠りながら、突然息を引き取り、目覚める事がなくなるでしょう。ただ、このことを誰にも知られるわけにはいきません。黄皓、その時は私の死を隠し通しなさい。せめて、北伐が終わるまでです。決して、誰にも悟られてはなりません」
「陛下に、奥方様に仕える身として、それはあまりに酷な命令で御座います」
「それでもやるのです。陛下でも、私の為でもなく、この国に対して忠義を尽くしなさい」
以前より張敬が憂いていたのは、このことであった。
黄皓は確かに、忠義者である。劉禅に対してなら、全てを捨てる覚悟すら持っているのは分かっていた。
しかし、それは危険なのである。
董允の如く、臣下という存在は、国に忠義を尽くさなければならないからだ。
黄皓は、その意識が圧倒的に欠けている。
「私の死を、禅と彩は、この上なく悲しんでくれるでしょう。そんな二人を支えるのが、そなたの役目であり、使命です」
「胆に、銘じます」
「そして、私の後の皇后に、李昭儀(りしょうぎ)を立ててはなりません」
昭儀とは、側室を表す位である。彼女は名を、李伊といった。
まだ若く、溌溂とした明るさと、幼さの残る可愛げな容姿を備えている。
黄皓が劉禅の為に拾い上げてきた少女で、劉禅の激情をそのままに、艶やかな肢体に喜んで受け入れる事が出来る稀有な女性である。
李伊には後宮内の権力闘争など全く興味は無いらしく、ただ純粋に、劉禅を慕っているだけだった。
しかし、このひた向きなまでの純粋さは、劉禅の心を掴み、国を傾かせかねない。
皇后とは、皇帝を支える存在でなければならない。張敬はそのことを、良く分かっていた。
考えを同じくしていたのか、黄皓もそれにはすぐに頷く。
張敬は、安心したように息を吐いた。
「あとはただ、循が健やかに育ってくれるのを望むのみです。別に皇帝にならずとも、元気で生きてくれるだけで、それだけで良い」
「……それでは、失礼します」
部屋を出る。
すすり泣く声が、小さく聞こえた。
諸葛亮という柱を失い、更に張敬を失う。劉禅の心痛は、如何ほどであろうか。
劉禅や張彩、劉循を残して死に臨まなければならない張敬の心痛は、如何ほどであろうか。
それを想うだけで、黄皓は張り裂けんばかりに胸が痛んだ。
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