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第2章 迷当の反乱
第33話 総退却
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防衛初戦は、魏軍の鮮やかな勝利であった。
互いに被害は僅かなものだったが、鄧艾は一万に満たない兵力で、三万の廖化軍を手玉に取ったのだ。
地形を知り尽くし、神出鬼没の用兵術を使いこなした鄧艾の手腕は、この一戦で敵味方共に広く伝わっただろう。
ただ、混乱しきった兵をあそこまで見事にまとめ上げ、最少の被害で退却した廖化の統率力は、驚愕に値するものである。
それにこの一戦で恐らく、こちらの寡兵が敵の知る所となってしまった。
明日は間違いなく、姜維が出てくる。
それも、全軍で、烈火の如く攻め込んでくるだろう。
鄧艾は高ぶる気持ちを抑えながら、それぞれの陣を巡り、地形を見て回っていた。
煙はもう出ていない。
兵には夜襲に備えさせてはいるが、蜀軍に目立った動きは無かった。
「……き、姜、維」
対岸を睨みつけ、鄧艾は何度か、敵将の名を呟いた。
すると、恐ろしいほどの、寒気がした。
体を真っ二つに切り裂かれたような、そんな悪寒である。
何か、勘違いをしていないだろうか。
それも、取り返しがつかない程の、大きな勘違いだ。
果たして姜維はどのような人間であるだろうか。
一瞬の好機を決して逃さない。雷鳴の如く迅速に動き、業火の様に攻め上げる。
姜維は、そういった激情の男のはずであった。
「将軍、如何されましたか?」
対岸を見据えたまま、何時までも動こうとしない主を不思議に思った、側近の護衛兵が首を傾げている。
鄧艾はこれを無視した。いや、耳に入ってこなかった。
蜀軍にとって絶好の好機とは何時であったか。
それは間違いなく、昨晩、軍のほとんどの兵力が涼州へ向かったあの瞬間である。
次の瞬間、鄧艾は額にはち切れんばかりに血管を浮かばせて、首を傾げる衛兵の肩を掴んで引き寄せた。
鎧が砕けんばかりの握力である。
「い、今っ、し、蜀軍、は、ど、どこだあぁっ!!」
「とっ、鄧艾将軍、何を仰られるっ。対岸に、陣を構えておられるでしょう。それに今しがた、戦いをしたばかりです」
「違う、違う!!」
兵が居ると思ったところに兵は居らず、兵が居ないと思ったところに兵が居る。
これは、兵法の基本の一つで、用兵の神髄でもある。
だとすれば、姜維は間違いなく、目の前の陣には居ないはずだ。
廖化が軍を率いて攻めてきた時点で気づくべきだったが、先の鮮烈な戦ぶりで、誰もが目を眩ませていたのだ。
きっと、半数の兵力は休ませているのだろう。
姜維よりも、隙が無く手堅い戦をする廖化の方が、攻陣戦に向いているのだろう。
都合の良いように解釈をして、一つも、姜維の居場所を疑う事をしなかった。
「ど、どこ、どこだ」
必死に思考を巡らせる。
今、姜維がどこに向かっていたら、自分は、十五万の魏軍は、窮地に陥るのか。
最悪の想定をいくつも、いくつも頭に浮かべる。
姜維は間違いなく、その中で最も危険なものを、躊躇なく選ぶ。
およそ北に六十里。「トウ城」という古城がある。
防衛の為の城と言うよりは、涼州と雍州の間、互いの連絡を円滑にする為の役割を担っていたが、今はその役割すらもあまり果たしてはいない。
「……そこか」
魏軍はそこを、主要な糧道の中継地点に用いていた。
勿論このことを知っているのは僅かな将軍と、兵站を担当する将兵のみだ。
情報が洩れるはずもなかったが、軍事に賢しい者ならば、ある程度の予測は立つはず。
「すぐ、ろ、六千の、兵を、ああ、集めよ」
「如何されたのです」
「トウ城へ、む、向かう。し、従わぬ、も、もの、は、斬るっ」
「ぎ、御意!!」
もし姜維が向かっておらず、未だ陣の中に居たとすれば、それこそ取り返しのつかない事態となる。
あっさりとこの白水は奪われ、反乱軍を鎮圧しに行った本隊は挟撃され、全滅する。
長安も無事では済まないだろう。
だからといってトウ城を奪われれば、十五万の魏軍は兵糧を失い、枯渇する。
兵は散り散りとなり、涼州、雍州への支配権は蜀のものとなるだろう。
これは、賭けであった。
だが、姜維の人間性を正確に捉えていた鄧艾に、この賭けは分があったのだ。
鄧艾は三千の兵を白水に残し、あたかも三万の兵が居る様に見せかけた。
夜は篝火を絶やさず、常に三千の全軍でもって警戒に当たらせたのだ。
もし廖化が一気に攻めてくれば、本軍不在でただの警戒兵しかいない白水を容易に奪えただろう。
三千の兵に鄧艾が残した策も、ゲリラ戦のみで、決定的な対抗策とはなり得ないものであった。
しかし、誰よりも戦の経験のある、廖化のその経歴が逆に仇となってしまった。
普通は、守るものが無いにも関わらず、全軍で警戒をするという馬鹿げた兵法など、見たことが無かった為である。
廖化はその警戒が解けるまで、慎重に、兵を繰り出すことを避けてしまった。
そして鄧艾は、六千の兵で、昼夜休むことなくひたすらに駆け、寸での所でトウ城入りを果たした。
城の守兵は、五百だけであった。二、三千も兵を出せば、容易く奪える脆さである。
一方姜維は、魏軍に悟られない様に険しい山岳地を迂回し、一万の兵力でトウ城へ急行していたのだが、本当に僅かな差で、鄧艾に競り負けた。
普通、城を武力で落とす為には、守兵より十倍の兵が必要と言われている。
姜維は「鄧」の旗ひしめく城と対陣し、廖化へすぐに白水への総攻撃の命令を飛ばしたが、逆にその廖化から、急使が届いた。
────総退却をすべし。
急使は息を切らしながらそう告げた。
「何故だ」
「迷当大王が、敵将陳泰に討たれ、反乱軍が解散しました。そして間もなく、後詰の五万も到着する模様」
姜維は思わず天を仰ぎ、文机を踏み砕いた。
「全軍、漢中へ帰還する」
ここに、諸葛亮死後初めての北伐は、失敗に終わった。
互いに被害は僅かなものだったが、鄧艾は一万に満たない兵力で、三万の廖化軍を手玉に取ったのだ。
地形を知り尽くし、神出鬼没の用兵術を使いこなした鄧艾の手腕は、この一戦で敵味方共に広く伝わっただろう。
ただ、混乱しきった兵をあそこまで見事にまとめ上げ、最少の被害で退却した廖化の統率力は、驚愕に値するものである。
それにこの一戦で恐らく、こちらの寡兵が敵の知る所となってしまった。
明日は間違いなく、姜維が出てくる。
それも、全軍で、烈火の如く攻め込んでくるだろう。
鄧艾は高ぶる気持ちを抑えながら、それぞれの陣を巡り、地形を見て回っていた。
煙はもう出ていない。
兵には夜襲に備えさせてはいるが、蜀軍に目立った動きは無かった。
「……き、姜、維」
対岸を睨みつけ、鄧艾は何度か、敵将の名を呟いた。
すると、恐ろしいほどの、寒気がした。
体を真っ二つに切り裂かれたような、そんな悪寒である。
何か、勘違いをしていないだろうか。
それも、取り返しがつかない程の、大きな勘違いだ。
果たして姜維はどのような人間であるだろうか。
一瞬の好機を決して逃さない。雷鳴の如く迅速に動き、業火の様に攻め上げる。
姜維は、そういった激情の男のはずであった。
「将軍、如何されましたか?」
対岸を見据えたまま、何時までも動こうとしない主を不思議に思った、側近の護衛兵が首を傾げている。
鄧艾はこれを無視した。いや、耳に入ってこなかった。
蜀軍にとって絶好の好機とは何時であったか。
それは間違いなく、昨晩、軍のほとんどの兵力が涼州へ向かったあの瞬間である。
次の瞬間、鄧艾は額にはち切れんばかりに血管を浮かばせて、首を傾げる衛兵の肩を掴んで引き寄せた。
鎧が砕けんばかりの握力である。
「い、今っ、し、蜀軍、は、ど、どこだあぁっ!!」
「とっ、鄧艾将軍、何を仰られるっ。対岸に、陣を構えておられるでしょう。それに今しがた、戦いをしたばかりです」
「違う、違う!!」
兵が居ると思ったところに兵は居らず、兵が居ないと思ったところに兵が居る。
これは、兵法の基本の一つで、用兵の神髄でもある。
だとすれば、姜維は間違いなく、目の前の陣には居ないはずだ。
廖化が軍を率いて攻めてきた時点で気づくべきだったが、先の鮮烈な戦ぶりで、誰もが目を眩ませていたのだ。
きっと、半数の兵力は休ませているのだろう。
姜維よりも、隙が無く手堅い戦をする廖化の方が、攻陣戦に向いているのだろう。
都合の良いように解釈をして、一つも、姜維の居場所を疑う事をしなかった。
「ど、どこ、どこだ」
必死に思考を巡らせる。
今、姜維がどこに向かっていたら、自分は、十五万の魏軍は、窮地に陥るのか。
最悪の想定をいくつも、いくつも頭に浮かべる。
姜維は間違いなく、その中で最も危険なものを、躊躇なく選ぶ。
およそ北に六十里。「トウ城」という古城がある。
防衛の為の城と言うよりは、涼州と雍州の間、互いの連絡を円滑にする為の役割を担っていたが、今はその役割すらもあまり果たしてはいない。
「……そこか」
魏軍はそこを、主要な糧道の中継地点に用いていた。
勿論このことを知っているのは僅かな将軍と、兵站を担当する将兵のみだ。
情報が洩れるはずもなかったが、軍事に賢しい者ならば、ある程度の予測は立つはず。
「すぐ、ろ、六千の、兵を、ああ、集めよ」
「如何されたのです」
「トウ城へ、む、向かう。し、従わぬ、も、もの、は、斬るっ」
「ぎ、御意!!」
もし姜維が向かっておらず、未だ陣の中に居たとすれば、それこそ取り返しのつかない事態となる。
あっさりとこの白水は奪われ、反乱軍を鎮圧しに行った本隊は挟撃され、全滅する。
長安も無事では済まないだろう。
だからといってトウ城を奪われれば、十五万の魏軍は兵糧を失い、枯渇する。
兵は散り散りとなり、涼州、雍州への支配権は蜀のものとなるだろう。
これは、賭けであった。
だが、姜維の人間性を正確に捉えていた鄧艾に、この賭けは分があったのだ。
鄧艾は三千の兵を白水に残し、あたかも三万の兵が居る様に見せかけた。
夜は篝火を絶やさず、常に三千の全軍でもって警戒に当たらせたのだ。
もし廖化が一気に攻めてくれば、本軍不在でただの警戒兵しかいない白水を容易に奪えただろう。
三千の兵に鄧艾が残した策も、ゲリラ戦のみで、決定的な対抗策とはなり得ないものであった。
しかし、誰よりも戦の経験のある、廖化のその経歴が逆に仇となってしまった。
普通は、守るものが無いにも関わらず、全軍で警戒をするという馬鹿げた兵法など、見たことが無かった為である。
廖化はその警戒が解けるまで、慎重に、兵を繰り出すことを避けてしまった。
そして鄧艾は、六千の兵で、昼夜休むことなくひたすらに駆け、寸での所でトウ城入りを果たした。
城の守兵は、五百だけであった。二、三千も兵を出せば、容易く奪える脆さである。
一方姜維は、魏軍に悟られない様に険しい山岳地を迂回し、一万の兵力でトウ城へ急行していたのだが、本当に僅かな差で、鄧艾に競り負けた。
普通、城を武力で落とす為には、守兵より十倍の兵が必要と言われている。
姜維は「鄧」の旗ひしめく城と対陣し、廖化へすぐに白水への総攻撃の命令を飛ばしたが、逆にその廖化から、急使が届いた。
────総退却をすべし。
急使は息を切らしながらそう告げた。
「何故だ」
「迷当大王が、敵将陳泰に討たれ、反乱軍が解散しました。そして間もなく、後詰の五万も到着する模様」
姜維は思わず天を仰ぎ、文机を踏み砕いた。
「全軍、漢中へ帰還する」
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