月に酔う

ふとん

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絶望に酔う

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「――ではよろしくお願いしますね」

 渡された紙束を見つめて香澄は大きく溜息をついた。
 その様子を見た米川は底意地の悪さを象徴するように片方の唇を上げて笑う。

「ようやく書くことに集中する気になったあなたを私が逃すと思いますか?」

「……そこまで気にかけてくれるのはありがたいけど」

 弟との家を出て二週間ほど経ったが、香澄は未だに新しい職に就いていない。そろそろホテルを出ようかと思っているというのに、米川が新しい連載の仕事などを持ってきては香澄の自立を阻むのだ。
 今日こそ新しい仕事先を探そうと画策していたら、米川がまた連載の仕事を持ってやってきた。彼はまこと仕事のできる編集者らしい。

「あともう少ししたら単行本用に推敲もお願いします」

「え、また本にすんの?」

 香澄の嫌そうな顔に米川の方が今度は溜息をついた。

「あなたのように本にしたがらない作家は珍しいですよ。第一、今あなたが食べているアイスのお金はどこから出ていると思ってるんですか」

「米川さんの財布」

 ホテルのロビーにある喫茶店で食べているバニラアイスを指して言う香澄に米川は心底呆れた顔をする。しかし実際、米川は香澄に飲食代を払わせたことがなかった。

「このホテルの支払いも、あなたの印税で支払ってるんですよ。いい加減プロの自覚を持ってください」

「はぁ…」

 曖昧な返事の香澄に米川はプロの作家のなんたるかを一通り説教してから、やはり伝票を持って喫茶店を去って行った。性悪だが律儀な男だ。
 残された香澄も新しい連載の企画書をぺらぺらとめくってみたが、やがて溶けかけのバニラアイスを食べて喫茶店をあとにした。
 すっかり自室になってしまったホテルの部屋に企画書を放り込んで香澄はホテルを飛び出す。
 新しい仕事と家を探すためだ。
 
(漫画喫茶にでも行くか)

 ホテルに置いてあるパソコンから調べていては、いつ米川に知られるか分からない。
 米川がそれほど香澄を警戒するのは、彼女のためであるということも分かっているのだが。

(悟は、まだ私を探してるんやろか)

 米川によれば、悟に香澄の居場所を尋ねられたらしいが頑として知らせていないのだという。香澄のいるホテルに来る時も、大周りをしたりルートを変えたりと神経質なほど気を使ってやってきている。 
 米川は仕事ですからと平気な顔をしているが、彼の生活に香澄は大きく圧し掛かっていることだろう。彼の奥さんは良い人だと知っているがゆえに余計に心苦しかった。
 
 米川に相談できない以上、親友の真由美に相談するしかないのだが、彼女は彼女で仕事が非常に忙しい。

(自分で、出来るだけのことをせんと)

 何もしないで他人に甘えることは、もうしたくなかった。
 弟にどれだけ甘えていたのか。
 離れた今、それがよく分かる。

(悟…)

 今となっては、彼のことを憎んでいたのか愛していたのかさえ遠い。
 ただ心に深く残るのは、悔恨だった。
 
(もう探さんといて)

 香澄のことなど忘れてしまってくれればいい。
 こんな情けない姉でも弟の幸せを祈っているのだから。

 
 ホテルから少し離れた繁華街に目的の漫画喫茶はある。
 交差点を挟んでもう少し。
 赤信号から青信号へ変わると同時に動きだす人の流れに乗って、香澄も白線を踏む。
 歩きながら香澄の視線が無意識に探すのは少し高い目線の、スーツ。
 ぱっと見分けのつかないようなほど地味な、鳩色の。


「――姉さん?」


 香澄をそう呼ぶ、馴染みの声の。


 まるで己の夢想が滲んだような声に、香澄は横断歩道の真ん中で立ち止まってしまった。
 しかしその幻が人の良さそうな顔から、泣きたいような笑いたいような、狂気に落ちていくような顔に様変わりするのを呆然と見送っていた。

 青信号が赤信号に変わる。
 人の途切れた横断歩道に車が走り込んでくる。
 それが分かっても動けなかった香澄の手を、大きな手が掴んで取った。

(――誰?)

 冷たいその手に馴染みはない。
 大きなその手は白い手袋に覆われていて、強引に香澄を歩道まで引っ張ってきたまま力強く放そうともしなかった。
 霞みがかった頭でぼんやりと腕の先を見上げると、影から抜け出たような黒い男が柔らかに笑っている。
 黒い背広に黒い髪、そして一つだけ色を垂らしたような青い瞳。

「……リック?」

 青い瞳は静かに、しかし確実に燃えて揺らめいているように見えた。
 怪訝に香澄が見上げていると、彼は彼女の後ろへと視線をやる。

「……姉さん。そいつは誰?」

 追いかけてきたのだろう。
 今にもリックを殺してしまいたいと言いたげに悟が唸った。
 乱杭歯を剥きださないのが不思議なほどの悟に、リックはいっそ爽やかなほど軽やかに笑いかける。

「ああ。彼が噂のあなたの弟さんですね」

 リックの言葉に香澄は自分の心臓を掴まれたような錯覚を起こした。
 これほどの痛みを未だ伴うのだと思い知らされた心地だ。
 顔をしかめた香澄の様子をどう取ったのかは分からないが、悟は今度は柔らかに顔色を変えた。

「……探したよ、姉さん。家に帰ろう」

 そう言われて、咄嗟に手を取りたくなるのは香澄が未だに弟の悟を浅はかにも愛しているからだろうか。行かない、と口に出せないのは憎くて堪らず、もっと悟を苦しめたいからだろうか。
 ただ、今の香澄が悟の手を取れば、確実に戻れないことは分かっている。
 
 香澄は薬を飲んでいない。薬とみればすぐに弟に捨てられるからだ。だから眠る弟を背に泣きながら弟の残滓を自ら掻きだしたこともある。家を出る時もシャワーでこれでもかというほど洗い流してから去った。
 この二週間、検査薬では妊娠の可能性はないが、今度はどうだろうか。

 弟との望まない関係をこれ以上続ければ、子供が出来る前に香澄の方が確実に狂ってしまう。

「帰ろうよ。僕らの家へ。父さんや母さんも分かってくれる」

 父や母は、可愛い息子のことを信頼しているから分かってくれるだろう。多少の不義も若いうちの暴走だと片付けて、いつか笑い話になると言って綿菓子のような言い訳に包まれていつか誰も見向きもしなくなる。
 ただ一人、香澄を除いて。

――結局、香澄は自分の身が可愛いだけなのだ。

 自分のワガママを押し通したいだけの。



「助けて差し上げましょうか?」

      
  
 後ろからかかったのは悪魔のような声だった。

「見返りはもちろんいただきますが、あなたの希望を確実に叶えてあげますよ」

 普段なら、決して耳を貸さない誘いだ。
 確実など、世の中にはないのだから。
 人は人を裏切るし、他人の心など決して分かりあえるはずもない。

――なのにどうして期待をしてしまうのだろう。

 その代償が身を滅ぼすと分かっていて、どうしようもない欲望にかられた人間が悪魔と契約するのはこんな場面なのかもしれない。


「……たすけて」

 振り返って辛うじてそう言った香澄に、黒いスーツの悪魔はこれ以上なく甘やかに微笑んだ。

「ええ。喜んで」

 笑顔のまま悪魔は香澄の手を引いて、走り出した。

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