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杪夏の風編
3,解放の木‐2
しおりを挟む翌日、ガルバナムは朝から出掛けた。
「夕方には戻る」
「お気をつけていってらっしゃいませ」
ルウは、マントに覆われたガルバナムの背中を玄関で見送ると、自分も寝室へと戻り、クローゼットからマントを取り出した。
そして、肩から斜めに提げた鞄にランタンを詰め込むと、玄関の扉に鍵を掛け、ガルバナムが去った方角とは別方向の森のなかへと入っていった。
ルウが掌に置いたコンパスは、迷いなく持ち主の行き先へと矢印を振る。
木々の間に作られた空間移動路を渡り継ぎ、辿り着いたのは、山肌にぽっかりと空いた洞窟の入口だった。
両手が伸ばせる幅の入口では、洞窟の奥から届くひんやりとした空気が頬を撫でた。
ルウは、鞄からランタンを取り出すと、ろうそくの芯に指先を擦り合わせて炎を灯した。
ごつごつとした岩の壁に挟まれた一本道は、天井が暗闇に呑まれるほど高く、前方の様子もろうそくの炎だけでは詳細がわからない。
始めは恐怖を感じたルウだったが、どこまでも静寂な道程に、次第に落ち着きが勝るようになっていった。
進むほどに、道はなだらかな下り坂になった。
涼しさが増し、時折触れた岩肌は、しっとりと濡れてきている。
すると、微かな水滴が落ちる音が耳に届くようになり、視界が徐々に明るみ始めた。
長い一本道が終わると、ルウは急にひらけた場所に立っていた。
太い石柱が何本も天井を支え、欄干の向こうは、ランプで照らされているかのように青白く染まっている。
ルウが辺りを見回すと、地面には正方形の穴があり、下へと続く螺旋階段があった。
そこを一段一段下りる度に、靴音が楽器のように響き渡る。
石段を下りきった先には、ホールのような巨大な空間に、湖が広がっていた。
ルウは、歩を止めた。
「地底湖……、本に載っていたとおりだ。……あれが、解放の木?」
湖の中央には、湖面に立つ、白く輝く一本の木があった。無数の枝が天井に向かって伸び、地下空間を照らしている。
吐く息さえ、空間に満ちた清らかな光を乱すと思えるほど、荘厳な場だった。
ルウのいる地面からは、水面を渡る木道が、解放の木までまっすぐに続いていた。
覗き込んだ水面は透明だったが、水底は見えず、木道が固定されている様子もない。
ルウがおそるおそる足を置いてみると、木道は、水を揺らすことも沈むこともなく、しっかりとルウの体重を支えた。
ルウは、解放の木へと歩いた。
近づくにつれて、木は陸地から見るよりもずっと大きかったことがわかる。
木道は、解放の木に触れる寸前で終わっていた。
混じりけのない、滑らかな白い木肌は眩しかったが、ルウが手をかざしながら近寄っていくと、木は明度を落として訪問者を迎えた。
「僕が来たことが、わかっているの……?」
正面に立ったルウが訊ねても、木は無言だった。
そして、ルウは解放の木に触れてみた。
すると、表面は冷たく、木の内部では、高く深い音が鳴った。
「奏での森にあった、キロンみたいだ……」
しかし、解放の木はキロンのように葉をつけることはなく、風に揺さぶられることもなく、直立不動でそこに在った。
「……あなたが、僕の悩みを聞いてくれるの?」
ルウは、そのまま木肌に掌を当てていた。
そして、ガルバナムとの関係に抱いてしまった不安を、心でそっと打ち明けた。
「……僕はもう、師匠のことを考えて、不安な気持ちにはなりたくないんです」
すると、ルウは、体がふわりと浮く心地を感じた。
足元からやさしい風が起こり、マントをたなびかせている。
それから、ルウの体から黄金の光が発せられ、腕を通って解放の木へと吸い取られ始めた。
「な、なに……?」
ルウは、自分の魔法が奪われていくのではないかと怖くなった。
しかし、実際は、解放の木へと光が吸収されていけばいくほど、胸に留まっていた重みが軽やかになっていくことに、ルウは気づいた。
「なにを、吸い取ってくれているの?」
ルウが訊ねると、解放の木は応えた。解放の木のなかを通っていく黄金の光が、可視化された。
「……文字?」
それは、頭のなかに渦巻いていた無数の言葉だった。
ルウを悩ませていたフェンネルの話も、小説の内容も、クローブやローズマリー、カヤから聞いた話も、ルウがガルバナムに対し抱いた期待も、単なる文字となって、吸い込まれていく。
心に浮かんだ名はただの音に、次第に混じった人々のイメージも、ただの顔、ただの景色となり、輪郭のない抽象画のように思われていく。そして、それらにまつわる言葉だけが、解放の木へと消えていった。
ルウから発していた光が止み、ルウが手を離すと、解放の木は、ざわざわと枝を揺らし始めた。
細い枝先からは、ルウから伝わった光が、光の泡となってゆっくりと天井に昇った。
その泡は天井に吸収されていき、暫しの時間を置いて、ルウの耳に聞きおぼえのある音をもたらした。
「この音……」
真上から、奏での森の音色がした。
大風を受けたときよりも穏やかな音楽が奏でられ、光の泡がすべてなくなるまで、その音色は響き続けた。
「解放の木と奏での森は、繋がっていたんだ……」
ルウは、自分を悩ませていた複雑な言葉は、奏での森の音色に乗って、空に消えたのだと思った。
事実、ルウはすっきりとした気分だった。
そして、残ったのは、純粋な思いだけだった。
そこには、ルウが見て見ぬふりをしていた本心までもが、つまびらかにされていた。
枝は、ぴたりと動きを止めていた。
「……僕は、悩んでいたというより、怖かったんだな」
解放の木を見上げて、ルウはぽつりと言った。
「師匠が僕と同じ想いではないかもしれないと考えて、怖くなって、師匠が、今与えてくださっているものが見えなくなってしまっていた」
解放の木は、ルウの言葉を黙って聞いている。
ルウの考えは整理され、自分自身はどうしたいのか、大切なことが明快になっていた。
「僕は……師匠が僕に対して抱く想いが、師弟愛でもいい。僕を見てくれていることには変わりがない。僕だって、師としての師匠も好きなんだ」
ルウの胸には、確固たる想いが甦っていた。
人がされていることと、同じではなくてもいい。もしもガルバナムが花束をくれたり、特別な呼び方をしてくれたとしても、そこにガルバナムの気持ちがないのならいらないと、ルウは思った。
好きなものをおぼえてくれていること。大好きな声で名を呼んでくれること。いつも気に掛けていてくれること。ルウは、何気ない日々に散らばるガルバナムとのやり取りが、嬉しかった。
それは、かけがえのない大切なものだった。
「愛の呼び名の違いなんて、僕にはわからない。師弟でも、恋人同士でも、僕は、師匠が好きだ」
ルウは、いつもの自分を取り戻せたと思った。
ずっと居座り続けていた難問は、もはや問題ではなくなっていた。
そして、
「ありがとう。さようなら」
と、解放の木をそっと撫でた。
深部から音を響かせる解放の木は、帰っていくルウの背中が見えなくなるまで、見守っていた。
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