50 / 50
第二章 狸の住処は戌屋敷!
25・恋人がサンタさん
しおりを挟む
──すべては解決した、と言えるのだろうか。
OEKのクリスマスイブイブライブの日、通路で倒れたのは白菱真美さんだった。
狸穴さんが住んでいるコープブランカの管理人さんである。
彼女は、住人である狸穴さんに恋をしていた。
親子ほど年が違う、なんていうのは恋をしない理由にはならない。
あのどこまでも明るく元気そうなところが良かったのかな。
それ故に彼が推している戌井ちゃんを妬み、彼女を研究し真似ることでなり替わろうとしていたのだという。
そう、戌井ちゃんのストーカーは白菱さんだったのだ。
しかし、信吾さんとわたしが狸穴さんを訪ねたことで標的が変わった。
白菱さんはわたしを狸穴さんの恋人だと勘違いした。
……うーん。
ちゃんと説明しなかったのが悪いのは事実だが、説明したら説明したで、なんで勤務している会社の社長が婚約者を連れてくるんだという疑問が沸いただろう。
いや、それはそれで狸穴さんとは関係ないからいいのかな?
ともかく標的をわたしに変えた彼女は、今度は戌井ちゃんのときのようになり替わろうとは考えなかった。
殺してしまえばいいと思ったらしい。
いつものように狸穴さんをストーキングしながら、わたしに会ったときのために刃物を持ち歩いていた。
けれどあのとき、わたしに棘──憎悪の感情を放ったときになにかが変わった。
倒れたときに刃物を落としたことから取り調べを受けた彼女は、警察にすべてを打ち明けて、罪を償った後はこの市からも狸穴さんからも離れることを誓ったのだった。
「璃々さんの女神パワーで改心したんですね」
「……そうなんでしょうか」
どこからともなく仕入れた情報を教えてくれた信吾さんの言葉に、わたしは項垂れた。
ここは狐塚家の三階、信吾さんの部屋だ。
和洋折衷な部屋の中で、板の間に敷かれた畳の上のソファーに並んで座っている。
普通の恋人同士みたいにイチャイチャはできないものの、こうしてダラダラとおしゃべりをしているだけで、なんとなく幸せな気分だ。
それにしても、あのとき再び棘で刺されて心臓が止まるのを怖れたわたしが、なんらかの力を発した。
そう考えるのが一番妥当ではあるのだけれど。
……全然自覚がない。
その後の体調も良かった。
クリスマスイブイブのフレンチデートも美味しく過ごし、狐塚家のパーティも楽しみ、兎々村家での夕食も滞りなくおこなわれた。
今日はクリスマス翌日のデートである。
英陽学院大学が冬休みに入ったので、信吾さんとは年末年始毎日会う予定だ。
市外に出ていないだけで、婚前旅行するのと同じくらい一緒に過ごすことになるのではなかろうか。
「狸穴くんを好きだったのは事実でしょうが、戌井ちゃんの真似をしてなり替わろうとしていたのには、かつて犬養製鉄の社長に戌井ちゃんの母に乗り換えられたときの悔しさの解消があったのかもしれませんね。戌井ちゃんに送られてきた手紙に書いてあったのでしょう?……今度こそあなたになります、と」
戌井ちゃんのストーカー事件自体は犯人の告白で解決したわけだが、それを機に戌井ちゃんの出生の秘密や犯人と犬養製鉄とのつながりが暴かれてしまった。
連日連夜の報道に、戌井ちゃんはしばらくアイドル活動をお休みしている。
「犬養製鉄の株価がまた下落していますが、僕はもう売ってしまったから、なんの問題もありません。なんなら底値になった時点で買ってもいいですけど」
「信吾さん、戌井ちゃんはこれからどうなるんでしょう?」
「彼女に罪はありません。実父である犬養製鉄社長の応援もあくまで応援の範疇で、ズルをして成り上がったわけではないのですから。うちの母や狸穴くんを始め、これからも支え続けるであろう本当のファンもいます。僕もできるだけのことはするつもりですよ。……白菱さんの過去をメディアにリークしたお詫びに」
「信吾さん?」
「犬養くんと社長だけ苦しめたかったんですけど、関係上戌井ちゃんも巻き込んでしまいました。璃々さん、母には秘密にしてくださいね」
「言います。絶対マリーさんに言いつけます。……もう! なんでそんなにひどいことするんですか?」
「犬養くんが嫌いなんです」
「昔なにかあったんですか?」
「なにかあったというか、単なる僕の八つ当たりです」
「?」
溜息をつく信吾さんを、頭上に浮かぶ黒い狐さんが呆れたような顔で見下ろしている。
「……璃々さんが、狐より猫のほうが好きだと言ったじゃないですか」
「それは誤解です」
「ええ、この前訂正してくださいましたね。でも昔の僕はそう信じ込んでいた。そうでなくても狐はイメージが悪いし、エキノコックスも有名です。とても猫には敵わない。いいや、ペットとして人気の犬にだって敵わないだろう、そう思ってしまったんです」
「それって……?」
「犬養くんの名字に犬ってついてるのが妬ましかったんです」
「信吾さん、そんなくだらない理由で!」
「全然気も合いませんでしたし」
「それは、まあ、なんとなくわかりますけど」
「彼のなんだかよくわからないパワーは認めているんですよ。異母妹の戌井ちゃんを守ってきたのも同じ兄として共感が持てます。今回の騒動で父親が退任に追い込まれて彼が社長になったら、犬養製鉄は盛り返すんじゃないかとも思っています」
「だったらいいですけど」
そう言いながらわたしは、信吾さんが白菱さんのことをリークしたのは、わたしを守るためだったのかもしれないと思った。
白菱さんが倒れたとき、辺りが白く光り輝くのを見たとSNSに書いていたOEKファンが何人かいたのだ。すでに都市伝説系のサイトでは、OEKのホワイトクリスマスイブイブライブで奇跡が起こってストーカーが浄化されたとまとめられている。
美妃ちゃんも、以前の信吾さんのように清くて聖なる空気を感じたと言っていた。
わたしは、どうなってしまったのだろう。
……最初に会ったとき白菱さんの黒い影が全然見えなかったことを思うと、なんだか複雑な気分になる。
芸能人だったころから、戌井ちゃんと犬養さんのお父さんの愛人だったころから、彼女はずっと自分の気持ちを封じて生きてきたのだろうか。
これまでわたしがすれ違って来た人の中にも、そんな人がいたのかしら。
自分の気持ちを隠して、あるいは自分でも気づかないまま黒い影を封じていた人が──
「璃々さん」
「は、はい」
信吾さんの柔らかくて澄んでいて、ほんのりと甘い声がわたしを我に返した。
彼は、少なくとも彼は自分の気持ちを隠してはいない。
まあこの状態が本気十パーセントだと言われても、対応しようがないしね。
糸目の最強キャラの討伐は、小柄なヒーローキャラに任せるしかない。
豆田少年、頑張れ~。……我ながらひどいな。
とはいえ氷の四天王の攻略方法も、これまで出会って黒い影に気づかなかった人たちの救済法も、今のわたしにはわからない。
少しずつできることを探していくしかないのだ。
ぼんやりと今回の事件について思い起こしてみる。
夫成さんと白菱さん──クレジットカード泥棒となり替わりストーカー、まるで違うふたりなのに、黒い影を纏った姿は同じように見えた。
……どうしてなのか。
それも女神化の一端だったのか。
夫成さんのときの恐怖から、白菱さんが棘を放つ前に感情が爆発してしまったけれど、もし全然気づかないときに棘で射られていたらどうなったんだろう、とか。
信吾さんは刺されても平気だったものの、ほかの人が刺されたらどうなっていたのか、とか。
……いずれまた、ちゃんと考えなくちゃいけないときが来るのかもしれない。
「デパートで夫成さんに触れたとき、腐臭を漂わせる歓喜に含まれた怯えを感じたと言っていましたね」
わたしの考えを読んだかのように信吾さんが話し始める。
もしかして、と思って黒い狐さんを見たけれど、狐さんはきょとんとした顔だった。
なにも告げてはいないらしい。
まあ情報は共有しているし、信吾さんはわたしより頭の回転が速いものね。
悩んでいたことを教えてくれるのならちょうどいい。
わたしは頷いた。
「そうです。ライブハウスの通路で白菱さんに触れていたら、同じものを感じたんでしょうか」
「そうかもしれません。罪状は違いますが、ふたりには共通点がありました」
「共通点ですか?」
「他人のもので満たされようとしていたことです。夫成さんは猫屋敷さんのクレカで物欲を満たし、白菱さんは戌井ちゃんという存在になることで恋を実らせようとしていた。璃々さんが見たという飛べない翼が、その象徴だったのではないでしょうか?」
人は他人の翼では飛べない、そういうことなのかもしれない。
信吾さんはどこからともなく、紫色のリングケースを取り出した。
「璃々さん、前に注文した婚約指輪です。一緒に行こうかとも思ったんですが、仕事のついでがあったので受け取ってきました。本当はクリスマスに間に合わせたかったんですけど」
「クリスマス前に連続して会う予定を入れていたのは、そのためだったんですか?」
「いいえ。それは僕が璃々さんに会いたかったからです」
「……ですよね」
年末年始も予定で埋まっているし、わたしも信吾さんに会いたい。
信吾さんに促されて、わたしは左手を差し伸べた。
彼はリングケースを開いて指輪を取り出す。
大きなダイヤをあしらった百万を越えるジュエリーだ。
繊細で可愛いデザインで、世界的なジュエリーデザイナーの作品だったりする。
信吾さんと別れるつもりはない。そんなつもりは毛頭ない。
逃げられないとわかっている。
第一わたしは信吾さんが好きだ。
自分でもそれでいいのかと心配になるものの、好きなのだ。
だけど──左手の薬指に輝く指輪は、ひどく重く感じた。
それは、愛の言葉や行為を成せない歪な関係のせいもあるかもしれない。
「似合いますよ」
「ありがとうございます。えっと……汚したくないので外していいですか?」
「かまいませんが、その前に少し目を閉じてもらえますか?」
「目を?」
「璃々さんのまつ毛にゴミがついているので取って差し上げたいんですが、目を開けていると指が入るかもしれませんので」
「わかりました、お願いします」
でもべつに指輪を外してからでいいんじゃないかなあ。
思いながら目を閉じると、骨ばった指が額に触れる感触があった。
その指先は前髪をかき上げて──
「し、信吾さんっ?」
目を開けると、彼はイタズラな微笑みを浮かべていた。
いつもの少年漫画に出てくる糸目の最強キャラの感情が見えない笑顔ではない。
わたしが好きな素の笑み……でもあるのだけれど、どこか少年じみた表情だ。
「この前、車で髪にキスしていただいたとき、本当は心臓が止まっていなかったんです。でもなんだか悔しくて、僕のほうからキスできるまで璃々さんが行動しないようウソついちゃいました。これまで毎日チャンスを狙っていたんですが、なかなか勇気が出せなくて。……璃々さん?」
そういえば、好きだと言って心臓が止まったときは、頭上の黒い狐さんが硬直していたんだっけ。
髪にキスしたときの狐さんは硬直していなかった。
わたしは手の甲で涙を拭った。
自分でも意外なくらい、わたしは喜んでいた。
「……嬉しいです。これでわたしたち、本当の恋人同士ですね」
「そうですね。唇へのキスはまだ先の話になりますが、好きだという言葉を交わして触れ合うことのできる本当の恋人同士です」
「信吾さん」
「なんですか?」
「……大変長らくお待たせしました。クリスマスプレゼントです」
わたしは膝に載せていたバッグから、梨里ちゃんの教えに従いティッシュペーパーの空箱を駆使して作ったマフラーを取り出した。
あまりにレベルが低いから、なかったことにしてべつのものを買いに行こうかとも思っていたんだけど、やっぱりどうしても渡したくなったのだ。
一応包装もしてきた。
「開けてもいいですか?」
「大したものじゃないんですけど」
「……手作りのマフラーですね。ふふふ、嬉しいです。さっき璃々さんもおっしゃってましたけど、僕たち本当の恋人同士ですね」
「はい。そういえば信吾さん、最近お仕事のほうはどうですか?……あの宅配会社とか」
「上手く行ってます。だから璃々さん、いくら贅沢しても構いませんよ」
「……ありがとうございます? えっと、この前思ったんですけど信吾さんって部下思いですよね?」
「部下思いなんでしょうか? 満足なサポートもせず使い捨てにするより、きちんとメンテナンスしながら働いてもらうほうが利益が大きくなると考えているだけですよ」
「そうですか……」
「僕は詐欺師ではないので一時的にお金を増やすだけでは喜べません。会社経営で定期的に利益を得るには、人材の育成と定着が不可欠でしょう? 趣味としてなら株も楽しいですが安定性に欠けていますからね」
わたしは彼に、兎々村家に配達を届けに来る宅配屋さんがいきなり女性に変わった理由を尋ねるのはやめることにした。
狸穴さんや新井さんが切り捨てられたのでなければ、それでいい。……だ、大丈夫よね?
そういえば狸穴さんの黒い影って、白菱さんの恋情だったりしたのかな。
宅配のお仕事は疲れそうだから、やっぱりそっち系な気もするけれど。
まあ、あの元気いっぱいな人のことだから、どちらにしろ大丈夫でしょう。
──わたしの恋人が改心しない男性だということは、もう気づいている。
女神の力があったところで、信吾さんを変えるのは無理だ。
今のところは氷の四天王の永久凍土が溶けて、額にキスしてくれただけで十分だということにしておこう。……春はまだ遠い。
OEKのクリスマスイブイブライブの日、通路で倒れたのは白菱真美さんだった。
狸穴さんが住んでいるコープブランカの管理人さんである。
彼女は、住人である狸穴さんに恋をしていた。
親子ほど年が違う、なんていうのは恋をしない理由にはならない。
あのどこまでも明るく元気そうなところが良かったのかな。
それ故に彼が推している戌井ちゃんを妬み、彼女を研究し真似ることでなり替わろうとしていたのだという。
そう、戌井ちゃんのストーカーは白菱さんだったのだ。
しかし、信吾さんとわたしが狸穴さんを訪ねたことで標的が変わった。
白菱さんはわたしを狸穴さんの恋人だと勘違いした。
……うーん。
ちゃんと説明しなかったのが悪いのは事実だが、説明したら説明したで、なんで勤務している会社の社長が婚約者を連れてくるんだという疑問が沸いただろう。
いや、それはそれで狸穴さんとは関係ないからいいのかな?
ともかく標的をわたしに変えた彼女は、今度は戌井ちゃんのときのようになり替わろうとは考えなかった。
殺してしまえばいいと思ったらしい。
いつものように狸穴さんをストーキングしながら、わたしに会ったときのために刃物を持ち歩いていた。
けれどあのとき、わたしに棘──憎悪の感情を放ったときになにかが変わった。
倒れたときに刃物を落としたことから取り調べを受けた彼女は、警察にすべてを打ち明けて、罪を償った後はこの市からも狸穴さんからも離れることを誓ったのだった。
「璃々さんの女神パワーで改心したんですね」
「……そうなんでしょうか」
どこからともなく仕入れた情報を教えてくれた信吾さんの言葉に、わたしは項垂れた。
ここは狐塚家の三階、信吾さんの部屋だ。
和洋折衷な部屋の中で、板の間に敷かれた畳の上のソファーに並んで座っている。
普通の恋人同士みたいにイチャイチャはできないものの、こうしてダラダラとおしゃべりをしているだけで、なんとなく幸せな気分だ。
それにしても、あのとき再び棘で刺されて心臓が止まるのを怖れたわたしが、なんらかの力を発した。
そう考えるのが一番妥当ではあるのだけれど。
……全然自覚がない。
その後の体調も良かった。
クリスマスイブイブのフレンチデートも美味しく過ごし、狐塚家のパーティも楽しみ、兎々村家での夕食も滞りなくおこなわれた。
今日はクリスマス翌日のデートである。
英陽学院大学が冬休みに入ったので、信吾さんとは年末年始毎日会う予定だ。
市外に出ていないだけで、婚前旅行するのと同じくらい一緒に過ごすことになるのではなかろうか。
「狸穴くんを好きだったのは事実でしょうが、戌井ちゃんの真似をしてなり替わろうとしていたのには、かつて犬養製鉄の社長に戌井ちゃんの母に乗り換えられたときの悔しさの解消があったのかもしれませんね。戌井ちゃんに送られてきた手紙に書いてあったのでしょう?……今度こそあなたになります、と」
戌井ちゃんのストーカー事件自体は犯人の告白で解決したわけだが、それを機に戌井ちゃんの出生の秘密や犯人と犬養製鉄とのつながりが暴かれてしまった。
連日連夜の報道に、戌井ちゃんはしばらくアイドル活動をお休みしている。
「犬養製鉄の株価がまた下落していますが、僕はもう売ってしまったから、なんの問題もありません。なんなら底値になった時点で買ってもいいですけど」
「信吾さん、戌井ちゃんはこれからどうなるんでしょう?」
「彼女に罪はありません。実父である犬養製鉄社長の応援もあくまで応援の範疇で、ズルをして成り上がったわけではないのですから。うちの母や狸穴くんを始め、これからも支え続けるであろう本当のファンもいます。僕もできるだけのことはするつもりですよ。……白菱さんの過去をメディアにリークしたお詫びに」
「信吾さん?」
「犬養くんと社長だけ苦しめたかったんですけど、関係上戌井ちゃんも巻き込んでしまいました。璃々さん、母には秘密にしてくださいね」
「言います。絶対マリーさんに言いつけます。……もう! なんでそんなにひどいことするんですか?」
「犬養くんが嫌いなんです」
「昔なにかあったんですか?」
「なにかあったというか、単なる僕の八つ当たりです」
「?」
溜息をつく信吾さんを、頭上に浮かぶ黒い狐さんが呆れたような顔で見下ろしている。
「……璃々さんが、狐より猫のほうが好きだと言ったじゃないですか」
「それは誤解です」
「ええ、この前訂正してくださいましたね。でも昔の僕はそう信じ込んでいた。そうでなくても狐はイメージが悪いし、エキノコックスも有名です。とても猫には敵わない。いいや、ペットとして人気の犬にだって敵わないだろう、そう思ってしまったんです」
「それって……?」
「犬養くんの名字に犬ってついてるのが妬ましかったんです」
「信吾さん、そんなくだらない理由で!」
「全然気も合いませんでしたし」
「それは、まあ、なんとなくわかりますけど」
「彼のなんだかよくわからないパワーは認めているんですよ。異母妹の戌井ちゃんを守ってきたのも同じ兄として共感が持てます。今回の騒動で父親が退任に追い込まれて彼が社長になったら、犬養製鉄は盛り返すんじゃないかとも思っています」
「だったらいいですけど」
そう言いながらわたしは、信吾さんが白菱さんのことをリークしたのは、わたしを守るためだったのかもしれないと思った。
白菱さんが倒れたとき、辺りが白く光り輝くのを見たとSNSに書いていたOEKファンが何人かいたのだ。すでに都市伝説系のサイトでは、OEKのホワイトクリスマスイブイブライブで奇跡が起こってストーカーが浄化されたとまとめられている。
美妃ちゃんも、以前の信吾さんのように清くて聖なる空気を感じたと言っていた。
わたしは、どうなってしまったのだろう。
……最初に会ったとき白菱さんの黒い影が全然見えなかったことを思うと、なんだか複雑な気分になる。
芸能人だったころから、戌井ちゃんと犬養さんのお父さんの愛人だったころから、彼女はずっと自分の気持ちを封じて生きてきたのだろうか。
これまでわたしがすれ違って来た人の中にも、そんな人がいたのかしら。
自分の気持ちを隠して、あるいは自分でも気づかないまま黒い影を封じていた人が──
「璃々さん」
「は、はい」
信吾さんの柔らかくて澄んでいて、ほんのりと甘い声がわたしを我に返した。
彼は、少なくとも彼は自分の気持ちを隠してはいない。
まあこの状態が本気十パーセントだと言われても、対応しようがないしね。
糸目の最強キャラの討伐は、小柄なヒーローキャラに任せるしかない。
豆田少年、頑張れ~。……我ながらひどいな。
とはいえ氷の四天王の攻略方法も、これまで出会って黒い影に気づかなかった人たちの救済法も、今のわたしにはわからない。
少しずつできることを探していくしかないのだ。
ぼんやりと今回の事件について思い起こしてみる。
夫成さんと白菱さん──クレジットカード泥棒となり替わりストーカー、まるで違うふたりなのに、黒い影を纏った姿は同じように見えた。
……どうしてなのか。
それも女神化の一端だったのか。
夫成さんのときの恐怖から、白菱さんが棘を放つ前に感情が爆発してしまったけれど、もし全然気づかないときに棘で射られていたらどうなったんだろう、とか。
信吾さんは刺されても平気だったものの、ほかの人が刺されたらどうなっていたのか、とか。
……いずれまた、ちゃんと考えなくちゃいけないときが来るのかもしれない。
「デパートで夫成さんに触れたとき、腐臭を漂わせる歓喜に含まれた怯えを感じたと言っていましたね」
わたしの考えを読んだかのように信吾さんが話し始める。
もしかして、と思って黒い狐さんを見たけれど、狐さんはきょとんとした顔だった。
なにも告げてはいないらしい。
まあ情報は共有しているし、信吾さんはわたしより頭の回転が速いものね。
悩んでいたことを教えてくれるのならちょうどいい。
わたしは頷いた。
「そうです。ライブハウスの通路で白菱さんに触れていたら、同じものを感じたんでしょうか」
「そうかもしれません。罪状は違いますが、ふたりには共通点がありました」
「共通点ですか?」
「他人のもので満たされようとしていたことです。夫成さんは猫屋敷さんのクレカで物欲を満たし、白菱さんは戌井ちゃんという存在になることで恋を実らせようとしていた。璃々さんが見たという飛べない翼が、その象徴だったのではないでしょうか?」
人は他人の翼では飛べない、そういうことなのかもしれない。
信吾さんはどこからともなく、紫色のリングケースを取り出した。
「璃々さん、前に注文した婚約指輪です。一緒に行こうかとも思ったんですが、仕事のついでがあったので受け取ってきました。本当はクリスマスに間に合わせたかったんですけど」
「クリスマス前に連続して会う予定を入れていたのは、そのためだったんですか?」
「いいえ。それは僕が璃々さんに会いたかったからです」
「……ですよね」
年末年始も予定で埋まっているし、わたしも信吾さんに会いたい。
信吾さんに促されて、わたしは左手を差し伸べた。
彼はリングケースを開いて指輪を取り出す。
大きなダイヤをあしらった百万を越えるジュエリーだ。
繊細で可愛いデザインで、世界的なジュエリーデザイナーの作品だったりする。
信吾さんと別れるつもりはない。そんなつもりは毛頭ない。
逃げられないとわかっている。
第一わたしは信吾さんが好きだ。
自分でもそれでいいのかと心配になるものの、好きなのだ。
だけど──左手の薬指に輝く指輪は、ひどく重く感じた。
それは、愛の言葉や行為を成せない歪な関係のせいもあるかもしれない。
「似合いますよ」
「ありがとうございます。えっと……汚したくないので外していいですか?」
「かまいませんが、その前に少し目を閉じてもらえますか?」
「目を?」
「璃々さんのまつ毛にゴミがついているので取って差し上げたいんですが、目を開けていると指が入るかもしれませんので」
「わかりました、お願いします」
でもべつに指輪を外してからでいいんじゃないかなあ。
思いながら目を閉じると、骨ばった指が額に触れる感触があった。
その指先は前髪をかき上げて──
「し、信吾さんっ?」
目を開けると、彼はイタズラな微笑みを浮かべていた。
いつもの少年漫画に出てくる糸目の最強キャラの感情が見えない笑顔ではない。
わたしが好きな素の笑み……でもあるのだけれど、どこか少年じみた表情だ。
「この前、車で髪にキスしていただいたとき、本当は心臓が止まっていなかったんです。でもなんだか悔しくて、僕のほうからキスできるまで璃々さんが行動しないようウソついちゃいました。これまで毎日チャンスを狙っていたんですが、なかなか勇気が出せなくて。……璃々さん?」
そういえば、好きだと言って心臓が止まったときは、頭上の黒い狐さんが硬直していたんだっけ。
髪にキスしたときの狐さんは硬直していなかった。
わたしは手の甲で涙を拭った。
自分でも意外なくらい、わたしは喜んでいた。
「……嬉しいです。これでわたしたち、本当の恋人同士ですね」
「そうですね。唇へのキスはまだ先の話になりますが、好きだという言葉を交わして触れ合うことのできる本当の恋人同士です」
「信吾さん」
「なんですか?」
「……大変長らくお待たせしました。クリスマスプレゼントです」
わたしは膝に載せていたバッグから、梨里ちゃんの教えに従いティッシュペーパーの空箱を駆使して作ったマフラーを取り出した。
あまりにレベルが低いから、なかったことにしてべつのものを買いに行こうかとも思っていたんだけど、やっぱりどうしても渡したくなったのだ。
一応包装もしてきた。
「開けてもいいですか?」
「大したものじゃないんですけど」
「……手作りのマフラーですね。ふふふ、嬉しいです。さっき璃々さんもおっしゃってましたけど、僕たち本当の恋人同士ですね」
「はい。そういえば信吾さん、最近お仕事のほうはどうですか?……あの宅配会社とか」
「上手く行ってます。だから璃々さん、いくら贅沢しても構いませんよ」
「……ありがとうございます? えっと、この前思ったんですけど信吾さんって部下思いですよね?」
「部下思いなんでしょうか? 満足なサポートもせず使い捨てにするより、きちんとメンテナンスしながら働いてもらうほうが利益が大きくなると考えているだけですよ」
「そうですか……」
「僕は詐欺師ではないので一時的にお金を増やすだけでは喜べません。会社経営で定期的に利益を得るには、人材の育成と定着が不可欠でしょう? 趣味としてなら株も楽しいですが安定性に欠けていますからね」
わたしは彼に、兎々村家に配達を届けに来る宅配屋さんがいきなり女性に変わった理由を尋ねるのはやめることにした。
狸穴さんや新井さんが切り捨てられたのでなければ、それでいい。……だ、大丈夫よね?
そういえば狸穴さんの黒い影って、白菱さんの恋情だったりしたのかな。
宅配のお仕事は疲れそうだから、やっぱりそっち系な気もするけれど。
まあ、あの元気いっぱいな人のことだから、どちらにしろ大丈夫でしょう。
──わたしの恋人が改心しない男性だということは、もう気づいている。
女神の力があったところで、信吾さんを変えるのは無理だ。
今のところは氷の四天王の永久凍土が溶けて、額にキスしてくれただけで十分だということにしておこう。……春はまだ遠い。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
95
この作品は感想を受け付けておりません。
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる