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ビンタ
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暗くなり始めた街路をエリカは1人でトボトボと歩く。 いま彼女は疲れ切っていた。 クーララ王国セーフハウスの襲撃と、自殺の緊張と興奮、そして自殺が無駄骨に終わった失意とで、エリカの精神は疲弊していた。
とりとめなく思いを巡らせながら家路をたどるエリカだったが、シバー少尉のことが頭に浮かんだときにふと気付いた。
(帰宅の予定時間を2時間はオーバーしてるから、少尉がガブリュー大佐に報告してそう。 それに...)
それにエリカが指輪を壊してしまったのも問題である。 自殺によりエリカの《支配》が解けていれば一向に問題ではなかったのだが。
(あー、なんだか面倒な予感。 シバー少尉が大佐にチクらずにいてくれればいいんだけど)
今ならまだ少尉は大佐に連絡していないかもしれない。 そう期待したエリカが歩みを速めたときである。 不自然に心がざわめき、焦りが沸き起こる。
(早く帰らないと!)
自由時間を過ぎているのにまだ自宅に戻っていないという焦燥感、すなわち《支配》の魔法がもたらす焦燥感である。
(何をのんびりしてたの、わたし! 自由時間はとっくに終わってるのに!)
エリカはシバー少尉の待つ自宅を目指して猛スピードで走り始めた。
◇
息を弾ませて自宅に到着したエリカは、玄関の鍵をもどかしげに開けて家の中に入ると、ベルを鳴らしてシバー少尉に帰宅を告げる。 少尉に自分の帰宅が認知されて初めて少尉の指示に従ったことになる。 それがエリカの認識だ。
チーン!(いま戻ったわよ!)
すると、すぐにシバー少尉が廊下に飛び出して玄関までやって来た。
「エリカさんっ! 良かった戻ってきた。 こんなに遅いなんて、何があったんですか?」
帰宅を伝え終えたエリカは、焦燥感が解消されて一気にテンションが下がった。 こんなことで焦らなきゃならないなんてバカみたい。
ちん(別に何もなかったよ)
「でも、でも、約束の時間を2時間以上も過ぎてるじゃないですか。 それに指輪のシグナルが途絶えてるって」
監視役がシバー少尉にシグナルのことを報告したのだろう。
(うるさいなあ)
シバー少尉を無視して傍らを通り過ぎたエリカの背中に少尉が質問をぶつける。
「何してたんですか? 答えてください、エリカさん」
答えろと命じられたからには答えなくてはならない。 エリカはシバー少尉のほうに向き直り、自分が自殺したことをチンと報告した。
「ファントムさんて不死身だったんだ... それはともかく、どうして自殺なんか?」
(これに答えたら自殺を禁止されそう。 でも問題ないよね。 自殺じゃ《支配》が解けなかったから、自殺を禁止されてもカンケーない)
チン(《支配》から逃れるためよ)
「《支配》から逃れるのは禁止されてるはずじゃ...」
問題となるのは「《支配》の呪文を解く」と「支配を逃れる」の違いである。 この点についてシバー少尉に回答を求められエリカが両者の違いについて答えれば、シバー少尉は「支配を逃れる」ことまで禁じるに違いない。
このさき「支配を逃れる」方法を思いついたときのことを考えれば、それは致命的にマズい。 そんな事態を回避しようとエリカは急いでベルを鳴らす。
チュィン(ファントムさんを甘くみないことね)
今回ベルを鳴らすにあたり、エリカは冷たく鋭くを心がけた。 ベルの音を意識的に操ってシバー少尉を退けようとしたのだ。
その効果はあり、シバー少尉は少し怯えた表情を見せて黙り込んだ。
「...っ」
その隙を逃さずエリカは畳み掛ける。
チン(いいこと? 私が自殺しようとしたことは誰にも内緒にしておきなさい。 これ、上官としての命令だから)
「はい」
そう言ってコクリと頷こうとするシバー少尉の動作が途中で止まった。 少尉の視線は家の奥に向けられている。
(なに?)
嫌な予感を感じて後ろを振り向こうとするエリカ。 その彼女の耳朶に男の声が響く。
「今のは興味深いベルの音でしたね、サワラジリ中尉」
エリカが振り向くと、そこに立つのはマベルス中尉。
チン?(興味深いって、どういうことかしら?)
「自殺、と聞こえましたが」
チン?(そうだったかしら?)
「あなたの場合、ストレートに尋ねるのが手っ取り早い。 サワラジリ中尉、自殺をした理由を私に教えなさい」
マベルス中尉もエリカに「命令」する権限を持っている。 このように命じられればエリカは正直に答えるしかない。 仕方なくエリカは自殺に関するすべてをチンと報告した。
「ほう、ファントムさんは不死身でしたか。 これを聞いたら大佐もお喜びになるだろうね」
(うわ、これはまずい...)
不死身を前提とする任務はどれだけ過酷なものとなるだろうか? 考えるだけでもゾッとする。 不死身の肉体でも苦痛は人並みに感じるのだ。
(なんでコイツが私の家にいるのよ? シバー少尉だけなら抑え込めたのに)
エリカの疑問に答えておこう。 シバー少尉からエリカの失踪を伝えられた大佐がマベルス中尉をエリカの家に派遣したのだ。
「さてサワラジリ中尉。 こうして家に戻り私の質問に答えているからには、自殺であなたの《支配》は解けなかったのでしょう。 しかし念のためです。 いいですか? 今後あなたが自殺することを禁止します」
マベルス中尉は、さらにエリカの行動の余地をつぶす。
「そうそう、指輪を破壊するのも禁止しておきましょう。 外出権とやらも没収ということで」
チン?(ちょっと待ってよ。 外出権ぐらいいいでしょう?)
エリカは「命令」を拒否できないが抗議はできる。 もっとも、命令者が抗議に応じなければ意味はないし、しつこく抗議を続ければ抗議自体を禁止されてしまうが。
「不要な外出は予想外のアクシデントの原因になります」
そしてマベルスはシバー少尉に向かって言う。
「シバー少尉、今後は上位者の許可を得ずしてサワラジリ中尉に自由時間を与えてはなりませんよ?」
シバー少尉は伏し目がちに返事をする。
「はい」
エリカはマベルス中尉の決定に憤慨した。
(コイツ、いま「外出」じゃなくて「自由時間」って言った! 私には余暇の時間すら認められないってわけ!?)
シバー少尉から外出権をせしめる前よりもエリカの境遇が悪化したわけだ。 ただ、マベルスの指示はエリカへの直接的な「命令」ではなかったし、「自由時間」の定義をマベルスが明確にしていないから、この場は流しておいて後でシバー少尉を丸め込めば実質的にこれまで通りの自由時間を確保できる可能性は高い。
だが、頭に血が登っているエリカは抗議せずにはいられなかった。
チン!(ちょっとマベルス中尉!)
「はい、なんでしょう?」
チン?(外出はともかく自由時間ぐらい構わないでしょう?)
「あなたの行動の余地は極力削っておいたほうが良さそうですからね。自由時間も不許可とします」
チン!?(私には基本的人権も無いってわけ!?)
「うるさいなあ。 ファントムさんは人ではないでしょう? 以後この件に関して抗議を禁止します」
とうとう抗議を禁止されてしまった。
(ぬうっ)
エリカがハラワタを煮えくり返らせているのも知らず、マベルス中尉はさらに言い募る。
「というか、今後は一切の口答えを禁止しましょう。 抗議に限らずね」
このぶんだと、やがてエリカは任務と生存に必要なこと以外は全て禁止されてしまうだろう。
チンっ!(あんたねえ、いい加減にしなさいよっ!)
マベルス中尉が「おや?」という顔をする。 今のは抗議ではないだろうか? 抗議を明示的に禁止したというのに。
「サワラジリ中尉、私はあなたの抗議を禁止すると言ったんですよ?」
これに対するエリカの返答はビンタだった。 エリカの体重が十分に乗った右手の平手打ちがマベルス中尉の左頬にバッチーン!と炸裂する。 右の腕から肩にかけてマベルス中尉の体重がずっしりと伝わるが、それが心地よい。
エリカの平手打ちを食らったマベルス中尉はひとたまりもなく吹っ飛んで家の壁に激突。 壁を震わせ、口と鼻から血を流して気絶した。 常人であれば死んでいるビンタだったが、マベルス中尉はモンスター退治で多少は体を鍛えていたらしい。 彼はまだ生きていた。
突然ふっとんだマベルス中尉に驚くシバー少尉。
「...今のはエリカさんが? 《支配》が解けてるってこと?」
エリカは玄関のドアを開けると、気絶しているマベルス中尉の両足を掴んでズルズルと外まで引っ張っていき、敷地の外の街路ドサッと投げ捨てた。
チン!(今度この家に入ってきたらブッ殺すわよ!)
しかしマベルスにこのベルの音は聞こえていないだろう。 ピクリとも動かず気を失っているから。 死んではいない... はずである。
エリカは玄関に立ってマベルスを眺めるシバー少尉の横を、鼻息も荒く通り過ぎる。
チン?(あんたは出ていかないの?)
「わ、私の家はここですから...」
(ここはあんたの家じゃないんだけどね)
シバー少尉の居住権について問答する気分ではなかったので、エリカは家の中へと入っていった。
とりとめなく思いを巡らせながら家路をたどるエリカだったが、シバー少尉のことが頭に浮かんだときにふと気付いた。
(帰宅の予定時間を2時間はオーバーしてるから、少尉がガブリュー大佐に報告してそう。 それに...)
それにエリカが指輪を壊してしまったのも問題である。 自殺によりエリカの《支配》が解けていれば一向に問題ではなかったのだが。
(あー、なんだか面倒な予感。 シバー少尉が大佐にチクらずにいてくれればいいんだけど)
今ならまだ少尉は大佐に連絡していないかもしれない。 そう期待したエリカが歩みを速めたときである。 不自然に心がざわめき、焦りが沸き起こる。
(早く帰らないと!)
自由時間を過ぎているのにまだ自宅に戻っていないという焦燥感、すなわち《支配》の魔法がもたらす焦燥感である。
(何をのんびりしてたの、わたし! 自由時間はとっくに終わってるのに!)
エリカはシバー少尉の待つ自宅を目指して猛スピードで走り始めた。
◇
息を弾ませて自宅に到着したエリカは、玄関の鍵をもどかしげに開けて家の中に入ると、ベルを鳴らしてシバー少尉に帰宅を告げる。 少尉に自分の帰宅が認知されて初めて少尉の指示に従ったことになる。 それがエリカの認識だ。
チーン!(いま戻ったわよ!)
すると、すぐにシバー少尉が廊下に飛び出して玄関までやって来た。
「エリカさんっ! 良かった戻ってきた。 こんなに遅いなんて、何があったんですか?」
帰宅を伝え終えたエリカは、焦燥感が解消されて一気にテンションが下がった。 こんなことで焦らなきゃならないなんてバカみたい。
ちん(別に何もなかったよ)
「でも、でも、約束の時間を2時間以上も過ぎてるじゃないですか。 それに指輪のシグナルが途絶えてるって」
監視役がシバー少尉にシグナルのことを報告したのだろう。
(うるさいなあ)
シバー少尉を無視して傍らを通り過ぎたエリカの背中に少尉が質問をぶつける。
「何してたんですか? 答えてください、エリカさん」
答えろと命じられたからには答えなくてはならない。 エリカはシバー少尉のほうに向き直り、自分が自殺したことをチンと報告した。
「ファントムさんて不死身だったんだ... それはともかく、どうして自殺なんか?」
(これに答えたら自殺を禁止されそう。 でも問題ないよね。 自殺じゃ《支配》が解けなかったから、自殺を禁止されてもカンケーない)
チン(《支配》から逃れるためよ)
「《支配》から逃れるのは禁止されてるはずじゃ...」
問題となるのは「《支配》の呪文を解く」と「支配を逃れる」の違いである。 この点についてシバー少尉に回答を求められエリカが両者の違いについて答えれば、シバー少尉は「支配を逃れる」ことまで禁じるに違いない。
このさき「支配を逃れる」方法を思いついたときのことを考えれば、それは致命的にマズい。 そんな事態を回避しようとエリカは急いでベルを鳴らす。
チュィン(ファントムさんを甘くみないことね)
今回ベルを鳴らすにあたり、エリカは冷たく鋭くを心がけた。 ベルの音を意識的に操ってシバー少尉を退けようとしたのだ。
その効果はあり、シバー少尉は少し怯えた表情を見せて黙り込んだ。
「...っ」
その隙を逃さずエリカは畳み掛ける。
チン(いいこと? 私が自殺しようとしたことは誰にも内緒にしておきなさい。 これ、上官としての命令だから)
「はい」
そう言ってコクリと頷こうとするシバー少尉の動作が途中で止まった。 少尉の視線は家の奥に向けられている。
(なに?)
嫌な予感を感じて後ろを振り向こうとするエリカ。 その彼女の耳朶に男の声が響く。
「今のは興味深いベルの音でしたね、サワラジリ中尉」
エリカが振り向くと、そこに立つのはマベルス中尉。
チン?(興味深いって、どういうことかしら?)
「自殺、と聞こえましたが」
チン?(そうだったかしら?)
「あなたの場合、ストレートに尋ねるのが手っ取り早い。 サワラジリ中尉、自殺をした理由を私に教えなさい」
マベルス中尉もエリカに「命令」する権限を持っている。 このように命じられればエリカは正直に答えるしかない。 仕方なくエリカは自殺に関するすべてをチンと報告した。
「ほう、ファントムさんは不死身でしたか。 これを聞いたら大佐もお喜びになるだろうね」
(うわ、これはまずい...)
不死身を前提とする任務はどれだけ過酷なものとなるだろうか? 考えるだけでもゾッとする。 不死身の肉体でも苦痛は人並みに感じるのだ。
(なんでコイツが私の家にいるのよ? シバー少尉だけなら抑え込めたのに)
エリカの疑問に答えておこう。 シバー少尉からエリカの失踪を伝えられた大佐がマベルス中尉をエリカの家に派遣したのだ。
「さてサワラジリ中尉。 こうして家に戻り私の質問に答えているからには、自殺であなたの《支配》は解けなかったのでしょう。 しかし念のためです。 いいですか? 今後あなたが自殺することを禁止します」
マベルス中尉は、さらにエリカの行動の余地をつぶす。
「そうそう、指輪を破壊するのも禁止しておきましょう。 外出権とやらも没収ということで」
チン?(ちょっと待ってよ。 外出権ぐらいいいでしょう?)
エリカは「命令」を拒否できないが抗議はできる。 もっとも、命令者が抗議に応じなければ意味はないし、しつこく抗議を続ければ抗議自体を禁止されてしまうが。
「不要な外出は予想外のアクシデントの原因になります」
そしてマベルスはシバー少尉に向かって言う。
「シバー少尉、今後は上位者の許可を得ずしてサワラジリ中尉に自由時間を与えてはなりませんよ?」
シバー少尉は伏し目がちに返事をする。
「はい」
エリカはマベルス中尉の決定に憤慨した。
(コイツ、いま「外出」じゃなくて「自由時間」って言った! 私には余暇の時間すら認められないってわけ!?)
シバー少尉から外出権をせしめる前よりもエリカの境遇が悪化したわけだ。 ただ、マベルスの指示はエリカへの直接的な「命令」ではなかったし、「自由時間」の定義をマベルスが明確にしていないから、この場は流しておいて後でシバー少尉を丸め込めば実質的にこれまで通りの自由時間を確保できる可能性は高い。
だが、頭に血が登っているエリカは抗議せずにはいられなかった。
チン!(ちょっとマベルス中尉!)
「はい、なんでしょう?」
チン?(外出はともかく自由時間ぐらい構わないでしょう?)
「あなたの行動の余地は極力削っておいたほうが良さそうですからね。自由時間も不許可とします」
チン!?(私には基本的人権も無いってわけ!?)
「うるさいなあ。 ファントムさんは人ではないでしょう? 以後この件に関して抗議を禁止します」
とうとう抗議を禁止されてしまった。
(ぬうっ)
エリカがハラワタを煮えくり返らせているのも知らず、マベルス中尉はさらに言い募る。
「というか、今後は一切の口答えを禁止しましょう。 抗議に限らずね」
このぶんだと、やがてエリカは任務と生存に必要なこと以外は全て禁止されてしまうだろう。
チンっ!(あんたねえ、いい加減にしなさいよっ!)
マベルス中尉が「おや?」という顔をする。 今のは抗議ではないだろうか? 抗議を明示的に禁止したというのに。
「サワラジリ中尉、私はあなたの抗議を禁止すると言ったんですよ?」
これに対するエリカの返答はビンタだった。 エリカの体重が十分に乗った右手の平手打ちがマベルス中尉の左頬にバッチーン!と炸裂する。 右の腕から肩にかけてマベルス中尉の体重がずっしりと伝わるが、それが心地よい。
エリカの平手打ちを食らったマベルス中尉はひとたまりもなく吹っ飛んで家の壁に激突。 壁を震わせ、口と鼻から血を流して気絶した。 常人であれば死んでいるビンタだったが、マベルス中尉はモンスター退治で多少は体を鍛えていたらしい。 彼はまだ生きていた。
突然ふっとんだマベルス中尉に驚くシバー少尉。
「...今のはエリカさんが? 《支配》が解けてるってこと?」
エリカは玄関のドアを開けると、気絶しているマベルス中尉の両足を掴んでズルズルと外まで引っ張っていき、敷地の外の街路ドサッと投げ捨てた。
チン!(今度この家に入ってきたらブッ殺すわよ!)
しかしマベルスにこのベルの音は聞こえていないだろう。 ピクリとも動かず気を失っているから。 死んではいない... はずである。
エリカは玄関に立ってマベルスを眺めるシバー少尉の横を、鼻息も荒く通り過ぎる。
チン?(あんたは出ていかないの?)
「わ、私の家はここですから...」
(ここはあんたの家じゃないんだけどね)
シバー少尉の居住権について問答する気分ではなかったので、エリカは家の中へと入っていった。
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