113 / 144
最後の一藁
しおりを挟む
ヒモネス中佐は指令室でテレホンを使用し、帝国軍の到来を首都に告げていた。
「マナ列車? 何だそれは?」
通話相手の説明を聞く中佐の膝の上に一匹の黒猫が飛び乗って来る。 エレベスの町の軍司令部に住み着いている猫である。 名前は無い。 クーララでは猫や犬に名前を付ける習慣が無いのだ。
中佐は電話をしながら、半ば無意識のうちに両足の靴を脱いで椅子の上に胡座をかく。 猫が座るスペースの確保である。 そして太股の上に寝そべる黒猫を片手で撫で始める。 この黒猫は少し臆病なところがあり頭を撫でるとビクンと怖がるので、彼が撫でているのは背中だ。
黒猫を撫でながらヒモネス中佐は通話を続ける。
「とにかく早いとこ方針を決めるよう上に伝えといてくれ。 どうにも動きようがない」
そう締めくくってヒモネス中佐は通話を終えた。 しかし困ったことに黒猫が膝の上で熟睡していて椅子から立ち上がれない。 彼は仕方なくお茶を飲むことにして、手近な部下に声をかけた。
「ロドリンゴ少尉、お茶を淹れてくれ。 この通り、いま立ち上がれないんだ」
ロドリンゴ少尉は中佐の状況を一目で見て取ると、嫌な顔ひとつせず承知する。
「わかりました」
猫を膝の上に乗せる者あらば、周囲の者がその者の用事を済ますべし。 それがクーララの古来よりのしきたりである。
◇
胡座をかいた膝の上に黒猫を乗せたヒモネス中佐。 ロドリンゴ少尉が淹れてくれたお茶をすすっていると、指令室のドアが開いて見慣れぬ軍人たちがゾロゾロと入ってきた。 服装ですぐに分かる。 ザンス帝国の軍人だ。
帝国軍人が指令室に侵入してくるという異常事態に、司令室に動揺が広がる。 軍人としてあるまじきことに「ひっ」などと軽い悲鳴をあげる者すら出る始末。
しかし、それも無理はないかもしれない。 ザンス人はクーララ人よりも遙かに強いのだ。 この場にやって来た5人だけで、指令室にいる20数名のクーララ士卒を一掃できる。
部下たちの狼狽ぶりとは対照的に、ヒモネス中佐は動じた様子もない。
「ザンス帝国の軍人が我が軍の指令室に何の用かな?」
ヒモネス中佐の落ち着きには理由がある。 彼はクーララ人には稀少なタイプで、マナで肉体が強化されやすいのだ。 加えてクーララ人の例に漏れず魔法も達者、魔法も近接戦闘もこなすオールラウンダーというやつである。
中佐の問いかけに精悍な顔をした逞しい男が答える。
「私は帝国軍マナ石採集部隊の新指揮官デホルト中尉。 我が部隊の前指揮官シェーン少佐の死についてクーララ軍に訊きたいことがある」
たまたま司令室に居合わせたナヤスはデホルトの言葉にショックを受けた。 指揮官を暗殺しても帝国軍が撤退しないと分かったからだ。 さらに、帝国軍はシェーン少佐がクーララ軍に暗殺されたと疑っている。
「訊きたいこととは?」
「お前がここの責任者か?」
「エレベス駐留部隊の指揮官ヒモネス中佐だ」
胡座をかいた膝の上に猫を乗せたまま答えるヒモネス。 デホルトはそれを不快そうに眺める。 属国の指揮官が胡座をかいたまま自分に応対するのが気に入らなかったのだ。
さらにデホルトは猫が嫌いで、特に黒猫を目の敵にしている。 黒猫が不幸を運ぶなどというバカげた迷信を信じているのだ。 デホルトはこれまでに黒猫だけでも3匹を殺している猫殺しである。
負の情熱が籠もった視線を黒猫に注ぎながら、デホルトはヒモネスに伝える。
「前指揮官シェーン少佐が陸上で溺死するという不審な死を遂げた。 明らかに殺人事件である。 我が軍はこれにクーララ軍が関与していると考えている」
「知らんな。 シェーン少佐が亡くなったというのも初耳だ」
「本当か?」
「本当だ」
「陸上で溺死など明らかに魔法のしわざだ」
「溺死と断定する理由は?」
「死亡したシェーン少佐の口内から水がこぼれ出ていた」
それを聞いたヒモネス中佐の視線が、司令室の片隅で青い顔をしているナヤスのほうへ向かうが、すぐにデホルト中尉のほうへ戻った。
「それが本当であれば、魔法だろうな」
「そうだろう。 そして口内に水を出現させるような高度な魔法を使えるのはクーララ人だけだ」
帝国軍はナヤスが「水」をシェーン少佐の口内に移動させたことを知らない。 水が口内に生じたのだと思っている。
ヒモネス中佐が黙っていると、デホルト中尉が要求する。
「下手人を差し出せ。 そうすればクーララ軍の責任は問わずに済まそう」
これは嘘である。 殺人犯の処分だけで事が済むはずがない。 ザンス帝国はクーララ王国の監督責任を追及し、国家レベルでの補償を要求することだろう。
しかし、ヒモネス中佐はデホルト中尉の口車に乗らなかった。
「私の部下に殺人犯はいない」
ヒモネスの素っ気ない返事を聞いたナヤスは心の中で快哉を叫ぶ。 ナイスです、ヒモネス隊長!
素っ気ない返事はしかし、デホルト中尉をぷっつんさせた。 ナヤスの歓喜が収まらないうちに、司令室に怒声が響き渡る。
「それを調べろっつってんだよ、テメエ!」
それまでもデホルトはヒモネス中佐の態度や黒猫にイライラしていたのだが、今しがたのヒモネスの返事で堪忍袋の緒が切れた。 クーララ人の分際で帝国軍人である自分を恐れぬとは何事か! 生意気だぞ!
デホルトの怒声にビックリした黒猫がヒモネス中佐の膝から飛び降り、外へ出ようと司令室のドアを目指す。 むろん猫にドアは開けられないが心配ご無用。 猫がドアのところに来ればドアを開けてやるのがクーララ王国の古き良き慣習である。 ドアの近くでは、黒猫の意向を察知したクーララ兵士が、ドアの取っ手に手をかけて黒猫の到来を今か今かと待っている。
ドアの開け手を確保できたことを知ってか知らずか、黒猫はツンと澄ました顔でとっとっとっとドアを目指して歩く。
その黒猫の横腹に何かが高速で激突した。 足である。 デホルト中尉が怒りの赴くままに黒猫の横腹を蹴り飛ばしたのだ。
デホルトに蹴られた黒猫はギャッと鳴き声を上げて壁に叩きつけられ、それっきりピクリとも動かない。
デホルトの凶行に静まり返ったのも束の間、数名のクーララ兵士が黒猫の元に駆けつけて《治癒》の呪文を唱え始める。 「パメクルラクルロリロリポップン...」
いっぽうヒモネス中佐は... 激怒していた。 彼は重度の猫好きだったのだ。 いや、猫好きでなくとも猫が蹴られるのを見て心穏やかでいられる者などいやしない。
ヒモネスはデホルトに言葉の鞭を叩きつける。
「貴様あっ、どうして猫を蹴った! 猫が死んでしまうだろうがっ!」
「オレは猫が嫌いなんだよ。 特に黒猫は大嫌いだ。 不幸を運ぶからな」
「違うっ! 黒猫は幸運をもたらすっ!」
「ふん」と鼻で笑うデホルト。「そんな迷信を信じてるのか未開人め」
デホルトは、イケメンでいけ好かないヒモネスを精神的に苦しめてやろうと言葉を重ねる。
「オマエ知ってるか? 帝国じゃ黒猫は見つけしだい殺されるんだ。 石を投げつけたり、今みたいに蹴り飛ばしたりしてな。 帝国がクーララを占領したら、クーララの黒猫もぜんぶ駆除だ」
デホルトの長口上を聞いたヒモネス中佐の目から激情が消え去り、一転して据わった目になる。 デホルトは語りすぎたのだ。
ヒモネスが呟いたのは一言。
「🐆」
それは誰にも理解できない音であった。 《加速》の呪文「ミルワロミルワマハリトダルト ジュゼッペジュレームジュッテーム」を一音節に圧縮して発音したのだ。 クーララに古来より伝わる奥義『圧縮詠唱』である。
一瞬で《加速》が発動し、ヒモネス中佐の全身を仄かなマナの光が包み込む。 《加速》は空気を操る呪文である。 術者の空気抵抗を減らしたり動作を空気で後押ししたりして、行動速度を大きく向上させる。
すでに好戦的な気分にあったデホルト中尉は、ヒモネス中佐の呟きを戦闘行動とみなし、腰から下げた長剣を鞘から引き抜き始めていた。 訓練されたザンス人ならではの素早い反応である。
しかし《加速》の影響下にあるヒモネスの動きはデホルトよりも速かった。 ヒモネスは目にも止まらぬ素早さで剣を抜くと、長剣を抜き放とうとするデホルトの右腕を切り飛ばした。 そしてデホルトに悲鳴を上げる隙も与えず、続けざまに剣で喉を貫く。
デホルト中尉は泡混じりの血を口から吐き出して、司令室の床に倒れ込んだ。 ヒモネス中佐はザンス帝国軍の指揮官を殺害してしまったわけだ。
しかしヒモネスは後悔していなかった。 黒猫を駆除だと? 断じて許さない。 黒猫に危害を加えるヤツはオレの敵だ。 黒猫はこの世でいちばん可愛い生き物なんだ。 黒猫の子猫なんてサイコーさ。 ホント可愛い。
ヒモネスはデホルトの死体に向かって重々しく言い放つ。
「黒猫が不幸を運ぶんじゃない。 黒猫に害を為す者に天罰が下るんだ。 お前のようにな」
デホルトが伴ってきた帝国兵4人は驚きのあまり声も出せずに立ちすくんでいる。 クーララ軍人が帝国軍人に危害を加えようとは、いや危害を加え得るとは、彼らは夢にも思っていなかった。 クーララ人はザンス人よりも弱いはずだったし、クーララ王国はザンス帝国に頭が上がらないはずだったのだ。
ヒモネス中佐は、立ちすくむ帝国兵4人を見て脅威にならないと判断すると、デホルトに蹴られた黒猫の元へ移動した。 《加速》の効果が続いているので、1歩で10mほどもの距離を進んだかに見える。
黒猫はクーララ兵に抱かれて目を閉じていた。 ヒモネスは言葉少なに問う。
「どうだ?」
「3人がかりで《治癒》をかけた甲斐あって一命は取り留めました」
デホルトに蹴られて黒猫が死ななかった理由は《治癒》だけではない。 黒猫が体内にマナを保有するスーパー・キャットであるのも大きな理由だ。 普通の猫ならデホルトに蹴られた瞬間に即死である。
「よかった」
ヒモネスはクーララ兵に抱かれて眠る黒猫の頭を優しく撫でる。 寝ているときであれば、頭を撫でてもビクンと怖がらない。
ヒモネスがひとしきり猫を撫で終えても、帝国兵4人は血を流して横たわるデホルトの死体を前に立ち尽くしていた。 未知の状況にあって指揮官もおらず、彼らはどうすれば良いのか分からなかった。
そんな彼らにヒモネスは指示してやる。
「お前たちの指揮官を連れて、ここから出て行け」
4人の帝国兵はどこかホッとした様子でヒモネスの言葉に従い、デホルト中尉の死体を担いで司令室を出て行った。
◇◆◇
この翌日、ザンス帝国はクーララ王国がシェーン少佐とデホルト中尉を殺害したと主張し、巨額の賠償金を要求した。
クーララ王国は賠償金の支払いを拒絶し、圧倒的な戦力差を知りつつも国の存亡をかけてザンス帝国と戦うことを決断した。 帝国の度重なる理不尽な要求でクーララ王国を既に窮鼠となっており、今回の一件が最後の一藁だった。
クーララ王国はザルス共和国に援軍を依頼し、ザルス共和国はこれを受諾した。 強大なザンス帝国がクーララ王国を併合して力を増すのを座視できないと判断したのだ。
「マナ列車? 何だそれは?」
通話相手の説明を聞く中佐の膝の上に一匹の黒猫が飛び乗って来る。 エレベスの町の軍司令部に住み着いている猫である。 名前は無い。 クーララでは猫や犬に名前を付ける習慣が無いのだ。
中佐は電話をしながら、半ば無意識のうちに両足の靴を脱いで椅子の上に胡座をかく。 猫が座るスペースの確保である。 そして太股の上に寝そべる黒猫を片手で撫で始める。 この黒猫は少し臆病なところがあり頭を撫でるとビクンと怖がるので、彼が撫でているのは背中だ。
黒猫を撫でながらヒモネス中佐は通話を続ける。
「とにかく早いとこ方針を決めるよう上に伝えといてくれ。 どうにも動きようがない」
そう締めくくってヒモネス中佐は通話を終えた。 しかし困ったことに黒猫が膝の上で熟睡していて椅子から立ち上がれない。 彼は仕方なくお茶を飲むことにして、手近な部下に声をかけた。
「ロドリンゴ少尉、お茶を淹れてくれ。 この通り、いま立ち上がれないんだ」
ロドリンゴ少尉は中佐の状況を一目で見て取ると、嫌な顔ひとつせず承知する。
「わかりました」
猫を膝の上に乗せる者あらば、周囲の者がその者の用事を済ますべし。 それがクーララの古来よりのしきたりである。
◇
胡座をかいた膝の上に黒猫を乗せたヒモネス中佐。 ロドリンゴ少尉が淹れてくれたお茶をすすっていると、指令室のドアが開いて見慣れぬ軍人たちがゾロゾロと入ってきた。 服装ですぐに分かる。 ザンス帝国の軍人だ。
帝国軍人が指令室に侵入してくるという異常事態に、司令室に動揺が広がる。 軍人としてあるまじきことに「ひっ」などと軽い悲鳴をあげる者すら出る始末。
しかし、それも無理はないかもしれない。 ザンス人はクーララ人よりも遙かに強いのだ。 この場にやって来た5人だけで、指令室にいる20数名のクーララ士卒を一掃できる。
部下たちの狼狽ぶりとは対照的に、ヒモネス中佐は動じた様子もない。
「ザンス帝国の軍人が我が軍の指令室に何の用かな?」
ヒモネス中佐の落ち着きには理由がある。 彼はクーララ人には稀少なタイプで、マナで肉体が強化されやすいのだ。 加えてクーララ人の例に漏れず魔法も達者、魔法も近接戦闘もこなすオールラウンダーというやつである。
中佐の問いかけに精悍な顔をした逞しい男が答える。
「私は帝国軍マナ石採集部隊の新指揮官デホルト中尉。 我が部隊の前指揮官シェーン少佐の死についてクーララ軍に訊きたいことがある」
たまたま司令室に居合わせたナヤスはデホルトの言葉にショックを受けた。 指揮官を暗殺しても帝国軍が撤退しないと分かったからだ。 さらに、帝国軍はシェーン少佐がクーララ軍に暗殺されたと疑っている。
「訊きたいこととは?」
「お前がここの責任者か?」
「エレベス駐留部隊の指揮官ヒモネス中佐だ」
胡座をかいた膝の上に猫を乗せたまま答えるヒモネス。 デホルトはそれを不快そうに眺める。 属国の指揮官が胡座をかいたまま自分に応対するのが気に入らなかったのだ。
さらにデホルトは猫が嫌いで、特に黒猫を目の敵にしている。 黒猫が不幸を運ぶなどというバカげた迷信を信じているのだ。 デホルトはこれまでに黒猫だけでも3匹を殺している猫殺しである。
負の情熱が籠もった視線を黒猫に注ぎながら、デホルトはヒモネスに伝える。
「前指揮官シェーン少佐が陸上で溺死するという不審な死を遂げた。 明らかに殺人事件である。 我が軍はこれにクーララ軍が関与していると考えている」
「知らんな。 シェーン少佐が亡くなったというのも初耳だ」
「本当か?」
「本当だ」
「陸上で溺死など明らかに魔法のしわざだ」
「溺死と断定する理由は?」
「死亡したシェーン少佐の口内から水がこぼれ出ていた」
それを聞いたヒモネス中佐の視線が、司令室の片隅で青い顔をしているナヤスのほうへ向かうが、すぐにデホルト中尉のほうへ戻った。
「それが本当であれば、魔法だろうな」
「そうだろう。 そして口内に水を出現させるような高度な魔法を使えるのはクーララ人だけだ」
帝国軍はナヤスが「水」をシェーン少佐の口内に移動させたことを知らない。 水が口内に生じたのだと思っている。
ヒモネス中佐が黙っていると、デホルト中尉が要求する。
「下手人を差し出せ。 そうすればクーララ軍の責任は問わずに済まそう」
これは嘘である。 殺人犯の処分だけで事が済むはずがない。 ザンス帝国はクーララ王国の監督責任を追及し、国家レベルでの補償を要求することだろう。
しかし、ヒモネス中佐はデホルト中尉の口車に乗らなかった。
「私の部下に殺人犯はいない」
ヒモネスの素っ気ない返事を聞いたナヤスは心の中で快哉を叫ぶ。 ナイスです、ヒモネス隊長!
素っ気ない返事はしかし、デホルト中尉をぷっつんさせた。 ナヤスの歓喜が収まらないうちに、司令室に怒声が響き渡る。
「それを調べろっつってんだよ、テメエ!」
それまでもデホルトはヒモネス中佐の態度や黒猫にイライラしていたのだが、今しがたのヒモネスの返事で堪忍袋の緒が切れた。 クーララ人の分際で帝国軍人である自分を恐れぬとは何事か! 生意気だぞ!
デホルトの怒声にビックリした黒猫がヒモネス中佐の膝から飛び降り、外へ出ようと司令室のドアを目指す。 むろん猫にドアは開けられないが心配ご無用。 猫がドアのところに来ればドアを開けてやるのがクーララ王国の古き良き慣習である。 ドアの近くでは、黒猫の意向を察知したクーララ兵士が、ドアの取っ手に手をかけて黒猫の到来を今か今かと待っている。
ドアの開け手を確保できたことを知ってか知らずか、黒猫はツンと澄ました顔でとっとっとっとドアを目指して歩く。
その黒猫の横腹に何かが高速で激突した。 足である。 デホルト中尉が怒りの赴くままに黒猫の横腹を蹴り飛ばしたのだ。
デホルトに蹴られた黒猫はギャッと鳴き声を上げて壁に叩きつけられ、それっきりピクリとも動かない。
デホルトの凶行に静まり返ったのも束の間、数名のクーララ兵士が黒猫の元に駆けつけて《治癒》の呪文を唱え始める。 「パメクルラクルロリロリポップン...」
いっぽうヒモネス中佐は... 激怒していた。 彼は重度の猫好きだったのだ。 いや、猫好きでなくとも猫が蹴られるのを見て心穏やかでいられる者などいやしない。
ヒモネスはデホルトに言葉の鞭を叩きつける。
「貴様あっ、どうして猫を蹴った! 猫が死んでしまうだろうがっ!」
「オレは猫が嫌いなんだよ。 特に黒猫は大嫌いだ。 不幸を運ぶからな」
「違うっ! 黒猫は幸運をもたらすっ!」
「ふん」と鼻で笑うデホルト。「そんな迷信を信じてるのか未開人め」
デホルトは、イケメンでいけ好かないヒモネスを精神的に苦しめてやろうと言葉を重ねる。
「オマエ知ってるか? 帝国じゃ黒猫は見つけしだい殺されるんだ。 石を投げつけたり、今みたいに蹴り飛ばしたりしてな。 帝国がクーララを占領したら、クーララの黒猫もぜんぶ駆除だ」
デホルトの長口上を聞いたヒモネス中佐の目から激情が消え去り、一転して据わった目になる。 デホルトは語りすぎたのだ。
ヒモネスが呟いたのは一言。
「🐆」
それは誰にも理解できない音であった。 《加速》の呪文「ミルワロミルワマハリトダルト ジュゼッペジュレームジュッテーム」を一音節に圧縮して発音したのだ。 クーララに古来より伝わる奥義『圧縮詠唱』である。
一瞬で《加速》が発動し、ヒモネス中佐の全身を仄かなマナの光が包み込む。 《加速》は空気を操る呪文である。 術者の空気抵抗を減らしたり動作を空気で後押ししたりして、行動速度を大きく向上させる。
すでに好戦的な気分にあったデホルト中尉は、ヒモネス中佐の呟きを戦闘行動とみなし、腰から下げた長剣を鞘から引き抜き始めていた。 訓練されたザンス人ならではの素早い反応である。
しかし《加速》の影響下にあるヒモネスの動きはデホルトよりも速かった。 ヒモネスは目にも止まらぬ素早さで剣を抜くと、長剣を抜き放とうとするデホルトの右腕を切り飛ばした。 そしてデホルトに悲鳴を上げる隙も与えず、続けざまに剣で喉を貫く。
デホルト中尉は泡混じりの血を口から吐き出して、司令室の床に倒れ込んだ。 ヒモネス中佐はザンス帝国軍の指揮官を殺害してしまったわけだ。
しかしヒモネスは後悔していなかった。 黒猫を駆除だと? 断じて許さない。 黒猫に危害を加えるヤツはオレの敵だ。 黒猫はこの世でいちばん可愛い生き物なんだ。 黒猫の子猫なんてサイコーさ。 ホント可愛い。
ヒモネスはデホルトの死体に向かって重々しく言い放つ。
「黒猫が不幸を運ぶんじゃない。 黒猫に害を為す者に天罰が下るんだ。 お前のようにな」
デホルトが伴ってきた帝国兵4人は驚きのあまり声も出せずに立ちすくんでいる。 クーララ軍人が帝国軍人に危害を加えようとは、いや危害を加え得るとは、彼らは夢にも思っていなかった。 クーララ人はザンス人よりも弱いはずだったし、クーララ王国はザンス帝国に頭が上がらないはずだったのだ。
ヒモネス中佐は、立ちすくむ帝国兵4人を見て脅威にならないと判断すると、デホルトに蹴られた黒猫の元へ移動した。 《加速》の効果が続いているので、1歩で10mほどもの距離を進んだかに見える。
黒猫はクーララ兵に抱かれて目を閉じていた。 ヒモネスは言葉少なに問う。
「どうだ?」
「3人がかりで《治癒》をかけた甲斐あって一命は取り留めました」
デホルトに蹴られて黒猫が死ななかった理由は《治癒》だけではない。 黒猫が体内にマナを保有するスーパー・キャットであるのも大きな理由だ。 普通の猫ならデホルトに蹴られた瞬間に即死である。
「よかった」
ヒモネスはクーララ兵に抱かれて眠る黒猫の頭を優しく撫でる。 寝ているときであれば、頭を撫でてもビクンと怖がらない。
ヒモネスがひとしきり猫を撫で終えても、帝国兵4人は血を流して横たわるデホルトの死体を前に立ち尽くしていた。 未知の状況にあって指揮官もおらず、彼らはどうすれば良いのか分からなかった。
そんな彼らにヒモネスは指示してやる。
「お前たちの指揮官を連れて、ここから出て行け」
4人の帝国兵はどこかホッとした様子でヒモネスの言葉に従い、デホルト中尉の死体を担いで司令室を出て行った。
◇◆◇
この翌日、ザンス帝国はクーララ王国がシェーン少佐とデホルト中尉を殺害したと主張し、巨額の賠償金を要求した。
クーララ王国は賠償金の支払いを拒絶し、圧倒的な戦力差を知りつつも国の存亡をかけてザンス帝国と戦うことを決断した。 帝国の度重なる理不尽な要求でクーララ王国を既に窮鼠となっており、今回の一件が最後の一藁だった。
クーララ王国はザルス共和国に援軍を依頼し、ザルス共和国はこれを受諾した。 強大なザンス帝国がクーララ王国を併合して力を増すのを座視できないと判断したのだ。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
598
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる