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第一話

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「黙祷!」
号令をかけた交番の巡査である横溝にならい、そこにいるもの全員が目を閉じた。
大阪市北島区にある北島商店街の一店舗で亡き人を想う会が開かれた。赤いレンガの建物は喫茶店『TIME』。
とはいっても、誰かが催そうと企画したものではなかった。誰が何を言うでもなく、何となくいつものように常連客が『TIME』に集まった。入り口から三番目のカウンター席に座り、皆の意見に微笑み、彼女は静かにコーヒーを飲んでいた。享年八十二歳。泉佐野佳津江いずみさのかずえは生涯を終えた。死因は心臓発作だったという。三番目の席には湯気の立つコーヒーが置かれた。
 三代目店主である阿倍野斗樹央あべのときおも目を閉じ腕組みをしてカウンターの中で立っている。大きくゴツゴツとした左手の甲には刺青。斗樹央いわく『若気の至り』だ。誰にも隠してはいない。
「寂しなるなぁ。あっちゅうまに皆あの世に行ってしもうて。斗樹央が大きなるぅいうことは、ワシらがあの世へ行くんが近うなるぅいうことやな」
花屋の綾辻は白髪の髪を掌で撫でつけて溜め息をついた。三十にもなる男に「大きくなる」と言えるのはこの店の常連客くらいだろう。斗樹央は苦笑したが、平均年齢六十二歳の常連客から見ると斗樹央はいつまで経っても子供なのだろう。
「大きなったどころかいな。マスターの真似か知らんけどその無精髭、なんとかしなさい」
薄くピンク色が入ったレンズの眼鏡を掛け直して化粧品店の美紗は言う。すでに、斗樹央は『TIME』の三代目マスターだが、ここの常連は斗樹央をマスターだとは言わない。ただの「斗樹央」だ。マスターとは前マスターの斗樹央の父親である登紀弥《ときや》を指している。そして、髭は一応、顎で整えている。けっして無精ではない。
「ホンマにお前は年だけ食ったな。やんちゃせえへんようなったぁ思たらオッサンや」
横溝は懐かしそうにコーヒーを飲む。横溝が誰よりも斗樹央の「やんちゃ時代」を知っている。
「言うときますけど、三十歳はオッサンと違います。せいぜい死なんように、そやな、あと五十年は通ってくださいよ」
「わしらが爺さん婆さんや。お前もオッサンやで」
オッサンだとは自分でも思わないが、大台を超えてしまうと若いとも言えない。そんな複雑な感情をこの常連客に話したところで、どうなるものでもなかった。
 
 カランカランとドアの上部に取り付けてあるベルが鳴り、一人の男が入ってきた。
「すみません。阿倍野さんはいらっしゃいますか?」
高校生くらいか、中折れハットをかぶった男はキョロキョロと店の中を見ている。透き通るほど肌が白く、華奢な体躯にはズルズルと引きずりそうな赤いシャツコート。首に巻いている黒系のチェックのストールはお洒落なのか、斗樹央にはよくわからなかった。
「俺やけど。いらっしゃい」
「あっと、お客じゃないんです。探し物をしてて」
店主を指名しての探し物とは何なのか。
「探し物って何や?」
威圧的に聞いたつもりはなかったが、どうも斗樹央の顔が威圧的なのだろう。男は少し背筋を伸ばし、最初の声は裏返ってしまった。
「ぅあの、僕は泉佐野佳津江の孫です。祖母が阿倍野さんに僕の物を預けていると言っていたもので」
緊張を滲ませた言い方で語尾が消えてしまいそうになっていた。あまりにも可哀そうに思ったのか、美紗は男に加勢するように言った。
「そんなかしこまらんでも相手は斗樹央や。おばちゃんが助けたろ。ここ座り。ほら斗樹央、ココアでも入れたげなさい」
そうか、泉佐野さんのお孫さんか、と横溝も目尻を下げた。
「お前、金持ってんのか?」
斗樹央が男に聞くとまた怯えさせてしまったようだった。美沙が目を吊り上げ斗樹央を睨む。
「ココアぐらい私が払ったるわ。さっさと入れたり。ほんまにアンタは商売向かへんわ」
「その顔は恐喝してんのと同じやぞ」
横溝は斗樹央の顔に文句を付けた。顔だけで恐喝とは、どうにもならないことを責められたものだ。斗樹央は渋々、牛乳を鍋に入れて温めた。
「名前は何て言うの?」
斗樹央に話す声音とは別人かと思うような優しい話し方で美沙は男に聞いた。どう見ても男は高校生くらいの年齢だ。小学生じゃあるまいし、と斗樹央は言うが誰も聞いていない。
森之宮涼聖もりのみやりょうせいです。自分で払います。あの、ここあ、ですか?」
「え。ココア知らんの?」
「ココアいうんはチョコレート味のミルクや。美味しいで」
大雑把な言い方をしたのは綾辻だ。
「ミルク……ミルクは好きです」
そうか~と美紗は、カウンター席の自分の隣に涼聖を座らせた。
「いい匂いがします」
目を閉じて匂いを嗅いでいる涼聖は嬉しそうに微笑んでいる。
「はい、ココア。熱いからヤケドせえへんように気ぃつけや」
斗樹央は大袈裟に優しく話しかけ、生クリームをたっぷり乗せたココアを涼聖の前に置いた。
「うわーっ。本物」
涼聖は小さな声で驚いている。
「混ぜて飲みや。甘くなるから」
美紗に言われて涼聖は恐る恐るスプーンでカップの中を混ぜた。フーフーと息を吹きかけながら口をつけると、こぼれんばかりの笑顔で「初めて飲みました。美味しいです」と言う。
「私にもココア入れて」
「わしも飲むわ」
美紗と綾辻に「糖尿に気をつけてくださいよ」と言ってから斗樹央はまた牛乳を鍋に注いだ。
「んで、探し物って何なん?」
涼聖に聞くと、
「これくらいの袋に入ってて。預かってもらってるからって」
手を顔の前まで上げて、指で手のひらサイズを示した。
「いや、知らんぞ」
「嘘や! 預かってるはずです」
どうしたものか、斗樹央にそんな記憶はなかった。
「泉佐野さんが何か勘違いしてたんちゃうか。俺は何にも預かってないで」
涼聖は怪訝そうに斗樹央を見ていた。疑われても知らないものは知らない。斗樹央も困っている。
「大事にしてるものを斗樹央に預けるとは、わしも思わへんけどなぁ。いったいどんなものなんや?」
横溝が聞くと、涼聖は何も言わず俯いてココアを飲んでいる。美沙と綾辻の前にココアを置いて斗樹央は溜め息をついた。
「泉佐野さんは自分から話すような人でもなかったからなぁ。何かを預かるような仲でもなかったんや。いつもその席に座ってコーヒー飲んでたわ」
涼聖は椅子の背の縁を撫でた。斗樹央に何か言いたそうな顔をしたけど、俯いてまたココアを飲んでいる。
「おばあちゃんが亡くなって寂しいんよ」
美紗が涼聖を庇った。
斗樹央は腕を組んで考えたが、それでも思い出せないし記憶にない。
涼聖はココアを飲み干し、顔を上げた。
「ここは何時までですか?」
「朝七時から夕方五時までや。日曜日は午前中だけ。不定休ていうとこや」
「……また来ます。いくらですか?」
「今日はええから、お父さんやお母さんと話してこい。何か泉佐野さんが勘違いしてるかもしれへんから」
斗樹央は優しく言い聞かせた。涼聖は俯き「ごちそうさまでした」と店を出て帰っていった。

「もうっ、アンタ! ホンマに何も憶えてないんか? えらい哀しそうやったやんか」
美紗にそう問いただされても斗樹央はわからない。
「そんなもん預かってるわけないやんけ。大事なもんやったらなおさらですわ」
カップを片づけながらそうは言ったけど、森之宮涼聖の俯いた表情が気になった。ショックで哀しいというよりも、「そんなはずはない」と諦めてはいない顔だった。
「もしかしたら、マスターが預かってたんかもしれんで」
横溝は腕を組んで偉そうに言う。
「親父が……ありえるかもしれんな」
三年前に譲り受けた『TIME』には、まだ前マスターである父親の片鱗が残っている。片づけていない、斗樹央が把握していない棚や収納庫なんかもあった。
「片づけるぅ言うて片づけへんからや。ええ機会やから二階から全部片づけてみなさい。マスターもあの世で笑ってはるわ」
「ホンマやで。きっと情けない息子やいうて笑ってるで」
「やんちゃしかしてへんからな、斗樹央は」
三年前に亡くなった父親を思い出すように、斗樹央は上を向いた。家は売ってしまい斗樹央に残されたのは『TIME』だけだ。その二階の部屋を片づける理由は今まで何度もあった。
「まぁ、今回はジジババの言うこときいとくわ」
明日は日曜日。時間があれば片づけてみるか、と思ってみたが、予定は未定であった。

 その日の閉店前。
ドアベルが鳴り、涼聖は再び来店した。ハットを被ってはいない、少し跳ねたマッシュルームカットの黒い髪がこれまた可愛らしい。
「なんや? どうしてん?」
斗樹央は少々荒っぽく応対した。今の涼聖は小学生のように接しなくてもいい部類の男だった。
「ホンマはあるんやろ?」
昼にココアを飲んでいた可愛らしい高校生のような涼聖ではない。低い声で目を吊り上げて話した。斗樹央はニヤリと笑う。
「俺は知らん。死んだ親父が知ってたかもしれんけどな」
ドアに背中をあずけて涼聖は大袈裟に息を吐いた。
「探してもいいか?」
「あぁ? 今からか?」
「僕は急いでるねん」
なるほどな、と斗樹央は言う。
「外のシャッターを半分閉めとけ」
涼聖はドアを開けて外に出て、言われた通りに店のシャッターを半分下ろした。屈みながらまた店に入ってくる。意外と素直だ。この辺りではやんちゃ坊主だと言われた過去を持つ斗樹央にとっては、昼間の涼聖よりも今の涼聖のほうが相手にしやすい。
「どこでも好きなとこ探せ。あ、レジは触るな。元に戻しててくれたら明日も朝から営業できる」
中のものは何を触ってもいいらしい。
「二階は?」
「二階は、俺が片づけなアカン領域や」
「僕も手伝う」
「アホかー。二階片づけるんやったら明日や。いや、また今度や」
予定は未定だ。斗樹央はカウンターテーブルを拭いていく。
「見つかれへんかったら明日も探します。僕は明日も忌引きで休みもらってるんです」
「お前、仕事してるんか? 学生やと思ってたわー」
斗樹央は喫茶店に相応しい落ち着いた明かりから最大限に明るくした。隅々の埃や汚れが目立つ。椅子をカウンターテーブルの上に逆さまにして上げていく。掃除をするためだ。モップを持ってくると「一緒に探してくれないんですか?」と涼聖が言い、「好きに探したらええ言うてるやろが」と斗樹央は面倒くさそうに言う。はっきりと何かを言わないのだから斗樹央が関与しない方がいい。本当に店の中にあるのかどうかもわからない。
涼聖がカウンターの中に入り、奥の裏口の方へ行った。奥から順番に探すようだ。棚の物を一つずつ取り出し、中を確認している。コーヒー豆の容器まで中を確認している。そんなところに預かっている物を入れるわけないやろうと思うが面倒くさいので斗樹央は何も言わなかった。
いつもよりもゆっくりと掃除をして、少ない売り上げを計算する。手を洗って明日のモーニングサービス用の仕込みをする。斗樹央がしていることは、のんびりでもルーティンだ。
「……無いです」
「お母さんに聞いたか?」
「阿倍野さん、僕の事いくつやと思ってるん?」
「高校生? 阿倍野さんはやめろー。斗樹央さんて言え」
「はっ、成人してるわ。僕にお母さんもお父さんもいませんよ。おったのは……ばあちゃんだけです」
「そうかー。泉佐野さんは生涯独身やったって聞いたで。お前、葬式の日ぃはどこにおったんや?」
斗樹央は責めないように聞いた。何の理由があって泉佐野の孫だと言うのかわからないが、葬式には斗樹央も出席している。生涯独身で過ごした泉佐野佳津江の唯一の肉親だという姪が葬式を取り仕切った。四十代の姪も未婚だと言っていた。『TIME』の常連客は皆、違和感が無いのか涼聖が孫だと信じて疑わない。
涼聖は溜め息をついてからカウンターの椅子を一つ下ろして座った。
「斗樹央さんの家って神社ってホンマ?」
なんでそんなことを知っているのか。泉佐野が話していたんだろうか。
「親父の実家が神社や。叔父が継いでるんやけどな、こっちもあっちも跡取りがおらん」
「もう継がへんのですか?」
「そうやな。お客がおらんようになったらやな。五年後か十年後か、もしくは俺が爺さんになったらや」
神道科の大学を卒業し、父の実家である阿部神社《あべじんじゃ》に奉職したが、父親が亡くなったため『TIME』を継いだ。商店街もお客が寄り付かず、客足が減っている。この北島商店街近くにできた大手スーパーは、年寄りには意外にも買い物しやすいようだった。いつまでも喫茶店を続けることができないことは斗樹央もわかっていた。
「僕が孫やって言ったら皆信じたんです。ここのお客も信じてました。葬式に来てくれてたのに」
「そうやな。すんなり受け入れてたな。何でやと思う?」
斗樹央が聞くと涼聖は「そんなん知りませんよ」と拗ねている。斗樹央も隣の椅子に座った。
唇を尖らせた涼聖の頭を斗樹央がガシガシ撫でると意外に「手にフィットする」ことに驚いた。斗樹央の目線から少し下の頭はちょうどよい高さだった。
「やめろや」
手を退けようとする涼聖だけど、斗樹央はやめなかった。
「ええ頭してるな、お前」とぐりぐりと撫でた。よく見ると、その髪は黒に染められている。毛髪の根元は白い髪だ。
「あー、もうっ、うっとうしいねん」
涼聖は斗樹央の腕ごと払って避けた。
「わざわざ黒に染めなアカンのか?」
「関係ないやろ」
「将来禿げるぞ」
脅したつもりはなく、ただ予想がつくことを言っただけだったが、涼聖は慌てて両手を頭の上に置いた。
「……禿げるん? マジで?」
ニヤニヤ笑ってしまうのを斗樹央は抑えたが、堪えきれずにブッと噴いて笑ってしまった。
涼聖は俯いてテーブルを見た。
「割れもんなんです」
敬語で話すあたり、偉そうにしゃべることはやめたようだった。
手のひらサイズの袋に入った割れ物。斗樹央はニヤリと笑う。どこにあるかわからないが、その割れ物の正体はすでに予想はついていた。
「どれくらいの大きさや?」
これくらいと涼聖が指で表現したのは鶏の卵くらいの大きさだった。
「俺は知らんなぁ」
「明日、また来ます」
涼聖は静かに立ち上がり、真ん中まで下ろされたシャッターを避けて帰っていった。
涼聖には無いと困るもの。親父か、もしかすると祖父が預かったのかもしれない。
斗樹央の祖父も父も亡くなっている。母も十年前に亡くなった。
「神社なぁ」
斗樹央は店の角にある神棚を見て、こみ上げてくる感情を堪えきれずに笑った。

 翌日の午前五時半。
斗樹央は店の神棚の前に脚立を置いた。榊や酒を供えるだけなら脚立のいらない身長だ。脚立に上ってハンディモップで埃を払い、一つ一つを確認する。社の裏にそれはあった。中を確認すると水晶の勾玉だ。気を付けて中に戻し、社も元に戻す。
――――思ってた以上に大物か。
斗樹央の見立てでは水晶には何かが宿っていた。
普通の人には見えず、それが公にはされることはない。でも、斗樹央はそれを知っていた。
いつもの通りに水、米、塩を供える。今日は榊と酒も供えて柏手を打った。
七時。
店のシャッターを全部開けて開店する。いつもの常連客も、近所のお年寄りも来店する。コーヒー一杯の値段で厚切りのトーストに玉子やミニサラダが付くモーニングセットは十一時までのサービスだ。
「いらっしゃい」
「昨日の涼聖くんの探しものは見つかったんか?」
横溝のオヤジに言われて「あぁ、あったわ」と言っておく。天下の警察官の横溝に、いつまでも「無い」で済ませられないことは斗樹央もわかっていた。
「そりゃ良かったな」
コーヒーと一緒にトーストと玉子を横溝の前に置く。朝刊を読みながら毎朝モーニングセットを美味そうに食う。嫁さんに逃げられたと言うが、案外気楽な生き方だ。
『TIME』の朝はいつも忙しないが、お客はのんびりとコーヒーを飲んでいる。満席になる九時頃にはサラダは売り切れ、追加で卵を茹でる。
十一時少し前。涼聖が来店した。
「いらっしゃい」
「何時までですか?」
「ココアがいいか? コーヒーか?」
俯いてココアだと言う涼聖の前に、ガラスの器に入れた玉子を置く。それをじっと見ている涼聖の目の前には三角形に切られたトーストも置かれた。
「十一時までのサービスや。食え」
生クリームをたっぷり乗せたココアも置かれる。
「サービス……」
「コーヒー一杯の値段でトーストと玉子かサラダが付くんや。サラダはもう売り切れたからな」
生卵の要領で割ろうとした涼聖に「茹でてるで」と言い、帰っていくお客の会計をする。何を思ったのか、涼聖はソファ席の皿やカップを斗樹央の前に持ってきてくれた。これ幸いと布巾とトレンチを手渡し、他の皿も運んでもらおうとした。涼聖はちゃんとテーブルを拭きに戻った。斗樹央は十一時ギリギリに来店したお客にもモーニングセットを出して、店の看板を中に入れた。
「お客さんが多くてびっくりしました」
「朝は、な」
涼聖以外のお客が帰ったとき、斗樹央は涼聖の目の前に黄色の袋を置いた。
「どこにあったんですか?」
「神棚の裏や」
店の神棚を指差して、斗樹央はまたカップを洗っている。
「……中を見ましたか?」
「狐やな」
水晶の勾玉には何かが宿っていた。水晶は憑代で、かなり高位の術者が妖を封印したものだ。
「はい。狐です」
涼聖は驚いたが、正直に言う。どうして狐の妖が宿っていることがわかるのか。
「ホンマな。どんな中二病やねんて」
斗樹央は鼻で笑ったが「ちゅうにびょうって何ですか?」と涼聖は聞いた。
「現実を見んと現実を受け入れないで摩訶不思議に没頭することや」
「没頭? 現実です。これは僕の憑代やから」
涼聖は袋から水晶を取り出し、それを服の袖で拭った。またそっと大切そうに袋に入れる。これが割れるとここに存在しなくなるかもしれない、とばあちゃんに言われた。大切なものだから『TIME』のマスターに預けたと言っていた。
斗樹央はさっとカップを布巾で拭いて棚に並べる。その流れでレジの売り上げを計算した。
「閉めるからシャッター下ろしてくれ」
涼聖は立ち上がり、言われた通りにシャッターを全部下ろした。
「あの、何で狐ってわかったんですか?」
不思議そうにしている涼聖に斗樹央はニヤリと笑って言う。
「今日も休みなんやろ? 別嬪な九尾に会わしたる」
「きゅうび……キュウビって、九尾の狐?! 妖やんか!!」
「作った飯は何でも美味いで。まさしく人の世を乱して喰いつくした妖狐やからな」
斗樹央は笑って「ココア代、五百円」と涼聖に代金を請求した。

 斗樹央が付いて来いと言った場所は『TIME』から徒歩五分ほどのところにある北谷マンションの五階だった。キョロキョロと周りを見ながら付いてきた涼聖は、斗樹央が角部屋のドアを開けると、そこの空気に驚いて固まってしまった。
「結界キツイか? 牡丹、狐連れてきたで。森之宮涼聖くん」
「やっぱり狐だったの?」
白と薄い紫のワンピースを着た女が玄関に来た。確かに別嬪で美人だ。肩より少し長い髪を揺らして微笑む女に「入りなさい」と言われて斗樹央のあとに続いて中に入る。少し寒いくらいの部屋は広いリビングルームだった。
「狐ねぇ」と女は涼聖の傍に行き、顔を両手で挟んで「白狐ねー。神様の眷属だわ」と言う。
「なんで……そんなんわかるんですか?」
涼聖は驚いた。涼聖自身も自分のことはほとんど憶えていない。気が付いたら狐から人になったことを知っているだけだ。
「お前は高位な術者に封印された白狐。牡丹は、俺が栃木県に旅行した時、殺生石から漏れてた念を掻き出してこの世に留めてる人型妖狐。同じようやけど少ない妖気でも伝説の妖や。なんぼ神の眷属やって言ったかって牡丹の方が位は上」
牡丹は「ご飯作るね~」とキッチンへ行く。
「昼飯何?」
「ハンバーグ。狐が来るっていうから、お子様メニューよ」
何がなんだかわからないけど本当に九尾の狐なのか、と涼聖は疑うが、斗樹央を見るとニヤニヤ笑っている。
「やっぱりハンバーグやオムライスが好きなんやろ? 狐は脂っこいの好きやからな。封印されてていつ人化したんや?」
「四年前、急に人の型が取れるようになりました。たまに人化? してばあちゃんにいろいろ教わりました」
「泉佐野さんもびっくりしてたやろうな」
斗樹央は四人掛けダイニングテーブルの椅子に座った。座れと言われて涼聖も斗樹央の前に座る。斗樹央は左手の甲を涼聖に見せた。星のマークを囲うようにたくさんの漢字が書かれている。
「朱雀、玄武、白狐、青龍。四神に五芒星。俺は陰陽師や。ホンマな、学生の頃は中二病かって自分でも思ったけど、現代でも陰陽師はいるんや。まぁ、俺はどこにも属してへんし占ったりせえへんけどな」
「陰陽師……なんで卜占術ぼくせんじゅつはしないんですか?」
涼聖の曖昧な古い記憶でも陰陽師は占術で身を立てていたはずだった。
「天気予報はスマホ見たらわかる。占って決まった世の中なんか生きるほうがおもしろない。得意なんは真言術や」
「斗樹央に悪さしようなんて思っちゃダメよ。真言なんて言ってるけど、念が強いから何も言わないでやっちゃう時があるのよ。私を封印しなおした時なんか小学生だったわ。ガキだガキだと思ってたのに、いい男になったから土曜の夜はここで斗樹央を待ってるの」
九尾の狐が「ね?」と斗樹央に言う。斗樹央は苦笑し「牡丹は今日も綺麗やで」と言う。確かに牡丹という九尾の狐の彼女は綺麗な人だが、必ず綺麗だと言わないといけないようだ。土曜の夜ということは、昨日は九尾の狐と約束をしていたんだろう。あ、と涼聖が思い出すと斗樹央は苦笑している。涼聖が『TIME』で憑代を探していたから帰るのが遅くなったのだ。
――伝説の妖狐にそう言わせる斗樹央って……涼聖は唾を飲み込んだ。
「あの、生意気なこと言ってすみませんでした」
「陰陽師と狐は相性いいんや。牡丹、九尾牡丹つづらおぼたんさんや。梅田の高級クラブで働いてる。お前の憑代は俺が預かっとこか? 誰かに狙われたらお前が危険やからな」
「日曜日に涼聖くんの憑代を磨いてあげるよ。私の妖気は狐に効くから」
九尾の狐に言われて、涼聖は恐る恐る黄色の袋を手渡した。心の中から湧く感情には逆らえない、が事実だった。
「牡丹に磨いてもらったら涼聖の妖力が増えるかもしれん。ここは結界張ってるから誰も悪さできひんし浄化されてるから憑代はここに置いてたらええ。一人で住んでるんか? 泉佐野さんの家は売り払ったんちゃうかったっけ?」
「すぐ近くの北堤マンションの二階で一人暮らししてます」
「仕事は?」
「えっと、アパレルの販売してます。メンズの『C』っていう天王寺に……」
「知ってる! カッコいい服多いよね。ねぇ、斗樹央にまた買ってあげる」
よその男に貢がせて陰陽師に貢ぐのか。九尾の狐が高級クラブで働くことは理にかなっているかもしれないが。
「あ、あと二人来るから」
斗樹央は首にかかっている牡丹の腕を避けて左手で二本の指を立てた。
「え、二人?」
涼聖が驚いていると、インターホンが鳴った。
「来た来た」と牡丹が壁の受話器を取って微笑む。涼聖は背筋を伸ばして座り直した。もしかしたら、もしかするのかもしれない。
「狐が来てるって?」
男性の声がした。リビングに入って来たのは、眼鏡を掛けたスーツの男だった。
「おー、狐くん。初めまして、こんにちは。猫股の魚鐘友伸うおがねゆうしん、弁護士です。斗樹央にいじめられたら言ってな。すぐさま訴えようや」
軽い調子で涼聖の目の前に名刺を出して、友伸は片目をつぶった。――ネコマタ……妖だ。
斗樹央はニヤリと微笑んだ。
「いじめてへんで。なぁ、涼聖?」
涼聖は名刺を受け取り、斗樹央を見つめて何度も頷いた。すでに、涼聖は斗樹央には逆らわないようにしようと思っている。
「友伸も呪術使えるから」
「え、呪術ですか?」
「友伸は猫股になった猫から人化して二十五年や。俺がチビのときから見てきた黒猫でな、めっちゃ可愛いいんや」
「そんな、可愛いって、めっちゃ照れるやんかー」
「猫型が、や。あ? 華は? 一緒に来たんちゃうんか?」
「来たで。あれ? 華ちゃん?」
涼聖も友伸が見ている廊下を見てみると、何やらこちらを覗いている影があった。
「あっ?! え、何で僕……」
廊下にはもう一人の涼聖がいた。同じ服を着ていて同じ顔で涼聖そっくりだ。もう一人の涼聖は恥ずかしそうに走って来て、斗樹央の腕に顔を押し付けてしまった。
「華ぁ、アカンやろ。自己紹介しいや」
斗樹央がそう言うと、華という涼聖に似た人は、涼聖の声で自己紹介した。
「妖怪ともかづきの幸共華ゆきともはなです。こんにちは、狐さん。でも、私はあなたが嫌いです。どうせ、モフモフになれるんでしょう? モフモフになって斗樹央が抱っこしても決してあなたのことなんか好きじゃ……」
「牡丹、口紅持ってこい」
斗樹央がそう言うと牡丹は溜め息をついてポーチから口紅を取り出し、斗樹央に手渡した。
「オン、ウン、ソワカ」
斗樹央は呪文を唱えて嫌がる涼聖もどきの額に星マーク、いわゆる五芒星を口紅で描いた。すると、涼聖もどきはみるみるうちに女の子に変化していった。腰までの長い黒髪に白いワンピースを着た華は今にも泣きそうになっていた。
「いたずらは終了や。仲良くせえ」
「いやーっ。獣化できるなんて反則ですー」
華はひたすら斗樹央の腕にしがみついている。反則とはどういうことか。涼聖が首をかしげていると友伸が答えた。
「斗樹央はモフモフに目がない。華ちゃん以外は獣化できるからな」
獣化。――獣の姿になれることか。
「僕は獣化できませんよ。っていうか、どうやって元に戻るんですか?」
涼聖の発言に斗樹央は口を開けて驚いている。牡丹も友伸も驚いていた。変なことを言ったつもりはないが、本当に獣化できない、狐に戻れないから涼聖にはどうにもできなかった。
斗樹央は溜め息をつき「涼聖の憑代取って」と牡丹に言う。牡丹は黄色の袋から水晶を取り出し斗樹央に手渡した。どうやら、牡丹は斗樹央の秘書的なサポート役らしい。
斗樹央は左手の人差し指を立てて何かを呟き「開眼」と言った。すると、涼聖の頭から三角形の白い耳が、尻の上部からは尻尾が生えた。
「加減が難しいな」と斗樹央は唸っているが、涼聖は「えぇぇぇぇーっ」と叫んでいる。
「自分で狐耳の収納できるか?」
「収納って、なんですか? 収めるんですか? っていうか、パンツ破れました!!」
涼聖は尻を押さえて、バタバタと足を動かして動揺している。
「友伸、至急でなんか服買ってきたって」斗樹央のお願いに友伸はすぐに部屋を出ていった。
「んー、念が強すぎなのよ。もっと優しくやりなさいよ」
「優しくって、この封印はかなりキツイんやで。もう封印解くか……アカンな。神さんの狐やもんな。どうなるかわからんしな」
「神に逆らったらダメ。関与してるだけでもヤバいんだから」
「どこの神さんかわからんからな。この効き具合は仲良い神さんやと思うねんけどな。まぁ、『お借りします』って感じやな」
と斗樹央と牡丹はコソコソと話している。その話を聴いた華は涼聖の傍に行った。
「耳、触ります」
華は涼聖の返事を聞かずに涼聖の狐耳の上に両手を乗せた。
「落ち着いて、息を吸って、ゆっくり吐いて。大丈夫です。耳は引っ込みます」
涼聖は言われた通りに呼吸を整えた。ギュッと耳を押さえられてジンジンと痛くなって感覚がわからなくなっていく。
「引っ込みました。尻尾もなくなりましたよ」
「マジか? 華、どうやったん?」と斗樹央は華に聞いた。
「消失して斗樹央に嫌われなさいって念じたらできました」
見た目が可愛らしいのに華はダークな感情を持っているようだった。
「涼聖の自力やな。さすが神さんの眷属。呪術はもうできるやろ。牡丹、折り紙と鋏持ってきて」
斗樹央は折り紙で何枚もの人型を作った。色とりどりで華は「可愛い」と言う。
「涼聖、これを人に変えれるか? 別嬪のねえちゃんがええわ」
どんな注文だろう。
――自分にできるかわからないけど、呪文がいるはず。
涼聖は困惑しながら人型を両手で持ち、過去の記憶にある呪文を唱えてみた。
「祓い給え……」
黄色の折り紙で作られた人型は宙に浮き、黄色の着物に袴を穿いた、黄色い髪の涼聖に変わった。肩にはタスキまでかけられている。驚いたが、とても懐かしく、とても自然な行いのように感じた。
「あー、黄色いですね。しかも、僕です」
涼聖がそう言うと、黄色の涼聖も頭をかいて困っていた。
「祝詞やな。神さんと神社に住んでたんやろう。神からの『助け』が大きいんやな。うん、いける」
何がいけるかわからないが、斗樹央は頷いている。神様と神社に住んでいた? 自分の過去はあまり思い出せなかった。
「私も!」と華はピンク色の人型を持ち、斗樹央の右膝の上に強引に座った。
「何て言えばいいですか?」
「華に呪文はいらん。降りろ」
シュンと華は俯いてしまったけど、斗樹央は「念じるんや。そうやな、華は海鳥がいいんとちゃうか?」
斗樹央は鳥の形に折り紙を切っていく。
「牡丹もやるか?」
牡丹は人型を一枚手に取って、すぐに念じた。
「簡単ね」
牡丹の横には青い髪の斗樹央が。スーツを着た斗樹央は嬉しそうに牡丹を見つめている。華は驚き「いいなぁ」と言う。「いや、キモイやろ」と斗樹央は苦笑した。
「要するに、俺が切った型やから式と成りやすいんや。自分の分身として使うんやけど、他人や他のもんを作れたほうが現代に合ってる。特に、牡丹は妖力の使い方に慣れてるから上手いな。涼聖は自分以外の人や動物に変えられるように頑張ってみ。華は海鳥が作れたら自分の意思で動かせられるように頑張れ」
斗樹央はたくさんの型を切っていく。牡丹は全部で三人の斗樹央を作って侍らせ、飽きたら美男子を大量生産してキッチンで作業をさせている。涼聖は色とりどりの涼聖を作り、華は鳥の型なのにアワビやウニを作っていた。
「うわー、キモイねんけどー」
友伸が帰ってきた頃には異常事態になっていた。美男子と涼聖が溢れ、ウニ、アワビ、亀までいる。
斗樹央が人差し指を立てると、全部が一瞬にして消えた。型の折り紙も消えた。

 涼聖が着替え終わると、斗樹央は友伸に言った。
「友伸、これで美女作って」
手渡された人型で友伸は、金髪で青い瞳の美女を作った。友伸の好みなのか美女は白のビキニで寒そうだが、友伸は眼鏡を掛け直してドヤ顔だ。
「これが成功例や。その時に必要なものが作れたらいい。戦闘要員が華と俺だけやったから、涼聖、頑張れ」
何を頑張るのか。エロい美女を作るのか。何で牡丹や友伸じゃないんだろう。いきなり連れてこられて、いきなりお前は戦闘要員だと言われる。陰陽師がいて、伝説の妖狐や妖怪がいる。今日も憑代を探していただけなのに、勝手に物事が進んでしまった。
涼聖は驚きながらも冷静でいようと思った。
「戦闘要員ってなんですか?」
「戦う人や」
「……誰と戦うんですか?」
「悪者」
斗樹央が言っていた中二病だ。三十路の男が悪者と戦うという。もうAIの時代だというのに。
「すみません、なんで僕ですか?」
「牡丹は封印が解けたら日本の終わり。友伸は怖がり。華はいたずら好きで胆が据わってる。んで俺は攻撃特化。残りはお前」
どう聞いても、たまたま余ってるから戦闘につきあえという意味にとれる。シャッターを閉めてこいという単純な命令のようだった。
「まぁまぁ、ご飯食べようよ」
牡丹に言われて、涼聖はどこに座ろうか悩んだ。「獣化して床で食べたらいいですよ」という華の意向には添うことができない。
「椅子もってきたって」
斗樹央が言うと友伸が何の部屋からかオフィス用の椅子を持ってきた。その椅子に斗樹央が座った。
牡丹が斗樹央に「ちゃんと話してあげなさいよ」と耳打ちした。
「ちゃんとって、ちゃんとした依頼なんかないやんけ」
斗樹央は牡丹には逆らわないようだった。それでも少し拗ねている。
涼聖はそんなことよりも、ハンバーグを見つめていた。「美味しいよ」と牡丹に言われて期待で胸が高鳴った。
「ハンバーグ食べたことないんです」
「涼聖は、もっといろんなこと経験したほうがええな。戦闘もや」
斗樹央は「戦闘」と言うが、いったいどんなものか。友伸がゴホンと咳をした。
「いわゆる、異能者対異能者のバトルやねん。斗樹央は占いは下手くそやけど、バトルは優れている。噂を聞いたヤツからの依頼が多い」
「異能者ですか?」
「そうや。普通の人間には考えられない異常が起こって、警察に言うこととちゃうよなーってことを俺らが解決するねん。斗樹央が言った通り、ちゃんとした依頼じゃなくて、『TIME』や牡丹ちゃんが勤めてるクラブ『ローズ』なんかがパイプになってる。そうやって表に出されへんから俺らの仕事は裏の仕事になる」
「報酬も安いからね。仕方がないんだけど」と牡丹は溜め息をつく。
「斗樹央が占術できたら俺らも苦労せんでいいんやけど」
「そんな俺を責めんでもええやんけー」と斗樹央は呆れた。
「陰陽師も登録制度で、占術が上手い術者のほうが重宝されて優遇される。もちろん斗樹央は陰陽師協会に登録してないし、バトルの腕はあるから裏の仕事の依頼はいくらでもある。安いけどな」
「まぁ、裏の仕事は夜や。基本的に調査は牡丹。準備や雑用に友伸。華と涼聖と俺で戦闘。だから、涼聖の強みを知りたい」
「僕の強みですか……」
美味いハンバーグに感動している時に言われても涼聖はピンとこなかった。「これも食べなさい」と牡丹は気を遣うように涼聖の世話を焼いた。

 晩飯を済ませると、涼聖だけ残らされた。キッチンでは美男子(人型の式)が食器を洗っている。
「本人だったとしても、式を自由自在に動かせるのなら便利がいいわ。あとは、攻撃と防御ね。攻撃は斗樹央がすごいのできるから任せなさい」
形から入るのか、牡丹は眼鏡をかけた。涼聖はノートとペンを支給されてメモさせられている。雰囲気が大切らしい。
「……それも呪術ですか?」
「祓い給え~の祝詞をアレンジできるようにしたり、斗樹央に呪を描いてもらったりね。涼ちゃんは神様が主だけど、今は斗樹央が借りてることになっているの。妖力が少し出たでしょ?」
「あぁ、はい。耳が出るっていいうことは、妖力が使えるんですね」
伝説の妖狐だといっても狐。何か通じるものがあると斗樹央に言われて、牡丹が呪術や妖力について教えてくれることになった。斗樹央、友伸、華は会議だという。会議……何の会議だろう。戦闘の会議とか……。涼聖は戦闘という義務になってしまった事情にまだ気持ちが付いていっていない。
「夜までに何かできるようになろうね」
「……何で夜までにですか?」
涼聖が聞いても牡丹は無視して話をすすめた。
「斗樹央の手の刺青は念の増幅なの。身体にもいくつかそういう呪が完成しているわ。涼ちゃんは刺青なんてしちゃったら神様が怒るかもしれないでしょ。即席に描いてもらおうね」
「神様は怒りますか?」
「封印っていうのが気になるところだけど、逆に封印されるくらい涼ちゃんが強かったんじゃないかって斗樹央は見ているの。封印も強力で四年も妖力が使えないようになってたでしょ。自分で抑え込めるならもう少し引き出してもらったらいいわ」
「牡丹さんも妖力を使えるようにしてもらってるんですか?」
「私のは少し違うのよ。封印の亀裂を構築し直す封印術なんだけど、わざと少し引き出しちゃったのよ。契約と悪さをしないっていう呪がかかっているの。だって全部の妖力があったら日本くらいなら潰しちゃえるもの、私」
そりゃそうだ。天下の大妖怪、九尾の狐だから。涼聖のような一介の狐が易々と会話できることがおかしい。
「契約ですか。僕もそんな感じだと思うんですけど」
「眷属っていうのはある種の契約だよね。でも封印は話が別。神様とめちゃくちゃ仲が悪かったら滅せられてるよ。だから、涼ちゃんの主は神様なんだよ」
「まぁ、だいたいは理解しました。たぶん……」
「じゃあ、まず、妖力の出し方なんだけど……」
涼聖は何度も耳と尻尾を出した。牡丹に「もうパンツは脱ぎなさい」と服を引っ張られて半泣きで断りながら妖力の調整をした。コーヒーを飲みにリビングへ来た斗樹央と華に笑われて、友伸はまた買い物に出かけた。
最終的に、涼聖の服は上下スウェット姿になった。斗樹央の大きめのスウェットなら尻は破れないから。
「これで帰るん嫌なんですけど」
白狐でも普段は人気アパレルショップの店員だ。ダボダボしているスウェットで外を歩くのが嫌だった。
「文句言うな。とりあえず、飯やな。華、なんか適当に背ぇ伸ばしとけ」
斗樹央がそう言うと華は本棚にあった雑誌を見て、別人の美女になった。人の顔を借りるのはいいのか涼聖は疑問に思ったが、皆何も思わないようだった。
「行こか」
外に食べに行くらしい。涼聖はスウェットのまま出かけた。

「なんで僕だけスウェットなんですか?」
「お前が破ったんやんけ。今度から俺の家に服置いとけよ。いくらでも練習できるやろ」
「え、あの部屋は斗樹央さんの家なんですか?」
「あ? なんやと思っててん?」
「……いや、別に」
連れてこられた店はダイニングバーだった。慣れない店で、皆はお洒落なスタイルなのに涼聖だけ上下スウェット姿。とても恥ずかしかった。
友伸は知らない女性と酒を飲んでいて、牡丹は店員と何かを話している。斗樹央と涼聖と華はカウンター席で料理を食べながら酒を飲んでいる。斗樹央の右腕にはずっと美人モデルな華が引っ付いていて涼聖を睨んでいる。
「華ちゃん、僕は獣化できひんから……」
何もしていないのに常に美人に睨まれるのは理不尽だった。
「斗樹央は牡丹さんの獣化が好きですから、きっと白狐も気に入ってしまいます」
「牡丹は別もんやろ。尻尾九本やぞ。魅入られへんほうがおかしい」
斗樹央は煙草を取り出し口に銜えた。火を付けて牡丹を見ている。九本の尻尾……モフモフに変わりはないが。
「僕は一本だけですから魅力はないです。人化中も男ですから」
「フサフサの白い尻尾なんかなくてもいいですね。鋏で切れますか?」
「……驚きの質問にどう答えていいか、僕にはわかりません」
華のダークな本気なのか冗談なのかわからないコメントには、一々反応するほうがよくないのかもしれない。
「狼ってフサフサなんかな」
斗樹央はそんなことを言った。
「きっと斗樹央の気に入らないバサバサしてる毛並みです。モフモフじゃないです。綺麗な色もしてないです」
華はギュッと斗樹央の腕にしがみついた。
「犬みたいに忠実かもしれんぞ?」
「でも、でも、モフモフじゃないです」
「狼って気性が荒いんじゃないですか? イヌ科でも猛獣ですよ」
涼聖がそう言うと、斗樹央は鼻で笑った。
「もしかしたら、お前も凶暴な白狐やったかもしれんぞ?」
涼聖は驚き動揺した。牡丹が言っていたように涼聖が凶暴だったため封印されたのかもしれない。
「ともかづきは元々凶暴なんや。海女を騙す危険な妖怪や。伊勢に置いとかれへんやろ。陸で生活できるんやったら海から離したほうがええ。華は気性が戦闘向きなんや。お前はどうやろな」
美味そうに斗樹央はグラスの酒を飲んだ。斗樹央は涼聖を試したい。涼聖は、自分が何者なのか全てを思い出したかった。
涼聖は斗樹央の元に居た方がいいことは理解していた。ただ、期待されるような戦闘力が自分にあるかわからない。戦闘する意味もよくわからなかった。
牡丹が涼聖の隣に座り、斗樹央に言う。
「間違いないわ。ここの地下よ」
「一回帰ろや。準備してまた来よう」
しっかり食ったか? と涼聖に聞いた斗樹央は友伸を呼び寄せ、友伸に飲食代を支払わせた。

 黒のパーカーとスウェットのパンツ。それが涼聖に与えられた戦闘服だった。
「皆お洒落やのに」
涼聖は俯き、誰も聞いてくれない愚痴を言った。
『C』といえばお洒落な店員が揃っていて、モデル以上にSNSでは人気がある。涼聖も大阪天王寺店で一番フォローの数が多く人気があった。その涼聖が着ているのは斗樹央のスウェット。いわば寝間着だ。
「気に入らんのやったら自分で買って持ってこい。華見てみ。自分の世界で生きてるで」
斗樹央に言われて華を見ると――あぁ。「意気込みから負けてますね」華は黒一色のゴシックロリータファッションだった。
斗樹央は黒の細身のカーゴパンツに黒のTシャツ。首にはゴーグルがぶら下がっている。
「……陰陽師ってもっと雅な人やと思ってました」
「それは京都の陰陽師。俺は大阪の陰陽師。大阪人は粋やないとな」
粋なのかどうかはわからないけど、これから涼聖も戦闘に連れ出されるようだった。
「牡丹と友伸は店で待機。涼聖」
腕を出せと斗樹央に言われて両腕を出すと、袖をめくられ油性マジックで肘から手首の間に何やらたくさんの呪文が描かれた。
「これで俺のや」
「斗樹央さんの、ですか?」
「借りてるんや」
斗樹央は華の顔にも何か描いている。左頬から大きく赤い五芒星が描かれた。ペンのようなものは牡丹のメイク道具のようだった。
「なんで油性マジックじゃないんですか?」
「女子の顔やぞ? お前はアホか」
男の涼聖の腕には油性マジックで描いてもいいらしい。差別だと思ったが、華の手前、涼聖はそれ以上何も言わなかった。

 また先ほどのダイニングバーへ行き、店の前で牡丹と友伸は分かれた。階段を下りて涼聖は異様な雰囲気を感じとった。
「変な臭いがします」
ケミカルな臭い、人の臭い、醜悪な雰囲気がする。
「そうやろな。地下で薬の密売がされてる。さすが獣型妖怪やな」
斗樹央は涼聖の頭を「エライエライ」と撫でてから黒いマスクを取り出した。「華は黒いのがいいんやて」華も黒のマスクをする。どう見ても三人の方が悪役だった。
ドアの前に立つと「よっしゃ。ほどほどで行こか」斗樹央はドアを開けた。ドアの中は落ち着いた雰囲気のバーだった。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
店員が三人の前に来て、笑顔で言う。
「ここの違法ドラッグってめっちゃ臭いな。外まで臭ってるでー」
店員はすぐに立ち去ろうとしたが、斗樹央が腹を蹴り上げ、店員は宙に浮いて壁側に吹っ飛んだ。涼聖は悲鳴が出そうになり口を押えた。
背中から五十センチほどの木刀を出した斗樹央に「めっちゃアナログな戦闘ですやん!?」と涼聖は訴えた。
「アホか。人に呪は使ったらアカン。ほら、これ持てぇ」
木刀を握らされた涼聖は驚きながらも構えてみる。
「武器はいるやろ?」と斗樹央は不思議そうにしている。木刀は涼聖の武器らしい。どうやって使ったらいいのかわからない。涼聖の体が震えた。
次々に店の奥から人が出てきた。十人、いや二十人はいるかもしれない。かなり殺気立っている男もいる。
「……慎みて五陽霊神に願い奉る。行け、涼聖」
涼聖に斗樹央は言った。何かするのか斗樹央の人差し指を見ていた涼聖は、頭に何かが入り込んだ気がした。
涎を垂らした男に対峙した涼聖は、飛び上がって男の頭の上から木刀を振り下ろした。祝詞を詠む声がする。斗樹央の声だ。狼だけだ。狼だけ容赦なく叩き潰せと命が下る。現実の音と頭に響く斗樹央の声が重なる。涎を垂らした戦闘モードな男はすべて狼のようだった。
「華は涼聖をフォローしてやれ。キッチンから水は運べるやろう。人は俺がやる」
斗樹央はゴーグルを目に装着した。涼聖が倒した狼らしき男に手をかざして呪文を唱えると、男は赤いロープで拘束されていく。そして、水が掛けられた。
「何で水ですかっ?」
華は水を操り、涼聖にもかけてくる。店内は水浸しだった。
「華の操る水は聖水や。妖に操られている人を清める。あとは、記憶の抹消。黙って祝詞聞いとけ」
人だと思われる男には斗樹央が殴りかかった。蹴られて吹っ飛ぶヤツもいる。水が飛び散り、人の呻き声が鳴り響く。何人もの男がロープで縛られていった。
「何事だ?」
店の奥から高級そうなスーツ姿の男が出てきた。斗樹央くらいの身長があるようだった。涼聖は一度体勢を整えた。斗樹央はニヤリと笑い「陰陽師やけど、いらっしゃいませって言わんのかい」と偉そうに言う。悪者はどっちだろう。
「陰陽師? まさか」
スーツの男は驚きながら両手を広げた。その両掌から狼が何匹も生まれ出てくる。狼は次々に店員の男に変化し、三人に襲いかかろうとしている。
「白虎」
斗樹央がそう言うと、何かが吠えた。どこから来たのか、人の何倍もある大きさの白い虎が現れてまた吠える。襲いかかる狼や男を前足で蹴散らし消えていく。涼聖もまた前線に立ち、狼を木刀で倒していった。
「斗樹央、胸に何か持っています」
カウンターのテーブルに座っていた華がスーツの男を指差した。
斗樹央は呪符をポケットから取り出し、呪文を唱えた。
「拘束」
呪符は真っすぐにスーツの男の顔に飛んでいく。額に張り付くとスーツの男は白目を向いて固まった。狼や狼だと思われた男たちが消えていく。――最初からそれをしてくれていればよかったのにと、涼聖は思った。
「華、警察に電話。涼聖、よくやった。ちょっと手ぇ貸せ」
斗樹央が白虎を撫でるとそれは消えた。斗樹央はスーツの男に近づく。ジャケットを脱がせると涼聖に手渡した。
「ポケットん中の物を全部出せぇ」
涼聖はジャケットのポケットに手を入れて、名刺入れ、ハンカチを取り出した。パンツのポケットからは財布が。
「あー、なるほどな」
シャツのポケットから呪符を取り出した斗樹央はすぐにスマホで写真を撮った。そして斗樹央が何か呪文を言うと呪符は燃えて消えた。
「何の呪符ですか?」
「陰陽師に操られてたんやな。まあ、ええわ。狼はもらっとこう」
「は?」
「優秀やろ。何匹も手ぇから狼が出てくるんやで。人に変えへんほうが襲撃率上がるのにな」
「でも、狼って……」
「牡丹、友伸、来いや。狼くんもらったで」
斗樹央はスマホに向かってそう言った。それから白目のスーツの男に向けて人差し指を立てて呪文を言う。するとスーツの男は大きな犬に変化した。斗樹央は絶滅した日本狼だと言う。
「おー、モフモフ。華ぁ、狼はモフモフやったわー」
華は頬を膨らまし、斗樹央は狼の毛を撫でて、とても嬉しそうに喜んでいた。

「涼聖、獣化できるんやったら泊まってもええで」
家に帰った斗樹央は涼聖にそう言った。涼聖はペットボトルの水を飲み、首を横に振った。
「妖力がもうありません……どうやったら獣化できるんかもわかりません」
「ベッドが一つやからな。男と寝るんは俺が嫌なんや」
斗樹央は床に寝かせた狼を撫でながら「拘束はしとこか」と狼を赤いロープで縛った。
「やっぱり、登録してない呪符やった。斗樹央と同じ未登録の陰陽師かな」
友伸はパソコンを見ながらそう言う。さっそく札を調べたようだった。
「登録してるヤツは全国に二十人や。その誰かが未登録の呪符を持っててもおかしくないやろう。登録してるヤツのほうが胡散臭いわ」
「滅多なこと言っちゃダメよ。結局、この国の政治家が占いを必要としているから陰陽師が成り立っているのよ」と牡丹は言う。
「クリーンな政治家もいますよ。西村議員とか、赤川議員とか。もっと公にしておけばいいんです」
憎たらしいのか、元に戻った華は狼の口を無理やり開けて牙を引っ張っている。抜けろと念じているのかもしれない。動物虐待のような気もするが、妖同士だから皆は何も言わないのかもしれない。涼聖が倒れたらもっと酷いことをされるかもしれない。涼聖は気を失わないように気を付けようと思った。
斗樹央が風呂に入ると、友伸と華は帰っていった。華は疲れたのか目をこすりながら友伸におんぶされていた。
「涼ちゃんも帰りなさい」
と牡丹になかば脅されるように言われて涼聖も部屋を出た。何だか知らないが、涼聖は邪魔者のようだった。
 涼聖は黒のスウェット姿のまま帰り道を歩いた。
腕には油性マジックで描かれた呪文。気合を入れると出てしまいそうな白い狐耳と尻尾。
狐からたまに人に成るようになった。それから人にしか成らなくなった。ばあちゃんにしょっちゅう言われたことは「もう人やねんから」。でも、人ではなかった。元々が神様の眷属である白狐。
スマホで自分のサイトを見た。笑わず撮られた自分の横顔。姿は人だ。でも自分が普通でないことは薄々わかっていたことだった。
本当は妖だった。なぜか、斗樹央に従ってしまう。それでも、妖がいてもいい場所があった。
「粋な大阪の陰陽師って」
笑いがこみ上げて、涼聖は声に出して笑った。

 月曜の朝。
涼聖は出勤前に『TIME』へ行った。朝食に五百円は高いかもしれないが、ゆで卵が食べたかった。
ベルが鳴るドアを開けると、
「いらっしゃい」「いらっしゃいませ」
二人の男に挨拶された。涼聖は驚きながら先に来ていた美紗の隣に座る。泉佐野が座っていた椅子だった。
「おはようございます。えっと……」
「おはよう。涼聖くんは知ってるんか? カッコいいよねぇ。狼牙くん」
美紗はうっとりと背の高い男を見ている。男はにこやかに「おはよう。よろしくね」と言う。
「イケメンやからウチで働かせることにしてん。棟方狼牙むなかたろうがくん。あの店辞めさせたからな」
斗樹央は食器を洗っている男を顎で指した。昨日のスーツの男だ。店主の斗樹央自身は煙草を吸っている。
「……モーニングは玉子でココアください」
フッと狼牙が笑った。涼聖が狼牙を見ると「ごめん。かわいいなって思って」と言われる。
「いいヤツやろ」
斗樹央は自慢げに言う。
どうやら狼牙も涼聖と同じで大阪の陰陽師に雇われたようだった。――いや、ちょう待って。狼はアカンねんけど。でも涼聖は言わなかった。
「仕事終わったらウチ来い」
「五時くらいです」
「んじゃ閉店作業手伝え」
モーニングセットを食べて斗樹央に五百円を支払った。
「いってらっしゃい」と言われて、なぜか笑顔で「行ってきます」と涼聖は言った。

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