烏珠の闇 追想花

晩霞

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本編 ─羽ばたき─

仲良し小好し

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 顔を見るのは船以来で、無事とだけ知らされていた。弾けるような笑顔を向けてくる男の子に、少女の目頭は段々、熱を帯びていく。
 堪らず後方から出てきた少女は腹を支えていた腕をぱっと広げ、駆けてくる男の子をひしと抱き留めた。
 嬉しそうに優しく息子を撫でる少女に、沢鵟ちゅうひの記憶は遠い日の光景を彷徨う。少女の母──夕鶴ゆうづるも、こんな風に笑っていた。

「お父さん……ごめんなさいした?」

 心配そうに尋ねられ、我が子から年甲斐もなく目を逸らす。

「ありがとうって、僕は言えるよ?」

 そう言うと、男の子は少女に抱かれながら真っ直ぐな瞳で狩人と目を合わせた。大人ほど硬直の兆しは無いものの、天敵である大の男を前に少しばかり怖じ気づく。少女の衣を小さな手でぎゅっと掴み、うまく伝えようと懸命な表情を見せた。

「助けてくれて、ありがとう。お父さんが、ごめんなさい」

 震え、たどたどしくても、純粋な心からの言の葉。
 恐れに負けず、感謝を示した幼子に男の瞳がわずかに揺れる。

「お姉さんもごめんね?」
「っ! そんな……」

 ありがとう……と、慈しみの籠った声で労りながら、少女はまた男の子を抱擁した。それは、紛れもない母の顔。
 恋慕の念を寄せていた女性と瓜二つの少女が、自分の子供を抱いている。夕鶴が他者と結ばれたのを虚しく眺めていたあの頃、焦がれて叶わなかった光景が目の前に在る。淡い、淡い夢。泡沫に消えた望みが叶ったような気がして、沢鵟は静かに目を覆った。まるで亡き彼女が戻ってきてくれたように感じ、熱い涙が頬を伝う。

「……お父さんも、ごめんなさいって……」
「……っ、あぁ……」

 涙を拭い、少女をしかと見つめる。わずかながらに恐れの色を浮かべる少女を前に息を一つ吐き出し、呼吸を整えた。

「君を否定した。天敵を赦せなかった私にとって、君は同罪だった。君を犠牲にすることで、子供を取り戻す為ならばと喜びさえ感じていた」

 交わった視線を逸らすことなく語る沢鵟に、少女も一切口を挟むことなく耳を傾ける。男の子の背を撫でたまま、凪いだ瞳で向き合っていた。

「しかし、私こそ狩人だったのかもしれない。清御鳥しんみちょうである君を人間と共に無下に扱ったばかりか、他の仲間も危険に晒した。彼がいなければ戻らなかった」 

 少女と腹の子。そして、恩人と呼ぶべき人間へ。

「誠に申し訳なかった……心より、感謝を申し上げる」

 深く深く頭を下げた沢鵟に少女と男の子の表情は綻び、ふふふと安心した笑い声が広がった。住み処に身を潜めていた清御鳥もいつからか姿を現し、ある者は手を合わせ、またある者は子供を抱きながら……長に習い、頭を下げていた。

「赤ちゃん元気? 動く?」
「えぇ、ぽこぽこするの」

 和やかに満ち足りた空気が風に乗り、男と沢鵟の間を暖かく巡る。冷え冷えとした淀みは散り、息のしやすい場に落ち着いた。

「烏京さん、これで良いかな?」

 もうこれ以上は無いだろうと、沢鵟に話を持ちかけた真鶸まひわは胸を撫で下ろし、微笑んだ。
 初めの殺伐とした雰囲気からして争いを心配していた周りの者にとって、真に望んでいた平和的解決を迎えることができたのだ。
 敵を堕とし、集落とのわだかまりも失せ、後は無事に少女の出産を待つだけだと誰しもが男の返答に期待を寄せる。

「…………」

 しばし目を伏せ、少女と男の子が言葉を交わす様に意識を傾ける。ころころ笑う軽やかさに、小鳥のさえずりが寿ぐようにして降り注いだ。
 自分に頭を下げた清御鳥達。そして正面の沢鵟に順々に視線を巡らせ──。

「それがお前の“努力”か」

 瞬く間に、闇の中。
 言葉の意味を掴み損ね、男を仰ぎ見た少女は胸にざらりとしたものを感じ、表情を曇らせた。意図は分からない。だが、共に過ごした時間で機微を悟る。
 ──何か、企んでいる。

「“赦される努力”とは、その程度か」
「……なに……」
「言葉のみで“赦される努力”もせず、何故こちらが“赦す努力”をしなければならない」

 ──赦される努力……?

「烏京さま、待って……」
  
 鉄仮面でも少しは変わるかと思っていた。清御鳥達の態度と雰囲気に、てっきり男の心は鎮まったと安心しきっていた。
 少女の懇願でも男の表情に色はつかない。目を向けることもないまま淡々と沢鵟に突きつける姿に、鎮まっていた周りの警戒は再び高まっていく。

「俺に復讐する気は無いようだが、このまま仲良なかよ小好こよしで済ませられると? お前は小毬こまりに償わせた。ならば俺も、お前の大切なもので償わせる」

 ギッ……と動いた首が、男の子を見据える。
 瞬きもせず、地に縫い止めるよう我が子に双眸を向ける狩人に、沢鵟の口から悲鳴にも似た懇願がほとばしった。

「待ってくれっ……息子には何の罪も無い! たった一羽の私の家族なんだ……!」
「小毬も同じだ。俺の唯一の玉。不公平ではないか」

 険を帯び、鎮めていた感情が呼び覚まされてしまったのか。身を粉にして救い、冥土を踏みかけた男にとって、言葉だけでは報われないのだろう。

「小毬は散々、責められた。お前も何かを犠牲にしてみせろ」
「っ……お願いだ、私にしてくれ!! 息子だけは」
「小僧」

 踏み出そうとした沢鵟に牙を剥きつつ、男の子からは一瞬たりとも視線を外さない。
 少女の腕の中で、小さな翼がビクリと震えた。明るかった表情は一気に曇り、狩人の怒気に当てられ父の元へ逃げられずにいる。ただ可能なのは少女に身を寄せるのみで、喉奥からは弦を掻いたような、か細い息の音が洩れていた。

「名は?」
「…………」

 何故、名前を訊かれるのかなんてどうでもいい。
 自分はこれからこの狩人に父親の叱責とは比べ物にならないほどのを受けるのだと、我に返った頭で口早に名を明かす。

「せ、雪加せっか……」
「雪加か」

 警守が武器を構えた。忍び寄り、男の背後で続々と体勢を整える様は群れで狩りをする獣のよう。真砂まさごも真鶸も徐々に顔を険しくさせ、ゆっくりと後退していく。
 囲まれて、警戒されて。指一本でも動けば、男の身は──。

「雪加、父は好きか」
「……え」

 きょとん……と。雪加から、ほぼ吐息の疑問符が洩れた。

「仲間は好きか」
「……当たり前だよ……みんな、大好きだ……」
「周りに自分とは違う者がいたら、どう思う?」

 違う者……?
 子供には少々、複雑な問いに思える。しかし、自分なりに噛み砕き理解しようと目を移ろわせている雪加の様子に、男は急かすような真似はしなかった。いくら時間がかかろうと、動揺しながらも答えようとする姿勢に、何も言わず佇んでいる。

「違っても、友達になれるよ。友達になったら、それはもう仲間だよ。ここの大人は翼が無いけど、僕にはある。それでも大好きなんだ」

 嘘偽りの無い、綺麗な瞳。怖じ気づきながらも真心を語る雪加は、少女の衣を握る手に力を籠めた。

「お、お兄さんとお姉さんは違うけど、大切なんでしょ!? 僕だって違くても大切にできるもん! ばかにするなよ!」

 異なる種族でも、等しく想う。
 高く高く山中に木霊する雪加の声。集落全体に渡り、誰の胸にも沁みゆく訴え。
 息子の言葉に、己とは違う余所者を蔑んだ沢鵟の胸中にはズキリとした痛みが走った。 

「……お前ならば安心だ」
「烏京さま……?」

 様子をじっと窺っていた少女は、雪加と話す男の変化を何とは無しに途中から察していた。男が何の為にもならないことをするはずがないと。ただ憎しみをぶつけ、償わせる負の連鎖を生む行為は親となる身ならば尚更避けるべきだと。少女は信じ、見守っていた。
 漂う雰囲気の度重なる急変に一同が困惑する中、男はお構い無しに続ける。

「お前には俺の子を受け入れてもらう。存在を否定させるような真似はさせん──小毬」

 蒼い瞳に映されて、自然と微笑みが広がる。これで良いかと気遣ってくれる男に慈しみを込めて見つめ返せば、わずかに目を細められた。腹の子の為、思いやってくれた夫に、恋を自覚した時と同じ熱さを胸に感じ頬に朱が走る。

「そんなのっ、言われなくたってそうするよ……! 初めからそうするつもりだったよ!! そんな、そんなの……全然お仕置きなんかじゃないし……絶対、赤ちゃんと友達になるもん……!!」

 心外そうに叫ぶ雪加に、男の口の端が緩んだ。
 一瞬だけ柔和な表情をしてみせた男は、呆然とする面々を置いて少女と共に颯爽と集落を後にした。



 清御鳥達の輪に帰っていく沢鵟と雪加の背を見ながら、真砂は思う。全てのでは、と。
 男は最初から攻撃をする気なんてさらさら無くて、少女と赤子の威厳を保とうとしていただけ。威圧的な態度を取り警守を動員させたのは、自分は清御鳥お前達を傷つけられないと暗に示したかったのかもしれない。多少、怒りは感じていたのかもしれないが、思っていたよりもずっと冷静だったのではないか。
 口下手な狩人のことだ。つい色々と想像してしまう。でも……。

「仲良し小好し……」

 闘いの苦しみを誰よりも味わったからこそ、平和を一心に願っていたに違いない。

「どうしたの真砂?」

 思わず零した呟きに、真鶸が目を丸くした。顔を覗きこまれ、ゆるくかぶりを振るう。
 何も話されず、意味ありげな反応をされただけの真鶸は口を尖らせながら施設へと繋がる道草を踏み、軽快に歩を進めた。

「みーんな、仲良し」

 きゃらきゃらと、真鶸の囀りが幸せそうに夏空まで届いた。
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